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        暗闇の日本史           



江戸時代の暗闇




狸の山門 こんな夜
尼の懺悔 隅田川の幽霊酒屋
人斬り浅右衛門 お綱の怨霊事件
妖怪にとりつかれた絵師 生き胆のお話
小夜の中山夜泣き石 本当にあった四谷怪談





こんな夜

江戸時代、諸国の寺社を巡礼するのが人気でした

六部(ろくぶ)の格好をして歩く人々が多く出現

六部とは、六十六部といい、法華経を六十六部書き写し、それを全国六十六箇所の霊場に一部づつ奉納してまわった僧のことであります

さて、ある時の事です

月の綺麗な夜のこと・・・旅の六部を泊めた百姓がおりました

その百姓は六部が持っている金に目がくらみ、その六部を斬り殺してしまいました

そして、奪った金で立派な家を建て、ほどなくして男児を授かりました

ところが、この男児は生まれつき口がきけず、一言も発することがなかったのです

そして男児が13歳になった頃のこと

ある夜、男児がじぃっと夜空を眺めておりました

百姓は「どうした?何かみえるのかい?」と声をかけました

すると男児が、あの六部の顔そっくりとなっており、じっと百姓を睨んでいたのです

こんな月夜の晩だったなぁ・・・


その後はどうなったのかは、わかりません・・・・・



狸の山門

1755年 鎌倉五山の第一位である建長寺の山門が再建されました

この出来事についての言い伝えです


建長寺の裏山に古だぬきが住みついていました

やがて古だぬきは仏性を会得するように

そして長年住みついた建長寺に恩返しがしたいと思った古だぬきは、山門がぼろぼろになっていることに気がつきました

「そうだ。この山門を建て直そう」

古だぬきは諸国勧進(各地を回って募金活動をすること)の旅にでることに

和尚に化けた古だぬきは、各地で寄進を貰い、そのお礼に書画を書いて贈りました

が、不思議なことが

この和尚が行く所には、

・食事・風呂の最中は立ち入り禁止
・犬を放し飼いにしない

というお触れが出されていました


ある宿についたところ、このお触れを怪しんだ宿の主人

「おかしなことを言う和尚だ。ためしに犬を放ってみよう」

犬が放たれた和尚は、必死で逃げ回りました

が、犬はどういうわけか和尚めがけて噛み付いてくる

そしてとうとう、犬は和尚を食い殺してしまったのです

驚いたのは宿の主人

「とんでもないことをしてしまった!!」と慌てふためきました

和尚の懐には今までの寄進で集めた35両もの大金があり、申し訳ないことをしたと後悔

さらに驚いたのが、なんと和尚の遺体が年老いた古だぬきになっていたのです

宿の主人は自分がしたことを非常に悔やみ、そのお金を建長寺に届けました

そして無事山門改修の費用にあてられたのです

隅田川の幽霊酒屋

1868年のこと

彰義隊と官軍が闘おうとしている時、上野のある寺では兵士たちによる略奪・強奪等を恐れ、

寺の一人の僧に御用金を持たせ、逃がしました

僧は浅草まで出ると、もう大丈夫だろうと、とある茶屋で一休みすることに

が、急に天気が悪くなり、僧はこれからどうするか考えました

「さて、どこに御用金を隠そうか・・・」

結果

「この茶屋の夫婦はとてもいい感じだ。少しの間御用金を預かっておいてもらおう」

ということに

事情を話すと、夫婦は「もちろんいいですよ。喜んでお預かりします」

こうして僧は寺に戻ったのです

数日後、上野戦争も終わり、僧が茶屋を訪れました

「先日はありがとうございました。落ち着きましたので、あのお金を返してください」

「はて?何のことでしょうか?」

僧は驚きました

「あのお金がないと大変なことになるんです。とぼけないで早く返してください」

「おやおや、困った事をいうお坊さんですな。証拠も何もないじゃないですか。お金など何のことやらさっぱりわかりませんよ?」

押し問答は続き、とうとう夫婦は僧に罵声を浴びせ外に蹴りだしてしまいました

「あぁ、あの夫婦は寺の御用金を横領する気なんだ。これじゃあ申し訳なくて寺には戻れない」

こうして僧は、隅田川に身投げし、責任をとったのです・・・・



御用金横領に成功した夫婦は、そのお金をもとに酒屋を開きました

「ふふふ。うまくいったわい」

が、酒屋を開いたその日の夜のこと

戸を叩く音がしました

ドンドン!ドンドン!

