1869年 明治二年 | |
ここでおさらい 新政府のお偉いさんたち | |
1月 | 磔・火刑が廃止される |
1月 | 明治新政府 嘆願書を却下する |
蝦夷共和国 軍備強化 | |
あだなは「榎木ブヨ」 | |
兵士たちも素行がイマイチ | |
土方歳三はどうしてる? | |
1月5日 | 横井小楠暗殺される |
2月24日 | 事実上の遷都 |
実は首都は大阪だった!? | |
明治天皇ってどんな人?? | |
3月9日 | 新政府動く |
蝦夷共和国の作戦 | |
3月21日 | 三隻の船が箱館を出航 |
甲鉄艦奪取作戦 | |
新政府軍 動く | |
4月 | 蝦夷共和国勝利が続く |
戦国武将「宇喜多秀家」許される | |
4月20日 | 伊庭八郎 重症 |
4月29日 | 会津武士は臆病ではない!! |
蝦夷共和国軍 続々と退却 | |
5月 | 蝦夷共和国 絶望的に |
5月11日 | 最終決戦 |
土方歳三 出陣する | |
土方歳三 死す | |
旧幕府艦隊全滅 | |
軍医 高松凌雲 | |
古屋佐久左衛門 | |
5月12日 | 伊庭八郎死す |
5月12日 | さらに攻撃は続く |
5月14日 | 榎本武揚 あくまでも徳川生存のため |
津軽陣屋根にて会見 | |
脱走者続出 | |
5月15日 | 弁天岬台場降伏する |
5月16日 | 津軽陣屋陥落 中島三郎助死す |
5月16日 | 五稜郭 最後の晩餐 |
降伏決定 | |
5月17日 | 榎本 降伏を発表する |
榎本 降伏会見をする | |
5月18日 | 五稜郭 陥落 |
その後の五稜郭 | |
えばりくさる捕虜たち | |
ところで西郷どんは? | |
6月17日 | 版籍奉還へ |
7月28日 | 初めて外国皇族がやってきた |
新政府の軍隊は「フランス式」 | |
9月4日 | 大村益次郎 襲われる |
ヨーロッパをうろついてた日本人二人組 | |
どうなる日本!? | |
★この年の出来事★ | |
※ここでは、旧幕府軍のことを「蝦夷共和国」と統一。明治政府軍を「新政府軍」とします
明治時代その2 1869年 |
ここでおさらい 新政府のお偉いさんたち |
さてさて、ここでちょっと新政府のことについて 徳川家が大政奉還をしてから、天皇を中心とした政治を行うことになりました そして3つの役職が まず総裁(そうさい) 総裁は皇族から選び、このときは有栖川宮であります お次に議定(ぎじょう) これは公卿や元・大名から選ばれます そして参与(さんよ) この参与が主に政治の中心となっていきます というのも参与とは、お飾りだけの公卿や大名たちと違い、各藩から集められた有能な行政官なのです この参与のうち総裁局顧問を兼任しているのが実力トップの人で、大久保利通・木戸孝允・後藤象二郎といった薩長土の代表 ほかの参与は中根雪江・伊藤博文・五代友厚・井上馨・吉井友実・横井小楠 西郷隆盛は軍事的参謀として別格扱いでした 議定の総裁は徳大寺実則(とくだいじさねのり)で、輔相(ほしょう)という、総督をサポートする役目に松平春嶽、そしてその下に岩倉具視・広沢兵助がおりました 新しい政府は、おもに薩摩・長州・土佐で占められていたのです |
1月 磔・火刑が廃止される |
今まで、徳川幕府が作った「公事方御定書」によって決められていた刑罰 が、この年から磔が禁止となりました さらにノコギリ引きなどの残酷な刑も廃止となったでした |
1月 明治新政府 嘆願書を却下する |
さてさて、去年榎本武揚がイギリス・フランス艦長に託した手紙 その手紙は1月に明治新政府のもとへ が、榎本武揚のお願いは却下されてしまいました これにより蝦夷政権は、明治政府との全面対決は避けられなくなってしまったのです |
蝦夷共和国 軍備強化 |
戦いは避けられないこととなり、蝦夷では軍備強化が ですが誕生早々から、軍資金を積んだ船を失ってしまいお金がなかった また、敵襲に備えて新しい兵が必要 ということで、蝦夷の人々に兵募集をかけましたがそれでも足りない 考えた結果、奥尻島に流罪になっていた凶悪犯200人を解放し、兵隊にしたのでした これが最悪・・・ この人たちの素行は悪く、江差では毎日のようにゆすりやたかり・・・・ 箱館でも、無宿人を何百人も集めましたが、こちらも素行が悪かったのです |
あだ名は「榎本ブヨ」 |
箱館では、榎本武揚はめっちゃ嫌われていました 「榎本武揚」は、音読みすると「ブヨウ」 この「ブヨウ」を、昆虫の「ブヨ」とかけて、「榎本ブヨ」というあだ名がついちゃいました 「ブヨ」は人にしつこくつきまとって、血を吸う「蚊」みたいなもんで、その「ブヨ」が榎本武揚率いる蝦夷共和国そのものといったイメージだったのでした 確かに嫌われるのも無理はないです というのも、上で紹介したように軍資金が全然なかったため、住民からお金を搾り取ったのです で、商人や豪農に莫大な寄付金を請求し、払えない人には即刻立ち退きを迫ったのでした 他にやったことをちょっと紹介しましょう ・各地に関所のようなものを造り、通行する人からお金をとりまくり ・刀狩のように、住民から武器を没収した ・金銭と食べ物を持ってくるよう住民に命じましたが、お金がなく、食料だけしか差し出さなかったため、打首にすると騒ぎまくり、近隣の住民の哀願によって何とか命だけは助けた ・バクチを公認し、売上金から上納金を吸い上げた ・売春婦に「売春許可証」を発行し、毎月営業税を徴収 ・五稜郭の大規模な補強工事の時に、農民たちを酷使した。しかも給料無し。さらに食事も無し ・あまりのお金の無さに贋金を発行した これだけのことをしてしまったら、嫌われても仕方ないですね |
