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        暗闇の日本史           


戦の時代「戦国」
そんな時代にも「暗闇」は潜んでいたのです・・・




謡曲「芭蕉」の呪い

血鯉

豊臣秀吉の大虐殺
朝鮮出兵


無念の斬首 殺生関白
豊臣秀次


徳川を祟る因縁の妖刀
村正


妖怪の肉を食べ損ねた
徳川家康


河童を退治した加藤清正

人肉を食べる人々

湯川一族の亡霊


松永久秀を恐怖させた
果心居士








血鯉

柴田勝家と豊臣秀吉の戦い「賤ヶ岳の合戦」

これは秀吉が勝利し、柴田勝家は北ノ庄まで逃げ、妻であるお市の方とともに自害しました

この賤ヶ岳の合戦で流されたおびただしい血が、流れ流れて余呉湖に注ぎこみ、余呉湖は一面真赤に染まったとされています

さて、それからというもの余呉湖では、背びれや胸びれなど体の一部が真赤に染まった鯉が現れるようになりました

これは賤ヶ岳の合戦で流された血のせいだろうと、人々は噂しあったのでした


謡曲「芭蕉」の呪い

謡曲「芭蕉」とは、古寺に棲む女性の妖怪変化である「芭蕉の精」を謡ったものです

そして駿府では、「芭蕉」を歌うことがタブーとされていました

駿府城の前身は今川義元の館でした

義元は桶狭間の戦いの際、「芭蕉」の一節を口ずさみ出陣しました

そして桶狭間に陣を張ると、どこからか

「よしや思えば 定めなき 世は芭蕉葉の 夢のうち・・・・」と芭蕉の謡が・・・

すると暴雨風となり、一寸先も見えないほどとなった

そこへ織田信長軍に奇襲にあい、義元は命を落としたのです



それから何年もたった頃

駿府城は二代将軍秀忠の三男である忠長がおりました

忠長は父親と、母親であるお江与に愛され、長男である家光を差し置いて次期将軍に・・・と考えられていました

が、徳川家康によって「三代目将軍は家光である」と宣下され、以降兄弟仲は悪く、両親が死んだ後、家光によって自刃に追い込まれたのです

さてこの忠長ですが、変事が起きる前駿府城で「芭蕉」の能を催していたのです

以後、「芭蕉」は駿府で歌われることはタブーとされたのでした


豊臣秀吉の大虐殺 朝鮮出兵

豊臣秀吉が行ったことで一番残虐なのは朝鮮出兵ではないでしょうか

天下統一をした秀吉は、次のターゲットに朝鮮を狙ったのです

多くの武将や兵が海を渡り朝鮮へ向かいました

そして秀吉軍は、21万人以上の人を殺戮したのです

さて、当時「恩賞の証」は首でした

首を持ち帰り、その首が誰かによって恩賞が与えられるのです

ですが朝鮮では首を持ち帰れない

ということで武将たちは「何人殺したか」を証明するために、朝鮮の人々の鼻や耳をそぎとり、それらを秀吉のもとに送ったのです

送られてきた鼻や耳は、土の中に埋められました

それが今でも京都に残っている「耳塚」なのです

ちなみに耳塚がある場所は、「方広寺」

このお寺の鐘に書いてある文字が原因で、大阪の陣が勃発し豊臣家は滅んだのです・・・



無念の斬首 殺生関白 豊臣秀次


天下人となった豊臣秀吉には跡継ぎがいなかった

子供はもう生まれないだろうと諦めた秀吉は、関白の座を甥の秀次に譲った

が、その後、側室の淀殿に秀頼という男児が誕生したのです

秀吉は秀次に関白職を譲ったことを猛烈に後悔した

そして、自分の最愛の子・秀頼を跡継ぎにしたくなったのです

秀吉は秀次に冷たくあたるようになりました

諸大名たちもその気配を察知し、潮をひくように秀次のもとを去っていったのです

秀次は自暴自棄になりました

酒を飲み、女性と遊び、そして乱暴狼藉を働くように

なんと妊婦の腹を裂いて、赤子をとりあげたりしたのです

この噂は広まり「殺生関白」という名前がつくように

そして秀吉は「秀次に謀反の意思がある」と、秀次を処刑することに

秀次は三条河原にて首を刎ねられました

そして秀次の血を根絶やしにするため、妻や子、側室を全て30人余りを処刑したのです

三条河原には、何の罪もないのに殺された人々の霊がさまよっているかもしれません・・・




妖怪の肉を食べ損ねた徳川家康


徳川家康が駿府に住んでいたころ

庭に子供がいました

が、その子供は手があるが指がなく、その手は天を指してじぃっと立っていた

驚いた家臣たちが追いかけると、そのものは逃げていってしまった

それを聞いた知識のある家臣

「なんと!!そやつは封という妖怪である。その肉を食べると武勇が優れるようになるという。なぜ捕まえて家康殿に差し出さなかった!!」といい、とても残念がったという




徳川を祟る因縁の妖刀・村正

村正は赤坂千手院鍛冶の出と言われています

この村正は、徳川の時代とても嫌われた刀なのです

因縁の始まりは家康の祖父・松平清康の時

清康は、家臣の阿部弥七郎正豊に斬られ命を落としてしまいます

このときの刀が「村正」

そして家康の父・広忠

こちらも家臣の岩松八弥に斬られてしまいます・・・(病気説もありますが)

