幕末その4 1853年

幕末ニッポン!志士達の時代
1853年6月 ペリーが黒船に乗って浦賀にやってきた 
6月 パニックの中 将軍家慶死去
7月 老中 阿部正弘大パニック どうすりゃいいの?
孝明天皇 「ワシは外人キライでおじゃる」
ヤバイ日本の国際感覚
ペリーショック!この時 坂本龍馬は?
龍馬の姉 はちきん乙女
龍馬 恋しちゃいました
ペリーショック!この時 桂小五郎は?
13代将軍 家定
ドロドロの将軍継嗣問題スタート!紀州派VS一橋派
越前藩主 松平慶永(春獄)
超嫌われ者 水戸の徳川斉昭
島津斉彬 敬子を御台所にしよう計画始める



幕末その4 幕末の嵐 1853年
幕末ニッポン!志士達の時代
欧米やロシアの干渉が相次いだ幕末の日本。徳川幕府はもとより薩摩・長州・土佐・肥後などの外様大名らの各藩も自分達の未来に向かって大揺れに揺れました。それが幕末です。

今までは各藩のエリートのみが携わっていた支配体制に、不満を抱いた中流以下の藩士らが動き出したのです。

志の高い藩士らは自分の主張と違うとわかると、脱藩し浪士となって同じ志を抱く各藩の若者達と将来を語り合いました。

そして若い志士達は徳川幕府に反旗を翻したり、また徳川幕府を守るべく戦うのです。

若者達のリーダーとなった人物は、薩摩は西郷隆盛・大久保利通・中村半次郎ら。土佐からは坂本竜馬・中岡慎太郎・武市半平太。長州からは桂小五郎・伊藤博文・高杉晋作。そして幕府は勝海舟・山岡鉄舟。そして幕府の犬と呼ばれる新撰組ら。

志高き「怒れる若者達」が立ち上がり時代を動かしていく。それが幕末日本なのです。
1853年6月 ペリーが黒船に乗って浦賀にやってきた 
1852年10月 アメリカの東インド艦隊司令官であるマシュー・カルブレース・ペリーがバージニア州ノーフォーク軍港を出港しました。行き先は日本であります。目的は

@日本に貿易港を開かせる
Aアメリカ人漂流民の保護
Bアメリカの捕鯨船の食料や燃料の調達 

ペリーは遠征を前にして日本の情報を集めまくっていました。欧米の学者の中には日本行きに参加したい人が何人かおり、その中に国外追放されたシーボルトもいましたが、日本人の感情を害するってことで却下されました。

そしてペリー率いるサスケハナ号・ミシシッピ号・サラトガ号・プリマス号の四隻が浦賀へやってきたのです。

サスケハナ・ミシシッピの二隻は煙突から黒い煙をモクモクと出す蒸気船で、プリマス・サラトガは帆船でしたが黒く塗装された大きな船でした。当時の日本人が見たこともない船で、みんなめちゃくちゃビックリしました。

日本側は警備船を出しペリーのいる船へ向かいましたが「日本政府の高官以外は会わん!」と断られ、仕方なく浦賀奉行組の与力である中島三郎助が「日本は外国との交渉は全て長崎で行うので長崎へ行ってくれ」と言ったんだけど拒否されちゃいました。

幕府は驚いて緊急会議を開きましたが名案が浮かばず、そうこうしているうちに江戸中大騒ぎ!

また黒船から大砲をドカンドカンと撃っちゃったもんだから大パニックに!結局ペリーは来年の春に回答を聞きにやってくると言い、国書を浦賀奉行の戸田氏栄(うじよし)に渡して浦賀を去っていきました。

江戸庶民は黒船見物にわんさかと押し寄せ狂歌が詠まれました。

・太平の 眠りを覚ます 上喜撰(じょうきせん) たった四杯で 夜も眠れず
1853年6月 パニックの中 将軍家慶死去
ペリーがやってきた!という情報に幕府はてんやわんや。この頃家慶は病気で、何の対応もできなかった。

謹慎中の水戸藩主である徳川斉昭を江戸城に呼んだり、老中阿部正弘が奮闘したりと何とか対策にあたっていました。そしてようやく騒ぎが終わったと思ったら発病!そのまま息を引き取ったのです。

ペリーは来るわ将軍は死ぬわ・・・幕府は混乱しまくりでした。
1853年7月 老中 阿部正弘大パニック どうすりゃいいの?
困りまくってたのは時の老中 阿部正弘。とりあえず諸大名に意見を聞きまくった。