兵士たちも素行がイマイチ |
現在は寒い冬なので、新政府はやってこないけど、春になったら確実にやってくる ということで、兵士たちの中には「どうせ春には死ぬんだ」という考えの人が多かった そのため女性と遊びまくったりする人がわんさか 毎日酒を飲み、ランチキ騒ぎをしていたのです が、そんなに毎日飲めるほどお給料は出てない ということで、遊ぶ金欲しさに住民からたかりまくっていたのでした |
土方歳三はどうしてる? |
![]() が、土方は兵士たちの悪さを見逃していました 新撰組時代は鬼と呼ばれていた土方でしたが、どうやら箱館での土方は昔と違ったようです とても温厚な人柄となり、人々は土方を慕って集まってきていました 元・新撰組隊士は、昔の土方を知っているだけに驚いていたようです そして土方は、粗食な生活で日々暮らしていて、女性と全然遊ばなかった かつて連日のように京都で女性遊びをしていた土方は、もういなかったのでした |
1月5日 横井小楠暗殺される |
![]() 家録百五十石なので、そこそこのお坊ちゃまであります 小楠は天才的な才能はないものの、着実に努力をする秀才で、徐々に出世していきました 31歳の時に江戸に出てさらに勉学に励み、藤田東湖を尊敬し、そのさわやかな弁舌が「横井の舌剣」と言われるほど が、ここで事件がおきてしまいます というのも、小楠はめっちゃ酒乱で、東湖らとの忘年会の帰りに他の藩の人と大喧嘩してしまい帰国を命じられたのです その後も学問に励むんですが、またも酒で失敗をしてしまいます そんな頃、越前藩主の松平春獄が優れた人物を探しており、この小楠をチェック! 小楠は松平春獄に誘われ、福井に赴きました そして、新政府では参与になってくれとお願いされ、就任 が、「小楠はキリスト教を広めようとしている」という噂が立ち、攘夷派に殺されてしまったのでした ちなみに犯人は十津川郷士と尾張藩士であります 余談ですが勝海舟は、今まで恐ろしい男を2人みた。と、言っています それが、西郷隆盛とこの横井小楠でした 享年61歳 |
2月24日 事実上の遷都 |
この日、天皇が東京にいる間は太政官を東京に移すことが発表されました これが一応、事実上の遷都決定とみなされます そして3月7日に天皇は再度東京へ向けて出発しました 3月28日東京へ着いた天皇は、そのまま滞在を続け京都には戻ることがなかったのです ちなみに政府は、京都・大阪・東京だけを「府」と呼ぶことにしました |
実は首都は大阪だった!? |
実は新政府ができた時、都を大阪に移しましょう!という計画が出ていました 幕府が滅亡し、社会情勢はめっちゃ不安定 天皇による新しい政治を行うには、公家の力が強い京都から都を移しましょうということになっていたのです ちなみに、大久保利通は「都を大阪にしましょう」と言いました が、他の人たちが「いや、江戸にしよう」ということに なぜか?というと、この頃の江戸は無血開城はしていたものの江戸の民は新政府軍にたてつきまくり 東北の諸藩も危ないってことで、日本全体を治めるには江戸がいい 地理的にも経済的にもベストな場所だったからです 大久保もしかたなく都を江戸に移すことにうなずきました が!!!江戸に天皇を移すとなると大混乱になるのは必然 ということで、まず1回天皇を江戸行幸させ、この時2度目の行幸をしました そして二度と京都に戻らなかったのです 新政府は「都を江戸に移す」と大々的に発表したら強い反対にあうことを予想していたので、表立った遷都をせずに、実質的な動きだけですませたのです ということで、今現在も「東京は都である」という詔は出ておらず、形の上では京都も都なのであります |
明治天皇ってどんな人?? |
孝明天皇の急死により、あれよあれよという間に天皇になった16歳の明治天皇 新政府にふさわしい天皇でなければいけないと、宮中も大改革が行われました まず天皇を取り巻いていた女官36人はクビに かわって学者や武術家などが天皇のまわりに置かれました 今までは女性に囲まれていてもよかったけど、新しい時代にそれでは困る!と男っぽさを出そうとしたんですね でもって夜はお酒を飲ませました 今までは女性相手にお酒を飲んでたんだけど、これからは男相手 ちなみに天皇お気に入りの飲み相手は山岡鉄舟でした 深夜までがぶがぶとコップ酒を飲み、一緒にザコ寝しちゃうほどの大胆天皇 のちは神格化される天皇ですが、この頃はおおらかに酒をぐいぐいと楽しんでいました |
3月9日 新政府動く |
いよいよ明治新政府が動き出しました この日 新政府の艦隊が品川沖を出航したのです 軍艦六隻と、輸送船四隻で編成され、これに数隻の外国船を加えた大艦隊 蝦夷共和国の艦隊よりも、はるかに強大な艦隊でした さらに!!! 新政府は、旧幕府艦隊に対抗するためにずーーーーっと欲しかった船があった それがアメリカの「ストーン・ウォール号」 アメリカに何度も売ってくれとお願いしていたんだけど、アメリカは「この戦いには介入したくないから」と断ってた それがなぜか方針を変更し、アメリカは「明治新政府だけを日本で唯一の政権とする」とし、ストーン・ウォール号売却したのです |
蝦夷共和国の作戦 |
