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幕末その12 1865年 

1月 高杉晋作 挙兵!
2月2日 高杉晋作 勝利する!
幕府 怒る!「うぬぬ 長州め!」
2月23日 新撰組 山南敬助 自刃
3月 神戸海軍操練所 閉鎖させられる
4月7日 慶応に改元
この頃の坂本龍馬は?
龍馬がいると助かるよ by 薩摩藩
龍馬 動く!!
土佐藩 中岡慎太郎
5月6日 龍馬 桂小五郎と面談する
5月 幕府 第二次長州征伐を発表
岡田以蔵 自白する
5月11日 武市半平太 切腹  
5月21日 西郷隆盛 桂小五郎との約束をすっぽかす
龍馬&慎太郎 「まぁまぁ桂さん 落ち着いてくださいよぉ」
桂小五郎はなぜそんな条件を出してきたか?
5月 坂本龍馬 「亀山社中」を結成する
7月 亀山社中動き出す
死の商人・グラバー
亀山社中 仕事大成功




幕末の嵐その12 1865年
1月 高杉晋作 挙兵!
この頃の長州藩はボロボロでした。

幕末の嵐 その4で書いたとおり、外国を敵に回すわ、幕府を敵に回すわとメッチャメチャ。

そのため長州藩の考えは幕府に従おう!という「俗論党」の意見が強くなっていました。

高杉晋作は俗論党に命を狙われるんじゃないかと、愛人のおうのを連れて野村望東尼(のむらぼうとうに)の山荘に逃げ込んでましたが「このままでは長州藩は滅亡してしまう!」と悶々した日々

とうとう俗論党をやっつけるべく立ち上がることに!

が、俗論党のバックには幕府がついている

そのため「今さら無理だよ」と、高杉晋作に従おうという人はいなかったのです。

さらに高杉晋作が作った「奇兵隊」までもが反対 (この頃のリーダーは三代目の赤根武人になってた)

が、高杉晋作は「やるっつったらやるんだよ!」と、集合場所を決め、俗論党をやっつける人を集めました

集まったのは伊藤博文がつれてきた力士隊十数人と石川小五郎が連れてきた遊撃隊の60人

たった80人いるかいないかでしたが、高杉晋作は「構わねーぜ!行くぜっ!」と挙兵を決断したのです
2月2日 高杉晋作 勝利する!
高杉晋作は、同じく隠れていた三条実美らに向かい「これから長州男児の肝っ玉をみせてやるぜ!」と挙兵しました

そして下関の海軍局を襲撃!

