お江戸の300藩             




藩って何?

藩っていうのは、今の「県」のこと

江戸時代は幕藩体制といって、幕府が藩を管理してました

簡単に言うと、関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利した時、家康チームについた諸大名に「藩」をあげたのです

藩の数は300あり、300の藩は大会社である徳川を支える子会社のようなもの

その子会社のランクには石高ってのがあり、お米の生産量によって決められてました


藩は、明治新政府により「廃藩置県」が行われ全て「県」となります

ちなみに、今の県名は勝った薩長の味方をした藩には県名をプレゼント

佐賀藩=佐賀県とか、鳥取藩=鳥取県とか

反対に幕府の味方をした藩は、県名をつけてもらえませんでした

どーやらこれは、井上馨の発案だそうですよ


さてさて、ここでは江戸幕府が終わる時、各藩の人たちはどーしたのか!?ってのを紹介

300全部は紹介できないので、幕末にドタバタ劇を巻き起こした藩だけをピックアップしちゃいます

あなたが住んでるトコはあるかな??




幕府側は「佐幕」
薩長土肥側は「勤王」「新政府」「官軍」
となります


松前藩
北海道

未開の地北海道で、唯一町らしい場所が待つ前

当主は松前氏であります

幕末の藩主は松前徳広(まつまえとくひろ)

お父さんは英明の声が高かったんだけど、息子の徳広はちょっとイマイチ

幕府の味方をするか、薩長の味方をするか、最後まで決められなかった

ってことで、家来たちが怒ってクーデターを起こし、藩の体制を「勤王」つまり薩長にしたのであります

が!

なんと榎本武揚率いる旧幕府軍が松前藩に襲い掛かってきました

ここを旧幕府軍のものにするってんで、五稜郭を取っちゃった

松前藩はこの勢いに勝てず、藩主は津軽へ逃げて病死

後を継いだ松前修広(ながひろ)は、新政府軍に加わりました

が、お父さんの徳広が領民を見捨てたので、人気が低かった

ある意味、北の果てでいきなり戦いに巻き込まれたお気の毒な藩であります






八戸藩
青森県八戸市

藩主は南部信順(なんぶのぶゆき)

