武田勝頼

風林火山の御旗を倒しちゃった男カッチン
歴史において評判はあーんまりよくないお人
だって、あの大物・武田信玄の後をついで、武田家を滅亡させちゃったんだもんねぇ

が!個人的に管理人ハガクレは勝頼は決して無能ではなかった!!!と思いたいのであります

歴史戯言にも軽く書きましたが、勝頼はバカじゃないのです

ただただ運がなかった・・・と思いたいのであります!!!

ここではカッチンの生涯をツラツラ・・・と語っていこうではありませんか!!!

カッチン誕生!!

そもそもカッチンは生まれたときから難ありな男だった

とゆーのも、カッチンのオカンはあの諏訪のお姫様(2007年大河ドラマでは由布姫とありますので、ここでも由布姫としましょう)

ではちっとばかし、この由布姫とパパ・信玄のことを説明しましょっか!!

信玄がおとーさんの信虎を追放し、ガンガンと領地を広めていた頃・・・・
信玄が諏訪の国を攻め込んだ時に、超美人のお姫様にヒトメボレ
それが攻め込んだ国の城主・諏訪頼重の娘・由布姫

信玄はどーーーーしても由布姫がほしくってほしくってわぁわぁ騒ぎましたが、家臣たちは「敵の娘を側室にするなんてダメ!」と大反対

が、軍師山本勘助が「いやいや、むしろ由布姫との間に男児を生んで、その子を諏訪の領主にすればいいんですヨ!そしたら諏訪の領民たち諏訪の血を引く領主のために頑張って働きますよ〜」と説得

信玄は「うむ!勘助ナイスじゃ!」と、家臣を説得するのに成功

見事由布姫を側室にゲットしたのであります

信玄は由布姫にメロメロで、一番のお気に入りに♪
こーして生まれたのがカッチンなのでありました

カッチンは四男なので武田本家の跡継ぎではありませんでしたが、ラブラブ由布姫の息子なので信玄はカッチンをとーーーっても可愛がったのであります

カッチン結婚

カッチンの奥さんは織田信長の養女・遠山殿

もっちろんバリバリの政略結婚であります
縁談も信玄にゴマすりするために信長側から持ちかけてきました

とゆーことで二人は結婚して、長男信勝が生まれましたが、遠山殿は産後の肥立ちが悪くて死んでしまいました

17歳 諏訪四郎勝頼!!

さてさて、カッチンは、ママ念願の諏訪の国の城主となりました

ここでネーミングを諏訪四郎勝頼と変更
ちなみに「頼」とゆー字は諏訪家代々続く文字
こーして勝頼は信玄が滅ぼした諏訪の領主となり、高遠城をもらったのであります

22歳 お・お・お兄ちゃんたちが・・

ちなみに本家の跡継ぎはとゆーと、信玄と正室三条夫人との間に生まれた義信
次男はもともと目が見えない人で、三男は早くに死んじゃっていました

この長男の義信がなんと信玄に殺されちゃうんですねぇ〜

とゆーのも、信玄は海のある国がほしかった
信玄の領地には山しかなかったんですネ〜

ってことで、今川義元が織田信長に桶狭間の合戦で殺されちゃってから密かに狙っていたボロボロ状態の今川の領地をいただいちゃおう♪と考えた信玄

ところが!長男の義信のお嫁さんは今川義元の娘

とゆーことで、奥さんラブの義信は信玄の今川攻め作戦に大反対

それでも信玄は「いやじゃ!ワシは海のある国が欲しいのじゃ!わぁぁ!わぁぁ!」

で、義信はとうとう幽閉されてしまうのです

その後義信は自殺に追い込まれ、死んでしまったのでありました

22歳 カッチン いきなり跡継ぎに!

諏訪ライフを過ごしていたカッチンですが、長男が死んでしまい、次男は目が見えない、三男は早死ってことでいきなり諏訪から呼び戻されちゃいました

で、武田二十四将の一人として信玄に仕えるのです

これがのちのち問題に

とゆーのも、実質上は信玄の跡継ぎとなったわけですが、一度本家から諏訪家に出され、まだ戻ってきたカッチン
信玄もはっきりとカッチンを「跡継ぎ」として家臣たちに示さなかったため、家臣団の中ではカッチンをナメたムードが漂っちゃうのであります

もともと信玄の二十四将といわれる家臣たちは、一人一人が超優秀
そんな中に突然「跡継ぎでーす♪よろしくぅ〜」と言われても「ハン。若造が!」状態だったのであります

ちなみにコレは嘘かホントかは謎ですが、信玄は家督は勝頼の子、信勝に継がせようとしてたそーです
信勝が16歳になったら勝頼は後見人になるようにいってました

なぜか?というと・・・

勝頼は一度信玄が滅ぼした諏訪家を継いでいて、いわば武田二十四武将と同じ「家臣」の立場となっていたのです
それが当主になってしまったら、家臣達にナメられ指導力を発揮できないと思ったのでした

27歳 三方ヶ原の合戦

カッチンが27歳の時、パパ信玄がクソ生意気な織田信長をやっつけて京都に上洛しちゃうぜ!作戦を開始させました

とゆーことで、もちろんカッチンもパパと一緒に目指せ京都へ!

