×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。


室町時代その2

1336年1月10日 尊氏京都へ突入!
1月13日 北畠顕家が到着!
尊氏「オレ、ほんとに天皇が好きだヨ」
軍師 楠木正成 「新田を捨てましょう」
尊氏 九州にて勢力拡大
赤松則村 白旗城で時間稼ぎ
3月10日 朝廷大パニック!えっ!?尊氏が??
4月3日 足利尊氏 いざ京都へ!
5月18日 新田義貞 白旗城を諦める
楠木正成 桜井の訣別(わかれ)
新田義貞の責任じゃーby公家連中
5月25日 湊川の合戦
足利尊氏 京都を奪還
お互い腹の探り合い
8月15日 尊氏 光明天皇を立てる
尊氏 和睦をしようとする
11月 和解の条件は?
11月7日 建武式目を制定する
12月 後醍醐天皇 京都を脱出
後醍醐天皇「オレが本物の天皇だ」宣言 南北朝の始まり
尊氏 吉野は攻めませんよ宣言で人気急上昇
1337年 まだまだ日本中はバトルの渦 義貞死す
8月 尊氏征夷大将軍に 室町幕府始まる
1339年8月16日 後醍醐天皇死す
尊氏の足元がぐらつき始める・・・
有能で女好きの高師直
尊氏 一人悶々と思い悩む 「直義のせいでオレは・・・」
足利直義VS高師直
1342年9月 土肥頼遠 「院?犬のことか?」事件
直義怒る!「なにをやっとんじゃーー!」
怒った師直!直義に攻撃 兄弟絶縁!
直義 南朝へ寝返る
1351年2月26日 高師直死す!
兄弟骨肉の争いは続く
1352年 直義毒殺される
南朝VS北朝 戦乱は続く・・・
1358年4月30日 足利尊氏死去
2代将軍 足利義詮


室町時代 その2
1336年1月10日 尊氏京都へ突入!
この日、尊氏軍は京都に突入しました。

京都を舞台とした大激戦は、各地で目の廻る忙しさで繰り広げられました。

後醍醐天皇は比叡山に避難しちゃいました。

尊氏にとって一番手ごわかったのが、宇治を守っていた楠木正成でした。

大激戦の中、尊氏が京都を占領しました。「尊氏京都を制圧。後醍醐天皇比叡山に逃げた」というニュースはたちまち広がりました。

もうちょっとで北畠顕家が率いる援軍が来るというのに、みんなさっさかと逃げてしまいました。こうなると楠木正成も支えることはできなくなり、宇治を引き払ったのです。

1336年1月13日 北畠顕家が到着!

京都を占領した尊氏軍。今度は朝廷軍から京都を守ることに。

が、ここで20歳になるかならないかの北畠顕家が朝廷軍の援軍として到着したのです。

顕家は若いけど、勇猛果敢な武将でした。

尊氏はそれを知っていたため「新田義貞はたいしたことないだろうけど、顕家がやってきちゃったのはヤバイナ・・・」と思っていたのです。

顕家は到着するや、すぐさま京都攻撃に移りました。義貞・正成らも一緒になって京都を攻撃!

尊氏軍は兵糧止めもされてしまい、連日の合戦で疲れきっていたためイマイチ力が出せずになってしまい、とうとう光井寺の合戦において足利軍が大打撃を受けてしまったのです。

戦況は義貞有利に進み始めました。足利軍はなぜか負け癖がついてました。

尊氏はここは思い切って一度体勢を立て直すべく九州に落ちることに決めました。この時ノリノリの義貞軍が尊氏を追撃すれば勝てたのに、なぜか追撃しませんでした。

太平記ではこの時追撃しなかったのを義貞のせいにしてます。

どうやら義貞は最愛の美妻である匂当内侍と離れるのがイヤで、追撃するのを延ばしてたらしい。実際のところは「マラリヤ」のような病気にかかったそうです。

結果、尊氏は九州で体勢立て直しに成功しちゃうこととなるのです。
尊氏「オレ、ほんとに天皇が好きだヨ」
尊氏はこの時も攻撃してくる兵のことを「朝廷軍」「天皇軍」とは言いませんでした。

「新田義貞と悪臣たち」という言い方をしてました。

尊氏はここにきてもまだ「自分と天皇は本当は理解しあっているし、仲がいい。それを邪魔したりしているのが新田義貞とその仲間達だ。オレはそういうヤツラと戦っているのであって、天皇と戦ってるわけじゃぁない。だからヤツラを官軍とか天皇軍と呼ぶわけにはいかないのさ」と言っていました。

ある時、赤松則村が「そうはいっても実際世間は尊氏殿のことを逆賊(天皇に逆らうヤツ)と思ってますよ。じゃあ一つ提案ですが、こないだまで院政やってたじゃないですか?その頃は上皇が院宣たくさん出してましたよね?ここはひとつ光厳上皇から義貞を討てという院宣を出してもらえば逆賊イメージがなくなるんじゃないですか?」と提案したのです。

光厳上皇は後醍醐天皇は元弘の変を起こした時に、鎌倉幕府が勝手に即位させた天皇でした。

そのため後醍醐天皇が隠岐島から脱出後、復活して建武の新政をスタートさせた時に「光厳天皇は北条から指名された天皇だから辞めさせる!」と宣言されちゃったのです。

光厳天皇が即位した時に、後醍醐天皇は一応譲位させられたんだけど、幕府が勝手にやったってコトで「本当の天皇はオレ様。オレ様がずーっと現天皇なんだヨ!」とばかりに、追い出された光厳天皇。だけどどっかやるわけにも行かないので、一応は「上皇」ということになっていたのです。

ちなみに系列は持明院統。後醍醐天皇は大覚寺統なのでライバルです。

尊氏は光厳上皇にお願いし、「新田義貞を討て」という院宣をゲットしたのです。

尊氏は官軍となりました。

これによって後醍醐天皇は「尊氏のヤツめ、ついに私の敵である持明院統についたな・・・」と激怒!ここまでくると、いくら尊氏が「オレ、後醍醐天皇スキだよ。」と言っても通用しなくなるのでした。

