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日本の女性史



         


明治・大正時代の女性の生活

この時代はまさに女性の目が開かれる時代となっていきます

そのため、かなりこの時代は文章が長いです(笑)

明治維新によって成立した明治新政府は、富国強兵(軍事力を大きくして国を豊かにし、勢力を強めること)とポリシーに西欧文化をがんがん取り入れます

そして欧米に負けない国づくりを目指していくのです

が、それは中央だけ。明治時代は文明開化の華が咲きまくりましたが、農村は「ブンメイカイカってなんじゃ?」と言った感じで、まだまだでした

さてさて、この時代は自由民権運動(国民の自由を主張する運動)が始まり、男女の同権も主張されていくようになりました
ですがこの運動は新政府により弾圧されてしまいました

新たに出来た明治民法は「男系長子相続」をいまだ続行しており、女性を無能力扱いし、そして一夫一妻制を説きつつも、それは建前だけのものだったのです

ちなみに、新政府の作った教科書についてヒトコト言わせてくれ〜

「男子と女子の務め」というトコなんですが、「男子も女子もどちらかが偉いというものではありません。男子は成長したら家の主人となり職業を務め、女子は妻となって一家の世話をしなさい」

さらに「女子が家にいて一家の世話をし、家庭の団欒をはかるということは、やがて国の美徳を作るものです。きちんと子供を育てることが、国家の発展になります」だと

教科書が女性の役割について、「家」を守れ!というのを書いているんですね〜

この考えを強く教えたため、女は結婚したら夫と家の為に貞操を守り、尽くしなさいというのが美徳となっていったのであります



女性は政治に関わるな

この時代になると、女性解放が叫ばれるようになってきました。そして楠瀬喜多(くすのせきた)という女性が「女性に投票権がないのはおかしい」と言ったのです

これの答えは「婦女はもっぱら内を勤めるべきで、女子が政治に関わるという事は女性の本分に背いている。家事に不都合をきたす」というものでした

死んでも貞操を守れ

明治になると「士族」となった武士達ですが、士族の妻子達は自害してでも貞操を守るように教育されました
貞操を守るように懐刀を渡され、貞操の美徳を幼い頃から叩き込まれたのです
が、妻には厳しい貞操を要求する一方で、男性側はというとやりたい放題
貧乏になったら娘を売るなど、家長の一言で女性は物のように扱われていたのであります


中絶の禁止

明治元年に「中絶禁止」という法律がでました
これは富国強兵・繁殖興行の発展のためでした
今まで出産は産婆さんに頼り、衛星状態も悪く、中絶や生まれたばかりの赤ちゃんを殺すということが数多く行われていました。
農村では生まれた子供をすぐ売ったりというようなこともあったので、そういうのをひっくるめて全て禁止となったのです

散髪令が出た

明治になると、男性はちょんまげをやめてザンギリ頭になるようになりました
西洋の風習が流れてきたのであります
「ザンギリ頭を叩いてみれば 文明開化の音がする」と言われたほど
ところで女性はというと、文明開化の流行に乗って髪の毛を切る女性が多く現れました
こうなってくると世論は「女性が男性の真似をするなど何事か!」というムードに
新聞にも「女子は髪を長くし飾りをつけることこそがいいのだ」とか「男性の真似をするなど片腹痛い業である」など書かれてちゃいました
そして結果は「女性は今までどおりにすること。髪を切るな」という条例が出来たのでした

四民平等・・・だよね?

新政府は四民平等を唱え、身分の違う者たちでも結婚することがOKとなりました
さらに外国人と結婚することもOKに
が、実際問題、それはなかなか難しいものだったようです

妾の存在

この時代の女性の地位を象徴するものの一つが「妾(めかけ)」が公認されていたというもの
現代では考えられませんが、戸籍の「配偶者(妻のこと)」の次に「妾」ってのが書いてありました
さらに妾は二等親として認められていたのです

女性だけにある姦通罪

明治の法律には妻のみに姦通罪が規定されておりました
姦通罪ってのは、他の男性とエッチしちゃだめですよってもん
これは女性のみ罰せられ、男性は未婚の女性とエッチしても姦通罪には問われないという、すごい不平等なものでした

日清・日露戦争の影響

明治では日本と清の間で戦争が始まりました
そして日本とロシアの間でも戦争が
この戦争は、今までの英雄像を変える戦争でもありました
まず、武士でも士族でもない、一般人が英雄として新聞などに紹介されるようになったのです
(死んでも喇叭を放さなかった木口小平など)
このような話が美談として新聞などで取り上げられたため、「お国の為に」という考えが出てくるように


嫁VS姑

いつの時代にも嫁VS姑のバトルってのはあるもんです
現代は嫁も強くなってますが、昔はほとんどが嫁が姑にいじめられるってもんでした
1914年の読売新聞に「身の上相談室」というのが始まると、なんとここに嫁が姑との対立に困っているという投書が殺到したのであります
同じ頃に創刊された「主婦の友」でも、この問題はかなり取り上げられたのでした
が、世論はどっちかというと嫁より姑を贔屓していました
それに異論を唱えたのが与謝野晶子
与謝野晶子は「嫁姑問題は夫にも責任がある」という考えで、この時代には考えられない意見を発表したのでありました

キリスト教の教え「一夫一妻制」

日本の男女のあり方に批判を出し始めたのがキリスト教でありました
明治二十年ごろになると、矢島楫子(かじこ)がキリスト教夫人矯風(きょうふう)会を創立し、一夫一妻制を唱え始めたのです
そして売春を社会悪として、廃娼運動に取り組むこととなったのです

公娼とは?