対する織田信長は信玄が超苦手だったので「やべー。どーしよー」とオロオロ
でもって京都に行く途中にある家康に「ちと頼むよ」とお願い

家康も「うっわぁ。信玄と戦うの?マジ?マジ?あーもーダメだ〜。オレッチ死ぬ〜。こーなったらあの武田信玄に対して勇敢に戦ったってことで名を残そう」と決意

結果・・・・信玄ボロ勝ち・家康ボロ負け

このときカッチンは家康本陣に突っ込み、活躍したのでありました

パ・・・パパがぁ!!

徳川家康をこてんぱんにやっつけ、もはや天下はすぐそこ!!だった信玄

ところが!!!なーんと、京都へ行く途中に病気でぽっくり死んでしまったのであります

もーみんな大ショック!!信長にんまり

とゆーことで、武田の軍勢は兵をひきあげ、甲斐の国へとぼとぼと戻っていったのでした

28歳 武田家20代目当主カッチン!

信玄が死んでしまったため、カッチンが武田家20代当主に

ところが、信玄の優秀な家臣たちがアレコレアレコレカッチンに意見しまくり

なのでカッチンは、おやじの代の家臣はうるさい!と思うように

さらにカッチン、信玄死後は諏訪家の家臣を多く入れました
その諏訪時代の家臣らは、信玄時代からの家臣らと対立するように

特に諏訪家の長坂長閑、跡部勝資らをカッチンは重宝しまくったため、家臣団の結束は乱れていったのであります

カッチンは偉大な父親・信玄というコンプレックスに悩まされまくり

何とかして父・信玄の上を行き、古くからの家臣に認められたかった!!

けど、信玄の武田軍団を支えた一癖もニ癖もある家臣達は、何かと信玄と勝頼を比較

家臣の飯富虎昌(おぶとらまさ)は、「大将というのは、采配をするべきである。勝頼殿は自分の功名を取ろうと焦りすぎておる。はっきりいって大将の器ではない」と、言っちゃいましたっ

そしてだんだんと、そんな家臣たちがうざくなってきたカッチン

「おやじの代からいる家臣は、あれやこれやとうるさいんだよ!全然オレを認めてくれないし!」と反発するようになっていったのです


カッチン 高天神城をゲット

なんとかして信玄を超えたかったカッチン

ここで思いついたのが「よし!パパが落とせなかった城をオレが落としてやろう!」

とゆーことで、高天神城を攻略することに

高天神城とゆーのは、信玄と徳川家康が何度も争奪戦を繰り広げていたお城
このお城をゲットした人はこの地方を貰ったも同然!と言われていたくらいのお城でした

で、このお城をカッチンが落としたのであります!!
カッチン大喜び

が、家臣たちは「ムリしてこんなことしなくても・・・」と冷ややかな反応
カッチンせっかく頑張ったのに、「若気の至り」状態に思われてしまったのでした

カッチン 頑張ってるんだケド・・・

パパに負けじと、カッチンはアレコレ頑張ってました

ケド、いまいち家臣たちはシラケムード
さらにお隣の徳川家康も武田領地をつつき始めてきて、カッチンいらいら

そんな時、長篠城の奥平貞昌がカッチンを裏切り家康に寝返っちゃいました
怒りのカッチン!!
長篠城を攻めることに決めちゃいました!

カッチン 運命のバトル長篠へ向かう!

カッチンは本気モードとなり、15000人もの兵を率いて長篠城へ
迎えうつ長篠城チームはたった500人
家康は仲良しの織田信長に援軍を要請
信長はココで新兵器を使ってみようかな♪とひらめいちゃいました
それが鉄砲だったんですねぇ〜

