安土桃山時代その12 1587年〜1588年

1587年 家康「忍耐」の日々スタート
1月 秀吉 九州制圧に動く
3月1日 秀吉本隊 出陣じゃ
5月8日 島津義久 剃髪し秀吉に降伏
6月 秀吉バテレン追放冷を出す
キリシタン大名 高山右近はどうする?
ガラシャ命!細川忠興
秀吉 「ワシは名門のお姫様が好き」
お市と浅井長政の3姉妹は・・・
1588年 茶々22歳 正式に妾となる
秀吉側室 松の丸殿
佐々成政切腹!黒百合伝説
7月 秀吉 刀狩令発布





安土桃山時代 その12 1587年〜1588年
1587年 家康「忍耐」の日々スタート
秀吉に服従した家康。

「服従する」と決めたからには、今までの秀吉に対する挑戦的な態度を一新することに。

秀吉が九州に行くということになると、今までの居城である浜松城から駿府城にお引越し。

これには「私は秀吉殿に逆らいませんよ。九州に行ってる間は不穏な動きをしませんよ。だから、京都に遠い駿府城にお引越ししますよー」というアピールです。

猜疑心が強く、頭の悪くない秀吉には、こうした目に見えるアピールをした方が得だと決めたのです。

こうして家康の「忍耐」の日々がスタートすることとなるのです。
1587年1月 秀吉 九州制圧に動く

戸次川の戦いの敗戦を聞いて、秀吉が出陣するのは時間の問題になっていました。

家康とも和解をし、とうとう「出陣命令」を下したのです。

1月に宇喜田秀家を大将にして蒲生氏郷・九鬼嘉隆ら15000人の先発隊を出兵させました。

そして続々と出発していったのです。

1587年3月1日 秀吉本隊 出陣じゃ!
そしてとうとう、秀吉本隊が出陣することに。

秀吉は甥の秀次と前田利家に留守をまかせ出発。

秀吉の出発を聞くと島津家久・義弘は日向を撤退。

当主の島津義久は少しづつ和睦の動きを示していました。

ちなみに、義久が和睦交渉をお願いしたのは前将軍足利義昭です。

それでも義久らは抵抗を試みました。

が、毛利・小早川・吉川・宇喜田・細川・黒田・丹羽・筒井・高山などなど名だたる武将を前に島津は少しづつ撤退。

秀吉軍は快進撃で島津の領地を落しまくったのです。

3月29日には秋月種実の城が落ちました。

4月6日には山田有信のいる高城は包囲され18日には落ちました。

ここまでくると島津はもう四方八方囲まれまくり。

義久の弟 義弘・歳久や家臣の新納忠元らは「名門島津が豊臣なんぞに服従してたまるか!」と、徹底抗戦を主張しましたが、義久はもう無理と見切りをつけることにしたのです。
1587年5月8日 島津義久 剃髪し秀吉に降伏

とうとう義久は名前を龍伯と改め剃髪し降伏しました。

秀吉はこれを許し、島津一族の所領を安堵しました。

九州一の島津家もとうとう秀吉の前にひれ伏したのでした。

九州はというと、筑前を小早川隆景。

豊後を大友義統・豊前を黒田官兵衛・備前を龍造寺政家。

日向を伊藤祐兵・秋月種長 そして薩摩を島津義久に分け与えました。

1587年6月 秀吉バテレン追放冷を出す
勢力の強い寺社が嫌いだった信長とは反対に、秀吉は京を中心に新しい寺社の建立や復興に力を注ぎました。

そして突然、日本は神国だから邪教を広めるな!とキリスト教禁止令を出したのです。

宣教師は20日以内に帰国しろ!というものでした。

もともとキリスト教に対してそんなに敵意は抱いてなかったんだけど、九州のキリスト教勢の強さを目の当たりに見てちょっとやめさせようと思ったらしいです。

またキリスト教徒の団結力が強いことと、キリシタン大名が南蛮船と貿易をして大きな利益をあげてることも、秀吉にとって大きな恐怖だったようです。

可哀相なのは1582年に大友宗麟らにいかされたローマ少年使節。

ヨーロッパで熱烈な歓迎を受け、ローマの市民権&貴族の権利まで貰って帰国した時すでに秀吉によりキリスト教禁止令・・・。

伊東マンショは病死。

千々木ミゲルは改宗。

中浦ジュリアンは磔。

原マルチノはマカオに追放となりました。
キリシタン大名 高山右近はどうする?
バテレン(キリスト教)禁止令に困ったのはキリシタン大名達。

そんな中、高山右近は「信仰」を選んだのです。

右近は13歳の時に洗礼を受けてから、熱心なキリシタン。

荒木村重の配下として高槻城にいました。

そこへ村重謀反!