が、この人実は元島津藩主だった人の五男で、婿養子に入った人

さてさて、幕末になると近くの藩は奥羽越列藩同盟ができちゃって、みーんな幕府の味方をすることに

島津出身の藩主・信順としては「えぇ〜」みたいな感じだったんだけど、仲良しの盛岡藩もこの同盟に入っちゃったので仕方なく佐幕派に

が、積極的な戦をせずにいた

そのため、戊辰戦争後まったく処分を受けずにすみました






弘前藩
青森県弘前市

弘前藩も奥羽越列藩同盟に参加してました

が、正直態度はうやむや〜

そんな時、藩主の津軽家が京都から「徳川慶喜は朝敵になった」というニュースを聞くと、態度をコロリ

すぐさま勤王派となり、秋田藩へ軍を送り込んだのであります

ということで、弘前藩は本領を安堵されました

が、ここでトラブル発生

というのも、弘前藩は新政府から疑惑の目を向けられたため、箱舘戦争の時に官軍の兵力六割を提供したのです

そのためめちゃくちゃ貧乏になってしまい、藩士も農業をしなくては生きていけなくなってしまいました






秋田藩
秋田県秋田市

周りの藩が「幕府とる?新政府軍とる?」と悩んでるというのに、秋田藩は最初っから「うちは幕府の味方!」と決めていました

が、戊辰戦争が始まり、幕府がやばくなってくると悩みだした

そしてなんと!仙台藩からきた「同盟を破らないように」という使者を惨殺し、「うちら、新政府軍につきます!」と言い出したのです

そんな秋田藩に新政府軍は「お隣の庄内藩を攻撃しなさい」と命令

秋田藩は薩長にけしかけられ、命じるままに動くハメに

おかげで新政府軍だというのに、賊軍と変わらないくらいの死者を出してしまいました

さらに新政府軍からは最後まで「秋田藩ってホントにうちらの味方する気あんの?」と疑われてました






庄内藩
山形県鶴岡市

庄内藩は、戊辰戦争前に江戸の市内警備をしてました

そこで薩摩藩邸を焼き討ちしたため、薩摩藩にめちゃくちゃ嫌われてました

庄内藩も薩摩藩が嫌いで、奥羽越列藩同盟の中心的藩に

が、戦いに敗れてしまいました

庄内藩は、みんなで結束して「首謀者はいませんよ」と申告

新政府軍の攻撃にも、一致団結してうまく交わしていきました

ある意味、すごい頭のいい(?)藩




仙台藩
宮城県仙台市

幕末の藩主は伊達慶邦(よしくに)