ニューヒーローがでちゃいました

さてさて長篠城はというと、家康と信長の援軍が来るのを今か今かと待っていました

でも、心の中は「ついこの間までは武田方だったので、家康に見捨てられたのかも・・・」と不安状態

ここで奥平貞昌は家臣らを呼んで
「城内の兵糧も尽きる。誰か家康殿の所へ行き一日も早く援軍を出してくれるよう頼んできてくれ」と言いました

けど家臣らは「この城はもってあと4・5日です。かくなる上は最後まで戦い討死したいと存じます」とみな辞退

すると貞昌

「このままこうしていてもいつ援軍がくるかわからん!誰も行かないならこの貞昌ここで切腹し勝頼にみんなの助命を請う!」と言ったもんだから今度は家臣が困っちゃいました

すると36歳の鳥居強右衛門が「私が行ってまいります!」と言ったのです

うまく城を抜け出したら狼煙(のろし)をあげ、援軍が来ることが決まったら3度狼煙をあげると決め、強右衛門は家康のもとへ向かったのであります

深夜 強右衛門は城外へ脱出。明け方に狼煙を上げました

城内は歓声をあげ喜びまくり!
勝頼軍はこの歓声に感づいて、警戒を厳しくしました

そして強右衛門は家康のもとへ

家康も信長がいつまでも援軍を出してくれないことにイライラしてたので「すぐさま信長のとこに行って直接事の重大さを伝えよ!」と言いました

強右衛門は信長のもとに行き、事の次第を話すと信長は援軍を出すことを決めたのでした
ニューアイテム「鉄砲」を持って・・・

信長は強右衛門に道案内を頼んだんだけと「私はいますぐ、このことを城内にいる人々に伝えたい」と言い、さっさと一人で帰ってしまいました

そして長篠城の裏山にて狼煙を3回あげました

城内は狂喜し士気が高まりまくり!
強右衛門は城内に入って戦いたい!そう思い、城内へ紛れ込もうとしたんだけどバレちゃいました

カッチンは「城の近くに行き、援軍はこないから城を明け渡せと大声で言え!さすれば助命はもちろん恩賞もやろう」と言い、強右衛門はそれに応じました

強右衛門は城の近くまで行き、大声で「城内の方々!もうすぐ織田の援軍がやってきますぞ!城をお守り下さい!」と言ったのです

カッチンはチョーーー激怒!!

強右衛門は磔にされちゃいました

が、武田方の落合左平次はこの強右衛門の忠烈に感動し、自らの旗に強右衛門の磔の図を描かせたのでした
こーしてカッチンは、敵にヒーローを作り上げてしまったのです・・・

信長ニューアイテム「鉄砲」

鉄砲の伝来は学校の授業で習ったと思うんだけど、ちょーど戦国時代に鉄砲がやってきたんですね〜
けどまだ「補助兵器」としか思われてないアイテムでした

とゆーのも、鉄砲は威力はすごいけど、合戦には不便だったから
この頃の鉄砲の射程距離は90メートル
もし外れれば火薬を詰める間に、馬はあっという間にやってきてしまう

とゆーことで、鉄砲はあまり活用されてなかったんですねぇ

で、信長はとゆ〜と、堺の町を支配におき、鉄砲製造を盛んに行っていました
でもって、今回の戦いで使うことに

その考えは「命中率が悪く、火薬を詰めるのに時間がかかるというのであれば、鉄砲を大量に用意して、三段構えにすればいいではないか!」というものだったのです

さぁ!どうなるカッチン!

役者がぞくぞくやってきた

さてさて、カッチンの人生のメインイベントとなる長篠の戦
続々と役者がそろってきましたっっ!!

まず織田軍団
本陣には信長をはじめ柴田勝家が布陣
天神山には織田信忠・河尻秀隆
御堂山には稲葉一鉄・北畠信雄
他、佐久間信盛・滝川一益・丹羽長秀・池田恒興などが参陣
東側には秀吉・蒲生氏郷・森長可など、織田の精鋭が全て出陣してきたのです
これは「援軍」というよりは、「全勢力」をですな〜

徳川軍も負けてちゃいない!
弾正山の本陣には大将の家康
飯尾山には息子の信康
さらに本多忠勝・榊原康政・酒井忠次・鳥居元忠・大久保忠世・石川数正など、徳川家の代表武将の全てが参陣していました

織田・徳川連合軍は、この戦いに力を入れまくりですねっ!!

もちろんこのワタクシも、ここからこの戦いを熱く語りますゾヨ!!

なんか怪しい・・・・武田軍団暗雲立ち込める!

織田・徳川は各武将に命じて、陣の前に穴を堀ってそこに木の柵を作るように命令
これが「馬防柵」でした

最強武田の騎馬隊を食い止めるとともに、鉄砲を三段に分けて発射するための柵です

まず最初の千人が銃を発射すると、すぐ次の千人が撃つ
これを繰り返し行う方法を使うことに
考えに考えた信長の作戦でした
そしてこの馬防柵は延々と続いて造られたのです

これをみた信玄時代からの武将である馬場信房・山県昌景・内藤昌豊らは、連合軍のこの異様な構えに不安をいだきました

「今回の織田・徳川連合軍は決してバカではない。それに背後には長篠城で籠城している兵もいる。今回はちょっと危険だ。一度甲府に戻ってから体勢を立て直そう」とカッチンに言ったのです

が、カッチンは聞かなかった

信玄さえ落すことの出来なかった高天神城をも落とし、ここらで一発デカイ戦いに勝利して、自分が武田家の後継ぎだということを、世間に知らしめたかったのです

こうしてカッチンは、重臣らの意見も聞かず、長篠城の包囲を解いて織田・徳川連合軍の元へ進軍していったのでした・・・・

馬場っち、「いやな予感が・・・」
武田重臣である馬場信房は何とかこの戦いを止めさせたかった。

それは長年の戦場の癇であり、「今回は分が悪い。それに悪い予感がします」とひっきりなしにカッチンに言いました

だけどカッチンは「臆病風に吹かれたか?敵が目の前だというのに、引き返すことが出来ようか!武田家の面目が丸つぶれじゃ!」と激怒!!

