明治時代 「カチューシャの唄」で空前の大ヒットを飛ばした日本の新劇女優松井須磨子
そして相手は演出家 島村抱月
この二人の愛の形を紹介していきましょう
まず抱月は島根県で貧乏時代をすごし、東京へ出てきました
優秀だったため東京専門学校(今の早稲田大学)へ入ることができ、優秀な成績で卒業
そこを検事の島村文耕に見込まれ、養子縁組となりました
須磨子は長野生まれ
結婚するが一年で離婚。その後も結婚しておりました
さて、島崎抱月はというと苦学の末に様々なことを勉強しており、文化活動の一つとして「文芸協会」を立案
そして演劇研究所をつくることになりました
明治42年 その研究所で初の試験が行われ、男女14人が合格
そこに当時23歳離婚歴あり、そして現在も夫のいる大柄な美人松井須磨子がいたのです
須磨子は演劇にのめりこみました
一切家事をせず、身も心も演劇に打ち込み、とうとう夫から離婚されてしまいました
ここまで演劇にのめりこむ須磨子をみて抱月は唖然
が、だんだんと須磨子に魅かれていったのです
そして須磨子は「オフィーリア」のノラ役を演じましたがこれが大ブレイクのきっかけに
舞台で大胆な抱擁やキスシーンを演じ(当時はすごいことだった)
「淫らな女」と悪評をつけられながらも、それと同時に須磨子はスターダムへとのしあがっていったのです
この頃から、41歳の抱月と26歳の新劇女優須磨子との間に愛が芽生え始めたのです
さてさて、当時抱月は大学教授をしていました
二人の愛はナイショだったんですが、やはりバレてしまい、学生が黒板にこんなラクガキを
「月を抱いたは昔のことよ 今は須磨子の腰を抱く」
これが大問題に!
抱月の師である坪内逍遥はなんとか二人を別れさせようとしますが、逆に火に油をそそいだ感じになってしまいました
もはや二人をとめることは誰にもできなかったのであります
大正二年 ついに抱月は大学教授を辞職、須磨子も新劇を退会ということになってしまいました
抱月は妻子を捨て、恩人を裏切り、須磨子との愛を選んだのです
が、二人を慕う劇作家や若手文学者・俳優などもいて、二人の後を追ってきました
こうして新たに演劇をすることができたのです
そして大正三年 トルストイ原作・抱月脚色の「復活」という舞台で、須磨子が歌った「カチューシャの唄」が大ヒットすることに
まさに二人の絶頂期となりました
が・・・・
大正七年十月 スペイン風邪が流行し、須磨子がかかってしまいました
抱月は須磨子を看病しましたが、抱月もうつってしまったのです
須磨子の容態は回復し、稽古に行くことに
すると須磨子が出かけた後に抱月の容態が急変し、誰も看取る人がいないまま急死してしまったのです
須磨子が稽古から戻ってくると、抱月はすでに息絶えていたのでした
須磨子は、そのとき稽古していた舞台を見事演じました
そして、舞台「カルメン」を終えた後、芸術座の物置で自らの命を絶ったのです
まだ32歳でした
須磨子の遺書には「抱月と同じ墓に入れてください」とありました
が、願いは聞き取られず、別々の場所で今も眠っているのでした
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