この人、とーっても日和見主義で、中立をとっていた

が、いつまでも幕府につくか薩長につくか決めなかったため、新政府に「佐幕派」と思われちゃう

この藩主のあいまいな態度に怒ったのが細谷十太夫という藩士

自らチームを結成し「からす組」と呼ばれ、新政府軍を苦しめた

が、仙台藩が新政府軍に負けてしまいました

するとすぐさま細谷は新政府軍につき、仙台藩は何とかセーフとなるのでした





会津藩
福島県会津若松市

この藩に関しては、もう書ききれないくらいの思い入れがあります

とにかく最後まで新政府軍と戦い、白虎隊など数々の哀しい事件を残した藩です

負けた後も賊軍として、会津藩の人々はさらなる苦しみを与えられました

まず新政府軍が開拓しようとしていた蝦夷(北海道)の未開の地に、開拓民として生き残った会津藩士たちが送られていきました

残った藩士たちも貧乏の真っ只中で、娘を妾に出したり、妻を売春婦にさせたり

武士だというのに、贋金つくりをしたり・・・

食べものが無く、豆ばかり食べるので「鳩ざむらい」と馬鹿にされたり・・・・

明治六年になって、残っていた藩士はわずか12人だけだったと言われています






長岡藩
新潟県長岡市

あの河井継之助を出した藩であります

長岡藩は徳川譜代の牧野家が藩主を勤めております

ということで、徳川を倒す側には回ることはできませんでした

が、河井継之助は佐久間象山を師匠とした開国派だったので、どっちかというと幕藩体制には反対してた

ということで、河井継之助は「会津藩を説得します」と申し出たんだけど、その対談相手がめちゃくちゃな生意気で高慢ちきだったため、交渉決裂

長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わることになったのであります

長岡藩の戦いぶりはものすごく、八倍の兵力を持った官軍をやっつけちゃうほど

官軍負けちゃうんじゃないの?とまで言われるほど統率力はすごかった

が、河井継之助が怪我で死んでしまうと、有能なリーダーを失った長岡藩は降伏することに

長岡藩は戦で荒れはて、とうとう廃藩となる








水戸藩
茨城県水戸市

尊皇攘夷の火付役でだというのに、内乱でめちゃくちゃになってしまい、有能な人材がことごとくいなくなってしまった気の毒な藩であります

大老・井伊直弼の安政の大獄により水戸藩はリストラの嵐

怒った水戸藩の藩士は井伊直弼を殺害するという「桜田門外の変」を起こした

さらに水戸藩は「天狗党」を結成するも全滅

藩内でも争いは続きまくり、内政を整えるのに精一杯で、幕末の主役級の存在でありながら、誰一人表舞台に出る人はいなかった





佐倉藩
千葉県佐倉市

藩主は堀田正倫(ただとも)で、幕府の譜代であります

そのため、幕府側にまわると思いきや、新政府軍の方が優勢なので態度があいまい

で、結局新政府軍の味方をすることにしたんだけど、態度が優柔不断だということで、なんと藩主が京都に人質にとられてしまった

で、新政府は佐倉藩に「兵を出せ!」と命令するんだけど、ここでも悩みまくり

怒った新政府軍の使者は、待ちきれず佐倉藩から出て行った

慌てた佐倉藩はすぐさま兵を出し、使者を追いかけていって、その後は新政府軍に命じられるままに動いた

が、新政府軍の味方をすると決め、兵を出した後も、旧幕府軍から「兵を出せ!」と要請されるとこれまた悩んだ

新政府軍もあきれたほど、あいまいだったらしい・・・





請西藩
千葉県木更津市

幕府?それとも薩長?どっちの味方をする??と悩みまくった幕末において、最初からかたくなに佐幕派(幕府)を突き通した珍しい藩

