室町時代その6 1487年〜1542年 | |
名将続々誕生 | |
戦国の申し子 梟雄登場 | |
戦国大名第一号デビュー!北条早雲 | |
1487年 | 早雲 一城の主となる |
早雲 領民に大人気 | |
早雲 伊豆攻撃の準備を整える | |
この頃の関東の勢力「足利ミニ幕府」 | |
1491年 | 伊豆の堀越公方お家騒動 |
北条早雲 伊豆を征服 | |
早雲 ねずみの夢を見る | |
1495年4月 | 早雲 小田原をゲット |
中国地方の雄・尼子経久 | |
1508年 | 幕府ははちゃめちゃ 10代将軍義植返り咲き! |
1512年 | 正体不明の奇病「梅毒」 |
1516年 | 80歳の早雲 最後の大仕事 |
1518年 | 尼子経久悲しむ 長男の死 |
1519年 | 戦国の申し子 北条早雲死去 |
1521年 | 尼子家最盛期!11カ国をゲット★ |
12代将軍 足利義晴 | |
11月3日 | 武田信玄生まれる |
1523年8月10日 | 出てきた!毛利元就家督を継ぐ |
1526年4月 | 今川氏親「今川仮名目録」を制定する |
1527年 | 蝮の道三 登場! |
1530年1月21日 | 上杉謙信生まれる |
1532年 | 三好長慶 後継ぎとなる |
1534年5月12日 | 織田信長生まれる |
1536年6月 | 今川義元 太原雪斎との出会い |
10月 | 今川家お家騒動 花倉の乱 |
1537年2月6日 | 豊臣秀吉生まれる |
元就尼子家にボロ負け | |
1541年6月 | 武田信玄 父・信虎を追放し家督を継ぐ |
7月 | 北条氏康家督を継ぐ |
1542年 | 三好長慶立ち上がる! |
12月26日 | 徳川家康生まれる |
室町時代 その6 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
名将続々誕生 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1432年 北条早雲 1492年 平手政長 1494年 斎藤道三 1496年 太源雪斎 1497年 毛利元就 1500年 山本勘助(?) 1506年 フランシスコ・ザビエル 1510年 松永久秀 1513年 馬場信春 真田幸隆 1514年 島津貴久 1515年 北条氏康 稲葉一鉄 1518年 飯富虎昌(おぶ) 1519年 今川義元 1520年 今井宗久 1521年 武田信玄 1522年 千利休 柴田勝家(?) 1523年 毛利隆元 森可成 1524年 金森長近 1525年 滝川一益 1526年 蜂須賀小六 1527年 酒井忠次 高坂昌信 1528年 明智光秀(?) 種子島時堯(ときたか) 1529年 龍造寺隆信 宇喜田直家 1530年 上杉謙信 大友宗麟 磯野員政(かずまさ)(?) 1532年 ルイス・フロイス(?) 1533年 大村純忠 朝倉義景 小早川隆景 島津義久 1534年 織田信長 1535年 荒木村重 佐々成政 島津義弘 濃姫(?) 丹羽長秀 1536年 池田恒興 1537年 豊臣秀吉 足利義昭 1538年 前田利家 鍋島直茂 本多正信 小山田信茂 北条氏政 1539年 前田玄以 長宗我部元親 鳥居元忠 ヴァリヤーノ 1541年 羽柴秀長 1542年 徳川家康 服部半蔵 茶屋四郎次郎 九鬼嘉隆(?) 1543年 本願寺顕如 狩野永徳 古田織部 1544年 竹中半兵衛(?) 1545年 浅井長政 山内鹿之介 六角義治 1546年 武田勝頼 森蘭丸 黒田如水 最上義光 南部信直 山内一豊 1547年 斎藤龍興 浅野長政 織田有楽 島津家久 1548年 田中吉政 本多忠勝 榊原康政 吉川元長 島左近(?) 1549年 筒井順慶 1550年 津軽為信 1552年 高山右近 1553年 毛利輝元 1554年 脇坂安治(?) 1555年 上杉景勝 1556年 別所長治 蒲生氏郷 片桐且元 藤堂高虎 1557年 仁科盛信(?) 1558年 織田信孝 織田信雄 石川五右衛門(?)小西行長(?) 1559年 大谷吉継 徳川信康 1560年 石田三成 後藤又兵衛(?) 直江兼続 1561年 吉川広家 福島正則 井伊直政 1562年 加藤清正 北条氏直 1563年 加藤嘉明 京極高次 細川忠興 1564年 池田輝政 1565年 長宗我部信親 1567年 伊達政宗 真田幸村 1568年 豊臣秀次 黒田長政 1569年 立花宗茂 金地院崇伝 1570年 佐竹義宣 1571年 支倉常長 柳生宗矩 1572年 宇喜田秀家 1574年 結城秀康 1575年 長宗我部盛親 大野治長 1576年 有馬晴信 1579年 徳川秀忠 1580年 松平忠吉 1582年 小早川秀秋 1593年 豊臣秀頼 と、続々と戦国をにぎわせる武将が産まれました! |
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1523年8月10日 出てきた!毛利元就家督を継ぐ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
