日本で初めて女性天皇となった推古天皇。豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)とも称しております
幼名は額田部(ぬかたべ)皇女
お父さんは欽明(きんめい)天皇で、母は堅塩媛(きたしひめ)。母は蘇我稲目の娘です
この時代は、蘇我氏がかなりの権力を持っており、その勢力は天皇をもしのぐほどでした
さてさて額田部皇女は18歳の時に父が死んでしまい、その年に異母兄と結婚しました
このダンナさんが、父である欽明天皇の次の天皇となる敏達(びたつ)天皇になります
敏達天皇は、広姫という女性を「皇后」にしますが、このお姫様が死んでしまったため額田部皇女が「皇后」となりました。このとき、23歳
さてさて、皇后というのは天皇の奥さんの中ではNO1の地位でしたので、天皇を補佐して政治に関与することになってきました
同じ頃、豪族の中でも世代交代があり、蘇我氏では蘇我馬子、物部氏では物部守屋が台頭しておりました
馬子は大臣となり、守屋は大連(おおむらじ)となり、国政が代替わりしていったのです
ちなみにこの頃、「仏教」を取り入れるかどうかで、蘇我氏VS物部氏のバトルが繰り広げられていました
蘇我氏は仏教賛成派で、物部氏は反対派です
572年に父の欽明天皇が死ぬと、額田部皇女のダンナが敏達天皇に即位
敏達天皇は仏教を拝むことを許可したため、蘇我氏と物部氏の「仏教をどうするかバトル」はますますヒートアップ
そんな中、敏達天皇が死んでしまったのです
ここで蘇我氏VS物部氏の皇位継承応援バトルがスタート!
両氏とも、自分のやりやすい「天皇」を次の天皇にするべく、戦いが始まるのです
次期天皇として一番有力だったのは、欽明天皇の息子である押坂彦人皇子
が、蘇我氏が裏で色々手を回し「押坂彦人皇子はダメダメ」と言いふらし、とうとう堅塩媛が産んだ大兄皇子が次の天皇である用明天皇となったのです
ここで飛び出してきたのが、穴穂部皇子
こちらも蘇我稲目の娘である小姉君の息子でした
「っていうかさ、うちの母さんも稲目の娘なのに、なんで堅塩媛系ばっかが天皇になるワケ?オレだって天皇になりたいんだよね。協力してよ」
こうして穴穂部が頼ったのが物部守屋だったのです
ある日穴穂部は、独断で額田部のとこに向かい「オレを次の天皇にしてよ」と直訴しに行きました
が、このとき何を思ったのか、額田部をレイプしようとしたのです
事件は未遂に終わりましたが、額田部は激怒し、穴穂部と物部氏は一気にイメージダウンしていきました
ここでなんと、蘇我氏のプッシュした用明天皇が病気になって死にそうになったから大変なことに
朝廷内は一気に緊張ムードが漂ったのであります
用明天皇はもう死にそうだったので、物部氏は穴穂部を次の天皇にするようプッシュ
それに対抗して蘇我氏は穴穂部皇子の弟である泊瀬部(はつせべ)皇子をプッシュしてきたのです
蘇我氏からしてみれば、穴穂部皇子が天皇になっちゃったら物部氏の天下になっちゃうので、なんとかして泊瀬部皇子を次の天皇にしたかった
蘇我馬子は額田部がレイプ未遂事件で穴穂部皇子を嫌ってることを知ってたので、額田部に相談
そしてなんと、穴穂部皇子を暗殺してしまったのです
これには物部守屋もビックリ!
