平安時代その2 目次 年表
平将門デビュー 「武士」がクローズアップ
将門 京都に嫌気が差す
935年 将門 親戚と大喧嘩!
939年 平将門の乱無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
将門の首塚・・・
939年 藤原純友(すみとも)の乱
ノンキな朝廷
946年 62代 村上天皇
藤原師輔 フィーバー中★
967年 63代 冷泉天皇(れいぜい)
関白実頼 コンプレックスありまくり
次の皇太子レースは!?
969年 安和の変(あんなのへん)
清和源氏の基盤を固めたぞー!源満仲
969年 64代 円融天皇無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
実力者 立て続けに死んじゃった
藤原氏 身内同士の骨肉の争い
兼通VS兼家 死に際までやったるぜ!
藤原兼家お家芸大披露!
藤原道綱の母 暴露本「蜻蛉日記」を発表
984年 65代 花山(かざん)天皇
986年 花山天皇失踪事件 
986年 66代 一条天皇 兼家念願の摂政に!
さらに続く!藤原ドロドロの身内争い
陰陽師 安陪清明&蘆屋道満
平安時代の超★有名人藤原道長
女性で身を滅ぼしちゃった伊周
悲劇の皇后 藤原定子
後宮では火花バチバチ!?
定子派 インテリ清少納言
彰子派 うぬぼれ屋さん紫式部
1011年 67代 三条天皇
道長 三条天皇イジメスタート 立后問題起きる
1014年 三条天皇 眼がかすんじゃった
藤原始まって以来の大ブレイク!
藤原氏最盛期 心は満月の道長
源頼光と頼光四天王
1019年 刀伊の入寇(といのにゅうこう)
無断転写禁止だよ!
無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより


無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより

平安時代  794年〜1192年
平将門デビュー 「武士」がクローズアップ
朱雀天皇の時代となり、実権は藤原時平から弟の忠平に移りました。

その藤原忠平の家臣だったのが平将門。

平将門の「平氏」は桓武天皇の子孫で、将門のおじーちゃんの「高望王(たかもちおう)」って人の時に、「平」の姓をもらいました。

高望王は890年頃に平姓をもらいました。

この頃中央政権は「藤原氏」が独占しまくり。

中小貴族は入る隙もなく地方へ行ったのです。

地方で受領(ずりょう)となり、農民らから税金を吸い取り巨万の富を蓄える中小貴族が増えていました。

受領とは地方へ赴任し実際に国を治めている国守のこと。

高望王は坂東へ行かされたんだけど、任務が終わっても京都へ戻らずに土着したのです。

受領第一世代となるのでした。
将門 京都に嫌気が差す
将門は平良将(よしまさ)の三男として生まれました。

若い将門は「京都に出て忠平の家臣になって官職につくんだ!」という夢を抱いて京都へ。

ですがイトコの平貞盛は出世できたのに将門はいつまでたっても出世できず・・・。

さらに中央の腐敗した政治を見ちゃった将門は、嫌気がさして下総の地に戻っていきました。

だけど故郷の下総に戻っても長子じゃないため受領にもなれない。

どうしようかな・・・と思った将門は下総の猿島郡石井というところを拠点とし、自分の力で所領を増やし勢力を蓄えて豪族となったのです。

935年 将門 親戚と大喧嘩!
独自の力で頑張って所領を増やしていた将門。

ですが同じ一族で叔父さんにあたる国香と理由はわかんないけど対立していました。

国香が「将門がムカツクからヤツの土地を取っちゃおう」と悪巧みをして将門の土地を取っちゃった。

将門怒って戦いをおっぱじめ、この国香を殺しちゃった。

で、この国香の息子らが朝廷に「将門は悪いヤツだ!」と訴えたため将門は都に呼び出されたのです。

都のお偉いさんは事情を知ってて「将門は悪くない」とお咎めなし。

当時の実力者は将門のモト主人の藤原忠平だったので、それも有利に動きました。

将門が何も処分を受けずに関東に戻ってきたので、関東の武士の間で将門の人気が急上昇!!

ちなみに「武士」がこのあたりからクローズアップされてくるんだけど、この頃、お金持ちはドロボーから身を守るため自費でガードマンを雇っていました。

国でドロボーや強盗団を取り締まるってのがなかったから。この自費で雇ったガードマンが「武士」の始まりとなるのです。

また中央から派遣された国司がその地位を利用して税金を多くしたりと私利私欲をむさぼりました。

これに対し、昔から頑張って開墾してきた豪族や農民らは俺らが一生懸命やってきてんのに、お偉いさんだからって不当に税金をとられてたまるか!と自分達の土地を守るために中央からやってくる国守に立ち向かうようになるのです。

で、武芸に力をいれるようになったのも、「武士」が生まれるきっかけ。
939年 平将門の乱
下総に帰った将門は、みんなに慕われ次第に揉め事の仲介人なんかを頼まれるように。
無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
親分肌の将門は、義理人情に厚く人気者に。

ある日、藤原玄明(はるあき)という男が国司にこき使われ将門に「助けてー」とやってきました。

将門は、玄明をかくまう事に。

で、朝廷の地方官である国司が将門のモトにやってきて、「ヤツを出せ!!」と言うんだけど、将門はコレを拒否。

これにより、お役人(国司)から睨まれてしまったのです。

ムカついた将門は、お偉いさんがナンボのもんじゃ!!と、役所を襲撃してしまうのです。

虐げられまくっていた民衆は大喜び!将門は英雄となり次々と関東一円を攻めていくのです。

もうここまできちゃったら引くに引けない状態でした。

で、オレは関東に新しい国を造る!これからはオレを親皇(京都の天皇に対する新しい天皇)と呼べ!と言い出しました。

怒った朝廷は将門を倒すべく940年に軍を派遣するのです。

藤原忠史(ふじわらのただふみ)を中心に、平国香の息子らが将門と戦いとうとう流れ矢にこめかみを討たれ死亡。

将門の新国家の夢はここで消えたのであります。

この時朝廷軍は4000人対する将門軍は400人でした。

リーダーのいなくなった将門軍は鎮圧しました。この935年〜940年の一連の戦いを平将門の乱といいます。

無断転写禁止だよ!
将門の首塚・・・
この後、将門の首は京都でさらし首となるんだけど、この首が「今一度戦いを!!!」と叫びながら一晩で関東まで飛んでいったと言われています。