譜代大名ならともかく、幕府が外様大名にまで意見を聞くなんて前代未聞のこと。それほどまでに幕府は困っていたのでした。

さらには一般市民にまで「何かいい良い意見があれば遠慮なく申し出よ」と空前絶後のコトをしでかしたのです。

庶民にまでご意見を拝聴したってのに、阿部正弘のもとに送られてくる意見書のほとんどが「特に意見はない」というものでした。

笑えるのが吉原遊女屋の主人の意見「決死隊をつのって、漁師のフリをして黒船に近づいて、外国人の好きそうな茶碗とか絵とかをプレゼントして仲良くなるってのはどう?」というもの。幕府は意見を聞かないほうが良かったのかも(^^;)

ちなみにこの時「海防意見書」を提出し、阿部正弘に「こいつ使えるかも」とチェックされたのが勝海舟です。

ジョン万次郎はアメリカにいた時、日本が外国船打ち払い令をやってるなどの鎖国状態を聞いており、ここで開国すべきだと幕府に開国の思いを説きましたが、保守的な幕府の人間は耳を貸さず、しまいには「アメリカのスパイ」と言われてしまうのです。

とまぁ、幕府はこれにより自らの弱体化をさらけ出すこととなり、尊皇攘夷派や尊皇倒幕派といった勢力を生み出すきっかけを作ってしまったのです。
孝明天皇 「ワシは外人キライでおじゃる」
1846年に16歳で121代目の天皇となった孝明天皇。ちなみに大好物は「おから」

阿部正弘はペリーから受けた国書を朝廷に渡しました。以後たびたび孝明天皇の「夷人(外人)嫌い」は幕府を苦しめます。

孝明天皇は一度も外国人に会ったことはありません。だから「外人嫌い」も空想の中で培われたもの。側近が「赤毛人(こうもうじん)の図」ってのを見せたくらい。

この時天皇が「夷人とは何を食べてるのでおじゃるか?」と聞くと、何も知らない側近が「ヤツラは生娘の生き血を飲み、その肉を食べてるのです」と言ったそうです。本当は赤ワインにステーキなんだけどね。

この頃の天皇は生まれた時から「雲の上の人」で世間とはまったく関わっていなかった。そのため社会的視野ははっきりってまるでなし。

「夷人によって神の国である日本が穢されるのはイヤじゃ」くらいの気持ちで、外国人を禽獣のようなものだとしか思っていなかったのです。

これが一般的なそのへんの人が思ってるだけならまだしも、天皇だけあってタチが悪い。

「夷人など日本からパッと消えてしまえばいいのじゃ」くらいの感覚で、その願望を述べただけで「勅旨」という重々しいものとなってしまうのです。

そして天皇が「勅旨」した瞬間から、誰も彼もがその意見に逆らうことは「逆賊」とみなされてしまうので、非常にタチが悪かったのです。

その天皇の夷人嫌いをうまーーーく利用することになるのが、長州藩だったのです。
ヤバイ日本の国際感覚
実はアメリカのペリーがやってくるという情報を幕府はキャッチしていました。

というのもペリーがやってくる前年にオランダ政府がこの情報をキャッチし、わざわざ長崎奉行所へ教えていたのです。

長崎奉行は一応阿部正弘に連絡しました。

ですが長崎奉行は「オランダはさ、日本との貿易の利益を独占したいから、きっとアメリカに日本に来るなー!って言うと思うよ」と言い、さらに「オランダは日本の物産をアメリカに売りつけて儲けるつもりもあるんじゃないの?」と、せっかくオランダ政府が忠告してくれたのに、オランダ政府に対してめちゃくちゃ失礼な思いを抱いていたのです。

つまり長崎奉行の国際感覚はこの程度だったのです。

そして幕府のお偉いさんは詳しく調べもせずに、長崎奉行の言葉を鵜呑みにし、以後オランダ政府から何を言って来ても無視しようぜ!と決めちゃったのでした。

一応阿部正弘は近くの島津斉彬辺りにはヒトコト言っておくかーって感じだったんですが、浦賀奉行にはヒトコトも言いませんでした。

浦賀奉行の戸田氏栄はペリーが去った後「なんで事前にわかってたのに言ってくれなかったんじゃい!我々にも情報を流してくれてればあんなみっともないコトにはならなかったのに!」と激怒したそうです。
ペリーショック!この時 坂本龍馬は?
坂本龍馬は1835年土佐郷士の次男として生まれました。

坂本家は豪商であり裕福な家で、階級的には「郷士」だったんですが、暮らしは「上士」よりもランク上のいい生活ぶりでした。

経済的に恵まれたお坊ちゃまだったため超過保護に育てられ、泣き虫でオネショばかり。ハナタレで10歳になっても一人で洋服を着ることができないほど。

勉強もからっきしで、簡単に言うと「落ちこぼれ」でした。それでも頑張って塾に通っていたんだけど、そこでもいじめられっ子だったのです。

が、12歳の時に母が死に、姉の乙女(おとめ)が母親代わりに。

この乙女が身長174センチもあり体重も110キロ。ピストル大好きでなぎなた・馬術も大得意。「坂本の仁王(におう)様」と呼ばれるほどの男勝りの勝気な女性でした。

そんな乙女に尻を叩かれ、龍馬は泣く泣く近所の道場に行かされるのです。が、こっから龍馬がメキメキと頭角を現し始めたのです。

「オレって強いじゃん!」と自信満々になりはじめた頃、大ショックを受ける人物と出会います。

剣客 大石進でした。土佐へ遊びにきた大石が、土佐藩でも強いと言われている者達をバッタバッタと倒していったのです。龍馬は大ショック!

