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大奥の最後





1868年4月11日

江戸城開城の日が大奥の最後であります

時は幕末、幕府軍は鳥羽伏見の戦いで破れました

そして江戸を火の海にしようとしていた薩長軍でしたが、幕府の家臣である勝海舟と、薩摩の西郷隆盛によって
江戸開城の話し合いがされたのです



この頃、大奥で権力を握っていたのは天璋院(てんしょういん)

13代将軍家定の御台所であります

家定は若くして死んでしまい、14代将軍は家茂に

家茂の正妻が皇女である和宮であります

和宮は京都の孝明天皇の妹

天障院は薩摩の姫(といっても養女になったりと色々ある人)

そのため、和宮と天璋院の仲は最悪でした

和宮からしてみれば「私は天皇家です。天皇の妹です。それがなぜあんな薩摩の田舎女性にご挨拶しなければならしゃりませんの?」

姑となる天璋院からしてみれば「私は前将軍の正妻。後から来た女性が私に挨拶するのは当然でござろう?」

こうしてこの2人はとっても仲が悪く、さらに和宮は様々ないい条件をつけて嫁入りしたため、大奥を今までとまったく違うシステムにしていったのです

これには今までいた大奥女中もムっとしました

和宮が連れてきた300人以上の京都育ちの女官たちが大奥に入り、「京風」を鼻にかけまくったからです

天璋院が「嫁にきたのならば暮らしの全てを江戸風にしなさい」というと、和宮は「結婚する時から御所風にしていいという許可はもらっております」という始末

こうして大奥内では武家風VS公卿風のバトルが毎日繰り広げられていたのです

この決着は天璋院に軍配があがりました

とうとう和宮が折れたのです

ある日、何人ものお供を連れ、2人が庭を散歩していました

天璋院がぞうりを脱ぎ、廊下へあがると、なんと和宮が天障院の脱いだぞうりを揃えたのです

それをみた大奥女中と、京都の女官たちはビックリ!

女官たちは「あんな卑しい女のぞうりを揃えなければいけないとは・・・おいたわしや」と嘆きました

天璋院は和宮の行動を見るとにっこりと笑ったそうです

こうしてこれをきっかけに武家風VS公卿風のバトルは幕を閉じました


が、14代将軍家茂が死んでしまったのです

こうして新しい将軍となったのが、最後の将軍となる徳川慶喜です




大奥内では毎日同じ日々をすごしていましたが、世の中は変わってきていました

尊皇攘夷をスローガンとした志士達が討幕のため動きまくっていたのです


こうして鳥羽伏見の戦いで負けた慶喜は江戸へ逃げ帰ってきたのです


大奥は「これからどうなるんだろうか・・・」と大騒ぎとなりました

慶喜は天璋院と和宮に面会しました

こうなった顛末を話し、和宮に朝廷へのとりなしを頼み込むことに

天璋院も薩摩の女性なので、西郷隆盛宛に手紙を書いたりしました


そして3月14日、現在の高輪にて西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ4月11日に江戸城を明け渡すことが決定したのです

4月8日 徳川家へ江戸城明け渡しの沙汰がありました

大奥も「立ち退くように」と言われたのです

幕府の老中たちは会議を開きました

もちろん、大奥にいるお偉いさんをどうするかです


こうして和宮と家茂の生母である実成院はとりあえず田安家へ

家定の生母である本寿院と天璋院は一ツ橋家へ


が、天璋院は「謹慎中である慶喜は何の沙汰もないのに勝手に水戸へ行ってしまった。将軍がどうなるかもわからないのに城を明け渡すとはなんたること!」と、大奥を去ろうとしなかったのです

老中達は困り果てました


そして「では三日間だけお立ち退きください」とだましだまし説得

「三日間だけならよかろう」と天璋院は承諾したのです


こうして天璋院は三日分ほどの着替えや化粧道具をもって一ツ橋家へ行きました

もちろん、江戸城へ戻ることはありませんでした・・・・


それを知ってか知らずか天璋院は

「もうすぐ薩長の輩が我が物顔で江戸城へやってくる。その軽輩どもに徳川の威光をみせてやろうぞ」と、大奥のお座敷や対面所を見事な芸術品や美術品で飾り立てたのです


こうして江戸城開城とともに、大奥の歴史も幕を閉じたのでした


  




   

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