このときの刀も「村正」

そして家康の長男・信康

優秀なため、家康はとても信康に期待しておりました

ところが、信康の母・築山殿と、信康の妻・徳姫(織田信長の娘)が仲が悪く、徳姫は父の信長に「夫は武田と内通している」という密告をしてしまいます

そして信康と築山殿は信長の命令によって切腹となるのです

このとき使われた刀も村正だったのでした

家康は「村正」を忌み嫌い、遠ざけたといいます



幕末になり徳川を倒すために立ち上がる志士たちが出てきました

彼らは徳川が忌み嫌った「村正」を好んで愛用したのでした





人肉を食べる人々


死肉を食う・・・

戦国時代は特に死肉を食らう時代でした

1581年 豊臣秀吉が織田信長に命じられて鳥取城を兵糧攻めした時のこと

城の中では食べるものがどんどんなくなっていった

兵糧を食べつくしてしまうと、生えている草木や、木の皮を食べた

そうしたものも食べつくしてしまうと、次は牛や馬を食べていった

しかし、やがて馬や牛もなくなっていく

食べるものが一切なくなった鳥取城では、とうとうやせ衰えた人間を食べるように

まだ息がある中、刃物で肉を切り取り争うように人肉を食べた

赤子を抱いた母親は、赤子が死んでしまうと、そっと後ろに隠した

もちろん、食べるためである・・・・

こうして鳥取城は秀吉に降伏するまで、人の肉を食い続けたのである・・・・・




河童を退治した加藤清正


清正が肥後の領主になった頃、肥後の河川には多くの河童が住んでいました

その数九千匹にもなり、「九千坊(きゅうせんぼう)」を族長とし、田畑を荒らし、女性を襲ったりと、
悪行ばかり

とうとう加藤清正は激怒し、僧を集めて河童を退治することに

川上から毒を流したり、焼けた石を川に投げたり

特に効果があったのは、河童の天敵である猿を集めたこと

九千坊はこれには参ってしまい、隣の国である有馬家の領地である筑後川に住み着き、以後は大人しくしていたそうです



松永久秀を恐怖させた果心居士


戦国時代、果心居士(かしんこじ)という妖術や幻術を使う人がいました

果心居士は織田信長や明智光秀など、さまざまな武将たちを翻弄しました

戦国時代の梟雄と恐れられた松永久秀もその一人であります

ある夜、松永久秀が果心居士に「わしは今までに一度も恐ろしい思いをしたことがない。どうじゃ、わしを恐れさせてみろ」と言いました

果心居士は「では、家臣たちを遠ざけ、灯りを消してください」

松永久秀は言うとおりにし、月明かりのもと二人っきりに

そして果心居士が何かをブツブツ言い出しました

すると庭のほうになにやら人影が・・・・

よく見ると、髪の毛をたらしたやせこけた女だった

その女はそっと松永久秀に近づき「退屈でございますか・・・・?」とつぶやいたのです

その女性は数年前に死んだ妻の声だった

松永久秀は「果心居士!もうやめろ!」と叫んだという

いったいどんな幻術を使っていたのでしょうか??




湯川一族の亡霊

豊臣秀吉が天下統一を推し進めていた頃のこと

紀州亀山城の湯川直春のもとに、秀吉に従えという書状が

直春は秀吉に従う意志はなく、秀吉と戦うことを決めました

が、家臣の神保家・玉置家らがことごとく寝返ってし合ったのです

特に玉置家は、湯川一族の娘と結婚しており、直春は激怒しました

「おのれ!我らだけでも戦おうぞ!」

こうして湯川直春らは戦い、秀吉軍を撃破

そして秀吉から和議の申し入れがやってきたのです

ところが、秀吉の家臣は和議の最中に直春を毒殺

「おのれ秀吉!!はかりおったな・・・・」直春は恨みの言葉を吐き、死んでしまいました

そして直春の家臣らも全員殺されたのです

こうして湯川一族は滅びました

その後、毎年旧暦 12月25日の深夜になると、亀山城に直春らの亡霊が出るそうです

一族の恨みは、いまだ続いているのです・・・・