裏切りや謀略の中、最後まで官軍に徹底抗戦した潔い藩であります

藩主は林忠祟(ただたか)で、林家というのはずっと徳川の直参旗本だったんだけど、大名にとりたてられた

その恩を忘れず、藩主は佐幕を貫いたのであります

江戸城明け渡しの時、旧幕府軍の残党たちは幕府再興の夢に賭けていた

その中の何人かが請西藩を頼ってきたのであります

すると忠祟は近くにいる諸藩の佐幕派の人たちを集めて挙兵しようと決意

そして藩の人々に迷惑がかかるのを恐れて、大名自ら脱藩するというとんでもないことをしでかしたのです

志士が脱藩するのは珍しくないけど、大名自らが脱藩したというのは、日本全国この人一人

で、自分に従う人だけ来いということに。集まったのはわずか59人のみ

みんな、新政府には勝てないと思っていたんでしょうね・・・

で、忠祟はというと、その後会津に行ったりと、各地で戦った

が、会津藩が降伏したことを知ると、忠祟も降伏し囚われの身となってしまった

ちなみに林家は弟が継いでいて、忠祟はそこに身を寄せ色んな職を転々とした

忠祟は朝敵となったものの、徳川家の忠義を認められ名誉だけは失ってはいなかった

そしてその忠義は多くの人の心をうち、明治26年に林家は「華族」として列せられるのであります





川越藩
埼玉県川越市

川越藩は「小江戸」と言われていた町であります

藩主は松平康忠

この人、老中だったんだけど、新政府軍に食料を調達したりしたので何とか助かったお人

で、なんとか戦に巻き込まれずにすみ、藩主は松平康英に交代

「いやー、なんとか戊辰戦争をうまく乗り切ったよ〜」と安心していたのもつかの間、大火事が起きてしまい町は焼け野原に・・・

城下町として、かなりの痛手となった





忍藩
埼玉県行田市

忍藩の藩主は松平忠誠(ただざね)

松平なのでもちろん徳川系列

ということで、幕府を支持する!!!と言っていた

が、先代の忠邦が「いや、幕府はもう危ない。藩の生き残りのために朝廷を支持しよう!」と強く言っていた

そのため藩内は「どうする?」ムード

そんな中、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が破れてしまったというニュースを聞いた忍藩

もう幕府はだめだから、新政府側につこう!という人も多く現れた

けど、まだ幕府に忠義を抱いている藩主は、藩の意見をまとめることはできなかった

で、官軍はどんどん進行してきており、忍藩は動揺しまくり

土壇場になり、家臣の一人が官軍につくことを藩主に力説!!

こうしてやっとこさ忍藩は幕府を見捨てることに

無理やり官軍となり、忍藩の兵は長州藩とともに戦うこととなったのであります







前橋藩
群馬県前橋市

だんなさんの暴力とかで、どーーーーーーーしても離婚したい奥さん

が、離婚はだんなさんが許可しないとできない

ってことで、奥さんの最終手段が駆け込み寺であります

有名な駆け込み寺は鎌倉の東勝寺

ここで3年ほど過ごせば、離婚ができるのであります





松代藩
長野県長野市

最初から新政府軍の味方をした藩

が、最初っからなのでお金を使いすぎた・・・

そのため領民が怒り、一揆が勃発してしまうハメに

で、新政府から「藩の失策」として処罰されてしまうという気の毒さ

新政府に味方したために、お金を使いまくったというのに処罰を受けまくった藩であります





松本藩
長野県松本市

松本藩は徳川譜代の藩であります

長州征伐なんかにも出兵してたんですが、鳥羽伏見の戦いのあと、「幕府やばいかも・・・」と悩み始めた

そして藩主松平光則(みつひさ)が新政府軍に入ることを決意!

