歴史人物の死に際

歴史上有名なあの人物はどうやって死んでいったのか?


あ行

今川義元 朝倉義景 足利義満 太田 道灌

お市の方 石川五右衛門 織田信長 明智光秀

石田三成 井伊直弼 一 遍 沖田総司

足利義教 太田道灌 尼子経久 上杉謙信

池田輝政 石川啄木 足利尊氏 安藤広重

芥川龍之介 大久保彦左衛門 池大雅 井原西鶴

榎本武揚 尾崎紅葉 上田秋成 小野妹子

井伊直弼 在原業平 緒方洪庵 板垣退助

伊能忠敬


か行

楠木正成 後醍醐天皇 吉川元春 黒田如水

春日局 川端康成 川路聖謨 小林一茶

蒲生氏郷 加藤清正 葛飾北斎 勝海舟

空 海 小泉八雲 喜多川歌麿 和宮

木戸孝允 幸田露伴 近藤 勇 小早川秀秋

喜多川歌麿 北政所(おね) 小西行長 国定忠治



さ行

菅原道真 斉藤道三 佐藤忠信 千利休

真田幸村 俊 寛 坂本龍馬 杉田玄白

真田信之
杉原千畝 西郷隆盛 世阿弥

千 姫 清水次郎長 三条実美


た行

平清盛 武田信玄 平将門 豊臣秀吉

徳川家康 伊達政宗 豊臣秀次 武市半平太

谷崎潤一郎 高村光太郎 太宰治 伊達輝宗

高杉晋作 滝沢馬琴 鳥居耀蔵 竹久夢二

徳川綱吉 徳川慶喜 東郷平八郎 田沼意次

唐人お吉 徳川家光 徳川光圀 徳川吉宗



な行

長屋王 新田義貞 夏目漱石 永井荷風

野口英世 二宮尊徳 中浜万次郎 乃木希典

中原中也



は行

平手政秀 別所長治 藤原道長 平賀源内

藤田東湖 北条仲時 平塚らいてう 樋口一葉

北条早雲 北条氏康 福沢諭吉 保科正之

服部半蔵 ペリー 北条泰時 北条時宗



ま行

源義経 松永久秀 前田利家 松尾芭蕉

護良親王 宮本武蔵 毛利元就 松平清康

源頼朝 正岡子規 宮沢賢治 前野良沢

三島由紀夫 森鴎外


や・ら・わ行

ヤマトタケル 山本勘助 吉田松陰 柳生宗矩

柳沢吉安 与謝蕪村 渡辺崋山 由井正雪

ヤン・ヨーステン 山内千代 柳生十兵衛 山内容堂

与謝野晶子






今川義元  討死 41歳
戦国初期、力を持っていた今川家

京都上洛を目指し、桶狭間へ向かった

そこへ織田信長の奇襲に会い、「桶狭間の合戦」となった

予期していなかった奇襲に今川軍は総崩れとなり、信長軍の服部小平太に槍で疲れ、毛利新介に首をとられてしまった

義元は切りかかる毛利新介の指を食いちぎったという

大大名の義元は、雨の中 泥だらけになり這いずり回り、討ち取られたという





朝倉義景 自害 41歳
名門 朝倉家の当主・義景

織田信長に攻撃され、浅井長政とともに姉川で合戦するも敗戦

その後、一乗谷へ逃げるも、織田軍が迫ってきた

義景は家臣の進言により、平泉寺へ身を寄せた

が、家臣の裏切りにより、平泉寺は包囲されてしまう

最期を悟った義景は絶望に打ちひしがれながら自害した




足利義満 病死 51歳
栄華を極め、好き放題生きた義満

が、病気には勝てなかった

咳がすごく、風邪が悪化して急性肺炎で死亡した

義満死後、新将軍となった息子は、父が大嫌いだったので、義満に築いた基盤を全てぶち壊すこととなる



太田 道灌 殺害 54歳
あまりにも頭が良すぎたために主君に疑われるようになった太田 道灌

主君上杉定正は、不安になり道灌を暗殺することに

暗殺者である曽我兵庫は、道灌かお風呂から出てきたところを斬りつけた

死ぬ間際に道灌は「当方滅亡!」と叫び息絶えた

「私が死んだら、当家は滅亡するであろう」という意味である

道灌の言うとおり、主家である扇谷上杉家は滅亡へと歩んでいくこととなった



お市の方 自害 37歳
織田信長の妹であるお市。最初の夫である浅井長政が殺され、柴田勝家と再婚

が、勝家と豊臣秀吉との戦いが始まり、夫である勝家が負けた

北庄城に戻った勝家のもとに、秀吉の追撃の手が忍び寄り、お市の方は3人の娘を城外に脱出させ、みずからは勝家とともに自害

炎の中へと消えていった




石川五右衛門 釜茹で ?歳
世紀の大泥棒石川五右衛門もついに御用となった

そして五右衛門は釜茹での刑に処されることに

仲間が次々と煮えたぎった釜の中に落とされ、死んでいく・・・

五右衛門はその様子を目を見開き見ていた

自分の番になると、「念仏を頼む」と言い、死んでいった



織田信長 自害(討死)  49歳
武田を滅ぼし、悠々と本能寺で茶会を開いた信長

が、家臣である明智光秀に裏切られ、本能寺を攻められる

最初はどこかで喧嘩でもしているのかと思っていた信長。が、小姓の森蘭丸が「明智光秀謀反!」と言いやってきた

信長は「是非もなし・・・」とつぶやくと、槍で応戦するが、勝ち目なしとわかると、部屋に入り自害した

信長の愛した舞「敦盛」の「人生五十年」にはあと一年足りなかった




明智光秀 討死  56歳
本能寺の変にて主君・織田信長を討った光秀

が、豊臣秀吉が中国地方から戻ってきて山崎の合戦に突入する

光秀は、味方になってくれると思っていた細川幽斎などに見放され、決戦に挑むが負けてしまう

こうして逃げた光秀だが、途中農民に見つかり、殺されてしまう

その死体はずっと放置されており、光秀かどうかわからなかったという・・・




石田三成 斬首 40歳
関が原の合戦

小早川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れとなり、石田三成は敗走した

伊吹山に逃げ込むも、とうとう捕らえられた

東軍諸将の前につれてこられ、斬首が決定した三成

斬首の直前、「のどが渇いた」と言った

兵らは「白湯はない。柿でも食え」というと、三成「柿は痰の毒である」と言った

みな大笑い

「どうせもう死ぬくせに」

が、三成「ばかものどもめ。大義を思うものは最後の瞬間まで命を大事にするのだ」と一喝したのであった


井伊直弼 暗殺 46歳

1860年3月3日 雪の振る日だった
この日、幕府の大老が市中で暗殺されるという大事件「桜田門外の変」が起きたのである

井伊直弼は幕府にはむかう志士達を「安政の大獄」で処分しまくった

それに恨みを抱いた水戸藩の浪士たちが暗殺をもくろんだのである

襲撃は一瞬の出来事であった

この大老暗殺事件により、幕末の動乱はさらに激しくなっていくのである


一 遍 老衰 50歳

一遍とは鎌倉時代の僧侶で、「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽へいけると説いた人であります