で、落ちた場所が今の東京大井町。

ここは将門の首塚になってるんだけど、壊そうとするとタタリが起きるらしい。

現に死んでる人もいる。また、首塚にお尻を向けて座ってると、タタリにあうとか・・・。

個人的意見ですが、将門は藤原一族ばかりがいい思いをして、一族または関係者以外はお偉いさんになれないこの状況を何とかしようと思った立派な武士だと思います。

親戚が最悪で、こいつらが朝廷と結びついちゃったから、自分の土地を守るために反乱を起こすしかなかったんでしょう。

自分の領地の民には、とても好かれてた優しい親分だったそうです。
939年 藤原純友(すみとも)の乱
将門と同じ頃、瀬戸内海では海賊が海を荒らしまくっていました。

ボスは藤原純友です。

純友は文徳朝時代の関白藤原長良のひ孫というエリート。

父良載が伊予国へ赴任したんだけど、任期が終わっても京都に帰らずにいたのです。

そして瀬戸内海に勢力を持つ海賊との関係を深めていったのでした。

やがて純友の代となり海賊を配下に置くようになったのです。

そして伊予の日振島を拠点に略奪しまくりの日々を過ごすのです。

将門が「親皇」と称した939年の12月ごろ、純友も国守である紀淑人(きのよしと)を攻めました。

朝廷は慌てて現地に兵を派遣したり、純友に「従五位」に出世してあげるからぁーと懐柔策をとったんだけど純友これを却下。

純友は一気に暴れまくり大宰府を攻撃して建物に火を放ったのです。

この知らせを受けた朝廷は大宰府へ。

両軍は博多湾で激突!

そして純友は負けちゃうのです。逃げ帰った純友は息子とともに斬られました。

この2つの反乱が同じ時期だったので、「2人で示し合わせて反乱を起こしたのか?」と言われてます。

比叡山に「将門岩」というのがあって、ここで2人が天下を取る相談をしていた・・という伝説があります。

ちなみに、この純友の乱を鎮圧しにいったのが「源経基」この子孫がのちの「源頼朝」です。
無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
旧住友財閥の家祖 ・住友政友(すみともまさとも)は純友の子孫らしいです。

将門の乱と純友の乱を年号をとって「承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょう)」
無断転写禁止だよ!
ノンキな朝廷
地方では2つもの大きな反乱があり「武士」が出てきたというのに、朝廷は摂政忠平のもとでノンキに過ごしていました。

940年には死んじゃった醍醐天皇の14皇子である成明親王が、忠平の次男・師輔の娘安子(あんし)と結婚。

朱雀天皇はたーくさん妻&妾がいたんだけど、どうも生まれてくる子供は虚弱。

一番元気な成明親王が多分皇位を継ぐだろうと予測していました。

なので成明親王の奥さんになるということはとても重要なことでした。

で、その座を勝ち取ったのが師輔だったのです。

師輔は有力な兄弟らとの政権抗争に勝つために頑張りました!

944年 とうとう成明親王が皇太子に任命。師輔大喜び!

ちなみに忠平は朱雀天皇が19歳になったので「摂政」から「関白」になりました。

946年 62代 村上天皇
朱雀天皇は、藤原忠平に実権を握られたままでいるのに嫌気が差しちゃったのか24歳という若さで弟の成明親王に後を譲った。

これが62代 21歳の村上天皇です。

そして村上天皇は人事異動を行いました。

関白に藤原忠平(68歳)
左大臣に藤原実朝(48歳 忠平長男)
右大臣に藤原師輔(40歳 忠平次男)

そして中納言・権中納言・参議には忠平三男・四男も入るという忠平家絶好調でした。

村上天皇はしばらくやってなかった文化的な事業を積極的に取り組みました。

超豪華な歌会なんかもやったりして、人気が出てきた。

当然藤原氏はおもしろくなかった。

ちなみに、清少納言は枕草子で「村上天皇の政治が理想の政治NO1」と書いてました。

藤原師輔 フィーバー中★
そんな中藤原忠平が70歳で死にました。

村上天皇は、摂政を置かずに政治を行ったが、形式上だけで実権はきっちり藤原一族の師輔が握っていました。

師輔は母の血統が良かったので順調に出世。

ちなみに兄の実朝も別のお腹だけど母の血統は良かった。

師輔は女好きだったため妻&妾の数はすごかった。

そしてとうとう有力な家臣らの娘だけじゃ飽き足らず皇女にまで手を出したのです。

手を出された皇女は康子内親王。

師輔は康子付きの女房をたらしこみ手引きをさせてゲットしたのです。

これには村上天皇もかなり不満。だけど師輔の権力は天皇までをも黙らせちゃったのです。

師輔と実頼は仲が良くなくって、師輔は次男ってことで格下扱いされてました。

だけど娘の安子(あんし)を村上天皇に嫁がせることに成功しさらに、安子が第二皇子の憲平親王(のりひら)を産んでくれたので勝ち組に!