怒鳴られても信房は「では、長篠城をどうにかして奪い取りましょう。数千人の被害は出ますが、籠城に持ち込んだ方がいいと思われます」と意見

信房はあの妙な織田・徳川連合軍の陣構えが気になって仕方なかったのでした

が、信房の意見は実現不可能となってしまいました

酒井忠次が鳶ヶ巣山を攻略し、長篠城近くに布陣してた小山田隊を撃破してしまったのです

この時カッチンが、信房の意見をすぐ聞き取り、長篠城を奪い籠城していれば、歴史は変わっていたかもしれませんねぇ・・・

最後の杯を交わす・・・

武田家の重臣達は、何度もカッチンに「今回は止めた方がいい」と進言しました

ですがカッチンは聞く耳持たず

それどころか「臆病者どもめ!」と逆ギレ

山県昌景・内藤昌豊・馬場信房ら重臣達は「こうなっては仕方が無い」と覚悟を決めました

今生き延びてカッチンのもとで武田家滅亡をみるより、華々しく戦って討ち死にし信玄殿の恩義に報いようと酒をくみかわしたのです

信長動く!!
朝、信長は本陣を極楽寺山から弾正山北部へ移動

弾正山南部には家康がいて、両軍トップが近くに布陣したのです

右翼には徳川軍の大久保忠世・榊原康正政・本多忠勝・石川数正・鳥居元忠

中央には織田軍の羽柴秀吉・丹羽長秀・滝川一益

左翼には織田軍の佐久間盛信らが布陣しました

そして最前列には前田利家・佐々成政らの足軽部隊。つまりは「鉄砲隊」がいたのです

最後の最後に・・・山県昌景の忠告

しつこいですが、武田家臣は最後にもう一度だけカッチンを諌めようと試みました

家臣一同の代表となったのは山県昌景

「ここまで来た以上、もう合戦するなとは申しません。ですが、こちらから仕掛けず、敵に川を越えさせ、敵から仕掛けるようにいたしましょう」と言いました

みんな馬防柵の中にいる鉄砲隊が、どんな働きをするか不安で仕方がなかった

見当がつかないものは避けて、あちらから仕掛けさせようとしていたのです

が、カッチンは「まったく、本当にお前らはだらしがないな!人間はどこまでも命が惜しいのだな!」とバカにしたのです

昌景は憤りました

そして「ワシは討死いたす。勝頼殿も大将であるのだから、討死は覚悟の上なのであろうな?」と言い捨てました

他の家臣達は昌景が最後にお願いしに行って、どうなったかをドキドキしながら陣所で待っていました

すると昌景が戻ってきて「みな討死じゃぁ!」と大声で叫び、怒りの形相のまま赤備えを率いて飛び出して行ったのです!!!

朝6時!!長篠の戦スタート!!

大久保忠世・忠佐の兄弟は、「今日の戦いは、本当ならば徳川と武田の戦いであって、織田は加勢にすぎませぬ。先に織田勢によって戦いの火蓋が切られるのは、徳川の恥である。よって、我ら大久保が進んで戦いを仕掛けようと思います」と家康に言いました

家康は「もっともである」と、大久保隊に鉄砲隊を付けてくれました

そして大久保隊は、馬防柵を飛び出して、武田軍の第一陣である山県昌景隊を挑発していたのです

山県昌景は「赤備え」で有名な猛将
甲冑・旗差物・鎧など全てが「赤」
武田軍の勇猛第一と言われていた人であります!

その頃、最後の願を勝頼に聞き入れてもらうことが出来なかった昌景
憤怒の形相で、3000人の赤備えを率いて大久保隊に攻めかかってきたのです
大久保隊は慌てて馬防柵の中へ逃げ込みました
そして鉄砲隊が一斉に山県隊めがけて発射されたのです!!!!

鉄砲が火をふきまくり!!!

鉄砲隊は途切れることなくガンガン発射し続けました

第一列目が撃ち終わったら、次の列に交代
こうして3列の鉄砲隊が発撃の切れ間なく、襲い掛かってきたのです!!!

みるみるうちに山県隊の騎馬が撃ち倒されていきました

それでも弾丸の間をくぐって、何とか馬防柵までたどり着いた者もいたんだけど、柵を乗り越えようとすると撃たれ、屍だらけとなっていったのです

次に武田軍第二陣の武田信廉が突撃してきました

ですが山県隊と同じく、鉄砲の前に屍の山・・・

武田第三陣の小山田信茂・第四陣の武田信豊も突撃しましたが、一斉射撃の前に崩れ去りました

武田軍総攻撃っっっ!!!!