これが大成功し、これを聞いた何人かの「奇兵隊」メンバーが「俺らも行くぜ!」とやってきたのです。

リーダーの赤根武人は、高杉晋作の挙兵に大反対していたため立場がなくなり逃げちゃいました

すると新リーダーになった山県有朋(やまがたありとも)が「奇兵隊」をひきつれ応援に来たのです

わずか80人で挙兵した高杉晋作らは、いつの間にか3000人に膨れ上がりました

そしてとうとう俗論党の破り、再び正義派が長州藩の政権を奪回したのでした

ちなみに、幕府は何をやってたか?というと、長州藩の家老たちが切腹したことに安心しきって撤退しちゃってました

こうして高杉晋作によって長州藩は再び息を吹き返すのでした
幕府 怒る!「うぬぬ 長州め!」
この長州の動きを怒ったのは幕府

「うぬーーー。落ち着いたと思ったらまた動き出しただとぉ!?幕府をバカにしやがって!ナメとんのか!?」と、第二回目の長州征伐を考え出すことに

2月23日 新撰組 山南敬助 自刃
新撰組にとって池田屋事件は「新撰組」という恐怖集団の名を一躍有名にさせるものとなりました。

そんな中、新撰組の山南敬助はユウウツな日々

というのも山南は尊皇攘夷派だったのです。

その志は強いもので、新撰組としてやっていくことに耐えられなくなり、とうとう新撰組を脱走してしまったのです。

そして山南は捕らえられてしまいました。

沖田総司は山南がダイスキだったので、大ショックでした。というのも、新撰組は「脱走は死」なのです。

山南の彼女である「明里」は、山南が捕らえられた長屋門へ行き、出窓越しに最後のわかれをしました。

こうして、新撰組の中でもみんなに慕われていた山南敬助は自刃することになったのです。33歳でした。

3月 神戸海軍操練所 閉鎖させられる
勝海舟と坂本龍馬は海軍操練所を開設させ、頑張っていましたが、とうとう閉鎖させられてしまったのです。

というのも、池田屋騒動の時の犯人の中に、海軍塾生の望月亀弥太がいたり、その後の禁門の変の時も海軍塾生の安岡金馬がいたため、「海軍操練所は、悪の巣だ!」と疑われることとなったからです。

そのため勝海舟は軍艦奉行をクビとなったのです。

海軍操練所の開いている期間は10ヶ月と短かったですが、日本の海軍の歴史には大きな役割を果たしました。

海舟も「最初から長続きはするとは思ってなかったサ。とにかく将来のために何かしておきたかったのサ」と語っていたそうです。
4月7日 慶応に改元
世の中があまりにも乱れているということで、「慶応」という年号に変わりました。

明治までの約3年・改元をしたっていうのにさらに激動となる慶応時代がスタートします。
この頃の坂本龍馬は?
この頃の龍馬は、勝海舟の海軍操練所が幕府から「危険」とみなされ潰されたため、困っていました

なんせ脱藩した男なので、地元にも帰れなかったのです

そんな龍馬の身柄を勝海舟は西郷隆盛にお願いしたのです

西郷隆盛は前に勝海舟にあってから海舟を尊敬していたので快くOKし、坂本龍馬を薩摩にある自分の家に匿ったのでした

龍馬は髪型や服装を薩摩風に変え幕府から逃れることに成功したのです

ここで坂本龍馬に困ったことが

「ふんどし」を買えるお金も持っていなかったのです

龍馬は西郷隆盛の奥さんの糸子に「申し訳ないが使い古しでいいのでふんどしをもらえませんか?」とお願い

奥さんは西郷隆盛のお古のふんどしをあげました

これを聞いた西郷隆盛は激怒!

奥さんに向かって「国のために命を捨てようとしているこの坂本さんに、古臭いふんどしを手渡すとは何事じゃい!」と怒ったのでした

奥さんはめちゃくちゃビックリしたそうです

龍馬がいると助かるよ by 薩摩藩
薩摩藩はなぜこんな危険男・坂本龍馬の身柄を助けたかというと・・・

薩摩藩は去年の7月に起きた「薩英戦争」でボロボロになっており、その建て直しに頭を痛めていました

そこに「海軍に詳しい坂本龍馬ら海軍塾生を預ってくれ」と、勝海舟がお願いしにきたのはグッドタイミングだったのです

海軍塾生のほとんどが20代の若者だし、龍馬だってまだ31歳

「こりゃあ人材育成のチャンスじゃ」と、薩摩藩はOKしたのでした
龍馬 動く!!
ですが龍馬、のーんびりしているヒマはありませんでした。

幕府が二回目の長州征伐に乗り出すというニュースが入ってきたのです

「今は長州と薩摩がケンカしている場合じゃないきに!」と、中岡慎太郎とともに薩摩と長州を仲良くさせようと考え始めたのです
土佐藩 中岡慎太郎
坂本龍馬の大事なパートナーで土佐藩出身の中岡慎太郎は、下士の家で生まれました

幼少時代から頭も良く、剣も武市半平太に習い、落ちこぼれ龍馬とは正反対でした

そして土佐勤王党に入り、久坂玄瑞と交流を深めたりしていましたが、8.18の政変以後、土佐藩内で土佐勤王党の風当たりが強くなると脱藩しました

龍馬より早く、「長州と薩摩が和解するべきだ」と言っており、「薩長同盟」と言えば坂本龍馬ですが、実は中岡慎太郎の功績の方が大きいと言われています
5月6日龍馬 桂小五郎と面談する
この日、龍馬は長州の桂小五郎と対談しました