憲平親王を生まれて2ヶ月で皇太子にしちゃいました。

958年に娘の安子は皇后に。

そのお披露目の時に師輔の弟で忠平の四男 師尹(もろただ)は、あまりの師輔家の栄華に嫉妬と絶望でいっぱいになり、席に戻ることができなかった。

さらに安子は第五皇子である守平親王を産み、師輔は娘のおかげで天皇の外戚の座をがっちりと掴みまくった。

が、960年の5月に53歳で病気となり死んでしまうのです。

あと10年生きていれば藤原氏最高潮を極めていたかもしれません。

無断転写禁止だよ!
967年 63代 冷泉天皇(れいぜい)
忠平の死後は関白を置かずに何とか頑張ってた村上天皇。

師輔に操られながらも一生懸命天皇親政をやろうとしてましたがとうとう42歳で死んでしまいました。

そして憲平親王が即位したのです。18歳でした。

師輔が死んじゃっていたのでこの時の実力者は師輔の兄である左大臣 実頼。そして右大臣には源氏のエース 源高明(たかあきら)

が・・・
実は冷泉天皇は実は知恵遅れだったのです。なので即位から一ヵ月後 実頼を関白に任命しました。

ほんとは18歳なので関白なんて必要ないんだけど「病弱で時々狂う」と書かれていた冷泉天皇には必要だったのです。

冷泉天皇の知恵遅れに気がついたのは皇太子時代。

親王が一日中毬を蹴って天井の梁に乗せようと足を怪我してるってのに必死こいてやっていた時。

凶暴性はないんだけど異常な行動が多かった。

屋根に座り込んでいたり、村上天皇の手紙にエッチな絵を描いて返事出したりね。

そのため関白が必要となったのです。そして実頼は半年後太政大臣となり、同時に源高明が左大臣に。

師尹が右大臣となったのです。
関白実頼 コンプレックスありまくり
実頼は関白になったというのにイマイチ権力をゲットできませんでした。

なぜかというと「外戚」ではないから。

実頼は「師輔の兄」というだけで、天皇家と親戚関係を結んでいなかったのです。

そんな実頼のコンプレックスを刺激するのが皇后安子の兄弟で師輔の息子である伊尹(これただ)兼通(かねみち)兼家(かねいえ)の三兄弟。

この頃伊尹は権中納言になったばっかりで兼コンビはまだ公卿にもなってませんでした。

でも「外戚」という看板をしょって出てきた若手の三兄弟に、実頼はいつもビクビク。

この頃の日記に

「最近天皇は病気ばっかり。これをチャンスと外戚の連中が昇進を企みまくっている。中でも権中納言になったばっかりの伊尹!あいつは大納言になろうとしてるようだがもってのほかじゃ!それに明日の会議の取り決めを全てヤツラが決めやがった!関白であるワシに何も言わんとはなんたること!あーあーこれもワシが天皇の外戚じゃないからこんなメにあうんじゃ。名ばかりの関白なんぞ辞めちゃいたい・・・トホホ」と書いてありました。

次の皇太子レースは!?
さてさて冷泉天皇は病弱だし、子供もいないし、いつ死んじゃうかわかんないってことで、次の皇太子は誰にするか?という話が出てくるのは当然のこと。

一応冷泉天皇には皇后がいたんだけど、子供は生まれていなかった。

皇太子候補者として冷泉天皇と同じ母から生まれた弟「為平親王(ためひら)」と「守平親王(もりひら)」がいました。

2人とも安子の息子で、為平はこの時16歳守平は9歳。
無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
為平は守平より7才年上なので、候補といっても為平が選ばれるのが当然でしょ?って感じでした。

公卿たちは次の天皇となるだろうと思われている為平親王に自分の娘を嫁がせることに必死!

そしてそのバトルに買ったのが右大臣 源高明でした。

源高明は醍醐天皇の皇子として生まれました。

母の出が低かったため7歳の時に源氏姓を賜り臣下に下ったのです。

成長するにつれ賢さがメキメキと現れ、あの師輔さえも「こりゃー娘を嫁がせとくか」と思わせるほどのおりこうさん。ですがライバルの家でありながら自分を認めてくれた師輔はおらず後ろ盾が何もなかった。
無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
なので未来の天皇である為平親王に賭けていたのです。

当然 為平親王と高明の娘の結婚は藤原一族の反感を買いまくることに。

もし高明の娘が皇子を産んじゃったら天皇の「外戚」として高明がハバを効かすのは間違いない。

為明を皇太子にするのはなんとしてでも避けなければ!と藤原一族の陰謀渦巻く作戦が開始。

そしてなんと!実際どうやってそうなったのかはわかってませんが、大納言の師尹は兄実頼とはかって9歳の守平親王を皇太子につけました。

朝廷内騒然!

源高明は外戚の夢が崩れてしまったのです!

無断転写禁止だよ!
969年 安和の変(あんなのへん)
為平親王を皇太子にすることができなかった源高明。

そんな鬱状態の高明のもとにさらなるニュースが!

969年の3月 源満仲(みなもとのみつなか)が藤原氏を訪れて、「守平親王を皇太子から引き摺り下ろして為平親王を新しく皇太子にしようとしてますよ・・・」という密告をした。

で、黒幕は源高明ってことに。

一番ビックリしたのは源高明。全然そんなこと考えてもいなかったからデス。

翌日高明は、出家するから都にいさせてくれとお願いするがダメでとうとう九州の大宰府に左遷されちゃいました。

そして左大臣のポストには右大臣の師尹が・・・密告した満仲もご褒美として位が上がったのです。

これによって藤原氏は最大のライバル源氏を消すことができて超ラッキー♪
 
この「安和の変」以後、藤原氏が警戒するような有力貴族は登場してこないので藤原氏同士の権力争いが激しくなっていくことに。

清和源氏の基盤を固めたぞー!源満仲
さてさて源高明を密告した満仲ですが、この後は花山天皇失脚の片棒を担いだりと藤原氏の手足となって働きまくります。

そして摂津で藤原氏の荘園管理を任され着々と清和源氏の基盤を固めました。

満仲が頑張ってくれたおかげで次世代ヒーローの頼光・義朝・頼朝たちが登場するのです。
969年 64代 円融天皇 
そして969年8月、冷泉天皇は即位2年で病気を理由に天皇の位を皇太子「守平親王」に譲りました。