新政府がストーン・ウォール号を手に入れたことを知った蝦夷共和国の人たちはビックリ とうてい勝ち目はない・・・・と、思っていました そんな時、回天の艦長である甲賀源吾が「都湾に停泊している甲鉄艦を乗っ取ってしまおう」と言い出したのです めちゃくちゃな作戦でしたが、この状態ではそれくらい大胆な事をしないと勝てない ということで、回天・蟠龍・高雄の三隻を持ちいり、乗っ取り計画を遂行することになったのでした |
3月21日 三隻の船が箱館を出航 |
この日、三隻の船が箱館を出航しました まず、外国の旗をかかげて外国船のフリをして近づく そして二隻が甲鉄艦の両側に接触して兵を送り出し、艦内を制圧し、箱館へ持っていってしまおうというもの この奪取作戦が成功すれば勝ち目は出てくる 土方歳三なども乗り込み、進んでいきました が、不運なことにこの日激しい暴雨風に襲われ、三隻がバラバラになってしまったのです |
甲鉄艦奪取作戦 |
回天はなんとか宮古湾から20キロ離れた山田湾に到着 そして高雄もやってきました が、いつまでたっても蟠龍が現れないのです 回天は偵察タ隊を放ち、宮古湾を調べると、甲鉄艦は間違いなくここに停泊していました 早く作戦を決行しないと、いつ宮古湾を離れてしまうかわからない・・・ ということで、彼らは3月25日に山田湾を出航したのです ところが、不運なことに高雄の蒸気機関が故障してしまい、低速運転しかできなくなってしまったのです もし高雄が宮古湾に入ったとしても、この遅さじゃ間違いなく捕まってしまう・・・・ 土方らは回天だけで作戦を決行することにしたのです 回天はアメリカの国旗をあげて甲鉄艦へ近づきました そしてすぐ近くに来た途端に、アメリカ国旗を降ろして、日の丸をするするとあげたのです 新政府軍は驚愕!!! 回天は甲鉄艦に接触しました!!! ところが、回天は甲鉄艦より甲板が3メートル(だいたい二階の窓から飛び降りるくらいの高さ)も高かったのです ここにきて、突撃部隊が躊躇してしまったのです この間に、甲鉄艦の兵士たちは気をとりなおして戦闘モードに! このとき、大塚浪次郎が「一番!!!」と叫んで甲鉄艦へ飛び込みました そして続々と続いたのです ですが波が荒く、甲鉄艦と回天の距離が離れてしまいました 甲鉄艦に残された突撃部隊は死闘を繰り広げていましたが、明治政府軍のガトリング砲が火を噴き始め、次々に倒れていったのです それをみて作戦は失敗とすぐさま回天は逃げることに が、高雄は敵艦に追撃され、全員捕まってしまいました 蟠龍は遭難後、箱館に戻ってきましたが、高雄を失い、多くの兵を失い、この作戦は大きな犠牲を出し失敗に終わったのでした |
新政府軍 動く |
25日に突然の襲撃を受けた新政府軍の艦隊ですが26日には青森へ入りました そこには多くの藩兵が終結しており、その数12000人という大軍に 蝦夷共和国の討伐を行う最高責任者は、去年箱館から撤退した清水谷公考 そして軍事を統括する海陸軍参謀には山田顕義(あきよし) 陸軍参謀には黒田清隆 海軍参謀には増田虎之助が任命されていました こうして彼らは青森を出航し、蝦夷へ向かったのです |
4月 蝦夷共和国勝利が続く |
新政府軍は続々と蝦夷地へ が、蝦夷共和国軍の抵抗はすさまじかった ここで負けてしまったら後がないため、ものすごい戦いぶりでした こうしたすさまじい抵抗にあい明治政府軍の死傷者はどんどん増えていきました 山田顕義は、「奥羽諸藩戦とは違い、なかなかの強敵で苦心している」と、至急援軍を送るよう依頼 4月15日には黒田清隆率いる第三軍が江差へ そして第四軍を総督の清水谷公考が率いてやてきたのです こうして新政府軍は膨大な数に膨れ上がっていきました |
4月 戦国武将「宇喜多秀家」許される |
戦国時代からずーっと続いていた風習「島流し」 有名な流罪場だった「八丈島」ですが、明治になってから人数はどんどん減ってきました 明治4年に5人の罪人が流されたのが最後となります で、この日ようやく「宇喜多秀家」の末裔が赦されたのでした 宇喜多秀家とは、戦国時代の武将で、関ヶ原の戦いで西軍につき敗北 のちに徳川によって島流しにあった人であります この一族は八丈島で江戸時代をずーっと過ごし、とうとうこの日赦されたのでした |
4月20日 伊庭八郎 重症 |
遊撃隊として幕府の為に戦っていた伊庭八郎 箱根にて死闘を繰り広げ、運よく助かりましたが、左手首を切落としておりました ちなみに左手首を切る時、麻酔を打たず、うめき声もあげずにいたそうです この後も反新政府への意思はゆるがず、榎本武揚のもとへ が、八郎の乗った船は暴風雨で艦隊からはぐれて銚子沖で座礁してしまいました このとき、自刃することを考えましたが考え直し、しばらく潜伏を続けた後、去年11月に箱館へたどり着いたという、まさに執念の持ち主であります そして伊庭八郎は、松前地方の首尾を任されていました 八郎率いる遊撃隊のメンバーは、かなり奮闘していました が、とうとう4月20日 爆弾の破片を全身に浴び、箱館へ護送されたのです |
4月29日 会津武士は臆病ではない!! |
