幕府公認の吉原 吉原以外の性を売る商売はすべて私娼窟で「岡場所」と呼ばれました 岡場所は「傍(おか・かたわら)」という意味がある 吉原は公認ですが、それ以外は「かたわら」なので岡場所と呼ぶなど、様々な説があります なんせ吉原は高かった。江戸中の男の夢の場所であり、一般庶民はなかなか通えなかったのであります そのため、モグリの遊女屋が各地に出没したのであります 一般的に吉原以外で働く女性たちを「女郎」と呼びました 深 川 吉原にとって最大の勢力となったのは深川 菊乃という歌の女師匠がすごく美人で、あまりにも人気があったため迫害されてしまいました その菊乃が深川に移ったところ、お客さんが沢山ついてきたために独立開業したのです そして後に「深川芸者」と呼ばれるようになるのです 吉原と違って堅苦しくもなく、しきたりもない また、モグリのため値段が安いので大人気に 次第に吉原よりも人気が出てきてしまい、吉原からチクリが入り摘発されるように で、摘発された芸者は吉原で競りに出され、吉原で下級女郎として最悪の場所で2年間働かされるようになるのです ちなみに深川芸者は江戸育ちが多く、粋でキップのいい女性が多かったため、江戸下町の男性たちに大人気だった さらに、女が着ない羽織を着て、名前を男性のような名前にしたのもウケた。ところで、ナゼ男の名前?かとゆーと、幕府の女芸者取締りを逃れるため 夜 鷹 材木置き場や木の陰に隠れていたので夜鷹と呼ばれるように 幕府によるお家おとりつぶしにより、リストラされた武士の妻が多かった 夜なので顔が見えないってことで貧乏武士の奥さんが多数 中には超厚化粧の老女もいました 評判になった美人も中にはいたそうです 江戸では最低ランクの娼婦 比丘尼(びくに) 尼そっくりの格好をしている娼婦 元々は熊野神社の牛王宝印を売り歩いていた本物の比丘尼が売春を行ったのが始まり 日本にやってきた外国人は「日本ではシスターが売春をしている」と驚いたそうです 船饅頭 最初は停泊中の船に饅頭を売るのを目的としていた が、川岸で客を乗せて川に出て戻るまでにすませるというものになっていきました 料金は船賃も含まれているので夜鷹より高かった 「ぽちゃぽちゃのお千代」という評判の女性がいました 湯女風呂 江戸は蒔代が高く、火事の恐れもあったので大名の家やお金持ちしかお風呂を持っていませんでした 町民らは銭湯に通っていたのです この銭湯に目をつけた人がいて湯女風呂をスタートさせました 今のソープランドです 現在の東京神田あたりは湯名風呂が200件以上でき、さらに「勝山」という絶世の美女と噂になるほどの湯女が現れると、吉原をしのぐほどの賑わいとなりました が、客を奪われた吉原が幕府公認の遊郭であることを盾に営業を停止させたのです 宿場女郎・飯盛女 本当は、宿場町で宿の雑務を行う使用人 が、いつしか酒宴にはべるようになり、やがては旅人のお相手をするようになった そして「宿場女郎」と呼ばれるように ちなみに一番いいのが品川宿の女郎。お次が内藤新宿・・・と、女郎にもランクがあった 提重(さげじゅう) 手提げの重箱にお菓子を入れて売り歩く女性のこと 主に武家屋敷などに行きました 若くてきれいな女性が多かったらしい 蹴転(けころ) どんな人とでも寝る芸者のこと。 芸者は芸を売るといっておきながら「蹴れば(お金をあげれば)すぐ転ぶ(寝る)」といわれたことからこの名前がついた。 浅草や両国などに多かった 陰間茶屋 この時代も戦国時代に続き男色は盛ん お客さんは女色が禁止されている僧侶が多かった 陰間は12.3歳から17.8歳ころまでの美少年 身なりは全て女性と同じでした 人気のある陰間は吉原超一流の遊女と同じくらい稼ぐように 20歳を過ぎると陰間業界ではもう「年増」となり、男性相手から女性相手に切り替えました 美少年なためお金持ちマダムに大人気となるのでした 陰間になる少年らは役者修行中の身が多く存在していました |
||
吉原の最初に戻る? 吉原から出る? |