これが10歳の64代 円融天皇(えんゆう)。

ちびっこなので摂政には藤原実頼がなったんだけど、翌年死去。

師輔の息子伊尹(これただ)が摂政に。これ以後は「摂政」「関白」を常に設置することとなり、藤原氏にとっては超超ラッキーな結果となりました。

皇太子には冷泉天皇の第一皇子で2歳の師貞親王。

ちょっと知恵遅れだから子供生まれないかと思いきや968年に生まれたのでした。

ちなみにこれは個人的意見だけど、いくら天皇だからって頭おかしいヤツのとこに嫁がなきゃいけないってのも悲惨だよね・・・。

ちなみに冷泉天皇はその後62才まで生きました。

そしてこの師貞親王の母は伊尹の娘 懐子です。ということは、伊尹は将来外戚の地位をゲットできたのです。

無断転写禁止だよ!
実力者 立て続けに死んじゃった
円融天皇即位の2ヵ月後、左大臣師尹が死去。

安和の変で首尾よく左大臣の座をゲットしたのに、たった半年で死んじゃいました。

さらに71歳の摂政 実頼も死去。

源高明のタタリ!?と朝廷はちょっと恐れました。

これで朝廷の実力者2人がいなくなりました。

そうなると天皇の叔父である伊尹の出番であります。

伊尹は摂政となりましたが、なんと2年後49歳で死んでしまうのです。
藤原氏 身内同士の骨肉の争い
摂政となった伊尹には兄弟がいた。兼通(かねみち)と兼家、そして安子。

師輔には10人子供がいたらしいんだけど、朝廷の有力者となったのは死んじゃった伊尹と兼通・兼家でした。

そして出世のトップを走っていた伊尹が死んじゃったので、左大臣には源兼明。

右大臣には実頼の息子の頼忠となったのです。

三男の兼通は権中納言。
無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
そして四歳年下の四男兼家は兄より上の大納言でした。

伊尹が死んじゃったので次の摂政は?となりました。摂政は外戚じゃなきゃダメだったからね。

円融天皇と仲良しだったのは下の兼家。

次の摂関になるのはオレだろ?と兼家は密かに思ってました。

それに兄の兼通よりも位は上だし♪と思っていたんですがその予想は大ハズレ!

なんと兄の兼通が上位9人をいっきに飛び越え関白となったのです。兼家はもとの大納言のまま。

これには訳がありました。

兼通は弟が出世したのが悔しくて妹の安子に密かにお願いをしていたのです。

そして安子は死んじゃったんだけど、遺言で「摂関は兄から順番に」と書いていた。

安子は村上天皇の奥さんだったので、円融&冷泉のおかーさん。

天皇家NO1の実力者だったので、円融も兼家もこの遺言を無視することはできなかった。

これによって兄の兼通が関白に就任となったのです。

おもしろくないのが、弟の兼家でした。納得できずに醜い兄弟ゲンカが始まるのです。
無断転写禁止だよ!
兼通VS兼家 死に際までやったるぜ!
兼通はいままでの屈辱的な思いを晴らすぜ!と兼家の昇進をストップさせました。

そして実頼の息子でイトコでもある右大臣の頼忠に目をかけ可愛がりました。

兼家はめちゃくちゃ怒ったけど、関白となった兄に逆らうこともできずムカムカしてました。

そして5年間 この2人の兄弟ゲンカはちくちくと続いておりました。

ある時、兼通が病気になる。そんな時弟の兼家が行列を作って自分の家の方に来てるというニュースが。

「やっぱり弟だな。オレが病気で具合が悪いとなるとお見舞いに来てくれるんだー」と喜んだのもつかの間、兼家は兼通の家を通り過ぎて円融のトコに遊びに行っちゃった。

兼家は、兄の兼通が病気のうちに円融にゴマすっておいて、兼通が死んだ後にボクを関白にならせてネ♪とお願いしに行ってた。

それを知った兄の兼家は病気なんかで寝てられん!!!と、自分も円融のとこに。

そして円融に「オレが死んだら関白を弟じゃなくイトコの頼忠に譲ってくれ!」とお願い。

で、兼通はこの時の無理がたたって一ヵ月後死去した。
藤原兼家お家芸大披露!
兄の兼通に2度までも関白になるチャンスを潰された兼家。

だが、権力の座につくまでは絶対にあきらめないぜ!と策略をはじめる。
 
関白の頼忠&モト仲良しの円融を引き摺り下ろしちゃえばこっちのもんだぜと考えはじめた。

関白頼忠は実頼の子だけあってマジメな性格。

権力ドロドロの兼家をちゃーんと右大臣に昇進させてあげたのでした。

藤原氏の権力ゲット法は、自分の娘を天皇に送り込んで子供を産ませ、孫を天皇につかせ「天皇のおじーちゃん」として権力を握るってのが原則的(?)パターン。

兼家はすでに娘を送り込んでるんだけど、死んだ兄の兼通も関白の頼忠も娘を送り込んでた。

円融ハーレム状態♪

けど、円融は仏教の方が興味あったらしい。

娘を送り込んだ3人のうち、子供は1人しかできなかった。

産んだのはなんと兼家の娘(詮子)これで兼家摂関への足がかりができてウキウキ。

あとは、この生まれたばっかの孫を皇太子にして、天皇にすることができたら摂関になれて権力が握れるぜ!とハリキリまくるのでした。

藤原道綱の母 暴露本「蜻蛉日記」を発表
954年に兼家と結婚した「道綱の母」名前がわかんないので以下「道綱の母」で通します。

道綱の母は当時の三大美人の一人でした。

この頃の結婚は一夫多妻が当たり前でした。

兼家と結婚した時も正妻である時姫がいました。

道長の母は一夫多妻による苦悩とかを暴露本「蜻蛉日記」に書いちゃうのです。

しょっぱじめから「世の中の物語はウソばっかり。あたしはホントのことを書くわよー!」から始まっています。
無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
2人の始まりは兼家がラブレターを書いたことから。道綱の母の家は中流の家だったので、兼家からのラブレターに家の人は大喜び。