新政府軍は、木古内へ大軍でやってきて、今までにない激しい艦砲射撃を行いました この戦いで歴戦の武将・天野新太郎が戦死 天野の死を聞いた兵士たちはみんな大パニックになり、逃げ出す人が続出 この時指揮をしていた大鳥圭介は、必死に味方の逃走を止めようとしましたが、勢いに乗ってやってくる新政府軍に恐れをなし、どんどん逃げていってしまったのです そんな中、一人奮闘して命を落とした人がいました それが諏訪常吉です 会津藩の兵ですが、ある日榎本武揚が「最近の会津武士は臆病になって逃げることばかり考えてるよな」とつぶやいたことを激怒し、この日、逃げることなく敵陣に斬りこみ銃弾で撃たれたのです 手当てを受けながら諏訪常吉は「会津藩士は臆病ではない!自分は一歩も逃げなかったことを榎本へ伝えろ」そう言って息を引き取ったのでした これを聞いた榎本武揚は、とても後悔したそうです |
蝦夷共和国軍 続々と退却 |
大鳥圭介は、いったん兵をまとめようとしましたが、どんどん味方が死んだというニュースを聞き、ブルーに そして兵たちの士気も下がり、逃走する人が続出 榎本武揚自らが援軍となって駆けつけましたが、それでも士気は上がらす、仕方なく全軍五稜郭へ退却となったのです が、土方歳三率いる部隊だけは頑張っていました 土方の指揮のもと、敵の前進を完全に阻止していたのです 新政府軍は、これだけの人数で土方軍を敗れないことを恥とし、必死で戦っていましたがまったく勝てないでいました そんな土方も、とうとう退却を余儀なくされたのです というのも、他の味方の軍が全て退却してしまっており、このままここで戦っていては挟み撃ちになるからです 土方軍は、戦いには勝ちながら引き上げるという無念なこととなったのでした |
5月 蝦夷共和国 絶望的に |
4月中で、箱館以外は全て新政府軍に制圧されてしまいました 援軍もない蝦夷共和国はもはや絶望的な状況に そして新政府軍は5月11日に箱館を攻めることを決めたのです 五稜郭へ退却した後も、土方はゲリラ戦を繰り広げていたり、榎本も自ら戦いに行っていましたが、もはや勝ち目はありませんでした こうした状況の中、ともに戦ってきてくれていたフランス人士官たちが五稜郭を去ってしまったのです もはや勝ち目はないと悟ったのでしょう 五稜郭内からも、密かに脱走する人たちが相次ぎ、勝負はほぼついてしまっていました・・・・ 榎本武揚は逃げていく兵を見ていましたが、「勝手にしろ」といった態度だったようです |
5月11日 最終決戦 |
いよいよこの日の早朝、箱館沖にいた新政府軍の艦隊の砲門が一斉に火を吹きました これを合図に新政府軍の陸軍らも進軍をスタート そして箱館山の背後に身を潜めていた部隊も、五稜郭へ奇襲をしかけたのです 10時ごろになると、新政府軍の進軍は次々と守りを突破 箱館市内にも突入してきました 圧倒的な兵力の差があり、蝦夷共和国軍はことごとく敗れていったのです |
土方歳三 出陣する |
この時、元新撰組のメンバーは箱館山を占拠され激しい砲撃にさらされていました これを知った土方は「俺が新撰組を助けてみせる」と、自ら出陣して行ったのです もはや土方が救出に向かっても勝てる見込みはありませんでしたが、誰一人阻止しませんでした 土方はいよいよ自分の死に場所を定めたのです 実は、五稜郭内では「もう降伏しよう」というムードが漂っていました が、降伏しても土方は絶対に命は助からない 他の人たちは降伏しても、命が助かる可能性がある 新撰組の副長として戦ってきた土方は、死刑は免れない そのため、土方が激しい激戦地に行くと言った時、誰一人止めることはしなかったのです 「もはや生きていても助からない。ならばいっそ、戦で華々しく死なせてやろう」というせめてもの武士の情けだったのです |
土方歳三 死す |
![]() そして一本木という場所に着いた時、新政府軍に追われて逃げている味方の兵に遭遇 土方は馬に乗りながら「逃げるな!!!逃げる者は斬る!!」と叫び 「俺はここで指揮をとる!突撃せよ!!」と命じました その時、一発の銃弾が土方の体を突き抜けたのです 土方はそのまま馬から落ちてしまいました 腹心の沢忠助がすぐさま駆け寄りましたが、すでに銃弾はお腹を貫通しており、息を引き取っていたのでした・・・・ 土方の遺体は五稜郭に運び込まれ、埋葬されたと言われていますが、その場所がどこかはわからないそうです 土方歳三は、35年という短い生涯を終えたのでした |
旧幕府艦隊全滅 |
榎本武揚が率いていた旧幕府艦隊ですが、5月11日の時点ですでに残っているのは蟠龍だけでした あれだけの艦隊は座礁などでほぼ壊れてしまいっていたのです 決戦の日、蟠龍は敵艦の「朝陽(ちょうよう)」を撃沈しましたが、すべての砲弾を撃ちつくしてしまいました そして蒸気機関も故障してきてしまったのです 敵の手に渡すなら・・・と、あえて浅瀬に乗り上げ、蟠龍を使用不可としました 絶大な軍事力を誇っていた旧幕府艦隊は、ここで全滅となったのです |
軍医 高松凌雲 |
