有名な遊女 |
ケンカもさばく気っ風のいい名妓・小万 |
小万は1780年台から明治まで4代ほど続いた妓名
有名なのが初代・小万であります
もともとは浅草の長屋に住むそば屋の娘だったんですが、父親が盗みを働き捕らえられ、そのお金を返すために11歳で山谷堀の船宿・武蔵屋に売られました
山谷堀の船宿は吉原へ行く客で賑わっており、小万は美人で姉御肌だったため、吉原通いの客もかなり気に入ってました
が、最初はそんなに人気がなかった
が、大田南畝が「山谷の名物は八百善と小万」と言った事から一気にブレイク
さてさて、ある日のこと
侍二人組みと町人二人組みが大喧嘩をしてました
で、侍が怒って刀で町人を殺そうとしたのです
それを見ていた小万は、「はい。そこまで」と、侍の刀を鞘におさめさせ、四人を武蔵やに連れて行きご馳走したのです
女ながらに見事な裁き!とますます評判に
ちなみに、助けられた町人の一人が小万にほれ込みまくり、結婚してくれ!!と毎日やってきた
小万はやんわりと断ってたんだけど、男もしつこい
とうとう小万は吸い物椀で酒をぐびっと飲むと、片肌脱いで男の横っ面をぱーん!!とひっぱたいた
さすがに男は諦めたようです
さらにこの時の侍の方は松平出羽守の家臣
この話を聞いた主君の出羽守は粋な小万をとても気に入り、ひいきにしたそうです
小万は35歳で二代目小万に全てを譲り、巡礼の旅に出たそうです
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吹雪の中の折檻 三吉野 |
浅草蔵前の伊勢屋の養子・伊之助は蔓屋お抱えの遊女・三吉野が大好きだった
何度も何度も三吉野の元へ通い、そのうちお金が無くなってきました
すると友人らからお金を借り、三吉野に会いにいっていたのです
周りの人たちは「もうやめとけ」と何度も忠告しましたが、伊之助はそれでも行くのをやめなかった
もはやお金はすっからかんだったが、三吉野も伊之助に惚れていたので、仕事を抜け出し人目を忍んで会っていたのです
それを遣手(遊女達の監視役)の「かや」に見つかってしまった
かやはすぐさま店に報告
伊之助は店の若い男性に散々殴られました
そして三吉野は吹雪の中、木からつるされ折檻されたのです
散々折檻された後、三吉野は吊るされたまま過ごしました
そこへ伊之助が屋根伝いに忍び込んできて、縄を解き、深川まで逃げて心中してしまったのであります
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勝山髷で有名な異色の遊女 勝山 |
勝山は最初湯女でした
湯女というのは、風呂屋にいた売春婦ですが、この頃から遊女だからってなめんじゃないよ!という意地と心意気を見せており、外出する時には腰に刀を束ねて歩くという名物湯女でした
ある日その風呂屋の前で乱闘事件が!
そして風呂屋が幕府から営業停止を命じられたのです
すると勝山の評判を聞いていた吉原の山本芳順がスカウト
こうして吉原へ行くこととなったのです
吉原へ行っても今までどおりの自由気ままな生き方を貫き、「丹前の勝山」と大評判
花魁道中でも、普通の格好をせず、やっこ風の粋な歩き方をして「勝山歩き」と大人気に
また勝山の髪型も大人気となり遊女どころか、江戸市民にも広がった
さらに草履に緋の二本鼻緒をすげた「勝山鼻緒」というのも大流行し、まさに勝山は江戸のトレンドを作った女性だったのであります
そんな勝山ですが、ある日突然江戸を去りました
その後の消息は全然わかっていないそうです
それもまた自由奔放な勝山らしいですね
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江戸の名妓の代名詞 高尾太夫(二代目) |
伊達騒動のところでも書きましたが、高尾太夫というのは京都島原の吉野太夫・大阪新町の夕霧太夫と並んで称され、江戸の最高級の遊女として代々受け継がれています
高尾太夫というのは、三浦屋のお抱え遊女で七代説と十一代説があります
今回出てくるのは二代目の高尾太夫
その二代目高尾太夫にほれ込んだのが、伊達62万石の三代目藩主の伊達綱宗
綱宗は高尾にほれ込みまくり、なんと三浦屋に高尾と同じ体重の小判を払って身請けした
身請けの当日は、吉原中に大盤振る舞いし、高尾を伴いきらびやかな屋形船をつくり、隅田川へ漕ぎ出した
が、肝心の高尾はこの身請けをすごくイヤがっていた