その大石が「江戸は恐ろしいところです。強いヤツが次々とやってくる。剣をやるなら江戸に出なければなりません」と言ったのです。

それを聞いた龍馬は「オレは江戸へ行く!」と乙女に言うと、乙女も大賛成。

そして18歳の時に江戸へ行き、京橋桶町にある北辰一刀流千葉定吉の門弟に入りました。

ペリー来航の時はまだまだ世の中のコトが何もわかっておらず、この頃の手紙には「異国船がやってきた!近々戦が起こるだろう。その時は異人の首を討ち取るぞー!」と楽天的なことを言っていました。

ちなみに武市半平太とは親戚です。といっても血のつながりはありません。

龍馬がちょくちょく半平太の家に遊びに来ていて、たびたび庭先で放尿しちゃってるので、半平太の妻が注意しようとすると、半平太は「それくらいのことで悪くいうな。あいつはなかなかの傑物だからな」と笑っていたそうです。

龍馬の姉 はちきん乙女
乙女は龍馬より3歳年上の姉です。「はちきん」とはおてんば娘という意味です。

母が亡くなった後、龍馬を育てました。龍馬もかなりのお姉ちゃんっ子でした。

23歳の時に藩医である岡上樹庵(じゅあん)と結婚し子供ももうけましたが、樹庵が女中と浮気をしたので33歳の時に離婚。

自分の娘には女の子らしい遊びは一切させず、武術をたたきこみまくったそうです。
龍馬 恋しちゃいました
江戸で剣術修行をしていた龍馬。

ある日白い稽古着をつけた小柄な剣士と対戦。が、その小柄な剣士から一本も取ることができませんでした。

そしてその相手が面を外したら龍馬ビックリ!可愛らしい美少女だったのです。これが定吉の長女である17歳の佐那(さな)でした。

龍馬はその後も佐那と勝負しましたが、まったく勝てなかった。

悔しくなった龍馬は、足払いをかけて佐那を馬乗りになって押さえつけたのです。

佐那は恥ずかしさのあまり、逃げちゃいました。それ以来佐那は龍馬に勝てなくなっちゃったそうです。

その後2人はラブラブ(死後!?)に。婚約までしちゃいました。

龍馬が姉の乙女に出した手紙には「佐那は乗馬もうまいし、剣も強い。そのへんの男より全然強い。さらに琴もひけちゃう。顔は元カノの平井加尾よりも全然美人さ!」と自慢してました。

佐那は龍馬が死んだ後も生涯独身を通しました。龍馬の婚約者だったことをずっと語っていたそうです。

龍馬は他の彼女ができちゃったのに、なんだか可哀相だよね。
ペリーショック!この時 桂小五郎は?
1833年に長州藩の侍医和田昌景の子として生まれた小五郎。

和田家は裕福な家庭で、小五郎は不自由なく育ちました。お坊ちゃまで過保護に育てられたため、無口でおとなしい少年でした。

が、17歳の時に吉田松陰と出会ってから、小五郎の人生が大きく変わることに。

3歳年上の松陰の魅力に取り付かれた松陰は、学問・剣術に励みまくりました。

1852年に江戸へ出て、斎藤弥九郎の練兵館に入門。

剣の腕はイマイチでしたが、なんとか神道無念流の免許皆伝となり、塾頭を務めるほどになりました。

性格は寛大で誠実。

高杉晋作や久坂玄瑞のいい相談相手となりました。

また時勢をクールに見つめていたため、松陰から「桂は事を成す天才であるが、冷めすぎている」と非難されてしまうのです。

勝海舟も「桂は使える男ではあるが、用心しすぎるため大きな仕事では使えない」と言っています。


1853年 13代将軍 家定
家慶が死んだため新たに将軍となった29才の家定。

が、知的障害者であり、かぼちゃやさつまいもを煮ることに熱中。

なんとしても子供だけは作らせなければ!老中阿部正弘は頭が痛かった。なんとしても将軍の後釜だけは決めておきたかったのです。

そんな家定も実は結婚してました。

最初の御台所である夫人は関白鷹司家の養女任子(ただこ)・2人目も関白の娘である明宮

。が、明宮は背がめちゃくちゃ小さかったらしい。この2人は相次いで死んでしまいました。そして新たな御台所を迎えるべく運動が開始されたのです。

ちなみに一応家定は大奥内にお気に入りの「おしが」という女性もいましたが、妊娠することもなく、家定に肉体的欠陥があったのです。

はっきり言って徳川の悲劇は血統にこだわり続け知的障害者を将軍としたことから始まっていくのです。
ドロドロの将軍継嗣問題スタート!紀州派VS一橋派
家定に肉体的欠陥があり後継ぎができないため浮上してきた継嗣問題。