箱館病院には、高松凌雲(たかまつりょううん)がおりました 凌雲は、大阪の緒方洪庵のもとで蘭学医を学び、その後十四代将軍・徳川家茂の治療をするために医者を探していた徳川慶喜によって幕府に採用されました パリ万国博への使節にも加わり、鳥羽伏見の戦いの知らせによって帰国 兄は古屋作久衛門で、衝峰隊のリーダーであります パリから戻ってきた時、兄はすでに衝峰隊を率いて江戸を出ていました そのため凌雲も榎本武揚に頼み艦隊へ乗り込んで、箱館へ来ていたのです この日、新政府の総攻撃が始まり、凌雲のいる箱館病院にも新政府軍がやってきました そして「賊がいたぞ!!」と、病人を斬ろうとしたのです すると凌雲 「病院とは敵味方の差別なく看護をする場所である!!傷ついているものをなお攻めるとは、武士たるもののとるべき行動ではない!!!」と、喝を入れたのです これには新政府軍(ちなみに攻めてたのは薩摩兵)はビックリ が、凌雲の潔い迫力に負けたのか薩摩兵たちは銃を下ろしました 外にいる兵たち(ちなみに久留米兵)は、「何をしている!斬れ!撃て」と罵声を浴びせました ですが凌雲の毅然とした態度に感服した薩摩兵は「わかりました。病人は必ずや助命いたします。お約束します」と、その場を引き上げていったのです 実は凌雲は、味方の手当てだけではなく、敵側(新政府軍)の傷ついた兵の手当てもしていたのです 赤十字精神にのっとった人だったんですね ちなみに・・・・ 凌雲のいた場所に収容された病人は助かりましたが、箱館病院別館では惨劇が起きていました この病院に侵入してきたのは、半年前に旧幕府軍に追放された松前藩と津軽藩 ということで、強い憎悪を持っていたのです こちらでは医者を殺害し、病人を斬り殺し、火を放って立ち去るという惨劇が繰り広げられていたのです・・・・ |
古屋佐久左衛門 |
上に紹介した高松凌雲の兄が古屋佐久左衛門です 古屋は久留米藩出身で、医者になろうと江戸へ出てきましたが、漢学と洋学が優秀だったため幕臣である古屋家の養子に そして英語も得意だったので、神奈川奉行に召しだされました ここで英国士官と交流し、「歩兵操列」という本を出したところ幕府の目にとまり出世していきました 義に富んだ男で、それほど徳川に恩顧を感じる立場でもないのに衝峰隊を結成し、幕府のために戦うことを決意するのです 江戸を離れた後、会津戦争にも参加し、会津が落城した後も榎本武揚率いる旧幕府艦隊と合流 が、この日五稜郭にいた佐久左衛門は腰に砲撃をくらい大怪我をしました 弟の凌雲のもとで治療を受けますが、16日に息を引き取ったのです 最後は末の弟・六郎もやってきて、兄弟三人による時間が過ごせたのでした |
5月12日 伊庭八郎死す |
爆弾の破片を全身に浴び、重体だった八郎ですが、とうとうこの日死亡しました 伊庭八郎の死には色々な説があります いよいよ五稜郭が陥落するとなった時、軍医から劇薬モルヒネを貰い死んだとか・・・ 5月11日の最終決戦で銃弾を受けた春日左衛門も、もはや回復の見込みがないと悟り、伊庭と一緒にモルヒネ自殺したと言われています ちなみに、後の明治34年に、八郎の一番下の弟・伊庭想太郎が事件を起こします これはまた後ほど・・・・ |
5月12日 さらに攻撃は続く |
翌日、旧幕府艦隊が全滅したことを知った新政府軍は、いまだ抵抗を続けている弁天岬台場や、津軽陣屋にも向かいました そして五稜郭にむけ、早朝から砲撃を開始したのです この攻撃を止める手段はなく、次々と五稜郭内の兵士たちは犠牲になっていきました 一方凌雲のもとに薩摩藩士の池田次郎兵衛と村橋直衛がやってきました 凌雲の人柄を見込んで、五稜郭や弁天岬台場などに降伏するよう仲介を依頼したのです 凌雲は快く了解しました |
5月14日 榎本武揚 あくまでも徳川生存のため |
凌雲は榎本武揚に降伏勧告の仲介の件を話しました 五稜郭では会議が開かれ、こう決定したのです 「あくまでも自分たちの目的は蝦夷地の一部を朝廷より賜り、生計を立てることです それと同時に、北方の警護をすることです。 これが認めてもらえないなら、我ら一同枕をともに潔く死にます」 というものでした そしてこの時、「梅津全書」を新政府軍の使者を通して黒田清隆に贈呈したのです 梅津全書とは、榎本武揚がオランダに留学した時に持ち帰ったフランスの本 榎本はこの本を灰にしてしまうのは残念なので、ぜひこの本を海軍の近代化に役立てて欲しいと言付けたのです 黒田清隆はこの時の榎本の見事な決意に感激し、のち榎本のために奔走することとなります これは後ほど・・・ というわけで、榎本らは自分たちの意見が通らないのであれば、いずれの陣も降伏しないということになったのでした |
津軽陣屋根にて会見 |
新政府軍は田島圭蔵を使者に派遣し、榎本武揚と会見することにしました 田島は一生懸命「降伏しなさい」と意見するが、榎本はきっぱりと拒絶 が、五稜郭内にいる250人の負傷者を湯の川へ行かせてくれるようお願い 田島はこれを了解し、負傷者たちは湯の川へ 榎本は、湯の川へ向かう傷ついた兵士一人一人にねぎらいの言葉をかけ、送り出したのです 田島はというと、榎本の毅然な程度に大いに感心して立ち去ったのでした |
脱走者続出 |
五稜郭内はというと、榎本や元幕臣たちの意思は「降伏断固拒否」と固まっていましたが、一般兵はそうはいきませんでした 生活の糧を得る為にやってきた人も多く、「榎本らお偉いさんたちと一緒に討死なんてゴメンだね」という考えだったのです そのため脱走するものが相次ぎました お偉いさんたちの中には「脱走兵を処刑して見せしめにしなければ、軍隊はめちゃくちゃになってしまう」と意見しました が、榎本はなんと大手門の扉を開き「五稜郭から逃げ出したいものは自由に逃げなさい」と逃亡を許可したのです そのため200人以上の兵が五稜郭を出て行きました それが終わると、榎本は五稜郭の外に設置された仮設の家を全て焼き払いました ここを新政府軍の拠点にするのを防ぐためです 榎本は、いよいよ覚悟を決めたのでした |
5月15日 弁天岬台場降伏する |