ズバリ!薩摩との和解がテーマです

はっきりいって薩摩と長州はめちゃくちゃ仲が悪かった

8.18の政変で長州を追い出したのは薩摩藩と会津藩

さらに蛤御門の戦いでも長州をにひどい目にあわしたのは薩摩藩(と、会津藩)

さらにさらに、薩摩藩は第一次長州征伐で幕府に協力して長州をやっつけにきた

長州藩としては薩摩藩と会津藩が大嫌いになるのも当然のこと

「薩賊会奸」(薩摩藩は賊で会津藩は奸物)という字を草履の裏に書き、踏みつけて歩くほど憎んでいました

また、薩摩藩からしてみれば、薩摩の藩論は「公武合体」だったので、尊攘派の長州は敵

この二つの藩が手を結ぶなど、考えられないことでした

が、二つの強い藩がいつまでも対立していたら幕府に対抗する勢力ができないのも事実

お互いわかってはいたんだけど、「とてもじゃないけどあんなヤツラと手は組めないね」とプライドが邪魔をしていました

そこに坂本龍馬・中岡慎太郎らが仲介に入ったのです

こうして坂本龍馬は桂小五郎との対談で、西郷隆盛と会見するというところまでこぎつけました

そして同じ頃、中岡慎太郎が西郷隆盛と会い、桂小五郎と会見するよう説得して、約束を取り付けたのでした
5月 幕府 第二次長州征伐を発表
長州は第一次長州征伐において三家老の切腹をし、おとなしくなったかと思いきや、高杉晋作が挙兵し、またも幕府に反抗していました

怒った幕府は、とうとう「二度目の長州征伐に行くぞ!今度は将軍家茂も出陣じゃー!」と発表したのです

が、諸藩は「えーーーー?またぁ?」とイヤイヤムード

というのも、大義名分がイマイチ(幕府が勝手に怒ってるだけ)だし、出兵にかかる莫大な費用を出すのがイヤだったから

こうして諸藩の協力を得れないまま、幕府は来年長州をやっつけに行くというのを発表したのでした
岡田以蔵 自白する
武市が入っている牢獄に岡田以蔵が送られてきました。

以蔵は武市が捕まった後、土佐に戻って潜伏していました。

が、お金がなくなってきてしまい、バクチや強請を繰り返す生活に。

ある日、強盗を働き捕まってしまったのです。

以蔵は京都の牢獄に送られ、半年以上「土佐の無宿の鉄蔵」という名前で通しましたが、とうとう「人斬り以蔵」ということがバレてしまったのです。

以蔵に自白させれば武市半平太が関係している暗殺事件が解明できる!と、後藤象二郎は徹底的な拷問をしたのです。

武市は「以蔵が喋ったら大変なことになる。あいつは喋りそうだからなぁ」と悩み、以蔵に毒薬を飲ませ殺そうとしたのです。

ちなみに以蔵は2ヶ月以上拷問に耐え、口を割ることがありませんでした。

ですがあれほど信頼し、尊敬していた武市半平太が、口封じのため自分を毒殺しようとしていたことを知ったのです。

以蔵は洗いざらい自白してしまいました。
5月11日 武市半平太 切腹  
捕らえられた半平太は、2年もの間獄に入れられていました。

そこに以蔵が捕まり、全てぶちまけたため、とうとう切腹を命じられてしまいました。

無念の思いを込めて、腹を三回も斬って果てました。

同じ日、岡田以蔵も処刑。

以蔵は武士としての扱いを受けることを却下され、斬首

その首は雁切河原に三日間晒されました

京都を一世風靡した土佐勤王党がここに終わりをつげたのです
5月21日 西郷隆盛 桂小五郎との約束をすっぽかす
龍馬は桂小五郎・中岡慎太郎は西郷隆盛を説得し、両者の会見は下関で行うことに

西郷隆盛は中岡慎太郎とともに「胡蝶丸」という船に乗りこみ、薩摩を出発しました

が、そこに大久保利通から「早くこっちに来い!」という連絡が入ったのです

西郷隆盛は「大久保から連絡があったから行って来る」と、中岡慎太郎を佐賀で下ろし、和解の会見をドタキャンしたのです

佐賀と下関はすぐ近くなので、会おうと思ったら会えました

それをあえてドタキャンしたことになります

西郷隆盛からしてみれば「はっきりいって困ってるのは長州だよな?なーんで薩摩から出向かなきゃならんのだ?」という軽い気持ちでした

1人下ろされた中岡慎太郎はショックのまま坂本龍馬のもとへ

そして西郷隆盛がドタキャンしたことに桂小五郎はもちろん激怒!