全国を歩き回り教えを唱え、16年間苦しい生活をしながら歩き続けた

そのため健康を害し、動けなくなってしまう

死を察した一遍は、弟子たちに「ワシが死んだ後は葬式をするな。わしの亡骸は野に捨て、獣に与えよ・・・」

そういって、皆が見守る中座禅を組むような姿勢のまま息を引き取った



沖田総司 労咳 27歳

新撰組の中で一番剣術が優れていると言われていた男である

1864年、有名な池田屋事件の戦闘中に血を吐いた沖田総司は、そのまま労咳(肺病)となり治ることはなかった

闘病生活を続けることとなる

死ぬ3日前に、多少元気になった総司はふらりと庭へ歩いていった

そこに黒猫が一匹寝ていた

嫌な顔をしている猫だった。総司はその猫を斬ろうと刀を取るが猫に逃げられてしまった

総司は面倒をみてくれているおばあさんに向かい「ばぁさん、斬れない。おれは斬れないよ・・・」と言うとそのまま寝込んでしまった

その3日後、「ばぁさん、あの黒猫はまた来ているんだろうなぁ」と言うと、そのまま息をひきとった



尼子経久 老衰 84歳

一代で山陰地方を制した梟雄・経久

この人の最大の失敗は「後継者育成」だった

民からも好かれ、名城・月山富田城を拠点に数多くの戦を勝利した

が、子供に恵まれなかった・・・

最後は孫に跡を譲るも、孫は毛利元就と合戦となりボロ負け

最後まで尼子家を心配しつつ死んでいった

のち、尼子家は滅亡することとなる・・・


上杉謙信 脳卒中(?) 49歳

越後の龍・上杉謙信は、酒が死ぬほど好きだった

そのために脳卒中で死んだといわれております

武田信玄が死に、将軍から上洛するよう命令がありました

京都では織田信長が上洛し、天下をわがものにするべく動いており、謙信も「そろそろ行くか・・・」といった感じでした

出兵の準備にとりかかるも、突然春日山城のトイレ内で倒れてしまったのです

そのまま意識が回復することなく、49歳の若さで息を引き取ってしまいました



池田輝政 脳卒中 50歳

姫路城を築いた池田輝政

徳川家康の娘を妻に迎え、「姫路宰相百万石」と言われるほどの大出世をした

家康も輝政をとても気に入っていた

そんな輝政が脳卒中で倒れてしまい、そのときはなんとか命はとりとめたが、多少言語障害が残るように

一ヵ月後、脳卒中の再発作に襲われそのまま命を落とした




楠木正成  自害 42歳
最後まで後醍醐天皇に忠誠を尽くした悪党・楠木正成

足利軍に攻められるも、最後まで果敢に戦った

最後は73名となり、全員で近くの民家に入り自害した

最後の言葉は「七回生まれ変わって、朝廷の敵を倒す」



足利義教 殺害 47歳

足利義教は室町幕府六代将軍である

前代未聞の「くじ引き」で決まった将軍であったため、常に家臣らに馬鹿にされないよう強気の政治を行った

そして有力な一族をどんどんと消していき、まさに恐怖政治を行った将軍である

「次はわしの家が危ないかもしれない」と感じた赤松家は、将軍を家に招くことにした

赤松家で将軍を迎えた宴会が始まり、酔いも回った頃、なにやら音がした

「落雷であろう」とのんびりとしていたその瞬間、義教の背後の障子が開き、数十人の武士が襲い掛かった

そして首を刎ねられたのである


太田道灌 暗殺 54歳

太田道灌は室町幕府時代の武将である

この頃、関東では山内上杉氏と扇谷上杉氏が激しい勢力争いを繰り広げていた

が、幼い頃から優秀であった太田道灌の功績で扇谷上杉氏は山内上杉氏をしのぐ勢いであった

扇谷上杉氏の当主であった定正は平凡な男で、太田道灌さえいなければ倒せると踏んだ山内上杉氏は定正に「太田道灌が主家を乗っ取ろうとしている」という嘘の情報を流した

それを信じた定正は、太田道灌が風呂に入っている時に家臣の曽我兵庫を使い殺害した

太田道灌は倒れながら「当方滅亡!!」と叫んだ

これは「私を殺害したことにより、扇谷上杉家は滅びる」というものである

その言葉通り、優秀で忠実な譜代の家臣・太田道灌を失った扇谷上杉氏は滅亡していくのであった





石川啄木 結核 27歳

20歳の頃、このような言葉を言っていた
「ボクには2つの敵がいる。貧乏と病気だ。貧乏には打ち勝つことはできても、病気には勝てない」

ずっと悩まされていた啄木は悪化し、高熱に苦しめられるように

そして明治45年4月13日、早朝より危篤となり妊娠八ヶ月の妻や親友の若山牧水に看取られ死去

死ぬ前日、妻の節子に「おまえには気の毒なことをした。早く子供を産んで丈夫に育ててくれ」と言った

が、妻の節子も一年後、結核で死去



足利尊氏 悪性のおでき? 53歳

室町幕府を樹立した足利尊氏

52歳の時に、背中に腫れ物ができました

侍医の坂十仏に治療をさせましたが、良くなりませんでした

ちなみに治療法は、おできに針を刺して膿を出し、火で炙って揉んだ薬草を貼り付けるというもの

さすがの尊氏も力任せに膿を出され、悲鳴をあげたようです

死亡する一週間前はこのおできに非常に苦しみ、寝返りも打てずにいた

膿が悪臭を放ち、とうとう1358年4月29日午前4時に息をひきとった

安藤広重 コレラ 61歳

東海道五十三次などで有名な江戸の浮世絵師安藤広重

この頃、コレラが大流行し、広重もかかってしまいました

死を覚悟した広重は遺書を書きました

借金の返済や遺品の始末を家族に頼み、残してやる金もないけどあとは頼むな!と言った内容

が、翌日まだ生きてたので余裕が出たのか、今度は2通目の遺書を作成

自分の死体の処理方法や、お通夜の心得まで、ありとあらゆる細かいことを書きました

こうして二通の遺書を書き終えた三日後、この世を去りました

芥川龍之介 自殺 35歳

芥川龍之介の人生には、いつも母の「フク」が棲んでいた

フクは龍之介が11歳の時に発狂して死んでしまったのです

母の兄に引き取られた少年・龍之介の心には、いつも「私の母は発狂して死んだ」というトラウマがありました

30歳の時に毎日新聞の記者になった時に病気となり、それが引き金となり不眠症に
以後、睡眠薬を飲み続け、次第に神経を衰弱させていきます

いつも「将来に対するぼんやりとした不安」が心にありました

次第に不安は心を蝕み、死にたいと思うように

そして睡眠薬だけではなく、アヘンを原料とした薬も飲み始めました

とうとう昭和2年7月23日午前1時 龍之介は東京田端の自宅で致死量の睡眠薬を服用し、自殺したのです



大久保彦左衛門 老衰 80歳

ずっと徳川家に忠義を尽くしてきた大久保彦左衛門

が、幕府の世となり、もはや戦で活躍するということはなくなってきた

ということで、武功派だった大久保家はもはや時代に取り残されてしまった

63歳になった彦左衛門は今まで尽くしてきた徳川家に対し、不満をぶちまけた「三河物語」を執筆

「大久保家は親族を戦死させまくってまでも徳川家に奉公してきた。妻や子供までも食べるものも無く、がんばってきた。が、家康殿はそろばん勘定がうまい者を大事にしている。大久保家を何の罪があって肩身の狭い思いをさせるのか!!」

彦左衛門は死ぬまで武骨者として生きた。むしろ時流に逆らいながら生きた

最後まで無念の思いを抱きつつ死んでいったのでした


池大雅 病死 54歳

画の大家・池大雅は、妻・玉蘭といつまでも仲良く暮らしていました

40歳頃に「大雅様式」を確立させ、画家として不動の地位を手に入れた

が、若い頃に絵を書く為に散々いろんな場所へ旅行していたため、足腰を痛めてしまう

そして54歳の時に大病を患ったが、医者が勧める薬を飲まなかった

そして静かに死んでいったのでした


井原西鶴 肺結核 52歳

江戸時代の俳諧師&作家

「好色一代男」「日本永代蔵」など数々の作品を残しました

が、49歳頃から病気がちになり、淋しい内容の作品を書くように

そして老後の住みかとしていた場所で、秋の雨が降り注ぐ中死んでしまいました


榎本武揚 老衰 73歳

幕末を生きた生粋の江戸っ子

箱館戦争のトップになりながらも、あまりにも優秀だったため殺すのは惜しいとなり、新政府に入ることとなった

以後は新政府で外務大臣や文部大臣などを歴任

老後、将軍だった徳川慶喜が公爵となった

旧幕臣たちはとても喜び祝宴を開き、記念写真を撮ることに

が、榎本の姿が見つからない

彼は「慶喜様と一緒に撮影などという失礼なことは出来ぬゆ・・・」という謙虚さ

そして明治41年に老衰にて死去


尾崎紅葉 胃がん 37歳

尾崎紅葉といえば「金色夜叉」を執筆した人であります

明治30年に発表し大人気に

31年に「続金色夜叉」32年に「続々金色夜叉」を発表したが、この頃から具合が悪くなる

明治34年には伊豆修善寺へ療養するも、大人気作家だったためゆっくりと休ませてもらえなかった

体調は次第に悪化し、病院に行くと「胃がん」と診断されてしまった

以後h、自宅で静養することに

ある日友人たちがお見舞いにいった

すると尾崎紅葉はみんなの顔をじーーーっと見回し「どれもこれまずいツラだなぁ」と笑った

この時紅葉は周囲に気がつかれないようそっと袖で涙をぬぐった

最後は笑って終わりにしたいという江戸っ子らしい気遣いだったのでしょう

そして、数日後息を引き取ったのでした

上田秋成 老衰 76歳

江戸時代の国学者で「雨月物語」の作者でもあります
生まれつき虚弱体質で、5歳の時は天然痘にかかり死にかけました
両親が加島稲荷で必死にお願い
この時、両親いわく「真夜中に神社から加島の神様が現れ、私たちの愛情の深さに免じて、息子に68歳という寿命を授けよう」と言ったらしい

以後、秋成は「自分は68歳でお迎えが来る」と信じて、そして死を覚悟していました

ところが68歳になってもお迎えは来なかった
さらに69歳になっても死なない

それから秋成はなんだか自暴自棄になってしまいました
覚悟をしていたのに、死んだ妻のもとへもいけない
「天はなぜ我を生んだのか」と、嘆き続けました

そして念願(?)のお迎えがきました
1809年6月27日のことで、弟子の家でひっそりと死を迎えました


小野妹子 不明

小野妹子は遣隋使として聖徳太子の国書を隋に届けた人物

ところが、隋の皇帝から託された返事を無くしてしまい、天皇側近らが激怒し、流刑となった

これを推古天皇が救いの手をさしのべ、許された

その後、もう一度隋へ派遣され、その功績が認められた

以後、冠位十二階の第一位という最高位まで昇りつめたが、いつ亡くなったかは不明であ


井伊直弼  暗殺 46歳

幕府の大老であった直弼は、安政の大獄で幕府に反抗する多くの人々を弾圧した

直弼を恨む水戸藩の浪士たちが直弼を殺害したのである

直弼の首を刎ねたのは有村次郎左衛門

以前から直弼のもとには「怪しい動きがあるので身辺に気をつけたほうがいい」と助言する者が多くいたが、直弼はいつもと変わらない警護の人数で屋敷から江戸城へ向かった

その行列が桜田門外に差し掛かったとき、行列の先頭に訴状を持った武士が現れいきなり抜刀
そして周囲にかくれていた刺客たちがいっせいに直弼の駕籠をめがけた

直弼は駕籠から引きずり出され、有村に首をはねられたのである

有村は剣先に直弼の首をかかげたまま歩いたが、有村自身も数箇所も斬りつけられており、もはや動けぬ・・・と、自害した

直弼の首は雪の中放置されていたところ、辻番によって発見されたのである




在原業平  ?  56歳

伊勢物語の主人公で、絶世の美男・平安時代のプレイボーイの代表でもある業平

様々な諸説があるが、個人的にこの説をとろうと思う

業平は未開の地である東国へ旅立つこととなったが、どうやらお妃候補として大事に育てられた藤原高子と不倫したのが原因らしい

34歳の時16歳の高子と出会い、2人は恋に落ちたが、親兄弟によって引き裂かれた

そして高子は清和天皇の妻となるが、2人の関係は続いていた

それがバレてしまい、業平は都を追放されてしまう

晩年は、高子がよく参拝した神社の近くに住み、56歳で死去したとされている


緒方洪庵 疲労死?  54歳

幕末の「適塾」を主催していた洪庵

福沢諭吉や大村益次郎など多くの人材を育て、また名医としても有名だった洪庵は、高い評価を得ていた

この洪庵の名声は幕府にも届き、将軍つきの医者として迎えられた

が、もともと洪庵はそんなに健康な方ではなかったので、江戸へ行くのを断った

それでも幕府は来いといい、しぶしぶ江戸へ

そこで家来を10人養えと言われ、出費がかさみ気苦労だらけ

江戸に出て10ヶ月ほどでストレスのためか大量の血を吐き、その後すぐ亡くなってしまった


板垣退助 肺炎 83歳

幕末から明治維新を生きた政治家

西郷隆盛らとともに征韓論を主張したが破れるが、ここからが本領発揮

立志社を創立し、自由民権運動を展開

その後、自由党を結成し全国を遊説してまわった

が、岐阜県で開かれた自由党懇親会で、外に出ようとしたところ待ち構えていた27歳の男に胸を短刀で刺されてしまう

板垣は血まみれになるが、命だけは取り留める
ちなみにこの時に「板垣死すとも自由は死せず」という言葉が生まれた
本人が言った言葉ではないようですが・・・

傷害事件の後も、元気に政界で活躍し、リタイアした後も元気に生きた

83歳で死去するが、十二分に天寿を全うしたであろう



伊能忠敬 老衰 74歳

江戸時代、日本地図を作成するために日本中を歩き回った人

56歳の時に思い立ち、72歳になるまで日本地図作成の夢にむけて全国を測量して回った

その距離、地球一周に匹敵する

旅の途中、持病の喘息でツライ思いをしたが、それでも一生懸命測量し続けた

が、とうとう72歳の時に病床につく

この時、まだ地図は完成していなかった

そして忠敬は74歳で死去

その後、弟子達が「この地図は忠敬先生の名で出したい」と、忠敬の死を隠す

3年後、日本発の実測地図「大日本沿海興地全図」が完成し、ようやく忠敬の死が公表された


後醍醐天皇 病死 51歳
足利尊氏によって都を追放された後、南朝を作り、尊氏のいる北朝と対立するも、ふとした病がきっかけで病床に伏してしまった

最後の言葉は「たとえ我が身が吉野の苔に埋まろうとも、魂は京都御所の天を臨んでいる」

臨終の際まで足利尊氏を恨んで死んでいった





吉川元春 病死 57歳

毛利家の為に尽くしてきた元春でしたが、56歳の時に化膿性炎症(皮膚にできる膿)をわずらう

以後、具合が悪くなりはじめる

そんな中、親友である黒田如水がお見舞いにと「鮭」を調理し、元春をおもてなし

元春は「鮭は血をやぶるものだから、今これを食べたら病気はますますひどくなるであろう・・・。が、せっかく如水が自分のために用意してくれた食事を食べないなんて悪い」

と、鮭を食べたのです

だがこれがまずかった

その晩、元春の病状は悪化し、死んでしまったのである



黒田如水 病死 59歳

豊臣秀吉の軍師として活躍していた如水
が、その頭の良さに秀吉に疎まれることとなった

関ヶ原にて天下を取る野望も消え、以後は大人しいおじいさんとなっていった

が、自分の死期を悟ると、突然偏屈なおじいさんとなり、家臣らを困らせ始めた

困った息子の黒田長政が「父上、家臣らが困っておりまする」とお願いした
すると如水
「ばかもの。わしが偏屈で嫌なじじぃで死んでいったら、家臣はみな「長政殿が主君になってくれて良かった」と、喜ぶであろう!」