だけど道綱の母は「使ってある紙もたいしたことないし、文もヘタなのよネ・・・」とボヤいてる。

その後も兼家は道綱の母にせっせとラブレターを書き続け、ついにゲット。

そして道綱の母は妊娠するんだけど、兼家は道綱の母に飽きてしまい、他の女性のとこに行き始めます。

「なんてこと!」と怒った道綱の母。素行調査を開始します。

新しいお相手はどっかの皇子の落し種とかいう女。もー道綱の母はムカムカしっぱなし。

たまーに兼家が家に訪れても戸を開けなくなっちゃいました。

そのうち新しい女も飽きられ捨てられてしまいます。

それを聞くや「ざまぁみろだわね!あたしと同じ思いをさせてやりたいと思ってたからせいせいしたわ!きっと嘆いてるでしょ。フフ」と、意地悪100%であります。

だけど兼家の浮気はおさまったわけじゃありません。
無断転写禁止だよ!
次々と聞く噂に道綱の母はムカムカしっぱなし。

あたしの美貌を持ってしても、兼家を引き止められないなんて・・・。プライドの高い道綱の母は敗北感にさいなまれるのでした。

だけど弱味は見せたくない!ってことで、正室である時姫のトコに兼家が全然行ってないって噂を聞くと、時姫に対して「お気の毒ね・・・」と、同情の手紙を書いたりして「大きなお世話よ!」と怒られたり。

また死にもしないくせに「遺書」を書いて兼家にうんざりされたり・・・。まったくもってプライドの高さが邪魔をして、可愛げのない女の気持ちをガンガンと書いちゃってるのが「蜻蛉日記」なのであります
984年 65代 花山(かざん)天皇 
兼家は、毎日ネチネチと円融天皇をイジめた。

藤原氏の身内争いに疲れてた円融にとって、このイジメはかなり痛かったらしく「もう天皇やめて出家する!」と天皇を辞めちゃった。

次の天皇は、冷泉天皇の息子だった師貞親王

65代 花山天皇に。17歳です。

関白には引き続き頼忠がなりました。花山天皇は死んだ伊尹の孫なので兼家も頼忠も外戚の資格がない。

代わってグングンと延びてきたのは伊尹の息子義懐(よしちか)参議になってすぐに権中納言に昇進。

が、権力奪取に燃えている兼家が黙っちゃいなかった。

まず兼家は生まれたばっかの自分の孫の懐仁親王をを皇太子にすることに成功したのでそうなると邪魔になってくるのが花山天皇なのでした。

986年 花山天皇失踪事件 
花山天皇は大好きだった祗子という妃がいました。

が、この祗子が妊娠8ヶ月の時に死んでしまう。

悲しみのあまり花山天皇は毎日泣き暮らし、度々僧侶の話を聞いたりしていた。

それをチャンスとばかり藤原兼家の悪巧みがスタートする!

兼家は、悲しみまくって坊さんになっちゃおうか・・・と悩んでる花山天皇の所に自分の息子で次男の道兼を送り込みました。

道兼も口がうまくって、「私も剃髪して一緒に坊さんになりましょう」と提案。

どうしようか悩んでる花山天皇を言葉巧みに騙して元慶寺へ連れ出し、髪の毛を切っちゃった。

次は道兼の番ね、となった時に「あっ!オレ用事を思い出した!おとーさん(兼家)に呼ばれてたんだ!」と花山天皇を残してさっさと帰ってしまったのです。

道兼と花山天皇が元慶寺で色々とやってる間に、兼家の長男の道隆と三男の道綱はせっせかと譲位の準備。

で、末っ子の道長が関白藤原頼忠に天皇行方不明の報告をしちゃった。
無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
花王天皇が騙された!と気がついたときはもう遅かった。

花王天皇19歳 以後は政治とは無縁の道を選び41歳で死んだのです。

無断転写禁止だよ!
986年 66代 一条天皇 兼家念願の摂政に!
そして懐仁親王(当時7才)が即位して66代 一条天皇となり兼家は見事天皇のおじーちゃんになり、念願の摂政に!

やっとこさ摂政になれた兼家はゆるぎない権力体制を築き上げました。

そしてこの兼家の息子ら四兄弟が今後権力を独占することになるのです。

自分が不遇だったこともあり兼家は露骨に自分の息子達を出世させました。

一番スピード出世したのは四男の道長。

この時21歳でしたが従五位にも入っていませんでしが。

ですが一気に従三位となり翌年には権中納言に。23歳で権中納言というのは記録的な出世!

兼家は4年間摂政を務めたけど62歳となり病気がちになってきたので長男の道隆に摂政を譲りました。

長男道隆には伊周(これちか)隆家(たかいえ)などの息子の他に定子(ていし)という娘もいました。

道隆も兼家と同じように自分の子をドンドン出世させました。

伊周は19歳で権大納言となるという叔父の道長を超える新記録達成!

さらに続く!藤原ドロドロの身内争い
あの手この手を使い、念願の摂政になった兼家。

それを手伝った親孝行(?)の息子達が今度はバトルを繰り広げます。

990年に兼家が死去。摂政は長男道隆継いだものの不満を持ってるヤツがいました。
無断転写禁止だよ!
花山天皇を引き摺り下ろした一番の功労者は次男の道兼。

道兼は、自分がおとーさんの後を継いで摂政になれると思っていました。

が、兄貴だってんで長男の道隆が摂政に就任。

道兼は、不満タラタラで兄の道隆を憎むように・・・。兼通&兼家ブラザーズがやってたのと同じコトをやろーとしてるワケです。

が、この頃伝染病が大流行。兄の道隆が死んでしまいました!道兼大喜び!