堪忍袋の緒が切れたのか、とうとう両氏は戦うことになったのです
これが丁未の変といい、この勝負は蘇我氏が勝利し、古代名門である物部氏は滅亡してしまいました
こーなってくるともう蘇我氏の独壇場
馬子はプッシュしていた泊瀬部皇子を天皇にすることに成功
これが祟峻(すしゅん)天皇です
蘇我馬子は祟峻天皇を操り、権力を最大限活用しようとしていました
が、祟峻は馬子が思っていたほど大人しくなかった
「オレも政治の表舞台に出たい!馬子にアレコレ言われるのは嫌だ!」と言い出してきたのです
馬子はそんな祟峻天皇がだんだんうざったくなってきました
そしてなんと!祟峻天皇を暗殺してしまったのです
崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されてしまったので、またもや朝廷では王位継承問題が勃発
候補は用明天皇の嫡男である厩戸皇子(うまやど)19歳。後の聖徳太子です
そして敏達と額田部の間に生まれた竹田皇子。年齢は厩戸よりちょっと若い
2人とも物部守屋攻めに参加していました
そして両皇子とも馬子の外孫です
が!天皇家としては蘇我氏があまりにも強大になってしまったため、「ちょっとヤバイんじゃ?」という雰囲気になっていました
ホントは聡明な厩戸皇子を即位したかったんだけど、天皇になると蘇我氏にイジメられるかも・・・と不安もあった
それに厩戸皇子は身分が少し低くかった
さらに天皇暗殺という大事件が起こりまくっており、時局は不安定になっていた
そこで下記のような相談がなされたのです
ある日、天皇家ではとある相談をしていました
「いくら賢いといっても、厩戸皇子まだ若いしなぁ。下手に若造を天皇にしたらますます朝廷内が混乱しちゃうんじゃないの?」
「そうだなぁ。どうしたらいいもんかなぁ」
「おいおい、額田部なんてどうよ?39歳だし、女性だけどさ、申し分ない血筋だぜ?それにずっとご意見番として朝廷にいたしさ。逆に女性の方が安定した政治ができるんじゃないか?この際、額田部を天皇にしちゃったほうがいいんじゃないの?」
こうして馬子と親密な関係にある額田部が天皇に選ばれたのです!!
そして厩戸皇子を「摂政」という地位につけ、政務を行わせることにして、推古・馬子・厩戸皇子の三頭政治がスタートとなったのです
このような背景のもと、592年12月に日本初の女帝が誕生したのでありました
蘇我馬子は相変わらず大臣として権力を握っていました
推古天皇もそれを認めており、宴会ではこのような歌を詠いました
以下は訳してます
「蘇我の人よ。蘇我の人よ。お前達は馬にたとえたら日向国の馬であり、太刀にたとえたら、呉の真刀である。そんなお前達蘇我の人を天皇が使うのは当たり前のことである」
蘇我馬子に操られる天皇というイメージが強い推古天皇
が、とある事件が
それは624年のこと、蘇我馬子はどーしても欲しい地域があった。それがか葛城県(かつらぎのあがた)
ここは天皇家の直轄領であり、蘇我一族の血統である葛城氏が支配していた場所であります
馬子は、ここの支配権をくれと推古天皇にお願いしたのです
すると推古天皇は「今まで馬子の発言を尊重してきましたが、蘇我氏の血を引く私が天皇家の貴重な地の支配を馬子に認めたならば、のちの人たちがなんと愚かな女だ!というでしょう。それどころか、私の愚かさだけではなく、あなたの忠義の無さをも語り草になります」
こう言って、馬子の要求を蹴ったのです
が、この話は事実かどうかは謎。日本書紀が蘇我氏のエバリンボぶりを示すために作ったとも言われています
さて、天皇として政務をこなしていた推古天皇ですが、なんと摂政である聖徳太子が死んでしまいました
聖徳太子の死は、かなり推古天皇を動揺させました
ゆくゆくは、聖徳太子が推古天皇の跡を継ぎ、太子の息子「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」がその後を継ぐもの・・・と、思っていたからです
そんな中での聖徳太子の死
そうこうしているうちに、朝廷の最大の実力者だった蘇我馬子が626年に死去
こうして75歳となった推古天皇は、天皇として在位すること36年
死期を悟った推古天皇は2人の皇子を病床に呼び寄せました
一人が聖徳太子の息子である山背皇子(やましろ)そしてもう一人は田村皇子
山背皇子には「あなたはまだ若い。もし心に何か望むことがあってもむやみにペラペラ話してはだめですよ。みんなの意見をよく聞いてそれに従いなさい」
田村皇子には「天皇というのは、簡単に説明できるものではない大変重い地位です。ですからよーく考え、軽々しい判断をして物を言ってはだめですよ」
そしてこの後、戦いへ発展することを知らぬまま、628年3月 死去したのでありました
死後、推古天皇は最愛の息子(竹田皇子・先に死んじゃった)と一緒に合葬をすることを希望しており、推古天皇の遺体は、竹田皇子陵に葬られております
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