最後まで軍師らしい死に方をした




春日局 老衰 65歳

三代将軍家光の乳母であり、大奥に君臨した女帝

春日局は家光が26歳で天然痘を患った時、回復を祈願し、薬絶ちを誓った

病気になった時、一切薬を口にしないという誓いであります

そして64歳で病気になったが、春日局は薬を一切飲まなかった
家光自らが見舞いにいき、薬を飲ませようとしても、春日局は涙を流しならがお礼をしたが、一滴も薬を飲まなかった

春日局の死に、家光は非常に悲しみ、七日間喪に服した
乳母の死に対して、将軍が七日間も喪に服すなど異例のことである
それほどまでに家光にとって春日局の死の悲しみは深かったのだろう

川端康成 ガス自殺 72歳

「雪国」「千羽鶴」などを書き、日本人で初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成

が、家族には恵まれていなかった

1歳の時に父を亡くし、2歳で母をなくし、7歳で祖母をなくし、10歳の時に姉、そして14歳の時に祖父もなくなり、天涯孤独の身となっていた

川端康成本人は、自殺という行為に非常に否定的であった

芥川龍之介が自殺した時も、否定し続けていた

そんな彼が、逗子になる仕事部屋でガス管をくわえて自殺した

その自殺にはスキャンダラスな噂や様々な憶測が飛び交ったが、今も謎のままである


川路聖謨 ピストル自殺 67歳

日本で始めてピストル自殺をした幕末を生きた人である

川路聖謨は幼い頃から優秀で、徳川のために生きた男であった

幕臣として徳川幕府のために一生懸命働き、いい家柄でもないのに必死で勉強し出世していった

そしてプチャーチンと交渉するほどまで上り詰めていった

が、慶応四年三月十四日 知り合いから「江戸城が明け渡される」という話を聞く

その前日、勝海舟と西郷隆盛が江戸開城の話し合いをしていたのである

それを知った川路聖謨は、もうこれまでだ・・・と思った

幕府を薩摩に潰される・・・・。そう思った川路聖謨は三月十五日、家の人に「この品を買ってきてくれ」と外に出し、一人でピストル自殺したのである

まさに徹底した「幕臣」だった




小林一茶 病死 65歳

江戸時代の俳人である

一茶の生涯は波乱万丈である

50歳を過ぎて、初めて結婚

やっと家と家庭を手に入れた一茶だったが、生まれた四人の子供が次々と死んでしまう

そして妻までもが死んでしまい、一茶は61歳で全てを失ってしまったのである

62歳の時に28歳の女性と再婚するが3ヶ月で離婚

64歳の時に32歳の女性と結婚

が、家が火事で全焼してしまう

一茶はかろうじて残っていた土蔵で生活するが、持病の中風が悪化し、死んでしまった

一茶が死んだ翌年、妻が一茶の子供を出産

自分の子供を見れず、一茶は死んでしまったのである




蒲生氏郷 病死 40歳

死ぬ数年前から下血があったらしく、消化器系の癌・もしくは十二指腸潰瘍と思われます

朝鮮出兵の時に血を吐き、一時は治りましたが翌年また悪化
首の筋肉はやせ落ち、眼の下にはむくみがあり、そのまま治らず1595年2月7日、京都で死去しました

他にも毒殺説も。。。

織田信長にもその才能を褒められた氏郷でしたが、あまりにも才能があったがために天下人・豊臣秀吉に嫌われ、石田三成によって毒を盛られたという説があります



加藤清正 病死 50歳

豊臣恩顧の家臣でありながら、関ヶ原では徳川方についた清正

心の中は複雑でありました

豊臣秀吉の息子・秀頼は大事だが、豊臣家を選べば徳川家康に嫌われ、加藤家は大変なことになる

死ぬ前に行った秀頼と家康の二条城での会見で、清正は豊臣家の為に忠誠心を発揮し、その後熊本へ帰る途中の船の中で具合が悪くなった

その後病状は悪化し、舌がもつれてうまく喋れないように

そして1611年6月24日 死去した

この後すぐに起こる豊臣家滅亡を見ずにすんだのが幸せだったのかもしれない



葛飾北斎 老衰 90歳

富嶽三十六景などの浮世絵で有名な北斎

一度68歳の時に脳卒中で倒れたがなんとか命は助かった

その後73歳の時に名作「富嶽三十六景」を完成させる

90歳で倒れた時に言った言葉が「ああ、あと5年長生きできれば、ワシは本当の画家になれるのに」

画家としての完成意欲は尽きることのなかった北斎でした



勝海舟 脳出血 77歳


明治32年1月19日 「これでおしまい」と言い残し、眠るように死んでいった

とても静かな死に方であった

ちなみに勝海舟の奥さんは、自分が死ぬ時「私を勝海舟と同じ墓に入れないでください」と遺言した
死んでまで勝海舟と一緒にいたくなかったらしい


空海 腎臓炎? 61歳

嵯峨天皇に気に入られ、真言宗を日本に広めた空海

50歳後半になると、皮膚が化膿し炎症を起こし始めてきました

その頃から空海は穀物を絶つように

穀物断ちとは、中国に古くから伝わる修行で、人間の体内には虫がすんでおり、その虫が寿命を縮めようとしている。その虫が穀物を餌にしているので、穀物を食べないことで虫を駆除し、身を清めるというもの

空海は穀物断ちをしながら瞑想の日々を送りますが、835年3月21日午前四時、多くの弟子に見守られながら瞑想した姿勢のまま死去しました


小泉八雲 心筋梗塞 54歳

江戸時代の作家

アイルランド人の父とギリシャ人との母の間に生まれたラファディオ・カーンは、両親の愛に恵まれず叔母さんに育てられました

イギリス→アメリカ→日本へと渡り、明治二十九年に日本へ帰化

このとき、小泉八雲という名前になりました

西洋文化が大嫌いだった八雲は日本文化を愛し、多くの怪談を残しました

ある日、八雲を突然の心臓発作が襲います

そしてその日に眠りにつき、そのまま少し笑い、息をひきとりました

喜多川歌麿 過労死 54歳

江戸時代の浮世絵の大家

浮世絵の魅力に取り付かれ、様々な作品にとりかかり、他の絵師たちにも大きな影響を与えました

が、幕府は風俗上よくない絵を描いた人を取り締まることに

そして歌麿は摘発されてしまいました

ここで入牢3日と、手鎖50日の処罰を受ける

これが精神的にかなりダメージを与えたらしく、さらにこの事件により歌麿の絵はますます話題に

量産に追われた過労も手伝い、54歳で死んでしまった



和宮 脚気 32歳

孝明天皇の妹で、十四代将軍・家茂と結婚した皇女

幕末の動乱期だったため、様々な問題がありました

が、家茂と和宮は予想外に仲が良かった

そんな幼い夫婦でしたが、なんと家茂が死んでしまった

以後、剃髪して静寛院宮となるが、時代は静かな時間をくれなかった

戊辰戦争となり、とうとう江戸城は明け渡されることに

その時、徳川の為に朝廷に様々な行動を起こした

明治10年、脚気を病み箱根の塔ノ沢温泉へ療養しに行きましたが、突然の発作が起きそのまま亡くなってしまいました

まだ32歳でした


木戸孝允 胸痛 45歳

木戸孝允(桂小五郎)は、長州藩出身の人

桂小五郎時代は色んな活躍をし、いろーーんな逸話を残している

が、明治となり「木戸孝允」になってからは途端に今までの輝きは失せていきます

常に病気がちで、どこかが具合が悪く、何度も辞職を願い出るが却下

征韓論の時も、大久保利通とタッグを組み西郷隆盛と対立するも途中で病気になりリタイヤ

次第に大久保利通の権力が増大し、何かと反抗するもなんせ病気だらけでイマイチ

つねに病気がまとわりついていた

西南戦争のときは、大久保から主導権奪回のチャンス!と張り切るが、またも病気

もはや電報でしか、戦況を知ることはできなかった

そして持病(いろんな)はどんどんひどくなり、明治天皇も「こりゃもうだめかな」と、お見舞いにきました

ある夜、いきなりガバっとおきて「西郷、もう大抵にせんか」と怒鳴った

そして眠りにつき、息を引き取ったのでした


幸田露伴 老衰 80歳

明治・大正時代の文豪幸田露伴は、大往生の末80歳で死去しました

晩年は体力が衰え、糖尿病も患いほとんど寝たきり状態に

昭和22年7月11日の朝、孫が露伴のもとへ行ったところ、「おじいちゃまが血だらけ」と言いました

それからはもういつ死んでもおかしくない状況に
27日頃は痛みも感じず、睡眠薬も効かず、鼻血ばかり出していました

娘が「おとうさん死にますか?」と聞くと「そりゃ死ぬさ」と答え、「じゃあおれはもう死んじゃうよ」と言い、意識が途切れがちに

そして7月30日、家族が見守る中静かに息を引き取ったのです


近藤勇 処刑 33歳

新撰組の局長であった近藤勇

鳥羽伏見の戦いで破れてからも、「甲陽鎮撫隊」を結成し、あくまでも官軍と戦い続けようとした

そして最後は下総国流山でまたも闘うべくノロシをあげるも、新政府軍に捕らえられてしまった

捕まった近藤は1868年4月25日に東京・板橋の刑場で処刑され、その首は京都・三条河原へ運ばれさらされることとなった


小早川秀秋 ノイローゼ 20歳

関ヶ原の戦いの寝返り男

西軍でありながら、間際になり徳川家康のいる東軍に寝返り、勝敗の決め手を与えた

そのため家康から多くの恩賞を貰うことに

が、敵・味方からも「裏切り者」のレッテルを貼られ、屈辱的な日々を送る

世間からも非難され、ノイローゼ状態に

弱冠20歳の若者に、この状況は耐え難いものだった

三成の亡霊が・・・など、口走っていたという

そして関ヶ原の戦いから二年後、死去

小早川家はその後、断絶となる


喜多川歌麿 心労 53歳

江戸時代の美人がで有名な歌麿

女性達に大人気となり、一躍売れっ子の絵師に

が、歌麿がもてはやさてたのは5.6年だった

当時、松平定信が寛政の改革に取り組み、質素・倹約をモットーにし、派手な娯楽は一切禁止となった

そんな中、歌麿は豊臣秀吉が美女達に囲まれて酒を飲むという場面を描いた

これが大問題に

将軍をバカにしている!!と、幕府が怒り、捕らえられてしまったのである

歌麿は牢に入れられ、手鎖50日の刑に

これがショックで、以後病気がちとなり、死去した



北政所(おね) 老衰 76歳

豊臣秀吉の正室だった北政所

秀吉が亡くなると、大阪城の実権は秀吉の側室・淀殿へと移った(息子・秀頼を産んでいるから)

貧乏時代から、秀吉と2人で豊臣家を築いてきた北政所にとって、そんな大阪城に未練はなく、京都へ移り住むことに

そこには、加藤清正など、北政所を母親と慕う多くの武将が訪れた

そして、関ヶ原の戦いでは徳川家康を支持

58歳の時に高台寺を築き、平和な余生を過ごした


小西行長 斬首 43歳〜45歳?