さっそく道隆の後をついで関白になったのです。

が、念願の関白になれたっていうのに、すでに伝染病にかかってて就任後7日で死んじゃった。お気の毒。

道兼が関白になったのが7日間なのでのちに「七日関白」と呼ばれるように。

この時、伝染病によって権力者が次々と死んでいく。

こんなにお偉いさんがバタバタ死ぬのは、藤原4兄弟が長屋王のタタリ?と言われたとき以来。

無断転写禁止だよ!
陰陽師 安陪清明&蘆屋道満
この頃、病気でバタバタ死んでたのは「タタリ」とか「呪い」とかと言われていました。

それを鎮める陰陽師というのがいて、代表的なのは安陪清明&蘆屋道満

清明は921年〜1005年まで生きてたという。朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条に仕えたらしい。

清明は当時の関白藤原道真(↓に出てくるよ)と仲良し。

対するライバル蘆屋道満(あしやどうまん)は道長の政敵藤原顕光と仲良しだった。

このため自然に2人はライバルに。

藤原顕光に呪詛をするよう依頼された道満は、それを清明に見破られたため薩摩に流されたと言われている。

悪役として名高い道満だけど、当時清明に匹敵する実力を持ってた陰陽師だからかも。
平安時代の超★有名人藤原道長
話を戻して、この時運良く病気になんなかった人が次の権力者候補に。

残ったのは道隆・道兼の弟の四男 藤原道長(ふじわらのみちなが)そして長男道隆の息子の伊周(これちか)。

ここに2人のバトルが始まるのです。

位からいえば伊周のほうが上なんだけど、天皇との外戚関係からすると道長は天皇の叔父さんになるので道長のほうが上。

だけど伊周も負けちゃぁいない。

伊周と隆家の妹に藤原定子(ていし)という女性がいた。

定子は一条天皇の奥さんになり、結構ラブラブ状態に。

一条天皇は愛する定子のお兄ちゃんってことで、個人的には伊周をかなり贔屓してた。

対する道長が頼りにしてたのは、一条天皇の母で道長の姉である「詮子(兼家の娘)」
無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
ここで一条天皇は道長と伊周のどっちを自分の補佐役にするか悩むことに。

2人仲良くやりゃいいじゃん!とはいかなかった。道長と伊周はめちゃくちゃ仲が悪かったのです。

詮子は道長を強力にプッシュ!一条天皇はおかーさんには逆らえず道長を選んだのです。

いつの時代も母親には敵わない(^^;)

とりあえず摂関にさせずに「内覧(ないらん)」という役職に。

内覧ってのは、摂関がいない時の実力NO1の役職で天皇の補佐役。

そして翌年道長は右大臣となり公卿トップとなったのです。

伊周らは道長が出世してきたのがおもしろくなかった。皆の前で道長と大ゲンカしてヒンシュクを買うなどしまくった。

おもしろくないので伊周は女の所に通いつめるように。
女性で身を滅ぼしちゃった伊周
伊周はお気に入りの女性がいた。
無断転写禁止だよ!
で、その女性のトコに通ってたんだけどそこに坊さんになった花山天皇が、自分のお気に入りの女性の家に入ってくのを目撃。

伊周は、花山が自分の女を盗った!と激怒。

弟の隆家に頼んで、花山がまたやってきた時に矢を打ち込ませた。

これにより花山のお供が2人死んでしまい花山めちゃくちゃ怒った。

というのも、花山が通ってたのは伊周が好きな女性ではなく、その女性の妹だったのです。

さらに詮子が病気になったんだけど、これが伊周の呪詛によるものだ!とまでなってしまい、この一連の事件が一条天皇の耳に入り、伊周&隆家は左遷されてしまったのです。

伊周が勝手にボロ出してくれたので、道長はラッキー♪ライバルがいなくなり独走態勢に入るのです。
悲劇の皇后 藤原定子
定子が明るくウィットに富んだ女性で、後宮の華となっていた。
無断転写禁止だよ!
一条天皇も定子をとっても好きだったので、姑である詮子としては、おもしろくなかった。

が、兄の不祥事によって定子は危うくなりはじめる。

定子はこの時尼となり出家するが、一条天皇の熱烈な要望により再度入内。

道長はというと焦っていることがありました。

まだ自分が外戚の立場となっていないのです。左大臣にもなり公卿トップとなりながらも、外戚の地位にならなければいずれ権力は他の人のものに。

さらに伊周の妹 定子はすでに一条天皇の初めての皇女を産んでいる。

そして道長は自分の娘「彰子(しょうし)」が12歳になったとたん一条天皇の奥さんにと送り込んだ。

一条天皇と愛し合ってた定子はショック。

でもちょうどこの頃、定子は第一皇子敦安親王を産んだのです。

もー道長焦る焦る。せっかく彰子を奥さんに送り込んだのに定子が皇子を産んじゃったもんだから、もし敦子安親王が皇太子になっちゃったら外戚の地位が吹っ飛んでしまうのです。

そこで道長が打った手はわが娘彰子の「立后」だったのです。

ですがその座にはすでに定子がいたのでした。

道長考え抜いてやっちゃいました!定子が「皇后」で、彰子は「中宮」どちらも「第一夫人」の意味がある!というレベルにまで彰子を持っていったのです。

帝には皇后は1人と決まってるのに強引に「一帝二后」とさせたのでありました。

後宮では火花バチバチ!?
そして道長は定子より彰子のいる後宮をよりよいモノにしようといい女房をがんがんスカウト。

その中に紫式部や赤染衛門・伊勢大輔・和泉式部がいます。ちなみに、定子の女房は清少納言。
無断転写禁止だよ!
彰子がやってきたのは13歳の時。この時定子は24歳でした。
無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
よくこの2人はライバルと言われてますが、年が離れてるため憎みあうことはなかったようです。