対する義貞はこの頃得意満面でした。京都において武功が認められ、各地の武将が義貞に言い寄ってきました。超美女を妻にし、名声もゲット。

人生最高の瞬間となっていたのです。
軍師 楠木正成 「新田を捨てましょう」
正成は新政が始まり、尊氏VS義貞の空気が濃くなってくると、義貞と組む事となりました。

身分が低いため後醍醐は義貞をボスとし、正成を京都の守備につかせることにしたのです。

正成の軍師としての活躍は以後なくなりました。義貞よりも上を行くことは許されなかったのです。

正成は義貞を武士として評価していませんでした。むしろ尊氏の方が優れていると考えていたのです。

「義貞はバカだ。賢い武将なら尊氏が敗走した時に追撃しなければならないのにそれをしなかった。あいつはいっつもそうだ。勝機を見逃してばかり。都にいる間も公家の真似ばかりして酒に溺れ、多くの美女に囲まれて遊んでばかり。成り上がりの田舎武士だ」と常日頃思っていたのです。

また正成は武士の名門だの嫡流だのといったものが好きではありませんでした。

名門だからという理由で地方武士にありがたがられ、尊敬されるのを馬鹿馬鹿しく思っていたのです。

正成は身分が低く名門の出ではないため、どんな大功を立ててもたいした恩賞はもらえない立場だったため余計その思いが強かったのです。

それでも尊氏のことは認めていたのです。

そして正成は軍議の席で、「新田義貞とは手を切り、足利尊氏と手を組んだほうがいい」と意見したのです。公家達は「は?」と呆然としました。

「お前はバカか?なんで九州に逃げた尊氏と和睦しなきゃならんのだ?あいつは義貞に敗れて逃げたんだぞ?」と蔑み、笑い出したのです。

「いえ、多分九州に逃げてから必ず京都に攻め上ってまいります。」

「アホか?九州には菊池を始めとした朝廷が命じた国司がいるんだぞ?尊氏なんてそいつらに今頃やられとるわ!」

「いいえ、九州の人たちは尊氏の味方をするでしょう。」と、正成が言ったとたん公家連中は大激怒!

「お前は九州では朝廷の力より尊氏の方が強いと言うのか?バカにしとるのか?大体朝廷に忠義を持っている新田義貞と手を切れなどと新田殿にも失礼ではないか!お前は自分が恩賞が少なかったので新田殿に妬みの心を持っているんだろ?」

ここまで言われては正成はもう何も言えなくなってしまいました。

すると一人の公家がバカにしながら「では正成殿は、もし尊氏が京都に攻めてきたらどうするおつもりなんじゃ?」と聞きました。

正成はマジメに「天皇と義貞は比叡山に退避していただく。そして足利軍を京都市内に入れる。ゲリラ的な市街戦を行い、物資の補給の道を絶やす場所を占領します。秤量もなくなり敵が疲れ始めた時に、比叡山にいる義貞がやってきて、私と義貞とで挟み撃ちする」というものでした。

まず勝ち目のない戦いにおいて、少しでも勝てるチャンスを見出した作戦でした。

敵は多分大人数で勢いがある。京都にはわずかな兵しかいない。と、正成は得意のゲリラ的戦略を意見するも、公家の大反対にあったのです。

「京都に兵を入れるのは官軍の恥だ!」に始まり「なぜ撃ってでない?そんなに尊氏軍の人数がいるわけないだろ!?」「天皇が京都を離れて比叡山へ軽々しく行けるか!威信が失われるだろ!」「オレの家が焼かれたらどうする!?よそで戦ってくれ!」「足利が勝ってるのはたまたまだ!」とか・・・。戦ったことのない公家らによって正成の意見は却下されまくったのでした。

そして最後には「もし万が一尊氏軍が来たならばおぬしが最前線に出ろ。それが本当の忠義というものだろう?」と意地悪く笑ったのでした。

正成は、もうこいつらに何を言ってもだめなのだ・・・と思うしかありませんでした。

1336年 尊氏 九州にて勢力拡大
九州に下った尊氏は、宗像大宮司(むなかたのだいぐうじ)に迎えられて、本拠地を置きました。

九州の武士たちは元寇の時に死に物狂いで防衛したというのに幕府からの恩賞が少なく幕府を見限ったものの、後醍醐天皇による建武の新政にもめちゃくちゃ不満を持っていました。

そんな中、尊氏だけが地方武士のために努力してくれていたのを知っていたので、九州・四国・中国地方の武士たちは尊氏に好感を抱いていました。

そのため、九州の武士たちは尊氏に協力するべく立ち上がる決心をしたのです。

楠木正成の考えた通りでした。

尊氏は関東に佐竹義敦(よしあつ)、四国に細川定禅ら、石見に上杉憲顕(のりあき)らを送り込み、またも兵を募るよう指示しました。

ここで朝廷側である肥後の菊池武敏が戦いを挑んできて、博多湾岸の多々良浜にて合戦となりました。

兵が少ししかいない尊氏側は奇跡的に勝利!この戦いをきっかけに情勢が好転していったのです。

尊氏は次々と攻めこみ、3月には九州一円を足利一色にしたのです。

赤松則村 白旗城で時間稼ぎ
赤松則村は最初は天皇の味方をしていました。

功績は大きかったにも関わらず、地方武士だということで領地を貰うどころか減らされ、役職もダウンさせられるというヒドイ目にあった武将でした。

不満を持っていた則村は天皇を見限り、尊氏についたのです。

そして尊氏が九州に逃げる時に「もう一度京都に攻めに来てください。私が時間稼ぎを致します。その間に九州で準備をしてください」と告げたのです。

朝廷はまだ赤松則村の裏切りを知りませんでした。

新田義貞は赤松に「尊氏を攻めに行け」と命令するも赤松は「私は一応この国の名のある武将ですよ?一応尊氏を討つための天皇の綸旨を貰ってください。そうすれば尊氏を堂々と攻めることができます」と返事したのです。