キリシタン大名として有名な武将

石田三成と仲が良く、関ヶ原の合戦では西軍に入る

が、裏切りにより西軍は惨敗

小西行長は逃走した

キリシタンゆえに自害することが出来ずにいたところ、伊吹山中にいた庄屋・林蔵主をみつけ、「そこの人、きてくれ」と声をかけた

そして、自らを小西行長だと語り「わしを家康のもとに連れていき、褒美を貰え」と言った

行長は家康のもとへ引き出され、処刑された


国定忠治 磔の刑 41歳

「赤木の山も今宵限り・・・」のセリフで有名な国定忠治

殺人・ゆすり・博打・ケンカに明け暮れ、つねに追われていた

忠治には愛人2人と本妻がいたが、愛人とエッチの最中に脳内出血のため倒れ、半身不随になる

愛人は、本妻に忠治を引き取ってくれるよう頼むが、妻は「愛人の上で倒れた夫はいらない」と拒否

さらに、もう一人の愛人も拒否し、家来の中にも親分の面倒をみようと言う人は誰もいなかった

そんな中、忠治の仲間の一人が「あいつが捕まると、俺の悪事もバレる。それは困るから俺が引き取る」と名乗り出た

その男は、半身不随の忠治を物置に放置したままに
忠治は自分の糞尿にまみれながらすごした

が、かくまっている噂が流れ、とうとう捕らえられた

忠治は罪状が多すぎたため、江戸へ送られた

そして磔の刑に処されたのである

忠治は、病気の身でありながら、槍で2.3度突かれても死なず、結局14度も突かれ死んでいった

斉藤道三 討死 62歳
下剋上を成し遂げた戦国の梟雄は、自分の子ではない長男・義龍と険悪に

とうとう義龍は父・道三を討つべく兵をあげた

主君を殺しのしあがった道三に味方はおらず、老巧な作戦で義龍軍を翻弄するも兵力の数が違いすぎた

敗色の濃くなった道三は、戦場を離脱するも義龍軍の長井十左衛門に見つかった

十左衛門は生け捕りにしようと、道三が疲れるのを待っていたが、そこに小牧源太という男が道三を見つけ首をとった

この2人は功名争いをし、怒った十左衛門が「オレが最初に槍をつけたという証拠を残してやる!」と、道三の鼻をもぎとった

無残な姿となった父・道三の首実験をした義龍は「身からでたサビである。ワシを恨むなよ」と言った




菅原道真  恨死  59歳
無実の罪で大宰府に左遷された道真は、ひたすら都に戻ることを願っていた

が、願叶わず、環境からなる脚気に悩まされ、さらには慢性的な腹痛が出るようになった

とうとう都へ戻る望みを諦め、死んでいった

道真は怨霊となり、京都を恐怖のどん底へ突き落としていく




佐藤忠信  自害 26歳
源義経の郎党。義経四天王の1人

義経が都落ちする際、逃げる義経の身代わりになるため京都に残った

隠れていたが、とうとう見つかり、敵に殺されるくらいならといきなり縁の上に走り出し、腹を十文字に斬った

腸が飛び出したが死にきれず、刀の先を口にくわえ、縁の下へ真っさかさまに落ちて自害した

見事な死に様であったという



千利休 切腹 70歳
秀吉の時代、茶人として権力を持っていた千利休

が、秀吉の怒りに触れ、切腹を命じられた

秀吉の弟たちが大反対するも、千利休が切腹を受け入れた

切腹の理由はさまざまな説がある

切腹の日、千利休は辞世の句を詠んだ

「人生七十 力囲希咄 ・・・・今この時ぞ天になげうつ」

が、70歳の千利休は腹を切る力がなく、傷口に手を差し込み、はらわたをつかみ出して死んだ



真田幸村 討死 46歳
関が原の合戦で西軍にいた幸村は父・昌幸とともに高野山へ追放された

武士として返り咲く日を夢見ていた幸村

そんな頃、徳川家が豊臣家を攻めるという大阪の陣の情報が耳に入る

武士として今一度・・・

こう願った幸村は大阪城へ入ることに

が、豊臣秀頼を取り囲む人々は、幸村らの戦略をまったく聞きもしなかった

幸村らは「こうなっては仕方がない。徳川家康だけを狙おう」

こうして天王寺にて後のない幸村らは死に物狂いで戦う

そして囲みを突破し、家康本陣へ

家康はこの時、死を覚悟した

が、家康は逃げることに成功し、幸村らは戦い疲れ、近くの寺で休息をとる

この時、名もない武将に討ち取られてしまうのであった


俊 寛 餓死 37歳

俊寛は平清盛を討つべく計画をたてたが失敗に終わった

鹿ケ谷の陰謀と呼ばれるクーデター計画の首謀者として、他の2人とともに鬼界ヶ島へと流される

都育ちの3人が暮らしていける環境ではなく、何とか力を合わせ生き延びていた

そんなある日、とうとう都から使いがやってきた

喜んだ3人

が、平清盛は俊寛だけは許さず、そのまま一人取り残されることに・・・

遠くへ消えていく船に向かい、ずっと「船に乗せてくれ・・・」と叫び続けた俊寛

いきている望みは都へ残してきた妻子といつか会えるまで・・・・というものだった

が、そんな妻子が亡くなったという話を島に様子をみにやってきた人に聞いてしまった

俊寛はもはやいきていく望みをなくし、その日から一切食べ物を口にせず死んでいった・・・・




坂本龍馬 暗殺 32歳

幕末をさわやかに生きた男である

土佐藩出身で、海援隊を結成し、薩長同盟を取り仕切り、日本の未来を見ていた男であった

が、幕府にとっては邪魔者以外の何者でもなかった

1867年11月15日、京都にある土佐藩出入りの近江屋で、龍馬は仲間の中岡慎太郎と一緒にいた

龍馬は使いの峯吉に軍鶏(しゃも)を買うよう言い、部屋にいた

すると下で「坂本先生はおいでか?わしらは十津川からきた」という声が

相撲取り出身で、龍馬の世話役をしていた藤吉が二階へ行き、龍馬へことづけした

そして藤吉が引き返してくると、突然襲い掛かってきたのである

「ほたえな!」(騒ぐなと言う意味)と叫んだ龍馬だったが、その瞬間部屋の扉が開き、刺客が「こなくそ!」と叫びながら中岡慎太郎の後頭部を切りつけた

龍馬はすぐさま抵抗しようとしたが、頭を斬られた

刺客は倒れた二人をみて「もうよい。もうよい」という言葉を残して消えていった

龍馬は中岡慎太郎に向かい「俺は脳をやられた。もういかん」とかすかに叫び、息を引き取った

数分後、軍鶏をぶらさげて帰ってきた峯吉によって二人は発見され、中岡慎太郎はわずかに息があったが、翌日絶命した。30歳であった

ちなみにこの日は、龍馬の32歳の誕生日であった



杉田玄白 老衰 85歳

解体新書で有名な江戸時代の医師

もともと胃に持病があったが、大きな病気もなく過ぎていった
が、84歳の時に前立腺肥大(もしくは前立腺ガン)になり、尿が出なくなるように
さらにしゃっくりが多くなった

そして翌年の1817年4月17日に息を引き取った

この時代にしては大往生の85歳である

真田信之 老衰 93歳

真田昌幸の嫡男です
父親と弟の幸村が関ヶ原にて西軍となり、信之は東軍(家康側)という、家族でバラバラとなった真田家

かろうじて信之は「真田家」の名前を守ることができたが、気苦労の多い人生となった

なんといっても弟・幸村は大阪の陣で家康の馬印を倒してしまうほどの大活躍

そのため、いつも徳川家から「危険視」されていたのでした

晩年、真田家で家督争いがおき、なんとか解決したものの、心労がたたったのか病床につくように

家臣たちは薬を飲むようすすめたが「我、すでに生きすぎたり」と、薬を拒み続けた

そして眠るように死んでいった

辞世の句は「西へちろり 東へちろり あかつきの 明星のごとき わが身なりけり」

歌のとおり、ほんとに将軍家に気を遣いまくった人生だったのでしょうね


杉原千畝 老衰 86歳

杉原千畝は昭和初期の外交官です

満州・フィンランド勤務をへて、リトアニア領事館代理となりました

ここへやってきたのがユダヤ人狩りを逃れてきたポーランドの難民たち

ポーランド難民たちがナチスから逃れるには、シベリアを通過し日本経由でアメリカへ行くしか道がなかった

そのため大量のピザを発給してくれるようやってきたのでした

杉原は日本の外務省へ交渉するも、日本は「日独伊防共協定」があったため、答えはNO

が、領事館の前には死から逃れる為に多くの難民が必死になって発給を待っていた

そして杉原は「この人たちを見殺しにするわけにはいかない」と無断でピザ発給をしたのです

連日、何百枚も書きつづけた杉原

その数は2039枚で、助けた人は約6000人(家族もいるからね)

