吉原の裏方たち

生まれては苦界 
死しては投げ込み寺 苦界十年の女たちの世界


〜吉原年表〜


1590年 徳川家康 江戸入城 
街道を稼ぎにしていた比丘尼などが多数あとを追ってくる。多数の男が全国から集まり、すぐに風呂屋ができる

1600年 関ヶ原の戦い

1607年 出雲阿国が江戸城西の丸にて勧進興行

1612年 庄司甚右兵衛が遊女町公認の要望書を提出

1615年 大阪夏の陣 

1616 徳川家康死去

1617年 遊女町吉原を公認する
吉原以外での売春は禁止

1618年 吉原営業開始
まだ未整備な土地や水溜りなんかもあったが、初日から客が押し寄せた

1620年 日本堤完成

1626年 吉原の遊女の年季が10年となった

1629年 女歌舞伎禁止

1637年 島原の乱。風呂屋の湯女を3人以内に制限

1640年 湯女風呂に遊女を派遣した楼主11人が、大門前にはりつけにされる
吉原の夜間営業が禁止され、もぐりの売春業の取り締まりが強化
また、庄司甚右衛門が町奉行から表彰される

1641年 吉原遊女、理由がなく大門から出るのが禁止される

1643年 あづま物語による吉原遊女の人数
太夫75人 格子女郎31人 端女郎881人  廓 125軒 太夫を多くして高く売るのがポイント。また端女郎が多くて吉原が大衆化しつつあるのがわかる

1644年 庄司甚右衛門死去(68歳)

1645年 12月 吉原全焼

1648年 湯女風呂禁止

1651年 徳川家光死去

1652年 若衆歌舞伎禁止

1656年 吉原移転命令が出る

1657年 振袖火事。湯女風呂全面禁止となる

1659年 両国橋完成。二代目高尾が死去

1660年 伊達綱宗隠居

1661年 馬・駕籠で吉原に入るのが禁止される

1667年 車善七の家が吉原裏に置かれる
車善七とは、浅草周辺の非人4000人を支配するボス。この非人たちが吉原の遊女が死んだ時、死体を運んだ

1668年 吉原廓内に元湯女500人が入り、堺町・伏見町が新たに誕生。この頃散茶女郎が始まる
湯女たちに伏見出身が多かったので伏見町と名づけた
また湯女たちは吉原遊女と違い「意地」を張ることもないので、誰とでも寝るということから、当時流行していた袋に入れて湯の中でふらなくてもよく出る粉茶(散茶)から、「ふらない遊女=散茶女郎」と揶揄した

1678年 菱川師宣の「吉原恋の道引」が刊行

1679年 平井権八処刑、三浦屋の小紫が墓前で自害

1682年 茶屋女禁止

1689年 吉原大絵図による吉原遊女の人口
太夫3人 格子女郎57人 端女郎418人 散茶1000人 次女郎1300人以上
散茶以下の遊女の数がめちゃくちゃ多くなった

1683年 三井越後や日本橋に出店

1690年 辻駕籠が許可される

1702年 赤穂浪士討ち入り。新吉原名主たちが岡場所追放を町奉行に求める。

1707年 宝井甚角死去

1714年 大奥最大のスキャンダル。江島・生島事件

1716年 徳川吉宗が8台将軍となり、享保の改革が始まる

1722年 相対死(心中)禁止令

1723年 隠し売女のため、根津門前を取り払う

1728年 玉菊三回忌に中万字屋で灯籠をあげる

1743年 吉原の人口8679人

1748年 春の夜桜が始まる

1751年 揚屋が1件になった

1765年 品川・板橋・千住の宿場で飯盛り女の増加が許可された

1781年 洒落本が大流行

1788年 山東京伝の「吉原楊枝」刊行

1790年 寛政の改革で隠し売女が禁止される

1842年 深川など岡場所574軒が撤去。4181人が吉原へ送られる

1846年 十八大通が刊行

1847年 吉原遊女5111人 女芸者157人 男芸者34人

1848年 深川復活

1859年 横浜に外国人用の遊郭ができる 港崎遊郭(みよざきゆうかく・現在の横浜スタジアムの場所)
日本女性は外国人相手をものすごく嫌がったので、おぎなったのは部落の女性だっと言われている

1860年 ロシア軍艦の乗組員のために長崎で遊郭ができる

1866年 芝居停止

1867年 吉原で歩兵が大喧嘩
幕末の江戸は混乱しまくっていた。長州との戦争前には若者たちが押し寄せたが、吉原での古式がめんどくさいということで、手っ取り早く岡場所や夜鷹を相手にした
吉原へやってきたのは歩兵隊の人たちで、ここで鳶と大喧嘩し歩兵13人が殺された
仕返しに屯所から12000人もの兵が吉原へ入り込んで発砲し、家屋を破壊
遊女達が逃げまくって大変な騒ぎとなった

1867年 吉原衰退
明治維新前後、お金持ちは神田川河口で吉原へ向かう船乗り場だった柳橋へ集まるようになり、花柳界の代表格となってきた
深川から辰巳芸者が流れてきて客の求めに応じるように
新橋芸者がNO1となり、吉原芸者はその半額の花代だった

1868年 明治維新 築地に新島原遊郭ができる

1868年 吉原衰退するかと思いきや、田舎モノたちに大人気
もはや花柳界に押され、吉原は衰退・・・・かと思いきや、長州や薩摩などからやってきた人たちが「一度は吉原で遊びたい」ということになっていた
土佐の山内容堂なんかは、吉原のトップスター「今紫」に夢中
江戸っ子は去ったけど、代わりに地方からきた人たちから支持されるようになった

1872年 マリア・ルース号事件により、遊女の人権が問題になる
今まで誰1人として考えたことのなかった遊女の「人権」が問題に
ちなみにマリア・ルース号というのは、ペルーの船が中国人の奴隷を乗せていた(クーリーと呼ばれている)
そのク−リーが脱出し、イギリス艦に助けをもとめてきた
調べてみるとマリア・ルース号には中国人クーリーが229名乗せられており、これが問題となった

日本では人権が問題となり、そこで「あれ?遊女にも人権があるんじゃないの??」ということに

1872年10月 娼妓解放令が出る
マリア・ルース号をきっかけに、娼婦が解放されることに
ちなみに言い方がすごい
「遊女の年季奉公を解放し、これまでの金銭の貸し借りは無効にする。遊女は人権が与えられていない牛や馬と同じだ。ケド、牛や馬に向かって金を返せとはいえないだろ?遊女は言葉が理解できるんだからすぐに解き放つべきだ」

遊女は牛や馬と同等というすごい表現の仕方なんだけど、いちおーこれでも遊女の味方をしているつもりらしい
解放されたのは、遊女3448人 女芸者171人 男芸者25人

ちなみに、解き放たれた遊女は親元に戻りたいけど幼い頃に売られ、すでに音信不通になっている人たちが多く、生きていくためにはまた売春婦になるしかなかった
そのため、いままであった遊女屋は「貸座敷」と名前を変え、また遊女たちをやとった

1873年 貸し座敷に規制が出る
いっきに失業した遊女達は、行くところもなく私娼になるしか生きていく道がなかった
そのため貸座敷が正式なものになった
遊郭は復活し、江戸時代とは大差のない人身売買も続けられた





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