この日、五稜郭本営の許可を得ず、弁天岬台場が降伏してしまいました 弁天岬台場は11日の総攻撃以来ずーーーっと激しい砲撃を受けており、孤立無援の状態になっていました 武器弾薬もなくなり、さらには食料も底をついてしまったのです 弁天岬では五稜郭本営に対して箱館奉行の永井尚志や、現在の新撰組隊長・相馬主計は、降伏しようと意見しておりましたが、五稜郭本営はそれを拒否していました それでももはや食べるものもない弁天岬では、相談の結果降伏することにしたのです ここに籠城していたのは、240名 そのうち新撰組隊士は90名ほどいました 彼らは身柄を降伏され、ほとんどの人が明治5年に無罪放免となります |
5月16日 津軽陣屋陥落 中島三郎助死す |
弁天岬台場が降伏した翌日、徹底抗戦を叫んでいた津軽陣屋が新政府軍の総攻撃にあいました 津軽陣屋を守っていたのは中島三郎助です 中島は下田奉行与力のもとで生まれ、ペリーがやってきた時はちょうど浦賀奉行にいました ペリーの応対にあたった人です その後は航海術などを学び、長崎の海軍伝習所に入所してました そしてこの人も、新政府軍に降伏することをきっぱりと拒否したのです 榎本らは中島に「津軽陣屋は危ない。五稜郭に非難しろ」と言いました すると中島は正門にある古い大砲を指差し、「これこそが老人の最後の一発なり。敵兵がやってきた時、自分自身を発射し、そして我も死する覚悟である」と、言い放ったのです そしてこの日、新政府軍がやってきました 大鳥圭介も伝習隊を率いて応援にかけつけましたが、もはや勝てぬと判断し五稜郭へ戻りました 津軽陣屋からも続々と兵が脱出していきましたが、中島だけはカノン砲を発射しまくり 最後は刀を抜き、息子二人を引き連れ鮮やかに討死したのです 中島の長男の恒太郎は22歳 次男の英太郎は19歳でした さらに少年を含む30名近くが最後まで中島とともに戦い、戦死したのでした 中島の辞世の句は 「ほととぎす 我も血を吐く 思いかな」 こうして津軽陣屋も占拠され、とうとう残ったのは五稜郭だけとなったのです |
5月16日 五稜郭 最後の晩餐 |
津軽陣屋が陥落した数時間後、五稜郭に白旗をかかげながら新政府の使者がやってきました そして酒五樽と魚が差し入れされたのです 五稜郭内ではこの酒と肴で最後の宴を開いたのです すると、榎本武揚がさっと壊れかけている総裁室へ それに気がついた側近の大塚霍之丞(おおつかかくのじょう)が後をつけて総裁室の扉を開くと、榎本が短刀で自害しようとしていたのです 大塚は慌てて素手で短刀を握り締めました 榎本はそれでも自害しようと刀を奪おうとしましたが、そこに騒ぎを聞きつけてやってきた閣僚たちが必死で止めたのです |
降伏決定 |
自害しようとした榎本を仲間たちは攻めました 榎本は深く反省し、この日閣僚たちは深夜までこれからのことについて話し合ったのです 結果、自分たちは潔く戦死するつもりであるが、兵たちはもはや脱出者だらけ こんな状況で敵襲を受けたら、あっけなく五稜郭は負けてしまう そしてミジメな犬死をし、笑いものになるだけである そこで榎本武揚・大鳥圭介・荒井郁之助・松平太郎の四人が降伏し、天裁を仰ぐしかない ということになったのです |
5月17日 榎本 降伏を発表する |
翌朝、榎本は残っている兵全員を集めて、降伏することを発表しました そしてさらに 「私は徳川のために君たちと協力して意思を遂げようとした。 が、この戦いで多くの死者を出し、残っている兵士たちも皆疲れきっている この城はまだ落ちることはないであろうが、日本中を敵に回して戦い、罪のない君たちをこれ以上死なせるわけにはいかない 私は皆に代わって自害しようとしたが、周囲に抱きとめられてしまった 一身を潔くしようとし、君たちに迷惑をかけてしまうのもいけないと想った ゆえに私はこれから敵軍に赴き、天裁につくつもりである どうか私の気持ちをわかってくれ」 これを聞いた兵士たちは、今までの戦いの苦労、そして無念を思い涙を流しました こうして、ついに蝦夷共和国は降伏することとなったのです |
榎本 降伏会見をする |
そしてこの日、榎本武揚・松平太郎は五稜郭を出て近くの農家へ入りました 新政府側からは、黒田清隆参謀と、増田虎之助参謀がやってきました この会見で、榎本武揚は正式に降伏を申し出たのです 黒田清隆は「了解した。明日午前七時までに砲撃を中止する。それまでに五稜郭を開城し、首謀者は新政府陣営に出頭せよ」と述べました 榎本と松平はこれに了承し、会見は終了したのでした |
5月18日 五稜郭 陥落 |
翌日、箱館戦争の首謀者として、榎本武揚・松平太郎・大鳥圭介・荒井郁之助が新政府軍本営に出頭することに 榎本は五稜郭内の広場に全員を集め、同志に向かい最後の言葉を述べました 「われわれは徳川、そして朝廷のためにこれまで戦ってきたのだ。どうか力を落とさないでくれ。そしてどうか自重自愛せよ」 そう言うと、大手門から出て行ったのでした この日、最後まで五稜郭に残っていた約千人の兵は武装解除し、箱館の寺にそれぞれ送られました そして五稜郭には新政府軍が入城したのです 五稜郭は砲弾のためにあちこち崩れ去っていましたが、キレイに掃除されていたそうです |
その後の五稜郭 |