毛利家は、もともと源頼朝に仕えていた大江広元の子孫。 毛利元就は1497年に生まれました。 父・弘元が39歳で死に、長男が後を継ぐが酒の飲みすぎで死んじゃいました 長男の子が2歳で後を継いだんだけど、8歳の時病死。 しよーがないので元就が毛利家の家督を継ぐことに。 元就が20歳の時、当時めちゃくちゃ強いと有名だった武田元繁とバトルになりました。 その武田元繁を元就が討ち取ったことから一躍有名人に。 この頃、毛利家は大内家・尼子家の2大勢力に比べると全然弱小でむしろこの2つの家のどっちについた方が得か?なんてことで悩んでいました。 どっちかというと尼子派だったんだけど、元就が武田元繁を討って、ちょっとヒーローになってたので尼子家から反感を買ってました。 ムカつき気味の尼子家は元就のイトコに「謀反起こせば?」とささやいたのです。 これが元就にバレ、むかついた元就は1525年に尼子経久より大内につく!と決意したのです。 元就が尼子家にとって最大のライバル大内家についたことにより尼子家は怒って元就を攻撃しはじめました。 なんとかしのいでいた元就だったが、1540年尼子経久の孫晴久が3万の大軍でやってきたのです。 対する毛利軍は2000人ちょっと。 郡山城で篭城していましたが、大友軍が援軍を出してきてくれたおかげで毛利軍は勝利! 晴久が元就に負けた翌年1541年に、尼子経久が84歳で死去。 経久の死とともに、尼子家に翳りが見えはじめることになるのです。 |
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1526年4月 今川氏親「今川仮名目録」を制定する | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏親は、関東を支配していた北条早雲と同盟を組んでいて三河・尾張を攻めようとしていました。 戦力もさることながら、政治もしっかりとやってました。 「今川仮名目録」という武田信玄が真似した、国を治める法律も早々と作ったりしてたのです。 家柄・軍事・政治と全て優れた家として強大になっていくのです。 |
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1527年 蝮の道三 登場! | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
若い頃は何をしていたかイマイチはっきりしてない人です。 京都妙覚寺において「知恵者」と将来を嘱望されていた僧だったと言われています。 その後、京都から美濃(岐阜)にわたり、山崎屋庄治五郎という名の量り売りの油商人に。 一文銭の中央にある穴を通して油を注ぎ、もし油が穴からそれたら代金をタダにしますぜ!という街頭パフォーマンスで人気者に。 その後、美濃の有力者「長井家」に仕え、そこから紹介されて長井家の主人である美濃を200年にわたって支配していた「土岐政頼」の弟である「土岐頼芸」に仕える事になりました。 元々道三は何をやっても器用で頭もよく、人間的な魅力に溢れいていたらしい。 すぐに土岐頼芸のお気に入りになり、頼芸の側室「深芳野」を譲り受け妻とするくらい信頼されましたが、道三の野望はここで終わりではありませんでした。 主君頼芸を酒に溺れされ、政治から関心を遠ざけ意のままに操るようになっていくのです・・・。 頼芸はというと、大名であり兄である土岐政頼と仲が悪く、道三はそれを利用することに。 頼芸をそそのかし1527年に謀反を起こさせ、頼芸が美濃の大名になりました。 が、頼芸を言葉巧みに山の中のお城に閉じ込め政治を道三が操るように。 そんな道三のやり方に、長井氏らが不満を持ち始めるのです。 道三は自分を紹介してくれた長井氏を謀反の疑いあり!とし、長井氏を謀殺してしまいました。 その居城であった稲葉山城を含む長井家を乗っ取り、名前を長井新九郎とした。 自分を取り立ててくれた恩人である長井氏をも、自分の出世の為に消す。 これぞ乱世戦国を代表する梟雄ですねー。 |
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1530年1月21日 上杉謙信生まれる | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「上杉家」というのは、源頼朝の一族の流れを汲む名家でした。 謙信の「上杉家」は、もともと「長尾家」という家柄で、本筋の上杉家より格下の家でした。 が、本筋の「上杉家」が、この時代に没落してしまったため、謙信のいる長尾家が、この本筋の上杉家を継ぐことになるのです。 謙信は、長男である兄春景がいて謙信(幼名虎千代)が生まれた時は兄は18歳。 「いまさら余計なヤツが生まれやがったよ」と、小さい頃はお寺に奉公に出されていました。 が、謙信は僧としての学問を学ぶより、兵学の方が好きで、お寺から「この子は僧には向いてません」という手紙までもらうような少年に成長していきました。 その後謙信は、禅や仏の修業を7年も続け、後は僧侶になる予定で成長していくのです。 |