名前を本名の「戸田」に直して新政府軍のために戦いまくった





荻野山中藩
神奈川県厚木市

小田原藩の支藩という小さい藩であります

小田原藩は大久保家なのでもちろん譜代

ということで、幕府の味方をすることに

さてさて、当時薩摩藩は江戸を撹乱させるために色んな悪いことをしてました

で、薩摩藩のターゲットになっちゃったのがこの藩

運が悪いとしかいいようがないんですが、たまたま狙われ陣屋を襲撃され焼き払われてしまった

ということで、荻野山中藩は薩摩藩が大嫌いに

が、小田原藩が新政府側についてしまったので、仕方なく新政府軍に従うことになってしまいました






小田原藩
神奈川県小田原市

幕府の重要な拠点であった小田原

もちろん藩主も徳川に信頼されている譜代の大久保家

が、藩主の大久保忠礼(ただのり)は、新政府軍がやってくるとすぐさま新政府軍の味方に

そこに上に書いた請西藩の脱藩大名・林忠祟がやってきて、小田原の関所を占領してしまった

さらに、林忠祟に従う!!という藩士たちも現れ、小田原藩は真っ二つに

慌てた忠礼は新政府軍がやってきたのに、何にも歓迎できず、新政府軍に朝敵とみなされ、蟄居となる

小田原藩は幕府の重要なトコだったので、ある意味見せしめ

こうして小田原藩は消えていったのであります





静岡藩
静岡県静岡市

幕末・・・というより、明治維新後に出てくる藩

というのも、15代将軍慶喜が隠棲し、新たに後を継いだ16代目(将軍じゃないけどね)の田安家三男・亀之助がやってきたのが静岡藩だったからであります

当時まだ6歳で、旧幕臣3万人が静岡藩へやってきた

今まで800万石あったのに、いっきに70万石

しかも6歳・・・ってことで、静岡藩は大変なパニックに

そんな静岡藩を救ったのが幕臣だった勝海舟と大久保一翁

二人は亀之助のために、一生懸命手助けした

おかげでいい人材が集まりのちの渋沢栄一や前島密・西周などなどが奮闘

亀之助は徳川家達となり、のちに貴族院議長も務めるようになる





加賀藩
石川県金沢市

藩祖・前田利家のおかげで江戸時代でも一目置かれ、加賀百万石と呼ばれ外様大名の中では最大だった加賀藩

独自の文化を育てていた優雅な藩というイメージがありますが、幕末の時は影が薄い

他の藩と違いお金もあるし、ゆったりしていたので、時勢に敏感ではなかった

みんなが戦っている時も、どうもぬるま湯状態

とういことで、何もしないまま明治維新が始まってしまった

で、最初は「加賀県」となったんだけど、薩摩出身の人が参事としてやってきて、やりたい放題やられてしまう

で、「石川県」にされちゃう

知らないうちに時代に流された藩でありました





福井藩
福井県福井市

福井藩主はあの松平春嶽(しゅんがく)であります

が、安政の大獄で井伊直弼に蟄居を命じられ藩主の座は譲っていました

徳川ゆかりの人でありながら、朝廷からも人望があったため、明治新政府に大名出身でただ一人選ばれております






尾張藩
愛知県名古屋市

尾張藩といえば御三家筆頭

将軍家の次に偉い家であります

藩主は慶勝(よしかつ)で、将軍の慶喜とは従兄弟。会津の松平容保と下で紹介している桑名藩の松平定敬のお兄さんでもあります

ということで、もちろん幕府の味方・・・・・のはずなんですが、なんと薩長側についたのであります

なぜ?というと、尾張藩は将軍家に嫌われていたから

将軍家にとって尾張藩は「将軍の座を狙う危険な家」だったのです

ということで、尾張家は将軍家が大嫌い

江戸を攻撃する時も参加しちゃいました

これにより尾張藩は最悪なレッテルを貼られました

御三家筆頭でありながら、新政府側に寝返ったということで庶民からはバカにされ、尾張藩の裏切りを皮肉った本などが出たり・・・

さらに明治新政府には尾張藩の人はほとんど採用されず、いったい何をやっていたのか・・・と言いたくなります





桑名藩
三重県桑名市

桑名藩主の松平定敬(さだあき)は、鳥羽伏見の時に京都所司代だったお人

そのためもちろん幕府側

で、定敬は徳川慶喜と大阪城へ行き、そこから江戸へ逃げる時も一緒に行動をともにしました

ということで、鳥羽伏見の戦いでは幕府軍が将軍逃走という大負けをくらいました

桑名藩では官軍がやってくるというニュースを聞くと、すぐさま官軍を迎え撃とう!という意見と、いやいや、城を明け渡して降伏しよう!と、議論しまくり

そしてなんと!

最後はくじ引きで決めることにしたのであります

くじ引きの結果は徹底抗戦

が、「でも、それじゃあ朝敵になっちゃうよ」と言い出す人がいて、結局くじ引きの意味なし

こうして議論はずっと続き、とうとう城を明け渡し、官軍に従うという意見に決定

でも、絶対に熱い奴はいる

熱い一派は徹底抗戦を主張し、脱藩して江戸へ向かいました

江戸には慶喜と一緒に、藩主の定敬がいるからね

ちなみに定敬は徹底抗戦派で、江戸に帰ってきても慶喜に軍を立て直して戦うよう言っていた

そこへ脱藩した藩士たちがわんさかやってきたのでさらにヒートアップ

ということで、桑名藩の人々は、以後彰義隊に入ったりと、戊辰戦争をずっと戦い続けるのです

桑名藩の熱い志士たちは、箱舘戦争にまで戦い抜きました

定敬も最後まで頑張ったんだけど、箱舘まで説得にやってきた酒井孫八郎の願いを聞き入れとうとう降伏したのであります







津藩
三重県津市

津藩は藩祖が藤堂高虎なので、もちろん幕府派

鳥羽伏見の戦いが始まった時、津藩は京都と大阪の真ん中を守っていました

で、幕府の使者がやってきて薩摩の軍そなえて援軍をよこすから!と言ってきたのに、その約束は守られなかった

ということで、津藩は日和見となったのであります

で、最後は官軍につきました

津藩はいきなり幕府軍に攻撃しだしたのです

幕府軍は津藩は味方だと思ってたのでビックリ!