「こんな夜分遅くに誰だ?」

すると、戸の向こうから

「お金を返してくだせぇぇぇぇ」と、悲痛な声が聞こえたのです

夫婦は凍りつきました

その晩から、毎夜毎夜隅田川からザブリとずぶぬれの僧が出てきて、ふらりふらりと酒屋まで歩き、悲痛な声で戸を叩くのです

この亡霊の話はすぐさま江戸中の評判になりました

そして、義理人情に厚い江戸っ子は、「幽霊酒屋」と罵り、とうとう酒屋は潰れてしまったのでした





尼の懺悔

1808年のことでした

20歳くらいのとても美しい尼がおりました

一晩の宿を求めて私のところにやってきたのです

尼があまりにも美しかったので、「なぜ貴方のような若くて美しい女性が尼になったのですか?」と、私は尋ねました

すると尼はこう言いました

「では、これから懺悔話しをいたしてよろしいでしょうか?」

こうしてその美しい尼は懺悔話をし始めたのです・・・・



私は、生まれてからすぐに両親が死んでしまいました

やがて、裕福な農家に引き取られました

その家の夫婦は私にとても優しくしてくれました

私は幸せでした

ですが、15歳の時、私はご主人様と男女の関係になってしまったのです

もちろん奥様には言えません

あれほど私を可愛がってくれた奥様に、そんなこと言えるはずがありません

その頃、奥様は病気がちでいつも寝ていました

私は、大切な奥様の看病をしつつ、奥様の目を盗んでご主人様と通じていたのです・・・・

ある日、奥様がこういいました

「私の命はもうもたないでしょう。もし私が死んだら、幼い頃から慈しみ育てたあの娘を後添いにしてください」

私もご主人様も驚きました

そして「何を気弱なことを言っているんですか」と、奥様を励ましたのです

ある日のことでした

奥様が今日は気分がいいので近くの観音様まで行きたいとおっしゃったのです

私は一緒に出かけました

が、途中で奥様が具合が悪くなったので、奥様を背負って歩いたのです

すると、奥様が私の背中で苦しみだしました

あまりの苦しみの声に私が振り向いたところ、奥様の形相が見た事もない恐ろしいものだったのです

私は気を失ってしまいました

そして、奥様は私の背中で息絶えてしまったのです

ですが、私の肩に奥様の手が食い込んで離れないのです

必死で離そうとしましたが、誰がやっても離れないのです

仕方なく、奥様の両手を切断し、手のない遺体を埋葬しました


奥様は・・・・心の中では激しい嫉妬と憎しみがあったんだと思いました

そして、奥様の手は、ずっと私の肩に食い込んだままなのです・・・・

このような私が、普通の生活が送れるはずありません

だから、尼になったのです



ご覧になりますか・・・・?