この状態を見ていた馬場信房は、もはや黙って仲間達が討たれて行くのを見ていることはできませんでした

右から信長本陣に迫っていったのです!!!

この猛進は凄まじく、馬防柵を打ち破るほどでした
が、前田利家・佐々成政の鉄砲隊が前に出て、一斉に射撃

鉄砲の命中率・量はものすごく、馬場隊は撤退

馬場隊とともに進んだ真田信網・穴山信君らも敗走しました

中央本陣でこの様子を眺めていた内藤昌豊も、目の前で繰り広げられる悲惨な戦況にいてもたってもいられなくなり、何とかこの状況を打破しようと、自ら先頭となり1000騎を引き連れ滝川一益隊めがけて飛び出しました!!

内藤隊1000騎は3000の滝川隊をかなり散乱させました

が、鉄砲は容赦なく射撃を繰り返しました

とうとう内藤昌豊は、銃弾の前に命を落としたのです・・・・・

山県までもが討死!!!

もはや武田軍は悲惨なことになっていました

それでも屈せず、陣形を建て直して何度も攻め続けました
もはや自滅するのを覚悟したかのような突進だったのです

赤備えの山県昌景隊は、17箇所の銃弾を受けてもひるまず、兵が減っても陣形を建て直し、突撃を繰り返すこと13回


山県は弾が右腕を貫通すると、采配を左手に持ち替え奮闘

左手も弾丸で撃たれると、采配を口に加えてまで挑んだのです!!!

が、馬に銃弾が当たってしまい、落馬してしまいました
そこを徳川軍が襲い掛かり、とうとう首を討たれてしまったのです

お昼2時 信長総攻撃!!馬場っち討死!!

武田軍の負けはもはや確定
ここで信長、総攻撃!!

武田家の馬場信房は総攻撃がかかったと知ると、すぐさま勝頼に退却を勧めました

カッチンはこの悲惨な戦場に焦りまくり

すると信房「勝頼殿!勝敗は運でありますぞ!なぁに、勝頼殿はまだ若い。これから再挙できまする!」とカッチンを元気づけました

信房はカッチンだけでも退却させなければと、自ら殿軍となりました

そしてカッチン退却を見届けると、ここを死に場所と決め、突撃していったのです

700騎を率いて6000人の佐久間信盛隊を突き崩し、信長に「馬場信房の働き、比類なし」と言われるほどでした
が、やはり兵の数が少なすぎた
とうとう討ち取られてしまったのです
ちなみに63歳でした

信長は退却する武田軍を追撃させました

15000人の武田軍のうち、甲斐に戻ってきたのはわずか3000人となったてしまったのです
戦いは終わりました・・・

凱旋を装うカッチン

この合戦時、本国守備として留守番役をしていた高坂昌信

わが最強の武田の騎馬隊が完敗し、仲間が撃ちとられまくったと聞いて大ショック

慌てて逃げて帰ってきたカッチンの服をすぐに着替えさせ、敗戦の見苦しさをみせないようにしました

凱旋を装わせ、領民を安心させたのです

30歳のカッチン 長篠の戦は今後どう影響する?

この戦いは武田軍の完全な負けに終わりました
それどころか、武田家の名だたる武将達が討たれまくり!!

足軽は補充できても、戦歴をつんだ武将に代わりはなかなかいない

山県昌景・馬場信房・内藤昌豊・真田信網・原昌胤・甘利昌澄ら、信玄時代の名将たちが殆ど討死したのです

それでもカッチンは、心配してくれた人たちに対し
「いやいや、今回の負けはたいした事はない。まだ高坂昌信・穴山信君・武田信豊・小山田信茂らが残っているし。だから心配しないでくれ」と言っていました

というか、弱みを見せたら潰される時代
こう言うしかなかったんですねぇ・・・

重臣達の意見を聞かずに、功を焦ったカッチン

この戦いは最強・武田家に暗い影を落すこととなったのです

ちなみに信長はとゆーとあの武田軍を打ち負かしたことが嬉しくって仕方なかった
色んな大名に手紙を書きまくりました
上杉謙信宛の手紙は
「信玄はいつか殺らなきゃと思ってたけど、死んじゃったから心残りだったんだよねー。と、思っていたところ、勝頼からせめて来てくれてさ。まったくラッキーだよ。ちなみに、勝頼はたった一騎で必死で逃げ行ったよ。わっはっは」と、鼻高々な手紙を送てました


周りの国との関係は・・・?

ところで、この頃の武田家の周囲をざっと説明しましょう!