これは映画の「シンドラーのリスト」で、シンドラーが助けたユダヤ人の5倍であります

が、日本に戻ってくると「独断でビザを発行した」ということでクビに

この時47歳でした

それからは色々と仕事をし、「国際交易」のモスクワ支店長に

昭和43年8月のある日、イスラエル大使館から電話が

それはイスラエルのニシュリ参事官が、ボロボロになった紙(杉原ビザ)を持って、28年間杉原を探していたというものだったのです

68歳の杉原は、翌年イスラエルに招待され訪問

そこでバルハフティック宗教大臣が杉原を出迎えた
この人は、かつて領事館でユダヤ人代表として杉原に会った人だったのです

そして杉原はイスラエル政府からヤド・バシェム賞(諸国民の中の正義の人)を日本人として初めて受賞したのです

感動の再会を終えた杉原は、その後鎌倉市内の病院で静かに息を引き取ったのでした


西郷隆盛 自害 51歳

倒幕の中心にいたにもかかわらず、西郷は見解の違いから明治新政府に入ることはなかった

また、明治新政府に対して不満を募らせる元薩摩藩士たちが西郷のもとに集まり始め、新政府に反旗を翻し「西南戦争」が勃発した

が、薩摩軍は新政府軍の反撃にあい鹿児島へ逃走

城山にこもったがもはや勝負はついていた

西郷らは5日間を洞窟ですごすも、死を覚悟し山を降りた

その途中で見つかり、下腹を銃弾で撃たれてしまう

西郷は一緒にいた別府晋介に「もうこのへんでよか」と言い、別府に介錯をまかせ自害した

その後、別府は西郷の首を埋めたが、山県有朋に発見され検死が行われた

検死後、黒田清隆と大山巌が山県有朋に遺体の引渡しを求めた
理由は「西郷の功績をたたえ、手厚く葬りたい」というもの

許可を得ることができ、後輩達によって手厚く葬られた



世阿弥 老衰 81歳

農村の余興であった猿楽を、芸術にまで高めた人物

子供の頃から美男子だった世阿弥は、12歳の時に室町幕府三代目将軍・義満にヒトメボレされ、寵愛を受ける

義満は世阿弥をことの他可愛がり、猿楽を芸能分野で大きく発展させた

が、義満が死去すると、義満のことが大嫌いだった息子が四代将軍となる

義満に気に入られていた世阿弥を嫌い、72歳の世阿弥を佐渡島へ流刑にしてしまう

80歳近くなった頃、許されて京都に帰ることが出来たが、まもなく死去してしまう

千姫 老衰 70歳

千姫は徳川家康の孫である

父親は2代目将軍秀忠・母は織田信長の妹であるお市の方の次女・お江与という、超サラブレット

そして豊臣秀吉の息子・秀頼と結婚が決まっており、7歳の時に11歳の秀頼のいる大阪城へ嫁いだ

が、1614年実家の徳川家康が、豊臣家を滅ぼすため動き出す

これが世にいう大阪の陣

とうとう豊臣家は滅ぼされてしまうが、千姫は落城寸前に救出された

翌年、姫路城の本多忠刻と再婚

子も生まれ、幸せな生活を送っていたが、夫の忠刻が死んでしまう

以後、千姫は出家し、静かに余生を過ごした


清水次郎長 老衰 74歳

街道一の大親分と言われた次郎長

20歳頃からいかさま博打をやり続け、ケンカも強かったためどんどん縄張りを広めていった

ヤクザの大親分となった次郎長が、政府から街道の取調べをしてくれないかと頼まれた

これが次郎長の人生を変えることに

この取調べの統率力が大変良かったため、政府との交渉が多くなり、明治天皇の側近である山岡鉄舟に出会ったことにより、社会事業家として成長していく

そして、地元のために力を注ぎ、庶民から慕われるように

晩年は妻と静かに暮らし、妻に看取られ息をひきとった


三条実美 インフルエンザ 55歳

幕末から明治にかけて、岩倉具視と同じ公卿で活躍した政治家

幕末は苦労したが、新政府になってからは太政大臣になったりと大活躍をしている

55歳の時に世界的に「アジア風邪(インフルエンザのこと)」が大流行した

どんな薬も効き目がなく、発熱から4日後には40度以上もの高熱が出る

さらに肺炎を併発し、体力が著しく低下

もはや手のほどこしようがなくなり、危篤状態に陥る

危篤の急報を聞いて、明治天皇までもが見舞いにやってきた

そして、そのまま亡くなり、国葬が行われた



武田信玄 病死 52歳
織田信長を倒すべく京都へ向かっていた信玄

が、途中で発病する

病は一向に治る気配はなく、とうとう一度甲府に帰ることに

甲府に帰る途中に具合が悪化し、「我が葬儀は無用である。3年間はワシの死を隠せ。ワシの遺体は甲冑を着せ、諏訪湖の底に沈めるように」と遺言して息を引き取った

なお、信玄の死を聞いた天敵・上杉謙信は食事中であったが、「惜しい人物をなくした」と涙を流したという





    
平清盛  病死 64歳
平氏にあらずんば人にあらず・・・と言われるほど栄華を極めた平氏

が、源氏が台頭し始めた

平氏の雲行きが怪しくなり始めた頃、平氏の棟梁・清盛発病

比叡山の水で体を拭っても熱は下がらず、妻・時子は「夢限地獄から迎えがまいった」という夢をみた

清盛は死ぬ前に「源頼朝の首を我が墓前に置け」と言い、死去




平将門 討死 ?歳
将門は関東のヒーローである。朝廷に対抗してみずからを親皇と称し、関東を仕切ろうとした。が、藤原秀郷率いる朝廷軍がやってきて、戦いとなる

そこで眉間に矢を射られ死亡

首は京都に晒されたが、その首が「今一度戦いを!」と叫びながら飛んでいった

将門の首が落ちてきたのは今の東京大手町

ここに将門の首塚が建てられている





豊臣秀吉 老衰(胃がん)  62歳
天下統一を成し遂げた秀吉

が、跡継ぎが側室である淀君の生んだ秀頼一人しかいなかった

幼い秀頼を残して死ぬのが心配でしょうがなく、五大老(徳川家康・前田利家ら)に死ぬ間際までしつこいくらい秀頼のことをお願いして死んでいった

天下統一を成し遂げた男であったが、最後まで秀頼のことを心配しつつこの世を去っていった




徳川家康 老衰(食あたり?) 75歳
豊臣を滅ぼし、名実ともに天下をとった家康

江戸幕府を開き、大御所として政治の世界で君臨していた

ある時、茶屋四郎三郎が「最近京都では鯛のてんぷらなるものが流行しております」と伝えた

家康はその食べ物に興味を持ち、早速調理

かなり気に入ったらしく、なんと丸々二匹分の鯛のてんぷらを食べた

が、その四時間後、急に腹痛を訴えた

そしてのどに痰が絡んで苦しみだしたのである

すぐさま寝床についた家康だが、病状は悪くなるばかり

とうとう息を引き取ってしまいました

伊達政宗 病死(胃がん?)69歳
東北の覇者である独眼竜政宗

徳川の世になると、政宗の出番はなくなっていった

60歳を過ぎると息子に家督を譲り、花鳥風月を愛する日々を送った

そんな政宗も、しだいにやせ細り、食べ物は葦で作ったストローで流し込みながらでしか口に入らなくなってきた

死ぬ間際、江戸で将軍家光に会い、徳川家の恩愛を感謝した

家光は医者を差し向けたが、もはや医師がみてもどうにもならない状態だった

こうして臨終が迫り、辞世の句を詠むと、静かに横になりこの世を去った

「曇りなき 心の月を先だてて 浮世の闇を 照らしてぞゆく」

豊臣秀次 切腹 28歳

豊臣秀吉の甥である秀次は、秀吉に子供が生まれないため、秀吉の後を継ぎ、関白となった

が、その後に淀君に秀頼が生まれてしまう

秀吉は関白を秀次に譲ったことを後悔し、秀次を切腹するよう追い詰めたのである

そして秀次の妻子や妾あど30人以上が三条河原にて処刑された


武市半平太 切腹 37歳

土佐勤王党のリーダーであった半平太

が、弾圧され捕らえられてしまう

自らの死を悟った半平太は、「切腹というのは腹を一文字に掻き斬る者が多いが、古法によると十文字と三文字が作法だそうだ。拙者はどちらかの方法で死ぬつもりだ。世の中の人々に半平太の心が乱れたからと言われるのは心外であるから、半平太の心構えを同志に伝えてくれ」

こう言って、半平太は刀を左腹に突き立てると、右に三たび斬った
手際も鮮やかな古式三文字割腹であった


谷崎潤一郎 老衰 79歳
エロティシズムの世界を確立させた谷崎潤一郎

痴人の愛など傑作を生み出した

が、昭和39年に体調を崩し入院

治療生活に疲れ、こんな生活を繰り返すなら死んだ方がましたと、毎日のように死にたい死にたいと言っていた

最後はシャンペンを飲み、好物のぼたん鱧を食べ危篤となる

病院で酸素吸入のマスクをつけるも、突然マスクをはずしのげぞって死亡した


高村光太郎 病死(肺結核) 73歳

智恵子抄で有名な作家である高村光太郎

最愛の妻・智恵子が狂気の末死んでから7年後、結核になってしまう

高村光太郎は「人間の生涯とは苦しみの連続だ。死んでやっと解放される。これで楽になれる」と語った

また「ぼくには智恵子がやってくる。ぼくは智恵子と二人でいつも話し合っている。だから寂しいことなんてちっともなかったのさ」と話した

最後の詩は

「智恵子の裸形をこの世に残して わたしはやがて天然の素中に帰ろう」というものであった・・・


太宰治 入水自殺 38歳

津軽屈指の大地主の子供として生まれ、何不自由ない生活をしていけるはずだった

が、芥川龍之介の影響を受けており、芥川が自殺した時に強い衝撃を受けた

その4年後、睡眠薬を飲み自殺をはかるが未遂に終わる

その後、大学に進み井伏鱒二に教えを請う

が、その年に銀座のカフェの従業員とまたも睡眠薬自殺する

が、またも未遂に終わった

その後も何度も自殺を図るもすべて未遂

さらには麻薬中毒にもなった

そして最後の作品「人間失格」を書くと、「死」にとりつかれた太宰治は、山崎富栄という女性と玉川上水で入水自殺

入水前に富栄に自分の首を絞めさせたらしく、死体には縄が首にまきついたままだった

そして二人はお互いを紐で結び合って心中したのである


伊達輝宗 殺害 42歳

伊達輝宗は、伊達政宗の父親である

幼い頃疱瘡にかかり、片目が見えなくなってしまった政宗を嫌った実母・義姫は、次男の小次郎を次期当主にしようとした

が、輝宗は政宗を可愛がり、伊達家を継ぐのは政宗と決めた

政宗はそんな父を慕っていたが、輝宗が敵である畠山氏にさらわれてしまった

政宗は激怒し、畠山軍を追いかけ、そして追いついたが攻撃することができない

相手側に父親がいるからであった

が、父の輝宗は大きな声で「家門の恥を残すな!!わしとともに撃て!」と叫んだ

政宗は涙を流しながら父親のいる畠山軍へ向かい一斉射撃を命じ、伊達家は勝利した

その後、政宗は父をさらった畠山家を惨殺したという





高杉晋作 病死 29歳

生きていればおもしろかったであろう幕末の男である

長州藩出身で、吉田松陰に学んでいた

奇兵隊を結成し長州征伐では幕府軍と戦った

気まぐれではちゃめちゃ。だけどとても慕われていた

そんな高杉晋作は結核にかかっていた

体力が限界となり、療養生活に入る

世話になっている野村望東尼に向かい、「おもしろきこともなき世をおもしろく」と書いた紙を渡すと、望東尼が「すみなすものは心なりけり」と続けた

すると晋作は「おもしろいのう」とつぶやき、そのまま息絶えた



滝沢馬琴 老衰(心筋梗塞?) 82歳

南総里見八犬伝を書いた人

48歳の時に南総里見八犬伝を刊行し大人気に

が65歳から眼が悪くなり始め、68歳になると右目が失明
そしてとうとう74歳の時に左目も失明してしまい、長生きしすぎたことを嘆くように

眼が見えなくなってからは、南総里見八犬伝の続きを亡き長男の嫁に書かせ、とうとう完成させた

その後、激しい胸痛に襲われ、1848年11月6日に死去した



 
鳥居耀蔵 老衰 78歳

鳥居耀蔵といえば、幕末「妖怪」といわれた人

幕府の手足となって、邪魔者を徹底的に追い続けた人であります

有名な蛮社の獄にも絡み、稀に見る残酷な幕吏として有名ですね

が、ボスの水野忠邦が失脚すると連座して捕らえられる

人々を監視する立場にあった耀蔵は、一転して監視されながらの生活に

解放されたのは江戸が東京になってから

その時もかつての部下に対してさんざん洋風嫌いを熱弁し、徳川直参であるというプライドを失っていなかった

そして明治5年に死去しました

竹久夢二 結核 50歳

挿絵画家として一世を風靡した夢二

自由奔放な恋愛遍歴を持ち、人気画家として名誉を得ましたが、晩年は人気が落ち目になってきました
ここで心機一転!と、欧米に行くが、途中結核を煩い帰国
そのまま信州の高原療養所に入院となりました