突然の裏切りに逃げる人が続出。まさに鳥羽伏見の戦いの勝敗を決定づけたのは津藩だったのだります

この功により、津藩は二万石を加増

藩祖・藤堂高虎と同じく、世渡りのうまい藩でありました






彦根藩
滋賀県彦根市

大老・井伊直弼を輩出したのが彦根藩であります

井伊直弼が桜田門外の変で殺害されてしまってから、彦根藩は苦労の嵐

藩内でも下級藩士たちが「反幕府」の体制をとり始め、強いリーダーのいなくなってしまった彦根藩はあれよあれよという間に新政府軍へ

近藤勇を千葉で捕らえたのも彦根藩の藩士であります





淀藩
京都市伏見区

春日局以来、藩主は稲葉家となり、当時徳川慶喜不在の江戸城において最高責任者が淀藩主の稲葉正邦でした

が、この人とんでもない裏切りをします

鳥羽伏見の戦いの時、幕府軍は官軍に負けてしまいました

多くの敗走した幕府軍は、淀城へ退却し、体制を整えようとしたのであります

が!!なんと淀城は幕府軍の入城を拒否

これは幕府軍にとっては信じられないことでした

そして、「幕府と薩長、どっちの味方につこうかな〜」と悩んでいた諸藩に大きな影響を及ぼしたのです

さらに翌日、淀藩は長州藩に大砲を貸す始末

完璧に幕府を裏切ったのであります

さてさて、江戸城にいた藩主の稲葉正邦は「えぇ?」状態

最高責任者職をもちろんクビになり、老中も辞任しました

淀藩はというと、藩内が戦場になってしまったため、被害はとても大きくなってしまいました






柳生藩
奈良県奈良市

名前の通り、柳生藩とは剣豪・柳生宗矩が藩祖であります

さてさて、ここの藩主はまだ18歳の柳生俊益(とします)