義貞は朝廷に連絡しました。が、朝廷は「尊氏は九州で朝廷の国司達にやらてんだろぉ?」と、尊氏をナメきっていたので、尊氏討伐の綸旨を1ヶ月も出しませんでした。

新田義貞もみんなにおだてられ京で豪遊三昧の日々・・・。

その間に赤松は城旗城を頑丈に作り直してしまい「オレは天皇など信用できん!尊氏殿を信じることにする!」と寝返り宣言をしたのです。

義貞は超激怒!妻との離れることにようやく決心がついたのかわかりませんが、やっとこさ兵を出すことに。

白旗城は1ヶ月の間に防備を整えまくり、水も兵糧も充分蓄えてたためなかなか落ちなかった。

2ヶ月以上もかかってしまったのです。尊氏にとっては超ラッキー!この間に菊池も尊氏にやられ、どんどん味方をつけたのです。

3月10日 朝廷大パニック!えっ!?尊氏が??
この日朝廷は1通の書状により大パニックとなりました。

書状には「菊池敗死。島津・大友・少弐らは尊氏の味方となり京都へ向かう準備を始めている。」というものでした。

朝廷は騒然となりました。楠木正成の言うとおりとなったのです。

そしてこの報は京都だけにとどまらず、各地の武士達にも広まり各地で反乱が起き始めたのです。

もー朝廷はどうしていいかわかんなくなりました。

各地の反乱の中でも東北地方の反乱がすごくって、朝廷は北畠顕家に反乱を鎮めるよう命令。

これを楠木正成が「今は東北の反乱よりも尊氏を討つことが先決です。ヤツさえいなくなれば各地の反乱は鎮まります。ここで精鋭である北畠殿が東北に行ってしまっては、非常にまずいです!」と大反対。

だけど朝廷は「身分の卑しい田舎武士めが!この一大事の時に何を偉そうに!」と、正成の意見を却下し、北畠顕家は東北へ行かされてしまったのです。

京都に残ったのは新田義貞軍のみとなりました。しかも義貞はまだ白旗城を落とせないでいる。

「朝廷はこれまでだ・・・・」正成は一人覚悟を決めたのです。
4月3日 足利尊氏 いざ京都へ!
尊氏は3月2日に菊池武敏を破り、12日頃には各地の武士へ連絡をしまくりました。

が、まだ「私は後醍醐天皇に背いているんではない。新田義貞らを討ちに行くのだ」という気持ちは変わっていませんでした。

直義・高師直はほとほと呆れていました。

4月3日に大宰府を出発し、5月1日に厳島神社にて勝利祈願をしました。

尊氏は義貞が中国地方の武士らのハートを掴んじゃったらめんどうなコトになる。

白旗城が持ちこたえている間になんとか中国地方に攻めあがらなければ!と思っていたのです。

5月18日 新田義貞 白旗城を諦める
白旗城を攻めていた義貞。が、いつまでも落とせずにおりました。そこへ「尊氏が京都へ向かっている」というニュースがやってきたのです。

とうとう家臣らが「ここはもうあきらめましょう。ぐずぐずしてると尊氏が今度は中国地方にやってきます。」とアドバイス。

義貞は白旗城をあきらめ中国地方へ行くことに。

楠木正成 桜井の訣別(わかれ)
正成は、この戦いで勝ち目がないことがわかっていました。

そして桜井という場所で、息子の正行(まさつら・11歳)に、もうこれ以上お供に来なくていいと言ったのです。

正行は、父が戦いに出て死ぬつもりだ・・・ということがわかっていたのでで、どうしてもついて行く!と譲らなかった。正成はそんな正行を、泣きながらしかりつけ無理やり帰らせたのです。

帰っていく正行の後姿を、涙を流しながら姿が消えるまで見つづけた父・正成でした。

青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと 忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か 

という「桜井の訣別(わかれ)」という歌があります。

新田義貞の責任じゃーby公家連中
尊氏は水軍を率いて水路を。弟の直義が陸路を攻めつつやってきました。

陸からの直義軍は途中で参加者が続々と増え、莫大な人数となりました。

この頃の朝廷は、もう皆ビクビクと震え上がっていました。

「公家は政治をやるもんだ!戦いは武士である新田義貞にまかせよう!こうなったのも全て新田殿の責任であろう?」と公家連中は一目散に逃げてしまったのです。

さすがの義貞も苦笑い。頼りの名和長年も「私は山陰地方の攻撃に備えるから」と言い逃げ出してしまったのです。義貞は北畠顕家を東北に行かせたことが悔やまれて仕方なかった。

今となっては楠木正成しか頼る人物がいませんでした。

義貞は正成に「どうすればいい?」と相談。

正成は「こうなってしまった以上は尊氏の水軍を絶対に陸に上げてはなりません。そして直義率いる陸軍を一の谷付近で潰すしかありません。」と提案しました

義貞は「では私は水軍を上陸させないために湊川の和田岬に陣を起きます。義貞殿は陸を守ってください」

「承知しました。私は湊川に陣を張り陸軍を一の谷に追い込みます。ただし、絶対に水軍を上陸させないよう和田岬だけは必ず死守してください。そうしなければ我が軍は挟み撃ちにあってしまいますから」と、正成は念を押したのです。

この頃になると朝廷軍の兵たちはどんどん尊氏に寝返っていました。もはや義貞と正成くらいしか朝廷のために戦う武将はいませんでした。

義貞は「今はもう私とあなたしかおりません。絶対にあなたを見捨てません。和田岬は必ず守ります」と言ったのです。
1336年5月25日  湊川の合戦
24日ごろ、正成は湊川に陣を置きました。人数は数百人しかおりませんでした。

対する尊氏軍は数万人。はじめから勝負はついていました。

正成は死ぬ覚悟はできていたのです。

義貞は数万人の兵がいました。そして和田岬に陣を置き、一斉に天皇家の旗である「菊水」の旗を立てたのです。

尊氏のいる船の上から、義貞と正成の布陣が見えました。尊氏は正成を恐れていたので「正成を孤立させよう」と、作戦を立てたのです。

そして「本軍に装った船を東に向かわせろ!さすれば義貞は東へ行くだろう。そして和田岬から上陸するのだ!」と言いました。

尊氏の作戦通り本軍を装った細川の船が東に移動し始めたのです。

東の浜に上陸してしまったら朝廷軍は挟み撃ちになってしまう!そして京に入ってしまう!そう思った義貞は「あの船を上陸させたらまずい!」と馬を東に飛ばし、全軍が義貞に続いたのです。