もともとパパの武田信玄は「三国同盟」とゆー、武田・今川・北条は仲良くしましょうね!という同盟をくんでました
ところが!今川義元が織田信長に殺されちゃってから今川はボロボロ
信玄はここぞとばかり、三国同盟なんてへのかっぱで今川を攻めまくってました
でもって、徳川家康も今川狙い

で、北条氏康が死んでしまい、氏政が四代目となると、またも信玄と仲直り

で、パパリン信玄が死んでしまい、その後生涯のライバル・上杉謙信も死んでしまっておりました〜

で!カッチンは長篠の戦でボロ負けし、以後戦いで領地を広げるどころじゃなくなり、武田軍団のを新たに立て直していかなくてはならなくなったのです

そしてカッチンのおかげ(?)で、徳川家康&織田信長はガンガンとパワーアップしていくのであります

武田家 ヤバヤバムード

とはいっても、外交はほんと大変
食うか食われるかの時代にあんなボロ負けをし、しかもナイスな家臣がことごとく死んでしまった
もはや武田家は、ボロボロ

カッチン、とりあえず自分のとこの領地を安定させるのに必死になっていくわけです

31歳 カッチン再婚する

とゆーことで、カッチンはまず北条と手を組むことに
ここで北条氏康の娘で、北条四代目当主の妹と政略結婚
ちゃんとした名前はわかんないので、ココでは北条夫人と呼びましょう

この時北条夫人は14歳

ちなみにインタビューもありますぞよ

勝頼の妻へインタビュー

でもって、パパ信玄のライバルだった上杉謙信とも仲直り(同盟結びました〜)
とにかく、自分とこの国をマトモにしないとだめだ!と思ったんでしょうねぇ

34歳 カッチン御館の乱に片足突っ込み

さてさて、同盟を結んでいた上杉謙信が死んでしまいました
ここで大トラブルが!!
とゆーのも、上杉謙信は「跡継ぎ」を決めないままトイレでぶっ倒れて死んでしまったんですねぇ
この人、奥さんもいないので実子がいない
ってことで、養子を二人もらってたんですね
それが謙信のおねーちゃんの息子・景勝
あともう一人は北条氏政の弟の景虎

で、この二人のどちらが新当主になるかでバトルが始まってしまうのです
これが「御館の乱」とゆーやつなんですね〜
カッチンはこの御館の乱にハマっていってしまうのであります

御館の乱〜カッチンお金ほしくなっちゃったんです〜

謙信の死により景勝派・景虎派と家中が真っ二つ
先に動いたのは景勝
「オレが後継ぎだ!」と春日山城を占拠しちゃいました
で、自分が謙信の後継者であると宣言
景虎は妻子とともに春日山城を脱出
越後に来ていた山内上杉憲政の家である御館にたてこもりました

越後は揺れに揺れまくりでした
景虎のお兄ちゃんの北条氏政は、妹婿の武田勝頼に「景虎を助けてやってくれ」とお願い

カッチン軽くOK♪
兵を出し、景勝を討つために向かいました
が、それを知った景勝
謙信の莫大な財産を惜しみなくカッチンに振るまったのです
この頃雲行きの怪しかったカッチンは、財産に目がクラクラッ

そして、なんと!!!景勝と和睦してしまったのです!!
さらに勝頼は自分の妹を景勝に嫁がせちゃいました

これには北条氏政大激怒!!

北条氏政激怒!「同盟破棄しちゃる!」

カッチンは、さっさかと自分の国に帰っちゃいました
氏政は自分の国から兵を出しましたが間に合わず、弟の景虎は殺されてしまいました
結果、景勝の大勝利!!

「よくもワシの弟を見殺しにしたなあ!!」と怒った北条氏政は同盟を破棄してきました

せっかく北条家と同盟を結んだのに、入んなくていいケンカに入っちゃって同盟破棄されてしまったカッチン
これは痛かった

ただでさえ徳川・織田に狙われまくってるのに、北条を怒らせちゃったカッチン
もはやまわりは敵だらけっ!!

信玄が16歳になったら次期当主にと考えていた勝頼の息子信勝(のぶかつ)ももうすぐ16歳になろうとしていました

今のうちに・・・と信長・家康は武田攻めを本格的にはじめることになったのです

武田家臣裏切り続出!!

武田を滅ぼそうと決めた信長と家康はさまざまな攻略をスタートさせました
まず家康が穴山梅雪を家康チームに寝返らせることに成功
穴山梅雪ってのは信玄の親戚なので「親戚が武田を見捨てた!!」となったもんだから大変なことに

親戚が裏切るほど、武田はヤバイという噂がたち、武田家臣らはこぞって寝返りはじめたのです

さらに裏切り ! 木曽義昌

木曽義昌は信玄時代からの家臣でした
信玄の娘である真理姫と結婚し、武田一門となってました

勝頼時代となってから、カッチンが「新しい城(新府城)を作るから、木材調達頼むよ!」とエラソーに命令したことに腹を立てはじめたのです

そんな中、徳川家から「本領も安堵するし、さらに他のトコもあげるから徳川に寝返れ」という甘いセリフが

とうとう義昌はカッチンを見限り、家康に寝返ったのです。

これを知った真理姫は激怒し、義昌と離婚してカッチンに「うちのダンナが寝返ったわよ!」と報告

ですがカッチンは、めちゃくちゃブチ切れて、義昌と真理姫の子供を磔にしてしまったのです
真理姫は大ショック!!