こうして、幕末からずっと続いていた戦いが終わりました 幕臣たちは、もはや新政府軍に立ち向かうすべもなく、時代は薩長を中心とした国へと移り変わっていきます ちなみに五稜郭にて捉えられた幕臣の多くは、実はほとんどが命を落とさずにすんだのです これはおいおい説明していきますが、時代は彼らのような優秀な人材を殺すことはできなかったのです いまや日本は世界という舞台に立つ時 敵といえども殺すには惜しい人材が、幕臣には数多くいたのです こうして、彼らは幕臣から新政府の役人として新しい人生を送ることとなるのです ですが、箱館戦争で戦死した兵士たちの時間はずっと止ったまま 蝦夷共和国の戦死者は、みんな道端に放置されたままでした 箱館の人々も、この蝦夷共和国の人々を嫌っていたし、ヘタに弔って新政府軍に目をつけられるのもイヤだった そんな彼らを「死者に鞭打つべきじゃねぇよ」と、立ち上がったのが柳川熊吉という人 熊吉はもともとは江戸っ子でしたが、侠客(ヤクザもんのこと)の道に入り、親友の敵討のため人を殺し、箱館へ逃げてきていました そんな熊吉は、津軽陣屋を建てた武田輩三郎と気が合い、子分たちを引き連れて工事を手伝ったりしていたのです 箱館戦争が終わったあと、あちこちに倒れている遺体を集め、寺に頼んで弔ってあげました が、この行動が新政府に見つかり、蝦夷共和国を味方した者として処刑されることに それをなんとか田島圭蔵の助命嘆願により、助かったとされています 余談ですが、この戦いでの蝦夷共和国の死者は800人 最後に投降したのが1500人 ということは、残りの1000人ばかりの人は??というと、皆逃げたんですね ですが全員無事に逃げおおせたわけではありません 歴史に出てこないところで、のたれ死にをしたり、また松前藩兵や住人に捕まり殺されたり 中には現地の人に助けられ、そのままそこへ住み着いていたり ということで、箱館には「だっそう」と呼ばれている家がまだ存在しているとのことです |
えばりくさる捕虜たち |
さてさて、最後まで五稜郭にいた1000人もの兵(主に彰義隊が多かった)たちは、蝦夷地では不便だということで、青森に送られることに 津軽藩と秋田藩が預かることになりました 捕虜たちは「うまや」を改造した建物に押し込められ、三畳に五人以上という割り当てて詰め込まれました 布団は一人一枚で、捕虜たちは二人一組になって布団にくるまって寒さをしのぎました ところがこの捕虜たち、かなりスゴイ というのも、江戸っ子を中心とした捕虜たちと、中央から離れた東北武士とは気性が全然あわない しかも当時は、言葉もあまり通じないのです 津軽藩の役人は、最初捕虜たちを「降参人」と呼びました すると捕虜が激怒!! 「てやんでぃ!!降参人とはなんでぇ!!てめぇらが薩長に降参しやがったからこうなったんでぃ!!きちんと名前を呼べ!!」と怒鳴りまくり さらに「食い物がまじいんだよ!」と文句タラタラ この頃東北は大飢饉で、捕虜たちに食べさせる食料があまりなかった そのため捕虜たちは「しけてやがるぜ!」と、そのへんの犬を捕まえて金灯籠にぶち込んで食べるなどやりたい放題 さらに戦争ごっこを始めてドタバタと暴れる さらにさらに菊の御紋が入った幕を切り、手ぬぐいにして鬱憤晴らしと、まさにやりたい放題で、津軽藩と秋田藩はほとほとイヤになってしまったようです さすがに冬は寒かったらしく大人しかったようですが、春になってくるとまたもやんちゃっぷりを発揮してきました すぐ近くに遊郭があり、そこに五稜郭時代の馴染みの遊女が集まっていました 彼女たちは捕虜がいると聞くと、わざわざ遊びにきてイチャイチャ これには津軽藩士たちもイライラ ということで、捕虜たちに対する待遇はさらに悪くなったんだけど、捕虜たちはおかしなほど明るかった 時間があるから勉強でもしようぜ!と、洋学や詩歌などをしたりして過ごしていました 彼らが釈放となったのは、明治3年の4月10日 久々にお風呂に入って、とても喜んだそうです |
ところで西郷どんは? |
![]() 何やってたの?というと・・・・ 彰義隊を倒すために大村益次郎がやってきてから、出番がなくなってました 彰義隊との戦いが終わると、北越に新しい兵を率いて参加するという名目で薩摩に帰り出陣したものの、あまり役にたたなかった というか、西郷は大村に軍隊の指揮をとられ、ちょこちょこと顔を出していただけなのです 箱館戦争の時も全く役に立たず、戦が終わるとすぐさま薩摩軍を率いて帰ってしまったのでした 今まであれだけ中心となって頑張ってきたのに、政府を捨てて地元にひきこもってしまっていたのです 実は西郷の考えは・・・ 「鳥羽伏見の戦いから奥羽にいたるまで、藩兵を自分が我が物のように使った。箱館戦争が終わった今、彼らをそのまま国に捨て置くことはできない」というもの 西郷は革命の実行者ですが、最後まで藩の意識を捨てることができないでいたのです 自分だけが政府の高官になることはできない 下級武士層が新政府の主力になるべきなのに・・・という考えがあったのです |
6月17日 版籍奉還へ |