和田岬は空っぽになってしまいました。尊氏のおとり作戦は成功したのです。

義貞軍が東へ向かうのが見えた正成はビックリ!「何をやっとんじゃ!死守しろと言っただろ!あれはおとりだ!和田岬を空けてはならぬ!!」と急いで使いを飛ばしました。

が、義貞は「本軍が東の浜に上陸しようとしておるのだ!これは阻止しなければならぬ!」と正成の伝言を無視したのです。

そして尊氏の本陣は和田岬に上陸したのです。正成の兵は完全に孤立してしまいました。

だが正成は最後まで勇敢に戦い、数百人の兵で数万人の大軍相手に6時間以上の激闘を繰り広げました。

前方は直義軍、背後は尊氏軍と16回もの激戦を繰り返しましたが、数にはさすがに勝てませんでした。

夕方5時ごろになると、正成は一軒の民家へ入りました。

そして弟の正季(まさすえ)と、自分の一族、家臣ら50人で一斉に自刃したのです。

おとりに騙された義貞も、さすがに負けたら後がないためこの時は奮闘しまくりました。が、尊氏の大軍はどうにもできず、義貞軍も続々敗走し始め、とうとう義貞も逃げて行ったのです。

京では、楠木正成が戦死!新田義貞も敗北!というニュースに後醍醐天皇は慌てて京を捨てて、ひとまず比叡山へ逃げた。

ちなみに尊氏は楠木正成の首を見て「正成殿は真の忠臣であった。首は丁重に遺族のもとへ送り届けよ」と言ったのです。

※楠木正成は「太平記」において大絶賛されています。そして戦前、天皇サマサマの頃「天皇のために忠義を尽くした真の武士」としてヒーローとされるのです。
足利尊氏 京都を奪還
楠木正成を自刃させ、新田義貞を敗走させた尊氏軍は京都に入りました。

6月3日 後醍醐天皇が京都を脱出する時に捕らえられていた光厳上皇がなんとか逃げてきて尊氏のもとへやってきました。

これにて尊氏は「上皇軍」となり官軍となったのです。

直義は早速比叡山の攻撃を始めました。が、後醍醐天皇側も奮闘しまくり。お互いに相手を兵糧攻めにしたりと、頑張り続けたのです。

お互い腹の探り合い
この兵糧攻めは尊氏の方が分が悪かった。何といっても人数が断然に多いのです。

尊氏軍が飢えに苦しんでいるというニュースが広がりました。

天皇のもとに敗走していた新田義貞が「今がチャンスです。京都を攻めて奪い返しましょう!」と提案。名和長年も賛成し攻め込みましたがあえなく失敗。

すると今度は天皇側が食糧難になってきてしまったのです。
8月15日 尊氏 光明天皇を立てる
尊氏は光厳天皇の弟を天皇として立てました。光明天皇の誕生です。

これにて後醍醐天皇は廃されることとなったのです。

高師直はこれでも物足りないらしく「後醍醐天皇もう一度隠岐島に流しちゃおうぜ」と言ってました。もちろん後醍醐が好きな尊氏に却下されました。

後醍醐天皇側の食糧難はいよいよ深刻になってきました。

そうなってくると弱々しい公家連中は「都に戻りたい・・・」と嘆き始めたのです。

尊氏は光明天皇を立てた後、京の清水寺に願文を捧げました。「この世は夢に候」に始まる有名な尊氏願文です。

「この世は夢のようです 尊氏のことを後生お助け下さい なお一日も早く俗世を捨て隠居して世間のわずらわしさから離れたくて仕方ありません。(出家したいということ) 今後の果報は全て弟の直義にお与え下さい 直義をお守り下さい」という内容です。

この頃の尊氏はすっかり世の中がイヤになってきていました。

本当は後醍醐天皇に逆らいたくないのに周りがそれを許してくれず、自分はいつの間にか武士の棟梁となってしまった。本当に自分がしたかったのはこういうことなのか?などなど悩みまくっていたのです。

そのため、世を捨てて仏門の道に入りたいと思うようになってきていたのです。

尊氏 和睦をしようとする
天皇がお気の毒だな・・・と思い始めちゃった尊氏。

とうとう「天皇に和睦の使者を送ろう!」と言い出したのです。

これには直義・高師直が大反対「なぜこっちが勝ってるのに和睦なんじゃ?降伏の間違いだろ?」とブーブー文句を言うが、和睦和睦!と尊氏に言われとうとう二人は折れました。

そして和睦の使者が天皇のもとへ。後醍醐天皇はそれをOKしたのです。

もー新田義貞をはじめとする武士連中は大ショック!

義貞は「オレが行ったら尊氏は絶対に義貞を討て!という綸旨をもらうに決まってる。そして後醍醐天皇もそれをOKするに違いない。後醍醐天皇は息子の護良親王まで売った方だ。信用できるものか!」と考えはじめたのです。

義貞の部下達もこれを聞いてカンカン!「今まで命がけで戦ってきた我々を何だと思っているのか!」と激怒しまくり。

そして義貞は「では私は北に行き、尊氏を討つ軍を集めます!」と宣言したのです。

すると義貞の家臣の一人が天皇に直訴したのです。

「天皇が京に戻ったら尊氏は必ずや我が主人を攻めます。今まで天皇のために一生懸命命を張ってきた一族とその家臣らを見殺しにするのですかっ!?このまま行かせるわけには行きません。どうか我々と一緒に北へおいで下さい」と言ったのです。

困った後醍醐天皇は義貞をなだめるために恒長(つねなが)親王に譲位し、新天皇とさせ、恒長を北国へ連れて行くことを許可した。

後醍醐天皇はとりあえずうるさい義貞に恒長親王を渡し、ヤツラが北へ行った頃に恒長親王の皇位を取り消すつもりでいました。そして尊氏の立てた光明天皇も辞めさせようと考えていたのです。

新田義貞は三種の神器も渡せと言い、恒長親王と三種の神器を持って北へ向かったのです。ちなみにこの時の神器は偽物とのことです。
11月 和解の条件は?
後醍醐天皇は京都へ戻り、尊氏と和解することに。和解といっても尊氏方が優勢でした。

条件は

@後醍醐天皇は退位する

A光明天皇に三種の神器を渡す

B光明天皇の皇太子は大覚寺統から立てる。そして以後大覚寺統と持明院統は交代で天皇を出す

C天皇にお供していた公家と官女は罰しない

以上の4つでした。

とはいっても@とAは新田義貞の要求によってすでに行っちゃっています。尊氏はまだこのコトを知りませんでした。知ったら大変なコトになっちゃうので後醍醐天皇は秘密にしていたのです。