木曽義昌までもが裏切った・・・というニュースに武田家は大パニックとなっていきました

武田家のヒーロー!仁科盛信

もー武田家はめちゃくちゃのボロボロ状態
われもわれもとカッチンを見捨てて逃げていく人たちばかり

そんな中でただ一人逃げなかった男・それが仁科盛信

盛信は信玄の5男で、カッチンのすぐ下の弟です。

高遠城の仁科家を攻略した際、名門仁科家が没落するのは勿体ないということで、仁科を名乗るようになってました

武田家では逃げ出す人が続出でしたが、仁科盛信は踏みとどまったのです

織田家は武田家を一気に潰すために5万人もの大軍を送り込みました

これを恐れた武田家では、どんどん城を逃げて行き、織田軍は一滴の血も流さず高遠城にやってきました
そして仁科盛信にも「降伏しろ!」と使者を出したのです

ところが盛信はその使者の耳を切り落とし「何を言われても降伏する気などないわ!来るならコイや!」と3000人の兵で籠城!!

相手となったのは織田信長の長男・信忠でした。

こうして若者同士の戦いが始まったのです

が50000人の大軍に3000人では敵うはずがない
もはやこれまでと悟ると、盛信は最後の意地を見せ、腹を十字に斬り、腸を壁に投げつけ自刃しました

それを見た他の武将や女性達も、自刃して高遠城は落ちたのです
盛信26歳

武田家臣としてただ1人、最後まで戦った男でした

カッチン とうとう逃げる

弟も殺されてしまったカッチン
織田軍はめちゃくちゃな勢いで、カッチンのもとへ攻め込んできました。

もはや新府城を攻められるのは時間の問題

ちなみに「新府城」は甲府に新しい城を建てるという意味で新府城

信玄のモットーは「人は城 人は石垣 人は堀 情は味方 あだは敵」
が、信玄の時代の時のように「家臣を国中にバラまいておいて、合戦の時に呼び集める」というのは、時代遅れとみたカッチン

こうして今まで城に住んだことない「お館様」だったんだけど、とうとう城を築城したのです

この時、甲斐の人々は「信玄殿は甲斐に敵を入れることがなかったから、城など必要なかったのにな」と、カッチンをバカにしていました。

が、その新府城も攻められるのは目に見えてきたのでした。

そこに武田家臣で、山県昌景から絶大な信頼を受けていた小山田信茂が、「ワシの岩殿城で再起を計ったらどうでしょうか?」と提案してきたのです

この時、真田幸昌も「殿 なにとぞ私の城へ」と自分の城へ誘いました

ですが他の家臣たちは、「真田よりも小山田の方が信頼できる」と、小山田の城へ行くこととなったのです

そして1582年3月3日 2ヶ月ほどしか住んでいない新府城に火をかけ、妻や息子の信勝ら1000人で向かいました

この時勝頼の妻・娘・叔母や信玄の側室らはほとんどが裸足
馬に乗っている者は20名ほどでした

が、お供の家臣たちは次から次へと逃げていったのです・・・

カッチン大ショック!!小山田の裏切り

重臣・小山田信茂のもとへ逃げていったカッチン一行

が、小山田信茂はもやは信長・家康に寝返っていたのです・・・・

3月7日に、小山田信茂が寝返ったという情報を聞くとカッチンは絶望に打ちひしがれました
もう、目の前真っ暗です

小山田信茂らの兵に包囲され、奮闘
が、岩殿城から10キロ離れた天目山でカッチンらの動きは止まってしまいました

千人いた従者らは脱落しまくっており、この時総勢43名

さすがに最後まで残っていた家臣たちの奮闘は凄まじかった

敵と戦いつつ、なんとかこの状況を打破しようと途方もなく歩き続けたのです

37歳 カッチン死す

1582年3月11日 カッチンは、つい先日までは武田家のものだった甲斐の山々を眺めていました

一行はもはやこれまでと最期を悟ったのです

最後までついてきた家臣・土屋昌次が盃の用意をしだしました

16歳のカッチンの息子・信勝が、最後の甲斐の名酒を飲み、勝頼の妻である19歳の北条家の娘もそこへ座りました

近くで兵の声がする

もう敵はそこまできていました

土屋昌次は、5歳になる自分の息子に「お前は幼く足も遅いので、先にあの世で待っていろ」と胸を刺しました

信勝は追撃相手にかなり奮闘し、敵側を驚かせたましたが、信玄譲りの勇将ももはや遅すぎた

花を開かせることないまま自刃したのです

カッチンも最後の力を振り絞って奮闘しましたが、織田軍に討たれるくらいなら・・・と、武田一族全員自刃しました

勝頼37歳

風林火山の旗印は消えたのです

辞世の句は
「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは」

ついでに・・・・その他の人々

小山田信茂はどうなった?