夢二はキレイな空気を吸い、治療に専念するも昭和9年9月1日 入院して9ヵ月後に死亡しました

入院してからの間、見舞い客はほとんどなく、臨終を迎えても肉親は誰も姿を現しませんでした
夢二は医者と看護婦に「ありがとう」と言ったきり、この世を去りました

徳川綱吉  麻疹?暗殺? 64歳

徳川時代の将軍の中で評判が悪かった綱吉

「生類憐みの令」を出し、人間より動物を大切にするようになり江戸庶民の不満を買いまくった

そんな綱吉の死は当時流行していた麻疹にかかって死んだというもの

が、御台所(正妻)が殺したというウワサもある

そして御台所もすぐさま後を追い、自害したとされている

また、綱吉の死を聞いた人々は声をあげて喜んだらしい

徳川慶喜 老衰 77歳

最後の将軍となった慶喜

大政奉還をし、徳川家康から260年ほど続いた江戸幕府に終止符をうった

慶喜を死刑に!という声が多くあったが、戦犯扱いされることなく駿府に移り住んだ

彰義隊や白虎隊など多くの人が幕府のために最後まで抵抗したのに、慶喜は「これからの長い年月、日々退屈しないようにせねばならぬな」と語ったという

実際、本当に趣味に生きた

特に好きだったのがカメラ

さらに2人の側室との間に21人もの子供を生んだ

食べることには困らず、明治時代を楽しみ、死んだのは大正二年である



東郷平八郎 咽頭ガン 87歳

日露戦争で日本を勝利に導いた東郷平八郎は、偉大な提督として一躍有名に

日露戦争後は海軍軍令部長となり、伯爵に叙された

さらにアドミラル・トーゴーとして賞賛を浴び、軍事参義官・元帥と出世街道まっしぐら

さらに東郷御学問所総裁に就任し、皇太子(昭和天皇)の教育係となった

が、あまりにも英雄的存在となり発言力が重すぎてしまったため、晩年はやや煙たい存在に

そして昭和八年ごろから咽頭ガンにおかされ、死去した

死の直前に侯爵に叙され、日比谷公園で国葬が営まれた


田沼意次 心労?? 70歳

江戸時代の10代目将軍・家治時代に賄賂政治をしまくった老中

家治が全面的に信用しており、やりたい放題だった

が、家治が死去すると、今まで「田沼政治」に不満を持っていた人たちが一気に爆発し、とうとう老中の座を奪われてしまった

住んでいた城と所領を没収され、心血を注いで築いた相良城が取り壊されてしまった

それがものすごく悲しかったらしく、取り壊されてから5ヵ月後、死んでしまった


唐人お吉 自殺 51歳

本名は斉藤きち

14歳の時に下田で芸者となり、美人だったため評判に

お吉の運命が変わってしまったのは17歳の時

当時、下田には日米通商条約の締結を迫るハリスがきており、対応に苦慮した下田奉行所は美人のお吉を妾にさせ、ハリスとの交渉を楽にしようとしたのである

幕府はお吉に莫大な大金のお給料を提示するも、お吉は将来を誓い合った恋人もいるため何度も何度も断った

が、お役人や地元の名士に何度も頼まれ、とうとう断れなくなってしまったお吉は泣く泣く了解する

そして4ヶ月ほどハリスに仕えるが、外国人の妾となり大金を手にしたということで、お吉は世間から白い目で見られることに

ラシャメンと罵られ、下田に住むことが出来なくなってしまったお吉は、様々な場所を点々とするが、どこに行っても「唐人お吉」のレッテルがついてまわった

次第に酒に溺れるようになり、身も心もボロボロに

最後は下田の川に身を投げ、自らの命を絶ったのであった

徳川家光 消化器系ガン?うつ病? 48歳

徳川幕府三代目将軍

幼い頃から病気がちで、マラリヤや腫れ物、痘瘡など多くの病気にかかっていた

34歳の時に、どうやらうつ病になったらしく、江戸城に引きこもり誰にも会わなくなり、酒を飲んでごまかしたりしてすごした

当時、うつ病という病気はなかったが、当時の家光の様子を書くと

・御三家が見舞いに来ても顔を出さない
・めまいがする
・落ち込みが激しい
・手足が冷える
・鷹狩りに出かけたが、ずっと駕籠の中に入ったっきり
・少しの物音でビクビクする
・短期になり、理不尽な怒りで家臣を困らせる
・夜、眠ることができない

などなど

だいぶ回復はしてきたものの、頭痛や歩行障害など様々な病気となり、48歳で死んでしまった



徳川光圀  消化器系ガン 73歳

水戸黄門で有名な徳川光圀

若い頃か遊び人だったが、39歳で水戸藩2代目藩主となり活躍する

63歳の時に家督を譲り、隠居生活に入った

隠居生活では、大日本史の編纂に没頭するが、だんだんと食欲がなくなり、酒をまずいと想うように

そして次第に呼吸が弱くなり、息をひきとった

死ぬ5日前にも大日本史を気にかけており、3箇所訂正するなど、名君らしい最期となった


徳川吉宗 老衰 68歳

徳川八代目将軍は、暴れん坊将軍として時代劇でも有名

22歳の時に紀州藩主となり、33歳で将軍となった

徳川家康を尊敬しており、健康法も全て家康を見本にした

そのため健康であった

一度脳卒中を発症したが、後遺症もなく大好きな鷹狩りも出来るように

生涯健康で過ごしたが、68歳で死去

死因は脳卒中の再発か、もしくは前立腺がんとも言われている




長屋王 自害 ?歳
屋敷跡が発見されたことで有名になった長屋王

聖武天皇へ謀反しようとしているという藤原氏のでっちあげによって、弁解の余地のないまま屋敷を囲まれた

そして無念の自害

自害後、無実ということがわかった



新田義貞 討死 37歳
鎌倉幕府を滅亡させた義貞だが、足利尊氏と対立

後醍醐天皇の味方につき、尊氏軍とバトルになった

が、状況は不利だった

家臣達は義貞を逃がそうとしたが、「部下を失って自分ひとりが助かるなどできぬ」と敵の中へ突入しようとした

そこで馬を蹴ったが、ちょうど敵の矢が義貞の乗った馬に当たり、義貞は田んぼに転げ落ちた

やっと立ち上がったところを眉間のど真ん中に矢を討たれる

もはやこれまでと悟った義貞は、みずからの首を切り、田んぼに突っ伏して死んだ





夏目漱石 胃潰瘍? 50歳

「坊ちゃん」「吾輩は猫である」を執筆した文豪

明治を代表する文豪・漱石は二つの病気にいつも悩まされていた
一つは神経衰弱 そしてもう一つは胃の病気でした

42歳で本格的に胃が痛くなりはじめ、「門」を執筆中とうとう入院
その後、修善寺温泉で静養することとなり、8月6日の暑い日に一人で修善寺へ

が、修善寺へ着くと同時に病状が悪化し、多くの血を吐いた
なんとか命はとりとめたものの、その後は病状悪化を繰り返す

そして大正五年の11月22日に机にうつぶせになり倒れる

最後に「死ぬとこまるから・・・」とつぶやくと、そのまま意識を失い死去した



永井荷風 老衰(孤独死) 81歳

若い頃はかなりの自由人

反感を抱いていた父が死ぬと、さらに自由人に

そして73歳で文化勲章を受章し、文壇においては不動の地位を築いた
が、晩年は孤独だった
一人暮らしをしている永井荷風の家には誰も遊びに来ることはなく、書斎には万年床が敷かれており、部屋はホコリだらけだった

