明治・大正時代の性愛と風俗 |
教科書が教えない性と愛がらみの出来事アレコレ
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立小便禁止令が出る |
ニッポンに文明開化が花開きました
ニッポンにやってきた外国人にとって恥かしい行動が「立小便」
政府もちょっと恥かしいことかもしんない・・・ってことで、横浜にて立小便禁止のお触れがでたのであります
今後立小便をした人には、厳しい処罰を設けるというもの
ということで、男性は立小便が出来なくなってきたのでした
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ニッポン全国 ザンギリ頭騒動 |
文明開化のシンボルといえば「ザンギリ頭」
「ザンギリ頭をたたいてみれば 文明開化の音がする」とまで歌われたほどであります
とゆーことで、今までのチョンマゲをやめて、みーんな西洋風の頭にカットすることに
が、江戸っ子達は罪人の髪型に似てるってことで、てんてこまい
次第にザンギリ頭は定着していきますが、地方ではいまだザンギリ頭を受け付けない女性が多くいました
婿をもらうはずだった妻が「どーしてもその頭は気に入らない!!」となって離婚訴訟を起こしたり
皆があまりにもザンギリ頭にとまどっていたので、政府は断髪令を出すことに
「絶対髪の毛を切りなさい」っていう命令であります
ところが今度は女性達が、私たちもすっきりしたいし〜♪ってことで、髪の毛を切りはじめた
焦った政府は「女性はダメ」と再度命令を出したのでした
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娼婦に梅毒検査を実施 |
1871年に不潔な生活を送ってきた遊女に梅毒検査をする!!ということになりました
東京に梅毒院という病院が設立され、遊女たちはそこに行かされる事に
病院内にはイスが置かれ、そこにちょこっと穴がある
そのイスに遊女を座らせ、お医者さんがしたからのぞく仕組み
で、機械を用いて押し広げ検査するというもの
が!!今までそんな検査したことない遊女達は大騒ぎ!!
どうしても検査するなら遊女をやめる!!という女性が続出
さらにこんな噂が
「子宮から真珠をとるみたいよ!そして真珠をとられた女性は死ぬらしいよ」
ということで、診察拒否者が続出したのでした
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処女は樺太へ行かされる?? |
日本が富国強兵に突き進んでいる頃、とんでもない噂が乱れ飛びました
それが「男は徴兵されるけど、女の処女は樺太に送られる」とういもの
女性達はビックリして、急いで結婚する人が続出したのでした
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生き血を採られるーーーー!!日本中パニック |
徴兵令の文章の中に、このような文字がありました
「天地の間に一つとして税のないものはない。人たるもの心を尽くして国に報いなければならない。西洋人はこれを血税という。つまり生き血をもって国に報いるということである」
これがとんでもないことに!!
「おい!!今度の政治は生き血をとるらしいぞ!!」となり、各地で民衆の暴動や一揆が広がったのでした
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全財産を払ってでも人妻が欲しい!! |
越後に医者の加藤さん(39歳)と妻のおじん・そして3人の子供が住んでいました
ある日加藤が隣村の佐藤さんの家に往診に行きました
そこに妻のおよしがおりました
加藤さん、なんとおよしにヒトメボレしてしまったのです
それからいっつもおよしのことばかりを考えるように
そしてとうとうおよしのダンナさんに「私の全財産を渡すから、およしを譲ってください」とお願い
佐藤さんは借金があったので、全財産くれるなら借金帳消しに出来るな・・・と考え、およしを譲ったのです
さらに、加藤さんはおまけとして妻のおじんも佐藤さんに譲っちゃいました
すごい話ですねぇ
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横浜に女ヤンキーが集結!? |
1909年ごろ、横浜にワケあり女性が集結するという出来事がありました
どうやら売春婦あがりや、堕落した生活をしていた女性がクチコミで集まってきたようです
彼女達はあたりかまわずケンカを吹っかけ、ゆすりやたかりをしまくり
とうとう警察も取締りに動くことになり、多くの女性が捕まったのでした
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子供の身売りが急増 |
大正二年のこと。
青森や北海道などの東北地方でものすごい凶作になってしまいました
みんな食べるものがなく、それに目をつけた東京のワルい人たちがやってきました
言葉巧みに誘い「親御さんたちも大変なんだよ。君が働いて助けてあげないと」と言い、東京へ連れて行きました
その後、女工になるのはいい方で、売春婦にされる少女も多数いました
そればかりではなく、満州や朝鮮に売り飛ばされる子供も続出したのです
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日本初のヌード写真 |
幕末から明治は、外国人が多くやってきました
そして日本女性のヌードをカメラに撮ってましたが、モデルのほとんどは遊女たち
それに払拭され、日本でも「春窓情史」という本が出ました
そこには、イスの上に座った女性をカメラ撮影している図があり、これが日本初のヌード写真撮影となったのでした
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女性の裸体絵はダメ!! |
明治20年ごろになると「女性の裸は芸術だ」という認識が出てきました
洋画家の黒田清輝はガンガンと裸体を描き、とうとう博覧会に提出することに
その中の一枚である「朝粧」が、風俗壊乱だ!と大騒ぎになっちゃいました
主催者側は、仕方ないので黒のバタフライで、絵の一部を隠すことになったのでした
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日本にもヌードモデル登場 |
明治時代はヌードモデルを探すのに一苦労
そんな中で頑張ってた(?)のが、東京でたった一軒あるモデル問屋・宮崎キクという女性
町を歩きながら「あの女だ!」と狙いを定め、家まで尾行し口説きまくり
ほとんど断られたんだけど、一日一時間で、3円という破格のアルバイト代に魅かれ、たまーーにOKする女性がいた
で、その女性は美術学校へ連れられ、裸になってモデル台へ
が、大勢の前で裸になるのが恥かしいので、なかなか脱がない&ポーズをとらない
美術学校側も、モデルのご機嫌を一生懸命とりつつナントカ裸にさせてたのでした
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