そして11月2日に後醍醐天皇は三種の神器を光明天皇に渡しました。この時の三種の神器も偽物だそうです。
11月7日 建武式目を制定する
尊氏は17条からなる「建武式目」を制定しました。鎌倉幕府のイイトコだけをもらった内容です。

簡単に内容を書くと

@幕府を京都に置く
A女性や僧侶の政治介入は禁止
B京都の治安回復をする
C武家全盛時代を作る(北条義時・康時親子が見本)
D賄賂は禁止
E倹約第一とすること
F礼儀正しくすること
G罪もない人の家を壊したりしない
Hバクチに熱中しない
I商業を盛りたてること

などなど。
北条義時・泰時親子を見本にするというのは、この頃承久の乱があり後鳥羽上皇が幕府を倒そうとして失敗した事件。

この親子を見本にするということは「朝廷がまた幕府にイチャモンつけてきたら武力によってやっつけますよ?」という牽制の意味も込めていました。

「新しい政治は武士による武士のための政治である」という尊氏に対し、後醍醐天皇は「日本の国は天皇が一番偉いのである。よって日本の政治は天皇が治めるものである」という意見と真っ向から対立するのでした。
12月 後醍醐天皇 京都を脱出
後醍醐天皇は建武式目の@を見て大ショック!

「尊氏め!なぜ鎌倉で幕府を開かんのじゃ!われらを監視する気か!」とカンカン。

そして尊氏らは京都にて、後醍醐天皇の建武の新政をことごとくぶち壊し、武士のための新政府をスタートさせたのです。

もう後醍醐天皇のプライドはズタズタ。

「このまま京都にいたら私は監禁されたまま死ぬかもしれん。武士のための世の中など耐えられん!京都を脱出しどこかに新しい朝廷を開こう」と考えるようになってきたのです。

そして後醍醐天皇はその計画を信頼できるものに伝えた。

すると北畠親房から連絡がきたのです。「楠木正成の残党がお迎えに上がります」というものでした。

楠木正成の子である正行(まさつら)はまだ成人していなかったんだけど、桜井で父と訣別した後、一族達ともに天皇のために力を蓄えていました。

そして12月21日 約束どおり天皇のもとに楠木一族がやってきたのです。そして楠木一族に案内されたのは吉野でした。

後醍醐天皇「オレが本物の天皇だ」宣言 南北朝の始まり
吉野に到着した後醍醐天皇は早速「私こそ本物の天皇である!その証拠にこちらには本物の三種の神器がある。光明天皇が持ってるのは偽物である」と宣言したのです。

これにはみんなビックリ!新田義貞も遠い北の国でこのニュースを聞き、自分が騙されたことを知ったことでしょう。

対する光明天皇側も「何をバカなこと言っておるんじゃ。こちらが本物の朝廷じゃ」と宣言したのです。

世間では吉野の朝廷を「南朝」と呼び、尊氏らのいる京都を「北朝」と呼ぶように。そして南北朝の戦いは以後60年間続くのです。

早速直義や高師直が「吉野の後醍醐天皇を攻めましょう。そして二度と戻って来れないような島に流しましょう!だいたい尊氏殿がヤツに甘いからいつまでもガタガタとうるさいんですよ!」とブーブー文句言いまくったのです。

尊氏 吉野は攻めませんよ宣言で人気急上昇
直義や高師直が激怒している中、尊氏は「天皇は勝手に京を出て行ったが、そちらで自由に暮らせるというならそれはそれでいいでしょう。後醍醐天皇の警備の武士達にも苦労をかけましたし、私はこれ以上武士達に気苦労をかけたくありませんから。運は天が決めるでしょう」と言ったのです。

これには全国の武士をはじめ京の人々までもが「尊氏殿はとっても心が広く、度量のある方だ」と感心しまくったのです。

が、吉野朝廷はコレに激怒「こっちには三種の神器があるっつーのに、尊氏はそのことに全く触れていないじゃないか!あえて無視してこちらを相手にしてませんよみたいな偉そうな態度は許せん!」とブースカ言い出したのです。