ある朝、いつものように朝食を食べに近くの喫茶店へ

その帰りに気分が悪くなり、病床に伏すことに

そして朝、お手伝いさんがやってきたときに見た光景は、上半身を布団から乗り出してうつぶせに倒れている永井荷風の姿であった


野口英世 黄熱病 51歳

2歳の時に囲炉裏に転落し、左手の自由を失ってしまった野口英世

障害に負けずに勉強に励み、医学の道を目指してアメリカへ

蛇の毒の研究をし、細菌学者として「世界のノグチ」にまで上り詰めました

そして黄熱病の研究のため、西アフリカへ旅たったのです

ここで自らが黄熱病にかかり、命を落としてしまったのでした

ちなみに黄熱病のほかにも梅毒を併発していました

いつどこで梅毒に感染したのかは謎ですが、どうやら女性関係はルーズで、若い頃は頻繁に遊郭へ通っていたとの事です



二宮尊徳 老衰 70歳

一昔前は、小学校とかに銅像が多く置かれていた二宮尊徳

が、実は身長182センチ体重94キロという、銅像からは想像がつかないデカイ男でした

農村の復興に尽くしまくった人生で、死ぬ寸前まで働き続けた

が、さすがの尊徳も年には勝てず、疲労の蓄積により病床についてしまい、そのまま息をひきとったのでした

中浜万次郎 脳溢血 71歳

中浜万次郎(ジョン万次郎」といえば、14歳の時に土佐沖から漂流し、ハワイへ上陸した人

以後、アメリカで勉強し、漂流から10年後日本へ戻ってきました

英語が喋れて国際的にも通用する人だったので薩摩藩の教授をしたり、捕鯨活動をしたりと活躍する

明治維新後は現在の東大の教授となり、英語を教えました

そして明治三年にはヨーロッパへ出張をし、帰ってきてからすぐに脳溢血を起こして倒れ、命はとりとめましたが以後表舞台に出ることはなかった

乃木希典 殉死 64歳

明治時代の陸軍軍人

日露戦争で大活躍した人です

満州から凱旋してきた時、乃木は明治天皇にこういいました

「旅順攻略に半年も費やして、多くの犠牲を出してしまいました。この責任は割腹してお詫びしたいと思います」

すると天皇は「今は死んではならぬ。死を願うなら余が世を去ってからにせよ」と言ったのです

この時、天皇は55歳 乃木は58歳でした

以後、乃木は軍事参議官と学習院院長を兼任

なぜ学習院の院長??というと、乃木は二人の息子を日露戦争で戦死さえていたので、二人の代わりに沢山の子供を・・・という願いから


明治45年7月30日に明治天皇が崩御

この日から乃木は毎日続けていた日記をやめ、赤坂にある自宅の表札をはずしました

9月13日天皇の葬儀が行われました

この日、乃木(64歳)と、その妻・静子(54歳)は、部屋に明治天皇の写真を飾り、自害したのでした


中原中也 結核性脳膜炎 30歳

昭和10年ごろの日本は、結核で死ぬ人が一番多い頃でした
特に20〜30歳までの人が多く死んだため、亡国病とまで呼ばれるほど

そして、詩人の中原中也も結核になってしまったのです

中也がかかったのは「結核性脳膜炎」
結核患者がくしゃみや咳をしたことにより感染し、その結核菌が脳を襲うのです

中也は入院した時すでに歩行困難や頭痛、そして眼球が異常なほど膨れ上がっており、うわごとばかり言っていたそうです

そして入院してから16日後、中也は親しい友人と家族に見守られて息を引き取ったのでした

最後の言葉は「ボクは本当は親孝行者だったんですよ。今に分かる時がきますよ」


平手政秀  切腹 62歳
信長の教育係だった政秀は、責任感が強く、マジメな男だった

が、当の信長はうつけ者で、毎日毎日奇矯な振る舞いばかり

何度政秀がたしなめても、信長のうつけは治ることがなかった

そんな頃、信長の父、信秀が死亡

その葬式の場でも信長は乱行に及んだため、政秀は死を持って信長を諌める覚悟を決めた

こうして政秀は自分の教育の仕方が悪かったと責任を取り、切腹

信長は政秀の死を悲しんだという



別所長治 切腹 23歳
豊臣秀吉に攻撃されることとなった三木城

当主が別所長治だった

秀吉は城攻略の作戦として兵糧攻めを行う

三木城には食べるものがなくなり、餓死者が続出

人肉まで食べるほど飢えはすさまじいものだった

とうとう長治は「私の一族が切腹するので、城兵の命を助けてください」と助命嘆願

こうして長治は四人の子をみずから刺し殺し、切腹となった



藤原道長 病死 62歳

藤原全盛期を作り、自らの人生を「望月の世」とまで詠った道長でしたが、最後の夢は極楽浄土へ行くことであった

53歳にて最高権力を握った道長でしたが、その後は体調が悪くなり、顔色が悪くなってくる
どうやら糖尿病だったらしい

やがて目が見えなくなりはじめた

最後には背中に大きな腫れ物が出来て、うみを出すために鍼治療
それはものすごく痛かったらしく、道長は悲鳴をあげた

そしてその数日後、息を引き取った



平賀源内 獄死 52歳

源内はエレキテルを発明するなど、江戸時代においての天才であった

色んな方面に手を出すマルチ人間であった

が、源内の中には天才であるがゆえの狂気も潜んでいた

ある日源内は殺人を犯す

こうして小伝馬の牢獄へ

そしてその罪も定まらぬうちに病死した



藤田東湖 圧死 50歳

幕末の水戸藩の代表的な人物である

水戸藩の中心的人物であった

が、1855年10月2日 江戸は大地震に襲われた

江戸にいた東湖は、地震と気づくと、別室にいる母を助けに行った

母は火鉢をつけっぱなしにしているのを思い出し「火鉢の火が!!」と叫び、また家の中に戻ってしまったのである

東湖は慌てて母を追いかけたが、その瞬間またもものすごい揺れが

そして懇親の力を込めて母を庭に放り投げ、自らは建物の下敷きにあったのである



北条仲時 集団自殺 28歳

鎌倉時代の十三代執権基時の息子であり、最後の六波羅探題のボスだった人

後醍醐天皇により鎌倉幕府を討幕する動きが強まっていた頃、足利尊氏の裏切りにより六波羅探題はもはや戦う気力がなくなってしまった

尊氏率いる天皇勢に追われることとなった六波羅探題の人々は、逃げる決心をすることに

仲時は最後の時を妻子と過ごし、翌朝出発した

様々な追っ手が逃げる仲時らに襲い掛かり、仲間たちは次々野武士に殺された

仲時は最後まで味方が助けに来てくれると信じていたが、助けに来る味方であったはずの佐々木時信はすでに天皇勢の味方についていた

もはやこれまでと察した仲時らは、逃げ延びた132人と同時に切腹するという壮絶な死を遂げた

切腹した場所は、死臭が充満し目をそむけたくなる惨状だった

その2週間後、鎌倉幕府は滅亡することとなる・・・

平塚らいてう 老衰(ガン) 85歳

「原始 女性は太陽であった」という名言を残した、女性解放運動の先駆者・らいてう

女性の権利を高めるために運動し続けた

が、84歳の時にガンが見つかる

最後は「わたしはいつ死んでもいいのよ。もう充分に生きたわ。自分の好きなことをやって私の一生はとても幸せだった」と語った

死んだのは昭和46年

まだそんなに昔の話ではないのが、個人的に驚いた




樋口一葉 病死(結核) 24歳

「たけくらべ」「にごりえ」などの作品を出した明治時代の作家

たけくらべを発表し、森鴎外らから絶賛され、これから!という頃に喉がはれてきた

風邪をひいたと思っていた一葉だったが、いつまでも治らない

次第にやせてきて、目がどんよりしてくるように。そして高熱が続いた

心配した妹が病院に連れて行くと、もはや絶望的な状態となっていた

妹は動揺し、泣きに泣いたその数ヵ月後、一葉はもはや起きることもできなくなってしまった

馬場狐蝶がお見舞いに訪れた時、一葉にはすでに死の影が見えていた

狐蝶が「暮れにもう一度来ますね。その時にまた会いましょう」ちおうと、一葉は「その時、私は何になっているのでしょう。石にでもなっていましょうか」とつぶやいた

そして静かに息を引き取った



北条早雲 老衰 88歳

戦国大名第一号と言われ、一代で北条家を築いた梟雄

関東を制覇し、早雲二十一か条という家訓を残した

そんな早雲は老後も元気で、死ぬ前には三浦半島に旅行にまで行ってました

が、さすがに歳には勝てず、三浦半島に船遊びに行った帰りから具合が悪くなり、そのまま息を引き取った


北条氏康 病死 57歳

北条五代の基盤を築いた人。そして上に書いた北条早雲の孫

まわりは強敵だらけだったが、ひとつも引けを取らない男でした

が、病名はわからないが突然病に倒れ、自分の子供の顔もわからなくなるほど

いっときは回復したんだけれども、再びぶりかえし一年以上闘病生活となる

最後は小田原城で息を引き取った



福沢諭吉 67歳 脳卒中 

65歳の時に脳卒中を起こし、昏睡状態に
危篤状態に陥ったが、なんとか回復した
が、二年後に再発し、この時はとうとう助かることはできなかった

諭吉の命を縮めたものは「酒とタバコ」と言われている

特にタバコは死ぬまでやめることはできなかった


保科正之 老衰 62歳

三代将軍徳川家光の弟

日の目が当るはずじゃなかったのに、家光に気に入られ会津藩をもらう

そして「会津藩はどんなことがあろうとも将軍家を守る」という家訓を残した
この保科正之の家訓がのちの会津藩を激動の中に巻き込むこととなる

51歳になった正之は目の病気(白内障)になり、失明寸前に

さらに老人性不眠症に悩まされた

死を覚悟した正之は、死の準備をし始めました

そして病が悪化すると、娘婿の稲葉正通を小田原から呼び寄せ、残った息子の後見人となるよう遺言を残して死んでいった


服部半蔵 疲労死? 55歳

伊賀出身で忍者のリーダーであった服部半蔵

江戸時代になり、屋敷を与えられた(現在の半蔵門)

が、時代が平和になり忍者の仕事が無くなってきた

次第に配下の忍者達は不満を漏らすようになり、盗みを働くように

その取締を幕府から命じられた半蔵だったが、逆に襲われそうになる

なんとか解決したものの、半蔵は責任をとって出家した


ペリー 心臓発作 63歳

幕末、黒船で日本にやってきたペリー

日米和親条約を結び、日本の鎖国を打ち破った有名な人物である

が、実は日本にいる頃からちょっと体調が悪かった

日本での任務が終わるとヨーロッパ経由で本国へ帰国

その後、「日本遠征記」の編纂に力を注ぎ、1858年にこの作業を終えた3ヵ月後、妻の実家で心臓発作となり死去した


北条泰時 赤痢  60歳

鎌倉幕府の三代目執権

すぐれた政治家であったが、なんせマジメで忙しい日々を過ごしていた

57歳の時に体調を崩し、いっときは精神錯乱状態に

が、出家もせず、まだ仕事を続けた

無理がたたって、具合が悪くなり、赤痢になってしまう

体は火の様に熱くなり、苦しみもだえながら死んでいった

人々は、まるで平清盛が死んだ時と同じようだと囁きあい、また後鳥羽上皇の怨念だとも噂された


北条時宗 ストレス死 34歳

鎌倉幕府八代目執権

この時代は、蒙古が襲来してきた時期であり、ものすごく大変だった

総指揮にあたった時宗は、国を守るために働き、心労続き

蒙古は2度日本を襲ってきたが、二度目の弘安の役の二年後、相当なストレスが溜まっていて執権の座を弟に譲った

そのまま体調は悪化し、とうとう水も飲めなくなった

そしてそのまま衰弱して息を引き取った

松永久秀 爆死 67歳
足利将軍殺害・大仏焼き討ち・主君殺しの三悪をやってのけた久秀も、織田信長の勢力の前には抗うことはできなかった

だが、野望は尽きることなく、信玄が上洛するというウワサを聞いた久秀は信長に反旗を翻した

が、信玄が上洛途中に死去。

信長は久秀の持つ名器「平蜘蛛の茶釜」を渡せば許してやると言ったが、久秀は「ワシの白髪頭と平蜘蛛の茶釜をヤツに渡すくらいなら」と、みずからの体に茶釜をくくりつけ、爆死という壮絶な死を遂げた

天下を取れる器と言われつつも、信長の一武将に成り下がった自分の身が悔しかったのだろうか・・・。



源義経 自害  31歳
兄・頼朝と不仲になり、奥州平泉へ逃げていた義経

が、源氏の権力に屈した藤原泰衡に裏切られ、攻撃される

もはやこれまでと悟った義経は、みずから妻子を殺し、屋敷に火をつけ自害した

義経の首は酒漬けにされ鎌倉へ送られるも、頼朝は首をも鎌倉に入れなかった

焼けただれ、腐敗した義経の首実験を行ったのは梶原景時である




前田利家 老衰  61歳
豊臣秀吉に秀頼のことを頼まれた利家だったが、次なる天下を狙い、徳川家康が動き出していた

家康にとって、今一番邪魔な実力者は利家であった


利家は死ぬ間際に「わしが死んだら必ずや騒ぎが起こるであろう。もし秀頼様に対して謀反を行うものがあればすぐさま兵を率いて大阪へ行け」

と、遺言した

最後まで秀吉に頼まれた秀頼を思いこの世を去った

この後、利家が死んだことにより世の中は大乱へと突き進んでいくこととなる




松尾芭蕉 病死(赤痢?) 50歳
「おくのほそ道」などを書き、旅に生きた松尾芭蕉

もともと腰や腹が痛むという持病を持っていた

旅の途中、下痢に襲われ、病床につく

下痢は一向に止まらず、しだいに衰弱していった

もう起きることもままならなくなった芭蕉は最後にこの句を詠んだ

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

こうして芭蕉はゆっくりと息を引き取った


護良親王 暗殺 27歳

後醍醐天皇の第一皇子である

足利尊氏ら鎌倉幕府の武士によって鎌倉幕府は滅び、天皇を中心とした国を作ろうとした後醍醐天皇

が、その政治のやりかたは、武士にとっては最悪なものだった

足利尊氏を中心とした武士たちが天皇へ刃を向けるかもしれないと心配になった護良親王は足利尊氏を敵視した

だが武士の力を恐れた後醍醐天皇は、護良親王を幕府に引き渡したのだった

父親に裏切られた護良親王は、鎌倉へ送られ土牢生活に

が、護良親王の存在を危険視した足利尊氏の弟は、家臣に護良親王の殺害を命じる

護良親王はその家臣に向かい「お前はわしを殺しに来たな!!」と抵抗した

暗殺者の振り下ろした刀を口でくわえるほど抵抗したが、とうとう首を取られてしまった

暗殺者はあまりの恐ろしい形相をした首を、恐怖のあまり藪の中へ投げ捨てたという





宮本武蔵 病死(ガン?) 61歳

数々の伝説を残している剣豪

諸国を旅し、生涯剣術試合では負けたことがないといわれている

佐々木小次郎との試合後、熊本藩の細川家へ客分として招かれる

年老いた武蔵は霊厳堂という洞窟にこもり、有名な「五輪書」を書き上げた

その後、病生活に入ることに

絶命した時、武蔵は帯を締め脇差を持ち、片方のひざを立てながら死んだという




毛利元就 食道ガン 75歳

一代で中国10カ国の覇者となった元就

長男隆元が死に、孫である輝元に英才教育をほどこしていた

が、輝元は大の酒好き

とにかく酒だけは飲みすぎるな!といっつも注意していた

そんな元就は酒をあまり飲まずにいたが、中風になり寝込むことに

なんとか治るが、その後桜の見物に行った後、死亡した


松平清康 殺害 25歳

清康は、徳川家康のおじいちゃんであります

この頃の松平家はまだ小さく、織田と戦いをしておりました

そんな中、清康は「阿部定吉が織田と内通しているのではないか?」という疑問を持ちました

阿部定吉は全く身に覚えが無く、息子の弥七郎に「ワシは絶対に内通などしておらん。万が一ワシが殺された時は、この手紙を渡し、裏切っていないことを証明してくれ」と言いました

ある時 戦がおきました

そのとき、一頭の馬が暴走したのです

弥七郎はその暴走を見て「自分の父が殺されたのだ!」と勘違いしてしまい、すぐさま本陣へ行き、清康めがけて刀を抜き、斬り殺してしまったのであります

弥七郎はすぐさま取り押さえられ殺されましたが、清康は何がなんだかよくわからないまま殺されてしまうという非業の死を遂げたのでした


源頼朝 落馬? 52歳

源頼朝の死は謎に包まれております
なにしろ鎌倉幕府の記録である吾妻鑑に、頼朝の死についての部分がぽっかりと抜けているのです

そのため頼朝の死については色々な説があるのです

一番多い説が、落馬してしまい、そのまま息を引き取ったというもの
他にも、北条政子に殺されただの、持病の糖尿病が悪化しただの、毒殺されただの・・・・

いまだ頼朝の死因は謎であります


正岡子規 結核 35歳

明治の歌人・正岡子規は21歳の時に初めて血を吐きました

肺結核と診断され、血を吐きながらでも泣き続けるといわれる子規(ほととぎすのこと)から名前をとり正岡子規と名乗りました

結核菌は次第に体をむしばみ、慢性的な痛みが続きました

死ぬ三ヶ月前の苦しみは相当ひどかったようで「誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか。誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか」という言葉を連載していた新聞に残しています

