人斬り浅右衛門



江戸時代、「御試御用」という人間を斬ることが役目の仕事人がいました

その名は山田浅井右衛門


戦国時代、生き試しといい、お殿様の刀の切れ味を試すために生きたまま人を斬ることが普通でした

中川左平太・山野勘十郎・鵜飼十郎右衛門など、多くの試し斬りのプロがおりました

が、次々と家は没落していき、残ったのは山田家だけとなったのです

なぜ山田家だけが残ったのか?というと


八代目将軍・吉宗は武芸を重んじ、刀の収集が趣味だったため山田浅右衛門はたびたび御試御用をしておりました

が、浅右衛門もとうとう老齢となってきたのです

すると浅右衛門は自分の息子に御試御用の役目を譲りたいと吉宗に申し出ました

吉宗はそれを許可し、山田家の「お家の芸」として将軍家御用達をすることとなったのです


こうして、数々の試し斬りを仕事とする家の中から、山田家だけが「家の芸」として存続することになりました

山田家では、「浅右衛門」という名前が代々襲名されていくこととなったのです


が、試し斬りという仕事を生業とするため、山田家には数々の噂話が残されることに

多くの罪人を斬り、その屍を切り刻むという山田家を皆忌み嫌っていたからです


有名な山田家の噂話に、「山田家は夜通し酒盛りをする」というものがあります

山田家の弟子たちは、人を斬ったあと、大変な疲れを残します

血に酔い、頭がボーっとしてしまうのです

そんな時、山田家では「大変な仕事をしてきた後」ということで、弟子たちに好きなだけ酒を飲ませてあげました

これが、曲がった噂となっていくのです


山田家では、毎晩
試し斬りした者が亡霊になって現れる

山田家はそれを恐れ、夜通し灯りをともして酒を飲み、亡霊がくる恐怖を紛らわせているのだ・・・・・と

また、山田家では首を斬った罪人の数が千人になったので「千人供養塔」を建てることにしました

が、よく数えてみると斬った罪人は999人だった

一人足りなかったため、山田浅右衛門は自分の息子の首を斬り、千人にして供養塔を建てた・・・


世間は、「人斬り」「首斬り」として山田家を冷ややかな目で見ていたのであります

さらに山田家は斬った人体から、あるものを取り出し、それを売っていました

人間の肝です

山田家には「肝蔵」があり、蔵の中には数多くの「肝」が保管されておりました

このお話は、当サイト内の「生き胆の話」をごらんください・・・・・