お綱の怨霊事件

黒田藩二代目の藩主である黒田忠之が、参勤交代の帰り道、大阪の遊女を一目みて好きになってしまいました

忠之は遊女を落籍し連れて帰りましたが、正妻のお秀の方に怒りを恐れ、家臣の明石四郎左衛門の妾ということにし、遊女を預けることにしたのです

明石四郎左衛門の正妻であるお綱は驚きましたが、夫が「主君の命令である。妾といっても形だけのことだから心配するな」と笑いました

お綱はその言葉を信じました

ところが、四郎左衛門はその遊女の虜となりお綱を邪険に扱うようになってきたのです

お綱を気の毒に思った下男が、四郎左衛門に忠告するも、四郎左衛門は聞く耳も持たなかった

それだけではなく余計なことを言うなと、殺されてしまったのです

お綱は怒りました

そして妾宅に乱入し、「おのれ!!」と、遊女を薙刀で刺し殺したのです

四郎左衛門はその時登城しており、家にはおりませんでした

そこへ妾宅に居候していた浪人・浅野彦五郎がお綱に斬りかかりました

お綱は深い傷を負いましたが、夫を殺すために城へ向かったのです

が、流血がとまりませんでした

お綱は黒田城の門に手をつき、ぐっと押すと、そのまま絶命してしまったのです

その門にはお綱の血のあとが残り、「お綱門」と呼ばれるようになったのです・・・



人斬り浅右衛門

江戸時代、「御試御用」という人間を斬ることが役目の仕事人がいました

その名は山田浅井右衛門


戦国時代、生き試しといい、お殿様の刀の切れ味を試すために生きたまま人を斬ることが普通でした

中川左平太・山野勘十郎・鵜飼十郎右衛門など、多くの試し斬りのプロがおりました

が、次々と家は没落していき、残ったのは山田家だけとなったのです

なぜ山田家だけが残ったのか?というと


八代目将軍・吉宗は武芸を重んじ、刀の収集が趣味だったため山田浅右衛門はたびたび御試御用をしておりました

が、浅右衛門もとうとう老齢となってきたのです

すると浅右衛門は自分の息子に御試御用の役目を譲りたいと吉宗に申し出ました

吉宗はそれを許可し、山田家の「お家の芸」として将軍家御用達をすることとなったのです


こうして、数々の試し斬りを仕事とする家の中から、山田家だけが「家の芸」として存続することになりました

山田家では、「浅右衛門」という名前が代々襲名されていくこととなったのです


が、試し斬りという仕事を生業とするため、山田家には数々の噂話が残されることに

多くの罪人を斬り、その屍を切り刻むという山田家を皆忌み嫌っていたからです


有名な山田家の噂話に、「山田家は夜通し酒盛りをする」というものがあります

山田家の弟子たちは、人を斬ったあと、大変な疲れを残します

血に酔い、頭がボーっとしてしまうのです

そんな時、山田家では「大変な仕事をしてきた後」ということで、弟子たちに好きなだけ酒を飲ませてあげました

これが、曲がった噂となっていくのです


山田家では、毎晩
試し斬りした者が亡霊になって現れる

山田家はそれを恐れ、夜通し灯りをともして酒を飲み、亡霊がくる恐怖を紛らわせているのだ・・・・・と

また、山田家では首を斬った罪人の数が千人になったので「千人供養塔」を建てることにしました

が、よく数えてみると斬った罪人は999人だった

一人足りなかったため、山田浅右衛門は自分の息子の首を斬り、千人にして供養塔を建てた・・・


世間は、「人斬り」「首斬り」として山田家を冷ややかな目で見ていたのであります

さらに山田家は斬った人体から、あるものを取り出し、それを売っていました

人間の肝です

山田家には「肝蔵」があり、蔵の中には数多くの「肝」が保管されておりました

次の「生き胆の話」をごらんください・・・・・



生き胆のお話

日本には昔から、何にでも効く薬があると言われていました

それが「人間の肝」であります

特に胆嚢と肝臓が病気に効くと言われていました

では、生き胆を巡った事件を一つ紹介致しましょう・・・・・



とある村に住む斧兵衛という男がおりました

ある日斧兵衛は、素性の知れない医者から「寅年生まれの少年の生き胆は、らい病にとてもよく効く」と聞きました