高尾には将来を約束した恋人がいたのであります
そして船の上で「わちきも廓育ち。意地と張りが命でありんす」と、言い切り、綱宗の身請けを断ったのでした
怒った綱宗は、家臣の目の前で断られたことに激怒し、身投げしようとした高尾を切り殺してしまったのです
高尾は19歳でした
女の意地を見せた高尾太夫に、江戸庶民は拍手喝采だったそうです
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「玉菊燈篭」で有名な玉菊 |
玉菊は万時屋お抱えの遊女で、顔形も良く、生花や茶の湯・お琴まで完璧にこなせる遊女でした
そんな玉菊は江戸の誇りと言われるほどきっぷもよく、使いの人に気前良くチップをあげるので、廓の中でも大人気でした
そんな玉菊にほれ込んだのが、五代目奈良屋茂左衛門という大富豪
この2人、かなりの酒豪で長家を好き放題飲んでました
そのため2人とも病に倒れてしまいました
玉菊が病になった時は、これでもか!というほど贅沢な療養をして人々を驚かせましたが、そんな治療の甲斐もむなしく、玉菊は25歳という若さで死んでしまったのです
吉原の名花といわれた大人気の玉菊のあっけない死は多くの人から惜しまれた
玉菊の三周忌の時、三味線の名手である十寸見蘭州が土産代わりに燈篭を持ってきて、それを吉原の茶屋の前に掲げた
それがのちに「玉菊燈篭」として吉原の名物となり、年々ゴージャスさを競うようになっていくのでした
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宮本武蔵のお相手 最下級女郎の雲井 |
ある時期の宮本武蔵は吉原に入り浸っていた頃がありました
その時、宮本武蔵は超貧乏のただの浪人だったので、お相手は吉原でも最下級の女郎
その後、武蔵はおじいさんになってから「お金がなくっちゃ世の中何もできないことがよーくわかった。恋などしてお金を使わず、倹約するように」と言っていたそうです
吉原通いですっからかんになって懲りたんでしょうかね
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姫路藩主に身請けされた十代目高尾太夫 |
姫路藩主の榊原政岑は遊ぶの大好きな困ったちゃん藩主でした
この頃、幕府では吉宗が将軍で「享保の改革(贅沢すんなよ!という命令)」の真っ最中だったので、家臣たちは一生懸命榊原に「目立ったことしちゃダメですよ」言い聞かせていました
そんな榊原が惚れたのが吉原の最高級遊女・高尾太夫
出入りの商人の名前で身請けしたものの、何せ相手は高尾太夫なため、吉原を出て行くときは大祝宴!
これが幕府の耳に入り、榊原は蟄居を命じられ、高田というところに飛ばされてしまいました
が、高田で暮らすようになってから九ヵ月後、榊原が病気になり、31歳という若さで死んでしまったのです
榊原は自分の死期を悟ると、まだ20歳の高尾太夫を残すのを、最後まで心配していました
高尾太夫はその後江戸に戻り、尼となって静かに暮らしたと言われています
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その他 |
扇屋の花扇と滝川
二人とも、扇屋を代表する遊女。
めちゃくちゃ仲が悪かったため、どちらも負けまいとメキメキと頭角を現してきた
ちなみに扇屋筆頭は花扇。和歌やお茶など高い教養を受けていた
扇屋二番手が滝川。こちらも教養が高かった。
花扇が表座敷(一番いい部屋)をもらったので、滝川は裏座敷を三間もらったと言われている
扇屋 容野(かたちの)
平の昼三だったが、気立てが良くてさっぱりとした遊女だったので、酒宴では大人気だった遊女
松葉屋 瀬川
松葉屋の「瀬川」は代々トップの遊女の名前
どの「瀬川」も華々しい身請け話で有名であります
丁字屋 雛鶴
丁字屋の筆頭呼び出し。茶道・お琴・華道・歌学とどの分野においても優れており、半年前に予約しないと会えないほど大人気だった
丁字屋 丁山
こちらは雛鶴に続く二番手呼び出し。元大名家で働いていたという珍しい経歴の持ち主
そのため身のこなしが上品で、「上品花魁」として人気だった
三浦屋 揚巻(あげまき)
江戸中期に大人気だった遊女
華やかで艶やか。そして江戸の遊女の「意地と張り」を持っており、胸のすくような啖呵をきっていた
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