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1532年 三好長慶 後継ぎとなる | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三好家は細川家の支配化にある阿波にありました。 応仁の乱の時、三好家は細川の軍に入って大活躍。 三好家は、細川軍の中で一番強力となっていくのです。 が、そんな三好家に危機感を感じ始めたのが主君である細川家。 これ以上でかくなる前に・・・と、三好家の当主を殺してしまったのです。 次の後継ぎになったのは長慶の父である三好元長。 ですが元長も細川家に危険視とみなされ、自害させられてしまうのです。 三好家は主君である細川家によって、めちゃくちゃにされてしまいました。 次の当主が「三好長慶」でした。 長慶はこの時まだ9歳。 どうすることもできず、所領を細川家に取られ淡路島に逃げていったのです。 淡路島へ逃げた後も三好家は細川家の家臣として、戦いに参加させられてしまいます。 |
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1534年5月12日 織田信長生まれる | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() 信長の幼名は吉法師(きっぽうし) 乳飲み子の頃から、乳母の乳首を噛み切ってしまい、何人も乳母が代わりました。 池田恒利の後妻が乳母になってから、その癖がぴたりと止んだらしいです。 |
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1536年6月 今川義元 太原雪斎との出会い | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今川義元は氏親の五男として生まれました。 五男だったので、家を継ぐ身分じゃありません。 そのため幼い頃からお寺に奉公に出されていました。 とはいっても、正室の子は長男氏輝と五男義元だけでした。 この奉公先のお寺で会ったのが太原雪斎。 父・氏親が死んだあと長男の氏輝が家督を継ぎましたが、すぐ病死。 他の兄弟は養子に行ってたりしたので、残ってるのは三男と五男の義元。 これにより家督争いが始まることとなるのです |
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1536年10月 今川家お家騒動 花倉の乱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
雪斎は今川家の重臣の子で、14歳の時に建仁寺の僧になりました。 ゆくゆくは高僧に・・・と思っていた雪斎だけど、転機がやってくるのです。 今川家の4歳の五男(義元)が寺に入り、その養育係として雪斎が指名されたのでした。 そして今川氏親が死に、長男氏輝が死に、氏輝に子供がいなかったために三男の玄広恵探(げんこうえたん)と五男方菊丸(義元)の家督争いがスタートすることとなったのです。 この今川家家督争いを「花倉の乱」といいます。 雪斎は、自分が育てた義元が家督を継ぐチャンス!と考えました。 まず雪斎は、氏親の正室で、未亡人の寿桂尼(じゅけいに)と手を組んだのです。 寿桂尼も、自分の産んだ義元に家督を継がせたかった。 さらに、重臣らに「恵探が家督を継いだら、恵探の母の父親方の福島一族が口出ししてきますヨ・・」と根回し。 これは効き目ばっちりで、重臣の殆どが義元側につきました。 そして恵探と福島一族は花倉城に立てこもり、そこを重臣らが攻撃。恵探は自害したのです。 以後、雪斎は義元の軍師として大活躍することに。 義元は「海道一の弓取り」と呼ばれ東北地方に一大勢力を築いていくのです。 また、駿河の街は義元好みの京風文化となり華やかになっていきました。 |
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1537年2月6日 豊臣秀吉生まれる | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秀吉は尾張の貧しい農民の家に生まれました。 最初の名前は「木下藤吉郎」でした。 8歳の時、口減らし(くちべらし・食べるものがないので外に出されること)のため近くの光明寺に奉公に出されました。 ここでの奉公は長続きせず、ある時寺を飛び出してしまいました。 家に戻った秀吉は、亡き父が残してくれたちょっとのお金をもらって、一国一城を夢見ながら清州城下で針を売り歩き西へ向かっていたのです。 |
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元就尼子家にボロ負け | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元就は、その後もライバル尼子家をやっつけるぞー!と、尼子家の本拠地である富田城を包囲。 が、この時尼子に寝返ったヤツラがいて、大内・毛利ともボロ負け。 元就も死にそうになったが、渡辺太郎ら七騎が身代わりとなって元就を救いました。 これを元就七騎落ちといいます。 |