斧兵衛はバクチで借金だらけだったので、寅年の少年の生き胆をとり、売ることを考えたのです

仲間二人を引き連れて、探し出したのが10歳の百姓の倅・米蔵でした


斧兵衛ら三人は、米蔵を誘い出しました

そして米蔵を裸にし、河に漬け、胸から腹をTの字に切り裂いたのです

それでも米蔵は絶命しませんでした

すると斧兵衛は、何度も米蔵の喉を小刀で刺したのです

米蔵の体は綺麗にTの字に切り裂かれていました

これは綺麗なままの形で肝をとるためだったのです


男たちの金儲けのために、生きたまま体を切られた少年

このような事件は、数多くあったのです



さて、人斬り浅右衛門こと山田浅右衛門の家には「肝蔵」がありました

処刑された罪人の死体から肝を取り出し、蔵へ置いておきました

それを販売していたのです

販売していたのは「肝」だけではありません

脳みそも販売しておりました


山田家が売っていた薬で有名なのは「浅山丸(あさやまがん)」という肺病に効くという薬

作り方は、斬った罪人の体が温かいうちにみぞおちを斬り、傷口から手を入れて胆を引き出す

そして小刀で切り離し、肝汁が出ないように切り口をすぐに縛る

そして肝をまるで柿を干すように陰干しして、乾いたら丸い粒にするというものでありました



日本では昔から、人体から斬りとったものを薬にするという風習が間違いなくあったのです


この風習は文明開化が始まった明治時代にも残っておりました


明治時代の新聞にも「治療のために人肉スープ」を飲んでいるという記事や、母親の病気を治すために妻の生き胆を取って食べさせた・・・など、人肉が効くという記事が数多く残っているのです



妖怪にとりつかれた絵師

江戸時代より以前から妖怪は多くの絵師たちによって描かれていました

江戸時代中期に出てきた「鳥山石燕}(とりやませきえん)も、妖怪にとりつかれた絵師の一人

死ぬまでに300以上の妖怪の絵を書き続けました

石燕によってそれまで名前だけしか知られていなかったりした妖怪に「姿」が与えられました

「ぬっへっほふ」や「ぬらりひょん」など、現在私たちがイメージする妖怪は、石燕によって出来上がったのです

多くの絵師たちは「百鬼夜行」の様子を書いたものが多かったのですが、石燕は「妖怪」をとりつかれた様に書き続けたのです



本当にあった四谷怪談


江戸時代、四世鶴屋南北が書いた歌舞伎「東海道四谷怪談」のヒロインお岩

「うらめしや・・・・伊右衛門様・・・」で知られるお岩さんを知らない人はいないでしょう

初めて公演されたのは1825年

以後、これを上演した江戸の中村屋には、怖いもの観たさの見物人が溢れかえりました


この四谷怪談

実は、
本当にあったお話なのです・・・・・




四谷左前町(新宿区)に住んでいた田宮又左衛門の一人娘お岩

とても美しい顔をしていたのですが、19歳の時に疱瘡(天然痘)になり醜い顔になってしまいました


そして父、左又衛門が病気となってしまったのです

「このままワシが死ねば、お岩は一人で寂しく暮らし、生活にも困ってしまう。その前に何とかしてお岩にお婿さんをとってやらなけらば・・」

と考え、同僚の秋山長左衛門にお婿さんを紹介してくれるよう頼んだのです

そして長左衛門が探してきたのが浪人の伊右衛門(いえもん)でした

伊右衛門は長屋で傘張りをして暮らしており、小金持ちの田宮家の婿に入ることは非常にうれしい話でした

この時お岩21歳。伊右衛門は31歳


父は安心したのか伊右衛門が婿入りした後すぐに息を引き取ったのです

お岩は伊左衛門とともにささやかながら幸せな日々を過ごしていました

8年ほどたった頃、伊右衛門の上役(上司)である伊藤喜兵衛が伊右衛門にとあるお願いをしてきたのです

「実はオレお琴っていう若い妾がいるんだけどさ、妊娠させちゃったんだよ。でもオレ奥さんうるさいからさ。持参金あげるから、お琴&おなかの子貰ってくれないか?」と伊左衛門に言って来たのです

ここで伊左衛門は断わればいいのに

「持参金か・・・欲しいな。それにお岩はブスだけどお琴は美人だしな。オレもそろそろお岩のブス加減にうんざりしてきたしな・・・」と、なんとこの話をOKしちゃったのです