売春婦を斡旋しているというものです
1924年の時点で、娼妓の数は全国で52000人。ちなみに遊びに来る男性客は32000万人ほど
これにプラスし、芸妓や酌婦などを合わせると全国で17万人以上の売春をする女性がいました

ほとんどが農村から連れて来られた娘だったり、口減らしのために売られたりする娘でした
妻には姦通罪など貞操を守る法律がある反面で、男性はこのような公娼制度をフル活用して遊んでいたのであります

廃娼運動の始まり

このような公娼はやめるべきだ!と唱え始めたのがキリスト教の人たち
湯浅治郎らが娼妓廃止を県会で訴え始めました
が、業者側が大反対!激しい攻防が繰り広げられました
その動きは各地に及び、さまざまな意見が出されるように
福沢諭吉なんかも「一夫一妻制は大賛成です。だけど、普通の女性達の安全を守るには公娼は必要悪なのではないか?」という意見を出してます
さらに巌本善治は「娼妓がいなくなったら、世の中全ての夫婦がダメになる!」とまで言ってました


廃娼運動ヒートアップ

激しい攻防を続けていた廃娼運動ですが、なんと超有名な娼婦の町・吉原が火事に全焼するという事件が
これを機会にさらにヒートアップ
この頃になると、キリスト教以外の人々も加わってきました
さらに時代は大正デモクラシーを迎え、娼婦達も立ち上がってきたのです
さらに国際世論も女性の売春について禁止する動きが

こうして世論は廃娼の動きがヒートアップし、めでたく公娼廃止となったのです
籠の鳥と呼ばれていた遊郭の女性達は、はじめて外の世界へ出ることができるようになったのです


結婚が女性の唯一の生きる道

女性にとって「結婚」は生きていくために必要なものでした
女性が働くなんてまず考えられなかったからです
そのため、両親が決めた相手と好き嫌い云々ナシで、結婚させられていました
恋愛結婚できる女性なんてほとんどいない
でもそれは男性も同じこと
お互い好きでもない相手と、家柄や地位などで見合った結婚をするので、男性が浮気をするのは当然のことと思われていました
大正時代の女性の一番の悩みは「夫の浮気」
1918年に雑誌「主婦の友」が「不幸な結婚に嘆く女性の告白」というのを募集したところ、数多くの投書が集まりました
みんな「夫は浮気ばかりで寂しい生活。私は生きている価値がない。でも子供のことは気になる」といった内容
これに対する主婦の友の回答は「ほとんどすべての女性が同じような経験をしている。あなただけではない」というものでした
こうして女性は浮気する夫に尽くしながら、家庭を守っていたのです


原始 女性は太陽であった

が、押し付けられた良妻賢母の生き方に疑問を感じ始めた女性も数多くいました
新しい女性達の雑誌「青鞜(せいとう)」が発刊されたのであります
青鞜の代表者が平塚らいてう
らいてうのことは別のところで詳しく書いてありますので是非読んでみてください
女性の自己を主張しはじめる「新しい女たち」が登場したのです
さらに与謝野晶子
与謝野晶子も青鞜に様々な意見を主張しました

処女の大事さ

女性は結婚するまで絶対に処女でなければなりませんでした
結婚前に男性とエッチしたら、その血液が胎内に残り、子供を出産する時にその時の血液が混じってしまうと信じられていたからです
強姦されてしまったら、「自分は傷物になってしまった」と自殺する女性もいました
とにかく何が何でも貞操を守り、処女でなければならなかったのです
そんな処女性に意義を唱えたのも「青鞜」でした
青鞜は「処女を捨てるかどうかは女性が決めること」と発表
これには大ブーイングが
「貞操は女の命だっ!」といった意見が殺到したのでありました
ちなみにコレに対抗して「処女会」というのができました
青鞜の新しい女たちに危機感を抱き、女子は絶対に処女でならなければいけない!といった考えの会です
ちなみに会員数はピーク時131万人もいました


政治に参加したい!

平塚らいてうは、青鞜に代わる新しい運動をするべく考えていました
そこに現れたのが婦人問題に関心を深めていた市川房枝
房枝は「これが噂の新しい女ってやつね。でも目的のためなら一緒にやっていけるわ!」と、2人は1919年に新婦人会を作ったのです
そして日本で始めて女性の権利の実現を掲げた婦人参政権運動団体が誕生しました
新婦人会はさまざまな運動を起こし、マスコミから非難されまくり
が、頑張ってなんとか政治集会に参加してもいいという権利を獲得したのであります
ですがまだ政党加入の権利はなく、さらに頑張って運動していくこととなります
が、らいてうは病気になり活動停止
そして次第に新婦人会のやり方に不満を感じるようになり、新婦人会は解散してしまうのでした

セクハラ告発第一号

記者として働いていた生田花世は、職場の上司に従わないとクビにするぞと言われ、処女を喪失しました
そして処女喪失が自分をひどく苦しめたため、その体験を雑誌に書いたのです
大正三年のことでした
時代はまさに職業婦人がじょじょに現れだしていた時なので、多くの女性が同じような経験をしていたのでした


着物を脱いだ女性達

明治32年に、ベルツ博士という人が、「日本女性の体格が貧弱なのは着物のせいだ」といいました
これがきっかけとなり、女子高では袴(はかま)を着るように
そして大正時代になると山脇学園が全国初の洋服の制服を採用したのです


モガ登場

関東大震災後、銀幕を通して「モダン」が大流行
そこで登場したのが「モダン」と「女性」が結びついた「モダンガール」通称「モガ」です
ちなみに男性はモダンボーイから「モボ」
さらに「アッパッパ」という服装が流行
薄手のサマードレスのようなお洋服です







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