動くだけでも激痛が襲い、麻酔薬も効かなくなり、気が狂うほどの痛みに耐え続けました

そして「なろう事なら星にでもなってみたいと思うようになる」と言った

明治35年9月19日 泊まっていた高浜虚子や母や妹が気がつかない間にひっそりとこの世を去りました

宮沢賢治 急性肺炎 38歳

生前は、作家として名声を得ることができなかった哀しい人生の宮沢賢治

農民だったので、骨身を惜しまず働き続け、長年にわたって体が衰弱していきました

その後、教師をしながら「注文の多い料理店」を自費出版し、苦労をしながら働き続けました

が、結核となり、一ヶ月以上寝込んでしまう

それからはほとんど病床で過ごし、この頃「雨にも負けず 風にも負けず・・・・」を、家族宛の遺書として残しました

昭和八年九月 自宅にて血を吐きました

そして水を飲み、自分の体を拭き清めながら、息を引き取りました


前野良沢 老衰 81歳

杉田玄白とともに「解体新書」を作った人

が、蘭語に未熟な杉田玄白が出版を急いだため、良沢な納得がいかないナと、翻訳者として名前を残すことを辞退し、解体新書に名前を残すことは無かった

玄白が富と名声をゲットしたが、良沢はゲットできず地道な人生を歩み始める

解体新書が出たときは52歳でしたが、その後もひっそりと学問に打ち込みました

が、ずっと良沢を支えてきた妻が死んでしまうと元気がなくなってきました

そしてひっそりと生涯を終えたのです

蘭学史上優れた功績を残したというのに、かなり淋しく静かな死に様でした


三島由紀夫 割腹自殺 46歳

昭和45年11月25日の昼

陸上自衛隊市谷駐屯地で三島由紀夫と東武方面総督との会見がありました
そして、突然総督を拘束し、バリケードを作り部屋に立てこもったのです

「要求に従わなければ総督を殺す!」と宣告し、バルコニーの上から「諸君の中に俺と一緒に立つものはいないのか!!」と激を飛ばしました

が、反応がないのを見ると、おもむろに上着を脱ぎ上半身裸に
用意していた短冊を取り出し、由紀夫に心酔している大学生を介錯人として背後に立たせました

そして左わき腹に小刀を深くつきたて、そのまま右へ力を込めました

最後の意志を持って首をあげ、介錯人が日本刀を持ち首を斬りつけました

が!!首がうまく切れず、半分つながったまま
慌てて二度三度斬るつけるが、刃こぼれしてしまいうまく斬ることができない

結局、他の男があわてて介錯したのです

もし腹を斬った時点で意識があったのなら、ものすごく・・・・痛かったことと思います・・・・


森鴎外 結核 60歳

医者嫌いで有名だった森鴎外

執筆に命を賭けており、医者にかかれば執筆をストップさせられる
執筆をせずに1年長生きするのがいいか、執筆をして1年早く死ぬのがいいか?書くのをやめたからと言って寿命が長くなるかどうかはわからない

という考えを持っていた

60歳になった頃、足がむくみはじめ家族が病院に行くように言うが拒否

インフルエンザになってしまい、とうとう診察を受けたが、すでに手遅れであった

鴎外を看た医者は「顕微鏡で調べたら結核菌がいっぱいで、まるで純培養を見るようであった」と語った

そして、親友に遺言を述べて死去



ヤマトタケル  衰弱死  30歳
日本武尊(ヤマトタケル)は悪党退治に向かうも、病気になってしまった

故郷に戻りたい気持ち一心だったが、立ち上がることが出来ずそのまま死去

死後、白鳥となり飛び去ったと言われている




山本勘助 62歳 討死?自害?
武田信玄の軍師、山本勘助

上杉謙信との戦い、川中島の合戦において、信玄に「啄木鳥戦法」という作戦を進言する

が、この作戦は謙信に見破られ、武田軍は窮地に追い込まれた

作戦を見破られたことを恥じた勘助は、死を持って責任を取る覚悟を決める

「逝くことは流れのごとし」と告げ、激戦の修羅場へと飛び出していった

八十八の傷を負い、討ち取られたとも、自害したとも言われる




吉田松陰 斬首 29歳
松下村塾をつくり、幕末の志士たちにさまざまな教えを行った松陰

が、井伊直弼の安政の大獄によって「危険人物」とされ、捕らえられる

伝馬町の牢獄に入れられ、処刑を待つことに

この時、「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも とどめおかまし大和魂」から始まる「留魂録」の執筆を始めた

処刑の日、牢を出るとき、何人もの入牢者が「替わってあげたい」といって泣いた

松陰の処刑後、弟子である長州藩の高杉晋作らは、松陰の意思を継ぐべく幕末の嵐の中へと突入していく

柳生宗矩 老衰 76歳

24歳の時徳川家康に仕え、三代将軍家光時代に「柳生新陰流」を将軍家の兵法として完成させた宗矩

宗矩の次男・友矩は美貌な上・剣も文も才能があり、柳生家は安泰かと思われたが、友矩が病死してしまった

気の毒に思った家光は、柳生家に対して目をかけるように

そして宗矩を病魔が襲う

家光は瀕死の宗矩を見舞い、願いはあるか?と尋ねた

宗矩は「柳生の地に寺を建立し、無き父の霊を弔い、四男にその寺を守らせたい」と言いました

家光はその言葉を快諾し、宗矩の死後従四位の官位を贈り、長年の忠勤に感謝したのでした


柳沢吉安 老衰 57歳

五代将軍徳川綱吉に寵愛され、破格の待遇を与えられた側用人柳沢吉安

が、綱吉が死に六代将軍家宣になると、飛ぶ鳥を落とす勢いで権力を持ち続けた吉保にも陰りが出てきた

そして綱吉の葬儀が終わると、隠居し、別荘に引きこもりました

この別荘でかなり優雅な老後を過ごしたそうです

そして別荘に入って5年後、静かに眠るように息を引き取りました


与謝蕪村 恋の病?? 68歳

江戸時代の画家&詩人

芭蕉につぐ俳人と言われ、池大雅に継ぐ画家ともいわれた人

幼い頃に家が破産し、住み込みで俳句を学ぶも、その後放浪の旅に

普通の暮らしをし始めたのは45歳の時

一応奥さんができました

が、59歳の時に初めて女性に恋をしちゃいました

それからの蕪村は女性遊びをするようになり、老いらくの恋として祇園の遊女・小糸にベタボレ

遊女と遊ぶのにお金がかかるため、俳句を描きまくった

かなり小糸に本気だったんだけど、小糸はまだ若い

門人たちが蕪村と別れるよう仕向け、この恋は終わってしまいました

あまりのショックに蕪村は持病の胸痛に襲われ病床につくように

そしてそのまま死んでしまいました


渡辺崋山 自刃 49歳

幕末の人

蘭学を学んでおり、高野長英などと親交を深めていた

で、海外の事情をわかってくるにつれ「このままでは日本は危ない」と思うように

それが幕府にとって「一般庶民をいたずらに恐がらせている」と、いうことになり、捕らえられてしまう

これが有名な「蛮社の獄」

判決は主家(田原藩・三宅家)へ身柄引き渡しの上、永蟄居ということとなり貧乏生活突入

弟子が生活の足しになれば・・・と、崋山の絵を売りさばいたりしました

これが問題となり、お咎めが主家に及んでは迷惑をかけてしまう・・・と、考えた崋山

こうして崋山は物置で割腹自殺したのでした


由井正雪 自害 47歳

江戸時代の幕藩体制が完成したのは三代将軍家光の時

その家光が死に、幼い家綱が将軍になると江戸は不安に包まれた

幕府に不満をもつ人が多く集まり、謀反が企てられた

その中心人物が由井正雪

江戸城を火薬で爆発させ、それを合図に江戸を火の海にし、その混乱の中江戸城へ突入し将軍を拉致しようというもの

が、この計画は事前にばれてしまい、由井らは逃走

そして旅籠に入ったところで見つかってしまい、自害した

この事件を「由井正雪の乱」といい、1500人以上の人々が捕らえられ、由井の一族は全て処刑された

ヤン・ヨーステン 遭難 60歳

東京駅にある「八重洲」という地名は、この人物からきている

関ヶ原の戦いがあった1600年、ロッテルダム(オランダ)から出た船が座礁し、日本に漂着した

この中に、ヤン・ヨーステンが乗っていたのである

徳川家康はヤン・ヨーステンを重宝し、八重洲に屋敷を与えた

ヨーステンは日本のために海外貿易を行うが、次第に借金がかさむようになり、幕府から信頼を失っていく

60歳になったヨーステンは、オランダへの帰国を望むようになり、日本を出てパタヴィア(今のジャカルタ)へ行き、本国への帰国を願い出るも、借金が多すぎたため却下された

泣く泣く帰国を断念し、日本に戻ることにしたヨーステンだったが、なんとその船が座礁し、沈没してしまう

ヨーステンは、オランダも日本の地も踏むことができなくなってしまったのであった

山内千代 老衰 61歳

「山内一豊の妻」として大河ドラマの主役にもなった千代

良妻賢母の代表的な人で、夫を織田信長の家臣から土佐24万石の大名に仕立て上げた人物である

が、2人の間には子供がおらず、家督は一豊の弟・康豊の息子・忠義に譲ることに

一豊が61歳で死去した後、千代は土佐を去り京都へ移り住んだ

千代は京都で尼となり、ひっそり暮らすことに

そして夫・一豊と同じ61歳で死去した


柳生十兵衛 謎死 43歳

柳生家は、徳川家の兵法指南役をつとめている家

初代指南役の長男だった十兵衛は、13歳の時に三代将軍・家光の小姓となるが、19歳の時に家光の怒りを買い、クビに

以後、行方不明になるが、12年後またも家光の側近となる

この間、諸説があり、実は隠密(スパイ)として動いていたなどがある

以後、家光の側近として働くが、43歳の時に出かけた鷹狩りで謎の死をとげる

矢で射られ、暗殺されたと噂された



山内容堂 中風 46歳

幕末の土佐藩主だった容堂は、もともとかなりの遊び人だった

そんな容堂は藩主になると態度を変え、恩義のある徳川家のために働いた

が、幕府は滅亡し、新政府誕生となる

ここで容堂は新政府の要職となるが、薩摩出身者が優遇され土佐出身者は疎外され始める

自分を軽く見る新政府に腹を立て、病気を理由に辞任

その後、中風で倒れまだ46歳という若さで死去した

与謝野晶子 狭心症 66歳

明治の歌人

妻子ある歌人・与謝野鉄乾と略奪結婚し、12人の子供を産んだ

パワーに満ち溢れる女性だったが、50歳半ば頃突然狭心症の発作を起こす

以後、心臓病に悩まされるが「新新訳源氏物語」を完成させてからすぐに脳溢血で倒れた

左半身が付随となるが、それでも歌を詠みつづけた

が、昭和17年の正月に久しぶりに狭心症の発作を起こし、病状は悪化

なんとか4ヶ月ほど持ったが、尿毒症を併発し、意識不明

そのまま息を引き取った