それから伊右衛門はお岩を追い出そうと、暴力を振るうようになり仕事も行かずに遊んでばかりの生活に

困ったお岩は仲人の秋山に相談

すると秋山は

「伊右衛門はできた男だ。ちょっと今は貧乏暮らしに疲れてるのかもしれん。お岩がどこかで屋敷奉公して、そのお給料を伊右衛門に渡せば、あいつもお前に申し訳ないと思い心を入れ替えるかもしれんぞ」とアドバイスしたのです

お岩は素直にその言葉を聞き旗本屋敷に住みこみで働きに出ました

すると伊右衛門は「ラッキー!」とばかりにお琴を家に入れたのです

その後2人の間には3人の子供も生まれました

そして月日が経ちました

お岩の元に商人がやってきて懐かしい伊右衛門の話を聞きました

「伊右衛門様は元気にやっておりますか?」


するとその商人が「アレ?伊右衛門は美人の女房と4人の子供と一緒に暮らしてるよ?」といったのです。

お岩は愕然

夫のために住みこみで働き、毎月お金を送っていたのに、そのお金で伊右衛門は新しい家族と楽しく暮らしていたのです

お岩は「この怨み、きっと晴らしてやる」と去っていったのです

それから田宮家では不吉な出来事が相次ぎました

お琴と4人の子供達が次々変死していったのです

伊右衛門は難病にかかり最後は狂死

秋山も病死し、伊藤喜兵衛は悪いことをしたため処刑されてしまったのです

お岩に関わる全ての人が死んだので江戸庶民は「お岩のタタリだ」と噂しあいました

庶民はお岩に同情し、この話をもとに四世鶴屋南北が「東海道四谷怪談」として上演

この「東海道四谷怪談」はカラクリを見事に使い、江戸庶民は怖いもの見たさで大人気となったのです


実は今でもテレビで「四谷怪談」を放映する時には、必ず出演者は妙行寺にあるお岩のお墓におまいりにいくそうです

お岩に祟られないように・・・・・・


小夜の中山夜泣き石


このお話は、滝沢馬琴などの文人も好み、東海道中膝栗毛でも紹介されたお話です

小夜の中山とは、現在の静岡県掛川市のはずれにあった遠江金谷宿から日坂宿の間にある坂道のことです

江戸時代、日坂宿に「お石」という出産を控えた女性がおりました

が、小夜の中山で盗賊に襲われ、殺されてしまったのです

お石は、おなかにいる赤ん坊を気にしながら息絶えていきました

その思いが強かったのか、近くにあった丸い石に取り憑き、夜な夜な石からシクシクと泣き声が聞こえるように・・・・

その頃、近くにある久延寺では、観音様の像が夜になるといなくなり、朝になると戻ってくるという不思議な出来事が続きました

そして近くの飴屋では、毎晩女性が飴を買いに来るので怪しく感じていました

ある夜、飴屋がその女性の後をつけていくと、小夜の中山の丸石あたりで消えてしまった

飴屋が恐る恐る石を見てみると、そこには赤ん坊がすやすやと眠っていたのです

驚いた飴屋は久延寺の僧に相談しました

僧は「きっと観音様が飴を買って、赤子に乳のかわりになめさせていたのだろう。これも何かの縁じゃ。その子をこの寺で育てることにしよう」

こうして赤子は「音八」と名づけられ大きくなってきました

音八が十五歳になった時、観音様が夢に現れました

「おまえに出生の秘密を教えてやろう。そして母の仇を討ちたければ刀鍛冶になるように」と言いました

本当のことを知った音八は、僧から刀鍛冶になったのです

ある日、音八の前に刀を研いでほしいという男が現れました

その刀はひどい刃こぼれをしています

すると男が「これは昔、小夜の中山で妊婦を殺した時の刀なのだ」と話し始めたのです

音八は「その妊婦こそ私の母親だ!!」と言い、その男を斬り殺したのでした

その日から丸石はシクシクと泣き声をあげなくなったといいます・・・・・



さて、その丸い石ですが、道の真ん中にあったため、何人もの人がどかそうとしました

が、移動させようとすると禍が起きてしまうのです

江戸時代の川柳にも 「夜は泣き 昼は旅人の 邪魔になり」とまで詠まれてしまってます