裏切った小山田信茂は、次期当主であるはずの信勝の天目山での奮闘振りを見て、武田家滅亡を非常に惜しみました

そしてこの後すぐ、信長により「みろ!こいつが裏切り者だ!」と罵られ殺されてしまうのでした

真田昌幸はどうなった?

昌幸は仁科盛信が死に、続々と武田家臣が勝頼を裏切っていると聞くと、ただちに勝頼のもとへ
昌幸は勝頼に会って大ショック
久々に会った勝頼は、痛々しいほど憔悴しており、痩せていた
昌幸は「ぜひわが城へ来て下さい!そこで耐えられるだけの兵糧や兵力を用意いたします。3年もたてば、必ずや武運が開けまする!」と言いました
勝頼は一度は「そうか・・・それもいいかもしれぬ。悪いな。行かせて貰うよ」と返事しました
昌幸は「では、ワシは一足先に戻り、準備を致します!」と、戻っていきました
が、いつまでたっても勝頼がやってこない
昌幸はどうしたのか?と、心配しまくり
というのも、昌幸が急ぎ戻ったあと、他の家臣たちが「あいつは譜代の家臣ではないから信用できない」といい、小山田信茂のもとへ行くことを勧めたのです

「おかしいな・・・。いつまでたっても武田の旗が見えない・・・」昌幸は嫌な予感でいっぱいに
そこへ届いたニュースが「勝頼死去。武田滅亡」
昌幸は大ショック!!!
「なぜワシを信用してくれなかったのか!ワシならむざむざ死なせるなどしなかったのに!!」と、悔し涙を流したのです。
が、泣いているヒマはない
こうなった以上、真田も危ない
結果昌幸は、滝川一益に仲介してもらい、信長に黒葦毛の馬を送って織田信長に降伏したのです
そして真田昌幸のもとには、仁科盛信の生き残った家臣や武田遺臣たちが続々と集まっていくのでした


織田信長はどうなった?

勝頼自刃・武田家滅亡を聞いた信長
信長は勝頼と信勝の首を自分の陣に持ってこさせました

そして「お前の父親は生きていた時ワシに対して無礼なことばかりしていた!その報いがお前のこの首じゃ!お前の父親は上洛したがっていたが、このオレ様がお前の首を京都に晒してやろうぞ!」と首を前に勝利の美酒に酔ったのです
そして家臣達に向かって「どうじゃ?この首はじつに心地よいであろう?」と笑ったのです
信長は自分の権威が完全に確立したことに大満足
そして信長は、勝頼らの首を家康のもとへ届けました


徳川家康はどうなった?

家康は、送られて来た勝頼の首をきちんと置き、一礼をしたのです

そして「このような形でそなたと会うとは思いもよらないことであった。これも勝頼殿が、若気の至りで血気盛んにしたせいでござるぞ?信玄時代の老臣らの言うことをきちんと聞いていれば、このようなことにはならなかったであろうに・・・」と、勝頼の首に言葉をかけたのでした


穴山梅雪はどうなった?

信玄死後、勝頼の時代になってからは武田家臣軍の事実上のトップになってたんだけど、新しい家臣を大事にし、口うるさいじーさんらを蔑ろにするカッチンとはウマが合わずにいた

信玄の死後、勝頼を見限り、徳川・織田と内通
家康からお客様扱いされます
カッチンが敗れてから、武田親族で唯一存続した存命者となります
が!!本能寺の変の時に、どさくさに紛れて殺されてしまったそうです


管理人ハガクレより

どうでしたか!?カッチンの生涯!
え?バカ?
いいや!そんなことはないのですヨ〜

まぁワタクシ、判官びいきタイプでもあり、さらには滅びの美学を愛するタイプでもありますから、カッチンを無能のヒトコトで終わらせたくないんですよねぇ

どうもカッチンは「あの武田を滅ぼした男」というイメージがあるため、無能呼ばわりされてしまうんですが、あの時代、まわりはアレですよ?信長とか家康とか秀吉とか一枚も二枚も上手なヤツラぞろいですよ?

さらにカッチンは武勇の華々しさは武田の家臣たちにも負けてない
それくらい、頑張ってたんですよ〜
甲陽軍鑑という武田のことを書いた本の中にも「強すぎる武将です」って書いてあったんですよ!

でも、風林火山の旗が消えてしまったとゆーのは、とっても悲しいことです
あんなカッコイイ軍旗、ありませんからね!
やっぱ、武田にはロマンがありすぎます
赤備えといい、最強の騎馬隊といい、平城といい、語りつくせないくらいのロマンが詰まってます!
そんな武田が滅びたからこそ、ワタクシの心にずしーんときたんでしょうなぁ・・・