幕府を倒してからの「新しい政府」の構造をいち早く考えていたのは長州でした 西郷隆盛や薩摩軍が鹿児島に戻ってモヤモヤしている中、長州の木戸孝允(桂小五郎)は「版籍奉還」の考えを打ち出しました 「すでに徳川は領土の大部分を朝廷に渡している。が、他の藩は以前として幕府時代のまんまだ。藩主としての大名はいまだ武士と領民の上に立ち、支配・君臨している。これじゃ今までとまったく変わらない。 各藩はいますぐに、版籍を新政府に奉還するべきである!!」 というものであります。 木戸は薩摩の大久保利通に相談し、その後土佐の板垣退助、肥前の大隈重信に相談 同意を得て、主要の四藩が自主的に版籍を朝廷に返すと決めたのであります ちなみに「版」とは領土のこと で「籍」は戸籍のことで、つまりは人民を指します つまり領土と人民は天皇が支配するのが筋だというもの 薩摩・長州・土佐・肥前の藩主たちの考えはというと 「王政復古に貢献したのは俺らだから、領土再配があればたくさんくれるだろ」と思ってました この期待はのちほど裏切られますケドね ということで、主要四藩が版籍奉還したため、これに遅れをとっては大変!と、他の藩もいっせいに版籍奉還しました ここで、大名が「知藩事」と名称が変わるのであります といっても、本格的な改革はこれから2年後の「廃藩置県」までもーちょっと待たなければなりません |
7月28日 初めて外国皇族がやってきた |
この日、イギリスの第二皇子であるアルフレッド殿下が日本へやってきました そして天皇と会うことに 維新後初めての外国皇族がやってくるということで大慌て その接待準備にてんやわんやで、「こんなすごい接待をするなんて!!」というブーイングの声もあがりました |
新政府の軍隊は「フランス式」 |
さてさて、新政府は「フランス式」の軍隊を作ろうとしてました 理由は「一番強いから」であります ナポレオン以後、フランスの陸軍は世界最強でした さらにフランスは国民皆兵制 ということで、大村益次郎の考えは 「新しい日本の軍隊は百姓や町民からの徴兵制にし、フランスのような軍隊を作る」というものでした ちなみに海軍は「イギリス式」を勉強していくことになります |
9月4日 大村益次郎 襲われる |
![]() 彰義隊討伐の時に天才的な軍略家ぶりを見せ、新政府になってからは軍政のお偉いさんになっていました 益次郎は常日頃から「西郷がどう動くか」と、薩摩を危険視していました そんな中、軍事施設予定地を視察するため京都の長州藩お抱え宿に滞在中、刺客に襲われたのです 会談中の大村を刺客が襲い、大村は額を斬られました 真っ暗だったので、刺客は来客の1人を大村と勘違いし斬り殺して逃走 大村は風呂桶に身を潜め命だけは助かったのです が、この時の傷が致命傷となり、以後治療の日々となります そして事件の二ヵ月後、11月5日に死んでしまいました。46歳でした 最後の治療には緒方洪庵の次男や蘭学医のボードウィンがあたり、さらにシーボルトの娘・楠本いねもやってきて看病したそうです |
ヨーロッパをうろついてた日本人二人組 |
大村益次郎が襲われた頃、ヨーロッパ各地をうろついていた日本人がいました それが山県有朋(やまがたありとも)と西郷従道(さいごうつぐみち)であります この2人、箱館戦争が終わるとすぐ、ヨーロッパに渡りました そして大きな衝撃を受けたのです ヨーロッパでは、すでに王政を倒し労働者による政権を作ろうとしていたからです 日本では天皇を中心とした政治が始まろうとしていたばかりだというのに、世界の動向は王政復古ではなく王政を倒し、民衆が政治を行うという動きだったからです そして、ここで色々学んだ二人は、のちに明治陸海軍の巨頭となっていくのでした |
どうなるニッポン!? |
さてさて、五稜郭で旧幕府を完璧に叩きのめし、とうとう新しい日本が誕生しました が!!! まだまだ問題は山積み というのも、幕府を倒し統一国家を建設するはずだったんだけど、明確なビジョンを持ってはいなかったからであります 薩摩の島津久光は島津幕府の将軍になると思ってたし、土佐の山内容堂だって自分の軍隊がまさか武力倒幕に使われるとは思ってなかった それに新政府は直属の軍を持っていない 戊辰戦争で闘った軍隊は色んな藩が集まった連合軍だったし ということで、名前だけは官軍だった新政府の軍隊も、実際は官に帰属してないわけだから、戦いが終わるとさっさかと自分の藩に戻っていってしまった いっちばん強かった薩摩藩も、西郷隆盛が率いてさっさかと藩に帰っちゃうし、中央は軍隊が全然きちんとなってない丸裸状態だったのです さらに8月頃から各地で一揆やええじゃないかが始まってたりと、日本中であぶなーい雰囲気が漂っていました さぁ!どうなる!?ニッポン!!?? |
この年の出来事 |
・1月1日に東京丸屋商社(今の丸善)が開業した ・(西洋将棋)チェスが売り出された ・2月14日から、上野山へ行くことが許可され、花見もOKになった ・混浴禁止令が出る(が、今まで何度も出ており、これからも繰り返し出ることになる) ・2月 腸チフスが横浜で流行。死亡者がたくさん出た ・3月 横浜箱根間で乗合馬車が開業 ・夏ごろ、なぜか女性の行商人が大流行。頭にお菓子の箱をのせ、街中を歩いていた。 が、すぐ流行は終わった ・8月 奥羽は大飢饉になってしまいました。特に仙台がひどく、餓死者が続出 ・12月25日 東京〜横浜間に公衆電信の取り扱いが始まる ・12月27日 銀座で大火事 お米屋さんでお餅つきの最中に出火 翌朝まで火事は続き、仙台藩の元屋敷などが焼けてしまった ・初めて石油が輸入されてきた。長崎から中国商人によって輸入されました ・牛鍋屋が続々開業 ・木村屋・文明軒などのパン屋さんが開業 最初はフランスパンばかりだったんだけど、そのうちイギリス風のパンになり、次はアメリカの食パンになっていった ・現在の岩手・山梨・長野・岐阜などで世直し一揆が起きる。新しい政府に対する不満がつのったらしい。これを「梅村騒動」といいます ・戊辰戦争中に贋金を造りまくったため、経済的に混乱していました |