戦国住宅事情             


武将たちが住んでいた「家」はどんなトコ?




夢は一国一城

武将たちの夢は「一国一城」

お城は武将にとって憧れでした

この時代の武将たちが城を建てる目的は「軍事拠点」をつくること

そのため攻撃しにくく守りやすい城作りをモットーにしていました

となると、場所は守りやすい山の上がベスト

戦国初期は「山城」がとても多く作られました

ちなみに日本で作られた城は40000城ほどありましたが、そのほとんどが「戦国時代」に作られたものです

戦国後期になってくると山城より平地に城を作るようになってきました

なぜ?というと、戦が数多くおこるようになってきたので、山の上の城だと対応できなくなってきたからです

そして広い平野にお城を作り、交通の便も良くしていったのでした

さらに城のまわりに家臣たちの家をたて、一つの町となっていくのであります







城作り

城を建てるぞ!!と決まったらまず設計!

曲輪(くるわ)という、お城を構成する区画をどのように配置するか決めます
ちなみにこの曲輪は、のちに「丸」というように
本丸とか二の丸とかです

お次は土木工事

土台がへにゃへにゃだとすぐ落ちちゃうので、土台をきっちりと組み立てます

初めのころは大きさがばらばらの石垣でしたが、次第に技術が発達してきちんとした石垣で城を築くようになってきました

そして城の回りは堀を作ります

堀は水を入れることで敵の侵入を防ぎます





城づくりの名人

戦国時代は数多くの城を建てたので、城作りの名人と呼ばれる人も出てきました!
ちょこっと紹介!

藤堂高虎  このひと、いろんなトコに転封(引越し)させられてて、そのたびに築城してます。全部で12の城を作ってます。戦国一の設計士


加藤清正  石垣名人と呼ばれた人。清正が作った熊本城の石垣は敵がよじ登れないように作られてます


松永久秀  初めて「天守」を作った人。本格的な天守閣は織田信長なんだけど、久秀も天守を作っていたんですねー。ただ、信長と違って質素







有名なお城

織田信長

安土城・・・6年かけて作った豪華絢爛な城。この城は、以後作る城に大きな影響を与えた。天守閣の石垣は27メートル!!さらに安土城を作るときに本格的な設計をし、城下町も完璧に整えた。本能寺の変の後、焼かれてしまった幻の城であります


豊臣秀吉

墨俣城・・・まだ下っ端の時に秀吉の名前を有名にした城。斎藤家をやっつけるために作った出城。築城にあたり蜂須賀小六などに手伝ってもらい、墨俣一夜城を作ったというエピソードも


大阪城・・・信長が死んだ一年後、秀吉が天下取りの拠点にするべく建てた豪華絢爛な城。黄金でできた茶室も完備!さらに寝室はベッド!難攻不落の城と言われるほどすごい城だった
が、大阪の陣で燃やされてしまった


聚楽第・・・「関白」の権力を見せつけまくるために作った城。平安京のど真ん中に建てた。四季折々の楽しみを集めるというポリシーのもと、千利休の茶室なども置いた。が、わずか10年で終わった


徳川家康

江戸城・・・太田道灌が建てた江戸城を改築!家康らしい質素な城だったけど守りの機能はばっちり。設計士は藤堂高虎

駿府城・・・家康の隠居用のお城。死ぬまでここで過ごした。ちなみにこの城、6年間で9回も火事が起きた。ほとんどが放火らしい


加藤清正

熊本城・・・天下の名城と言われるほど綺麗な城。抜け穴がたくさんあったらしい。石垣名人らしく武者返しという弓状の石垣を作った。それがまた優雅。さらに地震に強い城でもあった


池田輝政

姫路城・・・もともとは秀吉が土台を作っていた。その後、輝政が大改修した。白鷺城と呼ばれるほど綺麗な城


★ 番外編 ★

武田信玄

躑躅ヶ崎館・・・城をイッコも作らなかった信玄。「人は城 人は石垣 人は堀」のポリシーがあり、武将は兵を訓練してよーく育て統率しなさい。そっちの方が城作りより大事!というもの






お城の中

お城の中を紹介!


本丸   お城の中心。城主が住んでいるところ。会議なんかもここで行う

二の丸  本丸を囲んで建てられている

三の丸  こちらも本丸を囲んで建てられている。家臣の屋敷なんかはココ

天守曲輪  本丸の奥にある

隠曲輪  敵からは見えないように作られたトコ。敵から攻められた時、ココに伏兵がいたりする

井戸曲輪  お水を確保しとく場所




プライベートルーム

戦国大名たちのプライベートルーム・・・

が!!実は軍事上の秘密を守るってことで、城内の図面はほとんど残されておりません!
そんな中でも唯一のこっているのが秀吉の大阪城本丸図・そして武田信玄の屋形図のみであります

ということで、信玄の躑躅ヶ崎館をちこっと見たんですが、蹴鞠の場所や大きな池などがありなかなかゴージャス!
ちなみに雪隠(トイレ)はやはり端っこのほうにありました(笑)






トイレ事情

武将たちはトイレにもこだわります!

武田信玄・・・畳を敷き詰めた六畳のトイレ。風呂の水を下水として流すという水洗式!ちなみに信玄はマイトイレを「甲州山」と呼んでいた
さらに芳香剤も使用していた

伊達政宗・・・トイレで本を読むのがダイスキ

加藤清正・・・かなり綺麗好きだったため、高さ30センチの下駄を置き、それを履いて用を足してた

豊臣秀吉・・・掘った穴の回りに石をバラまいて用を足した

北条早雲・・・かなり潔癖だったため、家臣に掃除をさせてから用を足した


その頃の公家さんたち・・・砂雪隠が主流。掘った穴に紙をひいて砂をのせ、用がすむとその上にまた砂をのせるというもの




お風呂

戦国時代のお風呂は蒸し風呂がほとんど
つまり現代でいう「サウナ」

ふんどし姿で湯気を浴び、大量に汗をかいたら笹の葉などで皮膚をこすり垢を出す

五右衛門風呂はもう少し後に出てくるけど、これは朝鮮征伐の時に敵陣で使用し、日本で広まったらしい

さらにこの時代はお風呂に優雅に入るという習慣があまりなかったので、みんな臭かった





人柱

城を建てるときに、無事に工事が終わるように生贄を捧げる「人柱」というのがあります

伝説と事実がごっちゃになっている場合が多いですが、伝説として残っているお城を紹介


出雲松江城・・・数名の美女と虚無僧を人柱にした。城主は堀尾吉晴

越前丸岡城・・・未亡人のお静を人柱に・・・。城主は柴田勝豊

肥後熊本城・・・郷士の横手五郎を人柱に・・・。城主は加藤清正


その他にも多くの人柱伝説が残ってますが、ほんとにあったんでしょうか???