後醍醐天皇は新田義貞も裏切ったことになったので、頼りになるのは20歳そこそこの北畠顕家のみだった。

1337年 まだまだ日本中はバトルの渦 義貞死す
後醍醐天皇は北畠顕家に「京都を攻めろ」と手紙を送りました。

ちょうどこの頃、北畠顕家の元では反乱が起こっていたので「反乱をおさめ次第すぐに向かいます」と返事をしました。

さらに九州において菊池一族がまたも立ち上がったり、北陸では恒良親王のもとで新田義貞が「打倒尊氏」を掲げバトルし始めたのです。

日本はまたも戦乱の渦に巻き込まれたのです。

1337年の8月には北畠が大軍を率いて京都にやってきました。

これには高師直が大健闘。「ヤツラは東北からぶっ通しでやってきたから疲れている。休む間を与えず攻めまくれ!」と号令。

この作戦は大成功。北畠も奮闘しまくったが疲れがたまりまくってとうとう戦死したのです。21歳でした。

一方、北陸からやってきた新田義貞も一時はすっごい勢いでした。

が、尊氏に味方する地方武士らが義貞の行く手を阻みまくったのです。

そこへ高師直の兄である師泰が攻め込み、義貞の長子である義顕が自刃。

義貞はなんとか逃げ切ったのですが、平泉寺の僧侶達が「俺らの土地を荒らすな」と義貞に背き、この戦いで流れ矢に当たってあっけなく死んでしまったのです。

最後まで後醍醐天皇に忠義を尽くした義貞。38歳でした。

北畠顕家の父である親房は「東北に行き、再挙するべく力を蓄えよう」と船で帰ったんだけど、台風に襲われめちゃくちゃになってしまった。

なんとか親房は助かりましたが、もう再挙する力が残っていませんでした。

後醍醐天皇の南朝方の武将は次々と倒れていったのです。

が、後醍醐天皇のいる南朝だけは抵抗をやめなかった。

1338年8月 尊氏征夷大将軍に 室町幕府始まる
光明天皇は尊氏を征夷大将軍に命じました。

実質的にはすでにNO1だったんだけど、正式に日本の武士の最高権力者となったのです。

そして正式に室町幕府を開きました。

将軍である尊氏が侍所や恩賞を管理し、弟の直義が裁判や所領の保障なんかを担当し政務を2分割した。

1339年8月16日 後醍醐天皇死す
後醍醐天皇にとって尊氏を倒すことは執念に近いものとなっていました。

南朝はお金もだんだんなくなってきて、貧乏生活に突入。

それでも「尊氏を討て」という綸旨を出し続けていました。

この頃になると最後の頼みの綱として残ってるのは九州の菊池一族らのみでした。

が、肝心な後醍醐天皇が病気になってしまったのです。

そして8月には入ると危篤状態となりました。16日、とうとう息を引き取ったのです。

後醍醐天皇は死ぬ前に「私の骨はここに埋まろうとも、魂はいつも北の天を睨んでいる」といいました。

後醍醐天皇にとって北朝にいる尊氏は、魂となり死んでも尚、憎い存在だったのです。

後醍醐天皇の死はすぐさま北朝に伝わりました。

尊氏は後醍醐天皇の死を聞くと「なに・・・・?」と呆然としました。そして家臣らに喪に服すよう言ったのです。

そして尊氏は後醍醐天皇の魂を弔うために「天竜寺」という寺を作りたいと言い出した。

弟の直義は「何もそこまでする必要ないのに・・・」と思いつつも、あまりにも天皇の死にショックを受けている尊氏を見て少しでも気休めになれば・・・と精神安定のために天竜寺を建てることを賛成しました。

尊氏の足元がぐらつき始める・・・
いつまでもぐずぐずと後醍醐天皇の死を悲しむ尊氏。

それとは反対に直義は意志の強い男でした。

この時代の武士は「貴種尊重」という、尊い血筋をめちゃくちゃ尊敬する気習と、「長男尊重」という気習がありました。

尊氏がまさにピッタリだったんですが、直義は「兄は少し気が弱すぎる・・・。実質的な政治はオレがやろう」と思うようになってきたのです。

尊氏は人がいいから直義の言うことに間違いはないだろうと何でも直義におまかせ。

が、ここに一人「直義殿の最近のやり方はちょっとなぁ。尊氏殿を利用して自分の野望を遂げようとしてるんじゃないか?」と思う人が出てきたのです。

それが共に戦ってきた高師直でした。

そして高師直は次第に直義を警戒するようになり、直義の方もなんとなくそんな高師直を敬遠するようになってきたのです。
有能で女好きの高師直

高師直の才能を高く評価していた尊氏。

直義とともにずーっと自分の右腕にしていました。

師直は北畠顕家・新田義貞・楠木正成との戦いの時も常に最前線で大健闘。多くの武将を威服させていました。

そのため師直の兄である師泰は侍所の長官に取り立てられ、兄弟そろって足利幕府の軍事上の権限をゲット。

大活躍の師直はだんだんと態度がでかくなってきたのです。

昔っから四位以下の官位の者はボロい家に住まなきゃなんないのに、しきたりを気にしない師直はめちゃくちゃ豪華な家を修築して贅沢な生活を始めました。

また大の女好き。公卿の娘だろうが皇族の女性だろうが手を出しまくり。

美女と見ると相手かまわず手をつけたのです。

しかも飛びぬけた美人は自分の家に囲っておいて、毎晩色んな女のトコへ行ったりしました。

そして関白に二条道平の妹も掠奪!子供まで産ませてしまい二条道平は「田舎者の武士にいいようにされてしまうとは!」と天下に赤恥じをさらしたのです。

さらに後醍醐天皇の外戚で絶世の美女といわれていた早田宮の娘に目をつけました。

だけどこの娘にはれっきとした塩谷高貞というダンナがいたのです。師直は何度もアタックするも、とうとうこの横恋慕は実りませんでした。

だけど師直黙っちゃいない。尊氏&直義ブラザーズに塩谷高貞の悪口を散々言ってしまいそれを信じた尊氏は高貞を攻め滅ぼしてしまったのです。

この頃になると師直は自分が軍事を担当してるんだから、オレ様に怖いものなんてないぜ!と思うように。

次第に幕府の法も無視していくようになるのです。

尊氏 一人悶々と思い悩む 「直義のせいでオレは・・・」
後醍醐天皇が死んだ後の南朝では新しく後村上天皇が即位しました。阿野廉子の息子です。

そして声高々に「南朝はあくまでも尊氏を討つ気持ちは変わらない!必ず北朝を潰す!」と宣言したのです。

さらに尊氏の尊敬する高僧 夢窓疎石(むそうそせき)が「後醍醐天皇は深い恨みを持ちつつ死にました。息子の護良親王も同じです。この2人の恨みは後に天災となり祟りを起こすかもしれませんぞ」と言ったのです。

尊氏は恐怖心も手伝い、神仏へ依存するようになってきました。そして

「オレは直義の影響が強すぎたのかもしれない。兄弟一緒になって天下を取るべく歩いてきたが、この選択は本当に正しかったのだろうか?オレが今までやってきたことは全て直義の言いなりになってきただけではないだろうか?オレは本当は後醍醐天皇のことだってスキだったのに、後醍醐天皇に恨まれたのも全て直義のせいではないか。本当のオレというものはなく、今までのオレは直義の操り人形にすぎなかったのかもしれない」と思うようになってきたのです。

足利直義VS高師直
直義も高師直も元々天皇に対する尊敬心はあまりなかった。むしろ尊氏が天皇命!って感じだったのをバカにしていました。

が、直義は政治を担当していくにつれ、「地方武士たちは貴種尊重が強い。天皇に対しても何だかんだいいつつ崇拝の気持ちを抱いている。この崇拝心を急速に打ち砕くのは賢いこととはいえないな。地方武士たちを統率していくには、武士達が持っている天皇崇拝の気持ちを逆に利用したほうがうまくいくかもしれない・・・」と考えるようになってきたのです。

これが高師直には気に喰わなかった。

「なんだなんだ?直義殿も尊氏殿と同じく、ついに御所の犬になったのか?」と馬鹿にし始めたのです。

師直はますます皇室嫌いに輪がかかり、「尊氏殿も直義殿も武士だというのに、武士の気持ちを忘れて昔の平家のように朝廷に取り入ろうとしている!武士は武士らしくせねばならんのだ!」という気持ちがますます強くなりました。

