十代将軍の家重の時代

吉宗は自らを「大御所」とし、将軍職を嫡男家重に譲りました

家重は幼少の頃から言語障害があり、武道には全く興味を持たず酒や遊びが大好きという生活を送って
いました

それに対して優秀だったのは次男の宗武

国学を学んだり文武両道のおりこうさんで、家重を廃嫡して宗武を後継ぎにしようという計画も出まし
た

その計画の中心は松平乗邑

乗邑は享保の改革の時に抜擢され、水野忠之とともに吉宗の有力なブレーンとして活躍しており、この
頃は幕府NO1の実力者

乗邑は宗武の母であるおこんの方や7代将軍家継の生母である月光院らとも仲が良く、宗武を次の将軍に
しよう!と働きかけていました

ですが吉宗は「長幼の序」という家康以来の大義名分を崩さず、家重に将軍を譲ることを決意したので
す。

吉宗だって「なんで宗武が長男じゃなかったんだろう・・・」と常日頃思っていました。

だけど将軍家安泰のためには血筋と出生の順位は絶対だ!と決断したのです。

そして乗邑は罷免され、宗武は登城停止の処分となりました。

ちなみに一橋家もとばっちりを受けました。

3年後月光院らのとりなしによって何とか登城できるようになりましたが、宗武は二度と家重に会いたく
ない!と、生涯にわたり対面しなかったそうです。

そうして何とか将軍となった35歳の家重でしたが、病弱な上に遊び好きで、髪の毛はいつもボサボサ。

将軍の権威はまったくナシでした。

さらに言語障害もあったため、家重の言葉を理解できたのは側用人の大岡忠光のみ。

吉宗は家重に鷹狩を勧めたり、室鳩巣(むろきゅうそう)に学問を学ばせたりと頑張ったんだけど、ダ
メでした。

「鷹公方」というあだ名がつくほど鷹狩がスキだった吉宗に対して、家重はお出かけするたんびにトイ
レばっか行ってたので「小便公方」というあだ名がつきました。

そして家重の小姓となったのが悪名高い「田沼意次」であります



御台所 比宮増子

公家の娘であり、家重と同い年です

この二人の結婚を推し進めたのが松平乗邑でした

増子は才色兼備で有名でしたが、気位が高く、家重とは気が合いませんでした

家重が将軍職に着く前の23歳に死去してしまいました


お幸の方

家重は色々と問題のあった将軍でしたが、女性関係だけは達者でした

お幸の方は公家の娘であります

16歳の時に家重に目をかけられ寵愛を受けました

京風の優雅な身のこなしで、家重をめろめろに

御台所・増子は気位の高い女性でしたが、お幸の方は美しく優しかったので、家重はかなり寵愛しまし た

そして長男・竹千代(のちの10代将軍家治)を出産し、大奥内において権力をゲットしたのです

が、家重の寵愛はしだいに若いお逸の方に移っていくと、嫉妬したお幸の方はお逸の方イジメをするよ うに

お幸の方は「家重が全然あたしんとこにこない!許せない!」と、とうとうお逸の方と一緒にいる家重のトコに怒鳴り込んだのです

家重は若くてぴちぴちの側室と頑張ってたトコだっただけに、超ビックリ!

「こやつを押し込めろー!」と怒鳴りました

そしてお幸は二の丸に幽閉されてしまいましたが、困ったのは家臣たち

まさか次期将軍の生母をこのままにはしておけないだろ・・・と、隠居している吉宗に伺いをたてて、なんとか幽閉をとくことができたのです

以後、家重はお幸の方のところに全く行かなくなり、寂しい晩年を過ごしました


お逸の方


16歳で大奥へ奉公した女性 美人だったため家重の目にとまり寵愛を受けました

お逸の方は「お次」という身分の低い女性だったため、今まで寵愛を受けていたお幸の方に憎まれることになります

この二人の大奥内での争いはかなり激しかったようですが、最終的に「女のバトル」はお逸の方の勝利となりました