戦いムードが高まると「今こそ徳川への恩を報いる時だぁ!」と、熱い思いで張り切りました

が、船で鳥羽へ向かっている最中に鳥羽伏見の戦いが始まってしまい、ですでに幕府軍は負けてしまったのであります

仕方ないので江戸からやってきた藩主率いる熱いチームは藩へ向かいました

が、国元ではすでに勤王への思いが固まっていた

江戸にいた藩主や藩士たちとは考えが違ったのであります

ということで、藩内において対立が始まりました

江戸にいた藩士たちは国元の藩士のことをボロクソに言い、怒った国元にいた家老は江戸チームの藩士を少しづつ捕まえて監禁したのであります

噂では拷問を加えたとか言われております

で、藩主の俊益も仕方なく勤王派になってしまいました

結果的には柳生藩は生き残れたワケですが、なんとなくスッキリしないですねー





三田藩
兵庫県三田市

三田藩の藩主は九鬼水軍として名高い九鬼家であります

最後の藩主となった九鬼隆義はすごい頭のいい人でありました

最初は幕府の味方だったんだけど、時局をすぐに見極め、鳥羽伏見の戦いがはじまると同時に薩長側へ

維新の翌年には着物を脱ぎ捨て洋服を着るなど、時代の空気を感じ取るのが上手だった

ということで、三田藩は文明開化の空気を存分に楽しむことができた藩であります





姫路藩
兵庫県姫路市

姫路藩の藩主は徳川譜代の大名・酒井家

老中職もしていたので、もちろん幕府の味方であります

鳥羽伏見の戦いの時も率先して幕府軍として参戦

ということで、朝敵となりました

さてここにきてようやく姫路藩でも「どうする?」となってきました

で、「あくまでも徳川!!」と言ってるのが先代当主と先々代当主

で、「もういいよ。幕府裏切ろうよ」とういのが現在の当主

ここで藩内でバトルが延々と繰り広げられ、一応姫路藩は生き残ることができましたが、後味の悪い内紛は明治新政府になってからも続きました





鳥取藩
鳥取県鳥取市

鳥取藩の藩主・池田義徳はあの将軍慶喜のお兄さんであります

ということで、幼い頃から水戸学を学んでおり、思想は尊王でした

鳥羽伏見の戦いの時、鳥取藩は討幕軍(幕府をやっつける側)に参加することになったんだけど、藩主の義徳は討幕軍に回ってしまったことを恥かしく思い引退

が、引退を引き止められ藩主の座にとどまることとなった





広島藩
広島県広島市

第一次長州征伐の時は幕府軍

第二次長州征伐のときは中立

で、最後は薩長チームについた広島反

が、ちょっと弱腰だったため薩長に仲間はずれにされちゃう

戊辰戦争も軍事力があまりなかったため、たいした活躍ができずに終わった

ということで、明治新政府では要職につくことはできなかった





長州藩
山口県萩市

幕末の時のことを語ってたらココだけじゃ収まることのできない長州藩

幕末のヒーローを数多く出した藩であります

そして明治新政府の要職に数多くの人がつきました





高松藩
香川県高松市

鳥羽伏見の戦いの時は幕府側として戦った

そのため朝敵とみなされていました

が、土佐藩や丸亀藩が攻撃してくると、二人の家老の首を差し出し、慶喜をやっつける時の戦いには参加するということを条件として許してもらった

態度がうやむやだったので、一度は高松県にしてもらえたのに、香川県にされちゃった





徳島藩
徳島県徳島市

徳島藩は代々蜂須賀家が藩主を務めていました

蜂須賀家は日和見の態度をとっていましたが、淡路島にいた家老の稲田家では早くから薩長側についており、戊辰戦争の時も大活躍しました

ということで、蜂須賀家は明治維新後生き残ることができたんだけど、活躍した稲田家は明治新政府からは士族にしてもらえなかった

稲田家は「俺たちが頑張ったから蜂須賀家は残ってるのに!!」と激怒

蜂須賀家内で御家騒動が巻き起こることに

結局、稲田家が士族として北海道へ行くこととなり、幕を閉じることとなった





土佐藩
高知県高知市

幕末に欠かせない藩

が、藩内は上層部と下層部で争い続けていた

結局、最初から頑張っていたと土佐藩の志士たち(武市半平太や坂本龍馬)は消えてしまい、後から出てきた後藤象二郎ら上層部がおいしいどこ取りすることになる





宇和島藩
愛媛県宇和島市

宇和島藩の藩主は伊達宗城(むねなり)

将軍慶喜と仲良しだったんだけど、勢力があるほうにこちょこちょと味方した

つまりは世渡り上手

ってことで、強いときは強いほうにつき、最終的に泳ぎきることに成功した

まさに幕末の波乗りチャンピォン





佐賀藩
佐賀県佐賀市

藩主の鍋島閑叟は、すごい独裁者

また、長崎警備を担当していた藩なので、外国のことに詳しく、近代科学技術はこの時代ダントツでした

どこの藩よりも早く軍を洋式にさせていました

ということで、閑叟がその気になれば幕府だろうがなんだろうがやっつけれちゃうくらい

だけど閑叟は、藩政以外のことは無視しまくり

そのため、佐賀藩の志士たちは、幕末に活躍するチャンスはほとんどなし

だけど明治新政府になると、その高度な技術や知識は大変貴重で、江藤新平・大隈重信・副島種臣などなど、多くの佐賀出身者が活躍しました






岡藩
大分県竹田市

岡藩は佐幕派でした

が、藩士の中には、尊攘派の志士たちと交流を持っている人もいました

その一人が小河一敏(おごうかずとし)一派

彼らは、薩摩藩と親しくなり、京都へ向かうことに

が、彼らが京都に入る一日前に、なんと寺田屋事件が起きたのです

ということで、彼らは一日違いで命拾いしました

その後、岡藩は「帰って来い」と命令

このとき、彼らはすごすごと帰り、岡藩にて蟄居や謹慎を命じられました

もしあのままずーっと京都に潜伏していれば、もしかしたら幕末の有名な志士になれたかもしれないですね






熊本藩
熊本県熊本市

薩摩藩のお隣の藩のため、もちろん幕府を倒すぞ!!派が多いかと思いきや、意外とこの藩は時代遅れの藩でした

情報合戦に乗り遅れており、ずーっとどうしていいかわかんないアヤフヤ態度をとっていたのです

さらに、日本が外国かぶれになっていくのをムカつく一派が現れ、反乱を起こすなど、藩内はぐちゃぐちゃ

西南戦争の頃までそういったバトルを繰り広げており、熊本城の天守閣を焼失するというもったいないことをしてしまった






薩摩藩
鹿児島県鹿児島市

幕末のヒーロー西郷どんを生み出した藩

この藩、幕末はもーぐっちゃぐちゃに色んなことが起きた藩であります

もちろん、ココには書ききれないので、知りたい方は当サイト・歴史の流れをチェックしてね