地方武士が恩賞のことで皇室側のために不利になったと相談してくると「じゃあ自分の武力で取り返せ!それが武士というものだろう?バックにはオレがついている」と煽り、武士達はその通りに実行。

力で公家達の土地を奪いました。

また京都市内で上皇の車が通っても武士達がお辞儀しないので、天皇の供が「これは上皇の車であるぞ!脇に寄れ!」というと、武士達はバカにしくさって弓矢を放ったり。

直義はこういった師直の態度は逆に幕府の政治をやりにくくする・・・と、師直に文句を言いに行ったのです。

「師直どの。ここんとこ武士が乱暴だという苦情が多すぎる!もう少し自重してくれ」

「何を言ってる。今は武士の世の中だぞ?だいたい尊氏殿や直義殿が公家連中に優しすぎるのじゃ。あいつらなどもっと徹底的にぶっ潰してしまえばよいのだ。」

「そうはいかん。だいたい師直殿は足利家の執事であろう?少し言葉が過ぎるぞ。」

「確かにワシは足利家に仕えているが、仕えているのは長男の尊氏殿にだ。良かれと思うことは口出しさせてもらうぞ。だいたい直義殿こそ征夷大将軍でもないくせに政治を自分の思いのままにしすぎじゃないのか?」

と、2人は毎日激突しまくったのです。

直義には評定所・引付衆などの職員のほかに鎌倉で政治をやっていた時に仲良くなった東国の武士。

師直には戦功によって出世させてもらった武士達や譜代の家臣たち。

お互いいつバトルが始まってもおかしくないくらい険悪になっていったのです。

1342年9月 土肥頼遠 「院?犬のことか?」事件
バサラ代表選手・土肥頼遠が事件を起こしました。

それはある晩のこと、しこたまお酒を飲んだ頼遠が車に乗って帰っている途中に、光厳上皇の車とばったり出会ったのです。

上皇側は「おい!この車は恐れ多くも院の車でござるぞ!馬から降りろ!」と怒鳴りました。

が、土肥頼遠は「あぁん?こっちこそこのオレ様だぞ!このオレに馬から降りろだとぉ?」と、馬から降りる気配まるでなし

怒った上皇側の家臣たちが「この田舎武士めが!院に対して何たることじゃぁ!」と騒ぎまくりました。

すると土肥頼遠が「なに?院?犬?どっちだぁ?わははは。犬なら矢を放ってしまえー!」と言ったのです。

そして頼遠の家臣らは上皇の乗った車を取り囲み、矢を放ったりとさんざんバカにしまくったのでした。

車に乗ってた上皇はひたすらお祈りをしてたそうです。

そして上皇を乗せた車は、ボロボロになったまま泣く泣く帰りました。
直義怒る!「なにをやっとんじゃーー!」
この事件を聞いた足利直義はビックリ!

「なんてバカなことを!こうなったらヤツラを殺して塩漬けにしたる!」と超激怒

それを知った土肥頼遠はさっさかと本国へ逃げちゃいました。

が、直義は「頼遠をとっ捕まえろ!」と兵を向けようとしたので、頼遠は自首し、なんと首を斬られてしまったのです。

この事件は多くの武士に衝撃を与えることとなりました。

それでもバサラの風潮は留まることはありませんでしたけどね。

ちなみに斬られた土肥頼遠は清和源氏の子孫で、ずーっと足利尊氏についていた武将です。

和歌もたしなんでおり、ただの傍若無人な男ではなかったそうです。

ちなみに土肥家は息子が継ぎました。

その後も本家は潰れましたが、分家は明智光秀などの子孫を出し、「土肥家」は明治維新まで続きました。
怒った師直!直義に攻撃 兄弟絶縁!
直義と師直の険悪指数はヒートアップしてきました。

とうとう怒った師直は直義に兵をもちいて攻撃してきたのです。

軍事力となってしまうと直義は師直に敵わない。

直義は尊氏のもとに逃げ込みました。

そして「兄上!私と師直どちらを取るかはっきりとしてくれ!」と詰め寄ったのです。

もちろん尊氏は「師直!お前は足利家の執事だぞ!思い上がるのもいい加減にしろ!」と直義をかばいました。すると師直は「そうは言っても尊氏殿。あなたは今まで直義殿に操られっぱなしではありませんか?世間でも本当の征夷大将軍は直義殿だと噂していますぞ。これだけ直義殿に操られても直義殿を取るのですか?私はいつまでも尊氏殿の忠臣ですぞ」と詰め寄ったのです。

尊氏は黙り込んでしまいました・・・。

直義は「まさか・・・?まさか兄上私を・・・?」と聞き返すと、尊氏は「直義、お前をクビにする」と言ったのです。

直義は大ショック!「何をバカなことを言うのですかっ!?幼い頃から兄上のために生きてきたというのに!」

だけど尊氏の意志は変わらなかった。

「なるほど、わかりました。兄上がそういう考えならもう何を言っても仕方ありません。もうあなたを兄とも思いません。私がいなくなったらあなたは何もできないただの将軍となるでしょう」と出て行ってしまいました。

尊氏と直義の兄弟愛があっけなく壊れてしまったのです。

この兄弟絶縁は日本中が驚きました。
直義 南朝へ寝返る
ここで九州で動いた男がいました。尊氏の息子直冬です。

尊氏は何故か実子である直冬がキライで、全然可愛がらずにいました。

なぜかというと直冬のお母さんは白拍子だから。

時のスーパースター尊氏が白拍子に手を出して、しかも一発で子供を産んじゃったなんてみっともないってことで、尊氏は直冬を毛嫌いしてたのです。

常日頃それを不憫に思っていた直義は直冬を自分の養子として可愛がったのです。

なので直冬は尊氏よりも直義のほうが大好きでした。

直冬は義父の直義が悲惨な目にあったのを怒り、九州で挙兵したのです。

尊氏は仕方なく師直に直冬軍鎮圧を命じましたが、直冬軍の勢いはすさまじく師直でさえも圧倒されまくり。

尊氏は意を決して可愛がっている息子の義詮を京都に残し、師直とともに直冬軍をやっつけにいったのでした。

尊氏らが直冬をやっつけにいった2日前、直義はひそかに京都を脱出し大和へ向かった。

そして驚いたことに、直義は南朝へ入れてくれと言ったのです。

南朝の方も驚きました。なんといっても尊氏の弟です。スパイか!?と南朝は大騒ぎ。

が、兄弟同士が争うのは南朝にとって大歓迎だし、いっそ2人がブッ潰れてくれたらこんなにラッキーなことはない。南朝は直義を受け入れたのです。

尊氏はこの報告を聞いてビックリ!あれほど後醍醐天皇やその家臣らを苦しめていた直義が、なぜ南朝に降伏するのか?