その時、信長が「てめぇオレの味方しなかったら、国内のキリシタンを全員皆殺しにすっからな!」と言われ、信長につきました。

右近は日本で初めて「パイプオルガン」を輸入。

高槻はキリシタンの中心地となっていったのです。

本能寺の後は秀吉につきました。

右近はとっても誠実でマジメだったため、みんなに好かれていました。

ですが、キリシタンに危機感を感じた秀吉により、キリシタン大名は信仰を捨てなければならなくなったのです。

殆どの人が、身の安全を守るため信仰を捨てました。

が、右近だけはキリスト教を捨てることが出来なかったのです。

怒った秀吉は右近の所領を没収してしまいました。

そして同じキリシタン大名である小西行長に匿ってもらう事となったのです。

さらにその後は前田利家が「客将」として3万石を与えるからおいで!とお誘い。

右近は「三万石もいらない。ただ、教会を建てさせてくれるならば是非金沢へ行きたい」と言ったのです。

こうして右近は金沢へ。

そして時代は徳川へと変わっていくのです・・・。

これはまた後ほど。
ガラシャ命!細川忠興
秀吉によってキリスト禁止令がでましたが、ガラシャは三男忠利と13人の侍女とともに洗礼を受けちゃいました。

秀吉に逆らって洗礼を受けちゃヤバイと思った忠興は、ガラシャを何とか改宗させようとします。

一緒に洗礼を受けた侍女の耳と鼻を削いで追放しちゃうという残酷なことをやっちゃって、ガラシャは怒りまくる。

ですが、キリスト教は離婚禁止なのでガラシャは我慢。

そのうちキリストの取り締まりがゆるくなってくるとまたもや2人は仲良しに。

ガラシャは戦国時代を代表する美人で、秀吉にも言い寄られたことがあります。

家臣の妻だけど、ガラシャを欲しがった秀吉に対し、忠興はガラシャを二度と秀吉の目に触れさせないよう家の奥深くに隠しました。

忠興は超ヤキモチ焼きやさんでした。

細川家は男はガラシャに近づけませんでした。

ある日庭師がガラシャと話をしてたのを見つけた忠興は、その庭師の首を斬り、ガラシャの前にドスっとおいたそうです。

怒ったガラシャは平然と生首を前に食事をしました。

忠興は「そなたはヘビの化身か!?」と怒鳴ると「鬼の嫁ならヘビでちょうどいいでしょ?」と言ったそうです。

秀吉 「ワシは名門のお姫様が好き」
秀吉には正室「ねね」がいました。

ねねは「北政所(きたのまんどころ)」と呼ばれ、秀吉の貧乏時代から苦労をともにしてきました。

が、秀吉は浅井を攻め滅ぼし、一国一城の主となった頃から「女好き」がスタートするのです。

それを「ねね」が怒り、信長にグチを言ったことは以前書きましたが、なんだかんだ言って側室・妾は20人以上いたと言われています。

この時期、まだ妾になっていない人もいますが、名前が明らかなのは9人。

淀君・松の丸殿・三条殿・三の丸殿・加賀殿・姫路殿などなど・・・。

秀吉は自分の出目が卑しいため、上流階級の女性が好きでした。

上にあげた女性は、みんな「名門」出身のお嬢様です。

松の丸殿は名家京極高吉の娘で容姿端麗なお嬢様。

三の丸は信長の5女。

加賀殿は前田利家の妾の娘。

三条殿は蒲生賢秀の娘

その他に北条氏長の娘「かい姫」

信長の弟信包の娘「姫路殿」などなど名家の女性を側室にしていました。
お市と浅井長政の3姉妹は・・・
浅井家が滅亡し、次の父親である柴田勝家も母・お市とともに死んでしまい、残された3姉妹。

