性と愛の日本史



         



男色アレコレ

男色がらみの雑学を紹介
戦国時代の美少年は戦術にも使われていた

戦いに明け暮れている戦国時代は、美少年も重要な戦術のコマとなります
なんといっても美少年は戦の時のセックス相手にもなるし、美少年がダイスキな武将もわんさかいるし

神保家でも評判の美少年の美貌を武器に、上杉謙信を暗殺しようとしたりと、美少年を使っての暗殺も多く計画されておりました

義兄弟という絆

武士の時代になると、頻繁に出てくるのが「義兄弟」

義兄弟の契りというのは、ただ単なる性的関係のみの間柄じゃなく、特別なものでした
「兄分」「弟分」があり、「生死を共にする」仲なのであります
女性と恋愛するのとは全く別物で、義兄弟の契りというのは、絶対に裏切ってはいけないとういものなのです

また「兄分」は、「弟分」の庇護者でもあり教育者でもあります
武士の社会では、弟分が兄分の承諾なしに勝手なことをすると、流血事件にまで発展してしまうほど

このような固い絆は多くの刃傷事件を起こし、藩のお偉いさんたちは男色を非難するようになってくるのです

なぜ薩摩藩に男色家が多いのか??

薩摩藩は四人に一人が武士という藩でした
青年にはきちんとした組織があり、「郷」というチームによって編成されておりました

6歳から15歳までの元服前の少年を「稚児(ちご)」と呼び、中でも10歳までの少年を「小稚児(こちご)」、11歳以上を「長稚児(おせちご)」と分けていました

そして元服後の14歳〜15歳くらいまでの青年達を「二才(にせ)」と言いました

この「稚児」と「二才」の関係はものすごく親密で、二才は稚児に理想的な人間形成をするために色々と教育をします
この時に、男色が悪いことではない時代だったので、必然的に男色へと発展するわけであります

このように、少年時代から培ってきた薩摩風男色ですが、江戸幕府崩壊により薩摩藩の若者の多くが東京へ集まってきました
そのため、明治初期は男色がとても流行したのです

冷ややかな目の朝鮮通信使

江戸時代結城のこと、「シン・ユハン」を代表とした朝鮮通信使一行が日本へやってきました
この時に書いた「日本見聞雑録」によると

女性はきれい!肌がきめ細かい。ケド、恥かしげもなく年少の男子の頭を撫でたりしてる。女性だけじゃなくて男性も。さらにビックリなのは同性で婚姻してるカップルがいる。信じられない!!
それに、男女一緒にお風呂に入ってる!!
まだビックリすることがある!それは男娼が華やかなこと!!
女性よりも色っぽくって、男性を惑わす!みんな男娼の気を引くために財産を使いまくってる
美少年には主がいて、気安く話しかけたら怒られる
日本の風俗は奇怪すぎる!!

ちなみに・・・・これらの言葉に対して応接していた担当者は「フフフ。あなた方は男色の楽しさを知らないからそういうのですよ」と笑ったらしい

出世するのに「容姿」はめちゃくちゃ大事だった

江戸時代は戦もなく平和になってきたので、強い武将より「見栄えのいい武将」の方がチヤホヤされました

男色もバリバリだったので、お殿様たちはいかに「美男子」を引き連れて歩くかがポイントだったのであります
みんな必死で高い金を払ってでも見栄えのいい男を捜しまくってました
が、せっかく見つけたいい男も、もっとランクが上の大名なんがに目をつけられちゃうと、ヘッドハンティングされちゃうのであります

江戸時代は「渡り小姓」がいた

旗本クラスになると、だいたい小姓がいました
で、見栄のためになるべく綺麗で皆が羨ましがる小姓を側においておくのがスティタス

でも、美少年すぎるともっとお金持ちの人にスカウトされちゃうので、よっぽどの大身じゃなければ皆が飛びつきたくなるような小姓を持つことはできませんでした

そこで出てきたのが「渡り小姓」という商売
とにかく見ためのいい子を抱え、必要な時だけ貸し出すというもの
貧乏旗本なんかは、イベントの時だけ借りていたのでした

美少年にもてるための条件

江戸時代、どうやったら美少年にモテモテになるか!?という本が出ました

条件その1 大名であること
大名の寵童になったらいい暮らしができるので、大人気

条件その2 かっこいい人
とりあえず顔は大事ですからね〜

条件その3 いっつもプレゼントをくれる人
やはり気前のいい人は人気があるようです

ちなみに嫌いなタイプはというと
年寄り・なよなよした人・一文無し・意見ばっかする人・あそこがでかい人













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