事件は昭和11年5月18日に起きました
翌日の新聞には一大猟奇事件として様々な見出しが
「グロ犯罪・年増美人の猟奇的殺人」
「滴る血液で記す(定・吉二人)」
「怪奇な愛欲図絵」
「魔性の化身」
「昭和の妖婦」
「昭和の高橋お伝」
このような見出しが一面を飾りました
その事件はズバリ 32歳の阿部定という女性が石田吉蔵という42歳の男性を殺害し、その後男性のシンボルを斬りおとして、太ももに血で「定・吉二人キリ」と書いたのです
捕らえられた定は、こう言いました
「愛するあまりに殺したの。好きで好きでたまらないのよ」
さて、定はこれまでどんな人生を送って生きてきたのでしょう
明治38年 東京神田の畳職人の末っ子として生まれた定
子供の頃から素行が悪く、両親は定が17歳の時に横浜の置屋に芸者として売ってしまいました
娼妓となった定は、20歳で大阪の遊郭へ行き、その後名古屋・信州など点々とする日々を送りました
定が相手をした男性は数え切れないほどの人数で、あるときはコールガールになったり、またある時は政治家の妾になったりと、とにかく「女」を武器に生き抜いていたのです
そんな定でしたが、年齢を重ねていくうちに今までのように性を売り物にするのは難しくなってきました
32歳の定は吉田屋という旅館に女中奉公することにしたのです
そしてこの吉田屋の主人・石田吉蔵と恋に落ちるのです
吉蔵は定が出会った男性の中で一番心優しい男性でした
情事の後もずっと体をさすってくれたり
ちょっと変態的な行為をありますが、その辺は書くのはやめときます
定も吉蔵もお互い夢中で愛欲の限りを尽くしました
定にとって吉蔵は、売春ではない、対等な男女の関係だったのです
そして吉蔵は仕事を捨て、定と待合(現代でいうラブホみたいなもの)を点々とする生活に
二人は愛欲・情痴の限りを尽くしました
次第に定は「この人は正妻とも関係を持つだろう。私はこの人を私だけのものにしたい」と思うのでした
さてさて、実は吉蔵はちょっとMでした
行為中に首を絞められ、窒息寸前になることでさらに性感が高くなるという性癖がありました
そして5月18日
東京都荒川区にある待合「満佐喜」で事件が起きたのです
この日も食事もろくにとらず、情痴の限りを尽くしていた二人
そして行為の最中に、いつものように定は吉蔵の首に紐を巻きつけ、吉蔵の首を思いっきり絞めつけました
が、強く絞めすぎでしまい、吉蔵が窒息死してしまったのです
普通なら慌てふためいて、パニック状態になるところですが、
この時、定は「吉蔵を誰にもさわらせたくない。永遠に私のものにしたい」
そして吉蔵の男性のシンボルを包丁で切り取り、太ももや敷布団に「定・吉二人キリ」と書いたのです
定はそのモノをハトロン紙で包み、形見として帯の間にいれ、逃げ出したのです
三日後、定は逮捕されました
調書での定は
「私がしたことは、男に惚れぬいた女なら世間によくあることです。ただ、みんなしないだけです」
と、きっぱり述べました
そして「私は彼を愛していました。彼の全てが欲しかったのです。彼が死ねば他の女性が彼を触ることはできない」
そして、斬りおとした件については「私は彼の体と一緒にいたかったのです。いつも彼の側にいるためにそれを持っていたかったのです・・・」
裁判の結果、懲役6年となりました
昭和41年5月に、恩赦で仮出所した定
以後、都内でひっそりと暮らし、改名して結婚をしました
こうして定は、自分のことはもう世間が忘れてくれるだろう・・・と思っていました
ですが時代の流れが、定にまた脚光を浴びさせます
戦後の日本が大きく変わってきたからです
性もセックスも封印していた天皇制ファシズムの時代が終わり、アメリカ民主主義の世の中へと変わってきたからです
エロスや性の自由が声高に叫ばれる風潮の中で、再び定が取り上げられたのです
エログロナンセンスな定の本が本屋に並ぶようになり、新聞記者が定のもとに押しかけ、結婚生活が破綻してしまいました
その後、定は大阪でバーのマダムをやったり、舞台女優になったり、旅館の女中をやったりと、さすらいの生活を続けることになったのです
昭和22年に作家の坂口安吾が定と対談しました
その時の定のセリフを紹介します
「人間、ちょっとした浮気とか、ちょっとあの人いいなと思うのはあるでしょうね。だけど、好きになるのは一生に一人じゃないかしら。一度も恋をしないで死ぬ人もたくさんいるでしょうね」
昭和46年
65歳の定は千葉県市原市のホテルで働いていました
そして6月ごろ「夏の忙しい時期には戻ります」という置手紙を残したまま、消息不明となったのです
余談ですが、吉蔵のアレは、東京医科大学に送られ、第二次世界大戦後の一般公開されていたそうです
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