薩摩と長州の仲直りはやばいことになってきちゃったのです
龍馬&慎太郎 「まぁまぁ桂さん 落ち着いてくださいよぉ」
桂小五郎は西郷のドタキャンにめちゃくちゃ怒っていました

龍馬&中岡慎太郎はその怒りをなだめるのに必死

すると桂小五郎が条件を出してきました

その条件とは、薩摩が使者を出して和解を申し込むこと。そして薩摩名義で外国の商人から船や武器を購入するというもの

この条件を飲んでくれるなら。また会見してもいいよと言ってきたのです
桂小五郎はなぜそんな条件を出してきたか?
長州藩は幕府からも朝廷からも要チェックされており、外国から武器を買うことができなかったのです

幕府は二回目の長州攻めを発表したので、対決となれば武器が必要だというのに、イギリスやフランスなどの最新兵器を持った国は「これは国内の内戦」と、クールな目で見ており、長州に武器を売る気がなかったのです。

長州としてはどーーーしても最新武器が必要だった

そのため薩摩と仲の良いイギリスから武器を購入してくれるなら・・・というものだったのです

犬猿の仲の薩摩と長州が仲直りするには、もはやコトバだけではダメ

そこで龍馬、考えた

今、作ってる自分の貿易会社を使おうかな・・・・と

それが「亀山社中」だったのです
5月 坂本龍馬 「亀山社中」を結成する
実は龍馬、薩長同盟と平行してとある事業プランをたてていました

それは「長崎を拠点に海運と貿易を行う会社」を設立することだったのです

長崎の亀山という眺めのいい丘に、政治活動をするとともに軍事的なこともやっちゃおうという総合商社を土佐の脱藩浪士6人で作っていたのでした

こうして龍馬は、桂小五郎の条件である薩摩と長州の武器取引に、この「亀山社中」を使うことにしたのです
7月 亀山社中動き出す
さっそく龍馬は動き出しました

まず薩摩藩に武器横流しの了解を得ました

そして亀山社中のメンバー近藤長次郎に「7月に長州の井上馨と伊藤博文がそっちいくからヨロシク」と連絡し、桂小五郎から頼まれた武器の横流しの準備に取りかかりました

約束どおり井上馨と伊藤博文がやってきて、薩摩藩家老の小松帯刀(こまつたてわき)に会見し、武器購入のために薩摩藩の名義を借りたいという申し入れ、龍馬の思惑通りコトが進んでいったのです

死の商人・グラバー
小松帯刀は武器買い付けを27歳のイギリス商人・トーマス・ブレイク・グラバーに依頼

グラバーは父と兄とともに上海へ渡り、商人の勉強をしたのち日本へやってきました

長崎で「グラバー商会」を設立し、日本茶を輸出したりしてました

また、武器を扱うという裏の顔も持っており、武器をいろんな藩に売ったりしてお金持ちになっていました

こうしてグラバーは倒幕しようとしている人たちに武器を売りまくったのです

のちにグラバーは「徳川に対する反逆人の中で、自分がもっとも大きな反逆人であった」と言っています
亀山社中 仕事大成功
こうして亀山社中はグラバー商会からミニエール銃・ゲベール銃などを買い、軍艦までも購入

その総額は22億円ほどになりました

亀山社中はこれらの最新武器を薩摩の船に乗って長州へ運び込むことに成功したのです

そして武器を受け取った桂小五郎は大喜びし、「これだけ誠意を見せてくれたんだったら和解に応じます」と言ったのです

あとは桂小五郎と西郷隆盛が会見し、和解するだけとなりました。

これは来年の話しになりますので後ほど