が、この2人を取り巻く人々はあまり仲良くなかった。

定子はというと、立場も弱く名ばかりの皇后となり、道長のチェックも厳しく一条天皇と会うことさえもなかなか出来なくなってきていた。

それでもなんとか愛し合う2人は人の目を盗んで会っていたらしい。

が、1000年の12月16日二人目の子を出産後体調を崩し定子は死去した。

一条天皇の嘆き悲しみはすごかったらしい。

が、時の実力者道長の娘彰子にも気を遣わなければならなかった。

定子がどんな目にあって誇り高く生きていたその生き様は清少納言が「枕草子」に書き綴っています。

定子派 インテリ清少納言
定子おつきの清少納言。枕草子で超有名であります。

定子と彰子がライバル関係にあったのはほんの1年程度なので、清少納言と紫式部は実際には一度も会ったことがないらしい。

清少納言というのは本名じゃないです。この頃の女性はほんとのお偉いさんしか名前がなかったのです。

「清原さん」の娘なので清少納言と呼ばれるように。

964年ごろ清原元輔の次女として生まれました。そして橘則光という男性と結婚するんだけど離婚しちゃいました。

離婚後、どうしようかな・・・って時に定子に仕えるようになるのです。

で、定子のおとーさんの道隆が死に、兄さんも左遷されちゃって嘆き悲しむ定子を支えたのです。

が1000年に定子までも死んじゃったので、翌年宮中を出ることになったのでした。

晩年は落ちぶれてしまい食べるものにも困るという寂しい生活を過ごしたそうです。

さてさて清少納言の得意技はウィットに富んだ定子との会話であります。

いかに気の利いたセリフをはくかに命がけ(?)でした。

「枕草子」にはそういったちょっとエラソーなとこがあり、紫式部がむかついていたのです。
無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
彰子派 うぬぼれ屋さん紫式部
清少納言のライバル 紫式部。こちらはイイトコにお勤めできてラッキーでしたねー。

何といっても今をトキメク道長のとこですからねー。
無断転写禁止だよ!
紫式部は藤原為時の娘。970年ごろ中流家庭で生まれました。
無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
同じくらいの階級の男と結婚して一人娘を産むんだけど、このダンナが浮気者で他の女のとこにせっせかと通います。

そんなダンナでしたが1001年にあっけなく死んじゃったのです。

この頃紫式部は寂しくなっちゃって源氏物語を書き始めたといわれています。

その後学があるからということで彰子の家庭教師に選ばれたのです。

そして超有名な「源氏物語」と「紫式部日記」を本格的に書くんですが、この紫式部日記の中に清少納言の悪口を思いっきり書いちゃってます。

「清少納言くらい高慢チキな女はいないわ!利口ぶっちゃって漢文を書きまくってるけどよくよく見れば全然未熟なのよね。こんな女ろくな目にあわないわよ」って感じです。
無断転写禁止だよ!
そして自分のことはというと
「あたしは小さい時兄が漢文を読んでる時、傍にいただけで覚えちゃったわ。兄よりもすらすらと読めることができたので父が男の子じゃなくってホント残念だ!といつも言ってたのよね」と自慢タラタラ。
無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
しかも「そんな私でさえもが字を書けないフリをして、屏風に書いてある文字も読めないフリをしてるってのに、清少納言ったら・・・」と、もー清少納言クソミソ。

この2人会ったことないと言われていますが、多分後から宮に入った紫式部が才女として有名だった清少納言の褒め言葉をいろんな人から聞いたため、同じく才女の紫式部はプライドが許さなかったのでしょう(^^;)

そしてその日記には道長との交渉も書いてあります。

道長は「源氏物語」のモデルになったと言われている時の人。そんな道長とのやりとりはというと・・・

「ある日道長様ったらアタシが書いた源氏物語を見て「こんな物語を書くあなたはそうとう遊んでいるんだろう?あなたのことを素通りしていく男性はいないんじゃないの?」ですって!でもアタシは「そんなことはなくてよ・・・」と返歌したの。そしたらその日の晩夜中にあたしの寝てる部屋の戸を叩く音がしたのよ!怖くなってじっとしちゃったわ。翌朝道長様ったら「夜中ずっと戸を叩いたのに開けてくれなかったね。ひどいよ」っていう歌を送ってきたのよ。アタシは「どうせちょっとした気持ちでいらしたんでしょ?開けたらかえって後悔しますわよ」という返歌を送ったの。どう?しゃれた大人の会話でしょ?」

という感じであります。この頃とりあえず一度断るのがエチケットであります。

男の方は本気なら二度三度と夜中にやってくるのですが、道長がやってきたのは一度っきり。

なのでホントに気まぐれでやってきたらしい。

だけどイソイソと嬉しいそうに日記にまで書いちゃってる紫式部。よっぽど嬉しかったのでしょう。

1013年ごろ一度道長とケンカをして彰子のもとを去っていきますが1018年に彰子の妹が皇后に立つということになり、人手が足りなくなって復帰するのです。

死んだのは1020年ごろと言われています。
無断転写禁止だよ!
1011年 67代 三条天皇
定子と一条天皇には一男一女がいました。

第一皇子となる敦康親王は、彰子が皇子を生めなかった場合のスペアとして彰子の養子に。

が、彰子は敦康をとても可愛がった。

定子が命と引き換えに産んだ女の子も引き取ったが1008年に死んだ。

彰子と一条の間には敦成親王、敦良親王が産まれた。道長は大喜び。

が、二人目の敦良親王が生まれてすぐに一条天皇は32歳で病死。

次の天皇は一条のイトコに。

これが1011年 67代 三条天皇36歳でした。

三条天皇は冷泉天皇の皇子で母は道長の姉の超子。

はっきりいって三条天皇と道長は性格的に合わなかった。

即位の時すでに36歳なので「オレは天皇になったらオレの好きなようにやる!」とアピールしまくっていたのです。

道長は幼い敦成親王を皇太子にして、さっさと三条天皇にやめてもらいたかった。

三条天皇が即位と同時に敦成親王を皇太子にしちゃったんだけど、これが三条天皇を刺激して「オレに早くやめてもらいたいんじゃないの?」と反藤原感情を高めたのです。

無断転写禁止だよ!
道長 三条天皇イジメスタート 立后問題起きる
しょっぱなに起きた事件は三条天皇の皇后を誰にするか?ってことでした。

候補は道長の次女 研子(けんし)と死んじゃった元大納言のセイシ。

この時すでにセイシには子供が6人もいて研子は一人も子供を産んでおらず立場上セイシの方が有利でした。

ところが1012年に発表された皇后偉い順番は

1位 中宮彰子 皇太后になりました 2位研子 (中宮)3位セイシというものでした。

三条天皇はセイシがお気に入りだったので、このランキングに腹を立てなんと強引にセイシを皇后にしたのです。(中宮と同じ立場で第一夫人)またも一帝二后ということに。

道長は勝手なことしやがって!と腹を立て妨害しまくり。

セイシの立后パーティには公卿三人しか出席しないという寂しい有様。

みんな道長が怖くって行かなかったのです。
無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
道長と三条天皇の仲は最悪なものとなりました。

