幕末その17 幕末総決算!

とうとう夜明けを迎えることとなった日本!

ここでは、幕末に活躍してたんだけど「歴史の流れ」に

書ききれなかった人たちや

あの人のその後ははどうなったのか??

などを紹介していきます




幕末の嵐その17 
会津藩 「死に遅れた・・・」鬼官兵衛

最後まで戦い続けた会津の佐川官兵衛

負けたとなるとめちゃくちゃ潔く、「全てはわしがやったこと」と、松平容保らに罪が及ばぬよう申し出ました

そして官兵衛は捕らえられ収容所に

薩摩藩兵たちがぞろぞろと官兵衛をみにきて、「こいつが鬼官兵衛か!」と、つばを吐きました

そんな官兵衛ですが、筆頭家老の菅野権兵衛が切腹という罪になったと聞くと、自分と代えてくれと頼みました

が、聞き入れてもらえず「死に遅れた・・・」と、つぶやきました

それからずっと獄につながれ、明治三年に罪を許され、会津へ戻ったのです

すでに鬼といわれた猛将の面影はなく、残っていた母の面倒を見て暮らしていました

が、時代が彼を求めることとなったのです

これはまたのちほど・・・・、

会津藩 白虎隊生き残り 飯沼貞吉

飯盛山で自刃した白虎隊でしたが、通りかかった藩士の妻の手当てによって命をとりとめた貞吉

一人だけ生き残ってしまったことを「武士としての恥」と、ほとんど当時のことを語ることがなかった

貞吉が当時のことを漏らしたのは、三回だけと言われています

明治二十七年の日清戦争にも出兵しました

このとき、電信架線の作業に迫れら、周りの兵たちが弾丸が恐くて何もできないでいました

すると貞吉が自ら危険を買ってでて、平然と架線作業を終えて、戻ってきたのです

皆が「すごいな。恐くないのか?」と聞くと、貞吉は「私は一度死んでいる身なので、何も恐くないのです」と静かに語ったといいます

貞吉は、昭和六年に七十八歳で息を引き取りました

その間、一度も会津若松の地を踏むことはなかったのでした・・・・

新撰組 生き延びた斉藤一

斉藤一といえば、新撰組の三番隊長を務めた人

斉藤は、戊辰戦争の時に土方歳三と別れて会津にずっと残っていました

そこへ敵の奇襲がきて、討死・・・・かと思いきや、実は逃げ延びていたのです

その後、名前を何度も変え、最後は松平容保に「藤田五郎」という名前を貰いました

そして会津藩士の娘と結婚し、幸せにくらしておりました

そんな斉藤でしたが、なんと明治新政府が募集した警察官に採用されたのです

後ほど起きる西南戦争で、薩摩への恨みを晴らし、その後は警察を退職した後、東京高等師範学校付属東京教育博物館の看守に

さらに東京女子師範学校の構内取締り係りとなりました

そして1915年(大正四年)、床の上で正座して息を引き取ったのでした 

72歳でした

新撰組 原田左之助

何度も危ない橋を無事生還していた左之助

左之助は新撰組隊士にしては珍しく、町人の娘と結婚していました

そして、妻子をとーーっても大事にしてたのです

その妻子が新政府軍のいる京都におり、左之助はめちゃくちゃ心配に

が、江戸を出て京都に行きたくても、東海道も他の道も全て新政府軍に押さえられている

そんな時、江戸で彰義隊が立ち上がっていた

左之助は彰義隊に入り、上野戦争の時に重症を負ってしまいました

そして、治療の甲斐むなしく、二日後に息を引き取ったのです



新撰組 一番の怪力・島田魁

島田は尊敬する土方歳三とともにずっと行動しておりました

箱館戦争にも参加し、土方の護衛をし続けました

結果、敗戦となりましたが島田は生き延びました

捕らえられましたが明治五年に許され、京都で待っている新撰組時代からの妻のもとへ

晩年は西本願寺の守衛として、仲間の菩提を弔いながら過ごしました

新撰組 佐久間象山の息子・三浦啓之助

三浦啓之助はあの佐久間象山の息子です

暗殺されてしまった父の仇を討つべく新撰組に入りました

が、象山の息子ということで甘やかされて育っていた啓之助は、新撰組に入っても遊郭遊びしまくり

沖田総司が怒って斬り殺そうとしたことも何度かありましたが、啓之助は知らんぷり

そしてとうとう、新撰組がめんどくさくなって脱退しちゃったのでした(ちなみに脱退は死刑なんだけど、この人は大丈夫だった)

が、悪いことばっかしてていたためついに投獄されてしまいます

その間に戊辰戦争が起きてしまい、牢屋から出てきたときには明治維新を迎えていたのでした

その後も佐久間象山の七光りによって遊びまくり

気性の荒さもパワーアップし、ほんっと放蕩生活

けど、次々と仕事が見つかる(お父さんのおかげ)

そんな啓之助でしたが、最後はウナギの蒲焼を食べて食中毒となり死んでしまいました

ある意味、この人、ほんっっっと自由人だったのかも