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1541年6月 武田信玄 父・信虎を追放し家督を継ぐ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() また家臣達も自分勝手で乱暴が多い信虎に嫌気が差していました。 家臣らは、信玄を武田家の領主にしようと反乱を起こし、信虎を追放しようと考え始めるのです。 そして信虎が今川家に挨拶に行き、帰ってくる途中に兵が信虎の周りを取り囲みました。 出迎えと思った信虎が、ノコノコと挨拶しようとすると「謀反」ということがわかり、信虎大ショック! 武田家から追放されてしまったのです。 だけど、武田の基盤を築いたのはこの人!と言われています。 ちなみに、信玄に追放されてからも身の回りの面倒を見る人や、側室をあてがってもらえて生活費なんかもすべて信玄が出してました。 また信玄は「親を追放した男」というレッテルを貼られ、今後何かと辛い思いをしていきます。 以後、家督を継いだ信玄は領地拡大のためグングンと実力を発揮していくのです。 |
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1541年7月 北条氏康家督を継ぐ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
戦国大名第一号「北条早雲」から始まった北条家。 鎌倉時代の「執権・北条氏」とは全く関係なく「後北条」と呼ばれています。 といっても、執権・北条家をめちゃくちゃ意識していました。 早雲死後、氏綱が後を継ぎ勢力拡大していきました。 氏網は天才・早雲とは別タイプで、内政に力を入れまくっていました。 慎重なタイプで、コツコツと領地を安定させ、北条の基盤を確固たるものにしていったのです。 さらにその子、氏康が家督を継いだことによって、さらに北条氏はパワーアップ!関東一帯を支配するようになるのです。 氏康は「武力」というより、どっちかというと政治向きのイメージがありますが、生涯36回合戦に出て一度も敵に背中を向けたことがなかったらしい。 早雲以来の家訓である「家臣と民を大切に」「戦いに勝っても思慮深くして、人心を掌握するように」などなどを忠実に守り、北条家は氏康の時に全盛期を迎えることになります。 ちなみに「北条家」は、土地柄、鎌倉幕府の時の感覚をずっと持っていました。 「東国の武士はこっちで適当にやるから!朝廷とか京都の連中は関東に口出すな!」と言った感覚が、北条家の領地全体に染み込んでいたのです。 |
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1542年 三好長慶立ち上がる! | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
9歳で三好家の後継ぎとなり、淡路島に逃げていた長慶も17歳となりました。 この間、細川家は室町幕府三管領の「畠山氏」「斯波氏」よりも勢力を持ちまくっていました。 三好家は細川家の子分として、淡路島でなんとか頑張っていましたが、とうとう「三好家が持っていた領地を返せ!」と、細川家に要求したのです。 「生意気なことを言うな!」と激怒したのは細川家。 こうして主君細川家VS家臣三好家のバトルがスタートしたのです。 細川VS三好のバトルは長々と続きました。 長慶は「十河家」と手を結び、とうとう父を殺した三好政長を殺し、大坂をゲットしたのです。 そして京都に進み、細川晴元を追い詰めていきました。 ですが京都には「将軍」がいる。 細川家は将軍を守る立場にあるため、細川家をやっつけるということは将軍をも京都を追い出すこととなります。 ですが三好家は「長年の恨み、今こそ晴らしてやるぜ!」とばかり進軍しまくりました。 |
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1542年12月26日 徳川家康生まれる | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この頃はまだ「松平家」として三河にいました。 家康のおばあちゃんである「お富」は、三河武士の生まれでしたが、とても美人でした。 その美しさに惹かれたのが三河刈谷城の城主であった水野忠政。 で、水野忠政とお富は結婚し「於大(おだい)」を出産しました。これが家康の生母となります。 が、お富のことを娘時代から「かわいいなぁ」と狙っていたのが松平清康。 三河一国を平定した頃に、水野忠政に「お富をくれ」と強制的に奪ったのです。 お富は夫の忠政と娘達と泣く泣く別れることとなったのです。 そして松平清康のもとへ嫁いだお富でしたが、なんと清康が1535年25歳の若さで家臣に殺されてしまったのです。 この時使った刀が「村正」だったため、家康は「村正」を嫌っていたそうです。 松平清康が死んだことは、弱小国の大ピンチ! 西からは織田信秀(信長の父)・東からは今川義元が三河を奪うべく侵入しだしたのです。 この時清康の息子広忠(ひろただ・家康の父)はまだ10歳。 そこでお富は広忠を守るべく、女でありながら家臣団の団結を図ったのです。 そして広忠が16歳の時に、別れた娘「於大」を花嫁として迎えさせたのです。この時於大は14歳でした。 お富は最愛の娘「於大」を、松平家の後継ぎである広忠の妻として政略結婚させたのです。 こうして広忠と於大の間に、長男・竹千代が誕生しました。これが松平元康(のちの徳川家康)となるのです。 |
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