1014年 三条天皇 眼がかすんじゃった
この年の正月ハレー彗星が出たらしく人々はビビりまくり。

さらに2月には内裏が火事になるという事件が。

そしてさらに!三条天皇が眼病となり左目がかすみ片方の耳が聞こえなくなっちゃったのです。

コレ幸いと道長。三条天皇の病気を理由に退位を迫りまくった。

三条の病気はよくなる気配がまったくなく、政務も滞り気味に。

そんな時「天皇があまり政治をやんないからこんなに災害が起きるんだ。災害は天皇の不徳からきているのであーる」という噂が流れちゃったのです。

もはや三条天皇には逆らう力は残っていませんでした。病気&精神的イジメによってとうとう退位を決めるのです。

退位の条件として次の皇太子にはセイシ皇后との第一皇子である敦明親王を立てることを約束させて、とうとう譲位したのです。

そしてこの気の毒な天皇は譲位した翌年 42歳で死んでしまいました。
藤原始まって以来の大ブレイク!
そして1016年 68代後一条天皇が即位。

9歳のちびっこで、道長は摂政になった。孫が天皇になってくれて道長大ブレイク!

摂政となった道長は、2年後息子の頼通に摂政の職を譲った。

道長は自分の権力が浸透しているうちに自分の息子に摂政を譲ったことで道長一家の世襲であるかのようにアピールしたのです。

道長の次なる邪魔者は三条の息子で皇太子となった敦光親王。

敦光親王はというと、後ろ盾の三条天皇が死んじゃったので「次はオレが道長にイジメ殺されるかも・・・」ともうドッキドキ。

イジメが始まる前に自分から辞めた方がいいかも・・・と、皇太子の座を降りたのです。

そして新皇太子には道長の娘 彰子の産んだ敦良親王がなったのです。
無断転写禁止だよ!
もう道長怖いものナシ!!!今の天皇も皇太子も自分の孫になったのです。

藤原氏最盛期 心は満月の道長

天皇&皇太子はまだちびっこなので奥さんが決まってませんでした。

そこで道長は後一条天皇に自分の娘 威子(いし)を送り込むことを考え始めました。

後一条天皇は11歳。威子はこの時20歳でしたが、無理やり結婚させちゃいました。

さらに!彰子・研子に続いて威子までをも立后させちゃったのです。

一家三后と呼ばれるのですが、対抗勢力もいなかったためすんなりと立后しました。

これにて天皇・皇太子は孫。前天皇の三条天皇の奥さんは娘の研子。前々天皇の一条天皇の奥さんは彰子。

摂政は息子・・・。そして締めくくりは後一条天皇(孫)に威子を送り込み3代続けて天皇の奥さんに自分の娘を送り込んだ。

一家三后をやり遂げたのです。

天皇家を全て自分の身内で固めた道長。

もう大満足で自宅でパーティを開きました。その時ノリノリでこんな歌を詠んだのです。

この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたる事もなしと思へば

これは「この世はわし中心に回ってるぜ!あの満月が全然欠けてないのと同じでワシの心は満ちたりまくってるぜ!」というもの。

心は満月の道長。藤原氏最高潮の時代でその勢いは誰も止めることはできませんでした。
無断転写禁止だよ!
源頼光と頼光四天王

このころの貴族で有名なのが清和源氏満仲の子 頼光。

藤原道長に近づき「従四位」まで出世した人であります。

あの坂田金時(金太郎)を含める4人の家臣は「頼光四天王」と呼ばれています。といっても、8割は創作のお話。

酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の伝説で有名です。

機会があれば今度詳しく調べようかなーと思ってる一人です。

1019年 刀伊の入寇(といのにゅうこう)

道長は頼通に摂政を譲った3年後、出家しました。

というのも、道長には悩みがあったのです。

この頃、「浄土信仰」といって「阿弥陀」という仏を拝んだら極楽に行けますよーというもの。道長は自分が極楽に行けるかな?と心配して出家したのでした。

頼通が摂政をやってる時、九州の対馬にいきなり中国の方から「真女族(じょしんぞく)」ってのがやってきて、村人を襲って拉致したりしてきました。
無断転写禁止だよ!
この民族は「金」という国を建国しためちゃくちゃ強い民族。

で、とうとう真女族は北九州にまでやってきて、当時大宰府のにいた藤原隆家らは死に物狂いで戦い、とうとう追い払ったのです。

この藤原隆家は定子の弟で、花山天皇嫉妬事件で兄の伊周とともに失脚した人。流れ流れて大宰府にいました。

「日本にやってきた敵をやっつけたぜ!これでオレは胸を張って都に帰ることができる!」とウキウキ。

隆家は真女族がやってきたことを、すぐ都に報告書を送りました。

で、都の方も「そりゃ大変だ!一生懸命戦ってくれたら褒美だすから頑張れや!」という手紙を送り返しました。

が、褒美付き命令書が隆家い届いた頃には、すでに戦いは終わっていたのです。

隆家とともにボランティアで戦った地方武士らは、褒美はなんだろうね♪とワクワクしてたんだけど、都の役人は「褒美やるからねーという手紙が届く前に戦いが終わってたってことは、たいした戦いじゃなかったんでしょ?だからこの命令書は無効です。ご褒美なナシでーす」と言って来たのです。

で、褒美は何も貰えず隆家なんかは、褒美どころか「最初都に送った報告書が間違ってたんじゃないの?」と怒られたりと踏んだりけったり。

この腹の立つ処置をきっかけに地方武士は不満が溜まりだしました。

道長が阿弥陀にはまってる間に起きたこの「刀伊の入寇」

そしてのほほんと都で暮らす頼通。

この不満はあちこちに飛び火したのであります。
無断転写禁止だよ! ハガクレ★カフェより