長女・茶々はこの時17歳でした。

秀吉はお市の方に憧れを抱いていました。

そこでお市の方に一番似ている美女である茶々を我が物にしたいと考えるのです。

まず秀吉は妹達を先に嫁がせました。

末娘のお江与を、信長の妹の息子である佐治一成に。

次女のお初を京極高次のもとへ。

そして長女でありながら「なぜ私が残ってるのかしら?」と思っていた茶々を側室にしようとしていたのです。

ちなみに末娘のお江与は、その後佐治一成と離婚させられ、秀吉の甥・木下秀勝と結婚。

さらに木下秀勝が死んでしまい、徳川家康の嫡男・秀忠と政略結婚させられます。

このへんはまた後ほど。
1588年 茶々22歳 正式に妾となる
22歳になった茶々。

とうとう「お市ラブ!」の秀吉の側室になることとなったのです。

はじめは「なんで私が?秀吉は父・長政を殺し、義父・勝家と母のお市を殺した敵なのに!」と思っていた茶々。

が、秀吉は茶々をとても可愛がりました。

側室にした時も、「側室NO1」の地位を与え、茶々のわがままを聞き放題だったのです。

そんな茶々にとって許せなかったのが「ねね」

秀吉は何かと正室のねねの顔をうかがっていました。

茶々にとって「ねね」は格下。

「あたしは信長叔父様の妹の娘よ?あんたはもと草履取りだった秀吉の奥さんで、たいした身分でもないくせに!」と、ねねに従うことをプライドが許さなかったのです。

こうして女同士のバトルが繰り広げられるのでした・・・。
秀吉側室 松の丸殿
同じ頃、秀吉は別の女性を側室にしました。

それが京極高吉の娘「松の丸」

母親は浅井長政の妹なので、茶々の親戚になります。

どうやら茶々より美人だったらしく、美人度は側室NO1だったそうです。

浅井家はもともと京極氏の家臣の家柄だったため、「アタシの方が茶々よりランクが上なんだけど?そのあたしが側室NO2?」といった態度がありあり。

そのため茶々と松の丸殿もめちゃくちゃ仲が悪かったのです。
1588年 佐々成政切腹!黒百合伝説
成政はさらさら超えのあと秀吉に服従し、九州の肥後(熊本)を領地にしていました。

が、検地に反対する農民の一揆の責任を取らされ秀吉に切腹させられてしまいました。

この切腹には「黒百合伝説」というのが絡んでいるのです。

あるひ佐々成政は「小百合」という美女にヒトメボレ。

お城に呼んで妾にしました。

成政の正室と他の妾らは、あまりにも成政が小百合ばかり可愛がるので嫉妬メラメラ。

「小百合は家臣の竹中熊四郎と浮気してるわよ!今おなかにいる子も竹中の赤ちゃんよ!」とデタラメを言ったのです。

最初は信じてなかった成政。

だけどある日小百合の寝所で、竹中の匂い袋が落ちてるのを見つけてしまうのです。

実は正室らの陰謀。

怒った成政は、竹中を殺し小百合の黒髪をひっぱり斬首。

小百合の一族も皆殺ししてしまいました。

小百合は死ぬ時「私は何もしていないのに!この恨みは忘れぬぞ!お前の子孫全てを呪い佐々家を滅亡させてやる!」と叫んだのです。

周りで見ていた人々は身の毛がよだつほどでした。

ちなみに今でも小百合の吊るされたという木は残ってます。

その成政は秀吉の正妻ねねの推薦によって、肥後の国主となることができました。

喜んだ成政はお礼として白山(石川県)の山奥に咲く黒百合を取り寄せてねねにプレゼント。

当時黒百合は珍しく、喜んだねねは淀君らに自慢しようと茶会を開き、千利休の娘「綾」に花を活けさせお披露目会。

が、黒百合をどこで摘んできたかがどこからか淀君にバレたらしい。

淀君は負けじと家臣に黒百合をどっさり摘んでこさせたのです。

で、茶会の3日後の花摘み供養の会の時、淀君はこれみよがしに摘んできた黒百合を当時卑しい花といわれていたツツジなどの花と一緒に捨てたのです。

しかも捨てた黒百合はねねのモノより立派だった。

ねねにとってはものすごい屈辱で、成政が淀君に黒百合の場所を教えたと思い込みめちゃくちゃ怒りました。

そして一揆の責任を取って成政切腹となった時に、ねねは信長の時代から仕えていた忠臣・成政の切腹を止めなかったのです。

これが小百合=黒百合伝説と言われています。
1588年7月 秀吉 刀狩令発布
成政切腹後、秀吉は今後農民に一揆をさせないように武器をとりあげることにしました。

それが「刀狩」です。

だけど、反発がかなりあるだろうってことで京都の方広寺(ほうこうじ)の大仏を作るのに使うんだよ!って名目で取り上げました。

そしてこの方広寺のつりがねに刻まれた文字が、のち大問題に発展することになります(大阪の陣)

刀以外に弓や槍も全て没収し、さらに農民は農業だけやってろ!武士は城の近くに住んで城を守れ!ってことで身分統制令を出すのです。

武士が商人になったり農民になったりと身分を替えることを禁止しました。

ちなみに「刀狩」を最初に行ったのは柴田勝家。

勝家は負けてしまったために、「刀狩」は秀吉がやったこととして教科書に載ってしまいました・・・。