適当な候補者は家定のイトコである紀州和歌山藩主の徳川慶福と、一ツ橋家の慶喜でした。

血統からみれば紀州慶福の方がはるかに近かったんですが、まだまだチビッコ。こんなご時世だから血統よりも今すぐ病弱な将軍の代わりに政務を代行できる人の方がいい!という声も上がってきたのです。

そのグループがいわゆる「一橋派」で、慶喜の父である水戸の斉昭をはじめ、老中トップの阿部正弘・薩摩の島津斉彬・越前の松平慶永(春獄)・宇和島の伊達宗城らでした。

彼らは「ペリーによって国は乱れまくっている!かねてから英明の聞こえも高い一橋慶喜を将軍家定の後釜に迎えるべきである!」と立ち上がったのです。

この一橋派に対し激しく反発したのが家定の生母本寿院(ほんじゅいん)でした。

「もし慶喜が継嗣になったら私は絶対に自殺する!」とまで言い出したのです。

さらに大奥総年寄の滝川も「血統的には慶福であろう」と慶福を推しまくりました。そして紀州の慶福を擁するべく「紀州派」が出来上がったのです。

この2つの派閥により激しい対立抗争がスタートするのです。
越前藩主 松平慶永(春獄)
御三卿の一つである田安家に生まれた慶永は越前松平家の養子となり、16代越前藩主となっていました。

幼い頃から秀才の誉れが高く、越前に入国する時も慶永の憧れの人である水戸の斉昭のところへ行き、藩主としての心得を聞いたりとお利巧さんぶりを発揮していました。

慶永は斉昭の影響下にいました。ですが、阿部正弘と島津斉彬と知り合っていくうちに考え方がだんだんと変わっていくのです。

そんな慶永が大事にしたのは「橋本佐内」と重臣である「中根雪江」でした。
超嫌われ者 水戸の徳川斉昭
斉昭は大奥にメチャクチャ嫌われていました。将軍だけしか入れない大奥に乱入し、スケベじじぃと嫌われまくり。

また水戸家の慶篤(よしあつ)の妻だったいと姫が、幼子を残して自殺するという事件が起きました。

これが「斉昭がいと姫を無理やり犯したため」という噂が大奥に広まったのです。

真偽はわかりませんが「あの男ならやりかねない!」というイメージがあったらしく、多くの女たちは斉昭に反感を募りまくり「あのスケベじじぃの息子である慶喜はろくなヤツじゃない」というようになってしまったのです。
島津斉彬 敬子を御台所にしよう計画始める
阿部正弘は外交問題と将軍継嗣問題を中心とした難局を、雄藩勢力で一番力を持っている島津斉彬を手を結んでなんとか乗り切ろうとしました。

2人はお由良騒動からの仲です。島津斉彬は薩摩藩主の中でも飛びぬけた名君と言われていた人です。

斉彬も大奥全体が紀州慶福を応援していたため、よほどの奇策を考え付かない限り慶喜が将軍になるのは無理だろうな・・・と考えました。

そして思いついたのは自分の娘(といっても養女)を空席のままになっている将軍家定の御台所にし、家定の意思を動かして大奥を懐柔させよう!と考えたのです。

そして選ばれたのが島津一族で1万1千石を領する島津忠剛(ただとき)の娘 敬子(すみこ)でした。

敬子は美人で頭が良く、その辺の男には負けないくらい勝気な性格。

斉彬は「この娘なら立派に任務を果たすだろう!」と一ツ橋派の阿部正弘や伊達宗城に連絡。みんな「さすがは薩摩候!」と大喜び。

敬子が御台所におさまった暁には斉彬は将軍の御台所の養父として発言力が増すし、斉昭も御台所敬子が頑張ってくれて慶喜が将軍になれれば、将軍実父として立場が強くなる。ここに島津家・水戸家の利害が一致したのです。

かくして本来なら小さな諸大名のもとに嫁ぎ、何人かの家臣にかしづかれ静に幸せに暮らすはずであった敬子は、激動の幕末に身を投じることとなったのです。




      

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