直冬もすごい勢いで九州を制圧しちゃったし、ここで直義が南朝に入ったもんだから「今が尊氏をやっつける最大のチャンス!」と各地の南朝系地方武士らも立ち上がりだしたのです。

この戦いは直義が勝ちました。

直義は尊氏を嫌っているやつらに味方になるよう動きまくり、得意の頭脳で南朝を勝利に導いたのです。

そして直義は師直が謝れば許してやる!謝んなきゃ殺すぞ!ということに。師直は仕方なく出家することになったのです。

1351年 2月26日 高師直死す!
そして師直は尊氏・直義の元へ行くために京都へ向かいました。

そこに師直に恨みをもった直義の家臣だった上杉・畠山が待ち伏せしており師直を殺してしまったのです。

上杉にいたっては尊氏の母の妹の子供で、「なぜ一門の俺らが執事の家柄である師直より格下でいなければならんのだ?」と師直を憎んでいたのです。

兄の師泰は師直の後を歩いていましたが、弟が斬られたのを見て走りよろうとしたところを後ろから槍で突き刺され、痛みに耐えかねて馬から落ちたところで首を斬られてしまったのです。

「しきたり」というものに全くこだわらず、「権力」「名門」にも屈せず、おのれの力だけを信じ傲慢で自由奔放にやりたい放題で生き抜いた師直。

尊氏の天下取りは師直がいなければ果たせなかったのではないかと言われるほど有能で優れた戦略家でした。

色んな面において「破壊」という文字がピッタリの、本物の悪の象徴に代表される武将でした。

これを知った尊氏は超激怒!

上杉・畠山を引き渡して処刑しろ!といったんだけど、直義は処刑だけはと押しとどめ流罪となりました。

この頃(1350年〜1352年くらい)の室町幕府の権力争いを観応の擾乱(かんのうのじょうらん)といいます。

兄弟骨肉の争いは続く
尊氏はとうとう南朝に降伏した。(一時的にね)そして「直義追討令をくれ」と南朝に迫ってきたのです。

ここまでくると兄弟骨肉の争いは凄まじいものとなって行きました。

尊氏は直義とバトルしまくり。そして鎌倉まで追い込んだのです。

勝利した尊氏は直義に武装解除させて和睦したのです。

直義は鎌倉い幽閉されました。

南朝に降伏した尊氏に対し「今更なんだ!ふざけるな!」と立ち上がってきたのが新田義宗(よしむね)楠木正行・正儀(まさのり)・北畠顕能(あきよし)ら二世チーム。

父を尊氏に殺されたんだから尊氏を恨むのも当然でした。

尊氏はというと、師直らも死んでしまい、赤松則村も死んでしまっていたので頼りになるのは息子の義詮のみ。

戦いは泥沼化し、新田一族が鎌倉を占領したのを尊氏が奪い返しに行ったり、直義が京に攻め込んできたり、いつまでも戦いが続いていました。

1352年 直義毒殺される
鎌倉に幽閉されていた直義ですが、急死してしまいました。

これには「尊氏毒殺説」が残されています。

尊氏が鎌倉にいる直義にお酒を勧めました。

直義は素直にその盃を受け取りました。

が、頭のいい直義はその盃に毒が入っているだろうことを感じていたのです。ですが、直義はそれをぐいっと飲み干したのです。

そしてその場でバタリと倒れました。尊氏はその姿をいつまでも涙を流しながら見ていたそうです。

南朝VS北朝 戦乱は続く・・・
直義の死後は尊氏と南朝の和睦は崩れました。

京都は南朝の後村上天皇に占領され、関東でも新田二世や北条時行(生きていたのです)が躍起しまくったのです。

尊氏と義詮はこれらを撃破して、京都も奪回するが北朝の光厳天皇や光明天皇が南朝に拉致されたりと、戦乱は続きまくっていたのです。

1358年4月30日 足利尊氏死去
1月、後醍醐天皇のために建てた天竜寺が火事で全焼してしまいました。

これに尊氏大ショック。「やはり後醍醐天皇はオレを恨んでいるのだ」と絶望的な気持ちになったのです。

思えば天下を取るため兄弟揃って戦ってきた。高師直という信頼できる忠臣もいた。

3人で力をあわせ北条氏を滅亡させ、鎌倉幕府を倒した。だけど後醍醐天皇には気持ちが通じず哀しい思いをした。

新田義貞という最大のライバルを倒した。楠木正成という真の武士がいた。

だが、残ったのは俺一人だ・・・。

尊氏は義詮を呼んだ。

「朝廷が二つあるからいつまでも戦乱が続くのだ。朝廷を一つにするべく努力しろ」といい、そのまま目を覚ますことはなかったのです。尊氏54歳でした。

1358年 2代将軍 足利義詮
1358年とうとう尊氏が死去。

息子の義詮が2代将軍となり、細川清氏が補佐役に。清氏は、南朝征伐詮を行い見事成功したのです。

再び南朝は窮地に陥りました。

が、ここでまた幕府内でトラブル勃発。

仁木義長というのが、畠山・細川と対立して南朝へ行っちゃったのです。

畠山は他の将とうまくやってけない!ってんで、関東へ帰っちゃった。

細川清氏はというと、南朝の佐々木導誉と対立して、なんと南朝へ降伏。

仁木&細川という2人の有力武将が南朝へ行っちゃったため南朝は勢いづいて京都を占領してしまったのです。

この時2代将軍義詮を助けたのは、直義の家臣だった斯波高経。

頑張って戦って、京都を取り返し幕府の実権を握るように。

その後、斯波VS佐々木が戦い斯波氏の負け

この頃戦功を上げていた安房・讃岐の守護だった細川頼之が後任として管領になったのです。

※太平記はこの細川頼之が就任するまでの物語です。

1367年 義詮は病気になり、息子義満を3代将軍に。細川頼之に義満のことを頼むぞ!と言って死去しました。

室町幕府において最高権力を持つ将軍義満の誕生です。