日本の女性史


日本の女性天皇を紹介

         


持統天皇

672年に古代最大の戦いである壬申の乱がありました

これは天智天皇(中大兄皇子)の弟である大海人(おおあま)皇子と、天智天皇の息子である大友皇子との戦いです

この戦いに勝利したのが、大海人皇子

そして大海人皇子は天武天皇となるのです

天武天皇の皇后が鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)。のちの持統天皇となります
ちなみに鵜野讃良皇女は天智天皇の娘です
ということは、大海人皇子とは叔父・姪の関係にあるんですね〜

天武天皇は奥さんが何人もいて、わかってるだけで10人の息子と、7人の娘がいました
そのため皇位を誰に継がせようか?と、次の後継者に頭を悩ませていました

候補は3人

長男の高市皇子
次男の草壁皇子(くさかべのみこ)
三男の大津皇子(おおつのみこ)

ですが、長男の妻は身分が低いため却下

次男の草壁皇子の母は鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)

そして三男の大津皇子は鵜野讃良皇女の実の姉である大田皇女の息子でした

が、大田皇女は大津皇子が5歳の時に死んでしまったので、奥さん連中のトップは鵜野讃良皇女
もちろん鵜野讃良皇女は、自分の息子草壁皇子をどーーーしても天皇にしたかった

また鵜野讃良皇女は、ずっと天武天皇の政治を助けていたので、順番からいっても次男・草壁皇子が有力候補でした

ところが器量・才覚の点では大津皇子の方が上だったのです

大津皇子は「姿も麗しく、学問もできる上に武術も最高!文句のつけどころがない皇子」と言われていました
祖父である天智天皇も、大津皇子を可愛がっていました

反対に草壁皇子は病弱でおとなしい性格

天武天皇も「次はどっちにしよう・・」と悩んでいたのです

自分が死んだらまた争いが起こるかもしれないと思い、大津・草壁・高市ら6人の皇子を連れて旅行に行き、仲良くさせることを約束しました

これが「吉野の盟い」です
注目するのは、この場に鵜野讃良皇女も一緒にいたということです

天武天皇の悩みをヨソに、大津・草壁は別のところでライバル意識バチバチでした

当時宮廷一番の美女で才媛であると大人気だった石川郎女(いしかわのいらつめ)を巡ってのバトルが始まっていたのです

最初に石川郎女を好きになったのは草壁皇子
万葉集に草壁が石川郎女に送った歌が載っていますが「あなたのコトを少しの間でも忘れることができない」って内容の歌です

が、石川郎女は病弱で大人しい草壁よりも、容姿端麗な大津皇子のことがスキでした

最初はお坊ちゃまである草壁になびいていた石川郎女も、だんだんと大津皇子に惹かれていったのです
無断転載禁止だよ!ハガクレ★カフェより
ここで出てくるのが鵜野讃良皇女

鵜野讃良皇女は自分の息子である草壁が、大津皇子に勝てないのをみて「まったく!何やってんのよ!小娘1人モノに出来ないなんて!」と、歯がゆい思いをしていました

鵜野讃良皇女は男勝りの政治好き

わが息子の恋がかなわぬのなら、せめて天皇にさせたろう!と画策するのです

鵜野讃良皇女は幸い(?)姉である大田皇女は亡くなってるので遠慮はいらないし・・・ってことで、ダンナである天武天皇に「草壁を皇太子に任命して!」とお願い

天武は、それをOKして草壁皇子は皇太子に任命されたのです

なぜOKしたかというと・・・

自分の亡き後、妻の鵜野讃良皇女がいれば草壁のダメなところをおぎなってくれるだろうけど、大津が天皇になってしまったら、色んなトコで陰口とか叩かれて一波乱あるだろう・・・と思ったのでした

そして686年 天武天皇が死去したのです

鵜野讃良皇女は、せっかく草壁皇子が皇太子となったものの、大津皇子は容姿端麗・文武ともに優れ、家臣からも大人気

そのため「大津皇子がいたらいつ反乱を起こされるかわかんないな・・・」と心配になってきていました

さらに天武天皇は大津のかしこさを気に入っていたので、草壁を皇太子に任命してからも大津を政治の中に入れていました

そんな中で天武天皇が死去したのです

さぁ、こっからは鵜野讃良皇女の天下となります

朝廷は鵜野讃良皇女の言うことを聞くやつばかりで固められ、大津は居場所がなくなってきちゃいました

そして天武の死後1ヶ月に大津皇子にでっちあげの謀反の疑いをかけるのです
大津皇子は、計画さえたててないのに「謀反のかど」で逮捕されてしまったのです
そして逮捕されてから3日後、死刑を言い渡され自宅で自害したのです。

大津皇子24歳でした

この時大津の妃である山辺皇女は髪を振り乱して泣き、はだしのまま遺体にすがり離れずに一緒に死んでしまいました

大津皇子を殺した鵜野讃良皇女
2年3ヶ月もかかった葬儀も終わって、これで息子の草壁皇子が天皇に!と思いきや、なんと草壁皇子が689年28歳の若さで即位もせずに死んでしまったにです!

鵜野讃良皇女は悲しみまくり

こうなったら草壁皇子の7歳の息子 軽皇子をを天皇にしようと考え始めたのです

天皇候補には高市皇子がいましたが、鵜野讃良皇女は溺愛した草壁の無念を思い、誰が他のヤツにやらせるか!という感じでした

軽皇子はまだ7歳だったので、孫が大きくなるまでは私がやる!と、鵜野讃良皇女は690年 45歳にて41代持統天皇になったのです

ちなみに偶然ですが、同じ年に中国では聖神皇帝が中国史上最初で最後の女帝となっております

天武天皇時代の鵜野讃良皇女の手腕を見ていた豪族らは誰一人反対しませんでした

こうして実力を伴った女帝が誕生したのであります

まずは飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)という、大化の改新以来整えてきた仕組みを制度としてはっきりさせました
もともとは天智天皇が藤原鎌足とともに作ったんだけど、持統天皇により完成し、発足したと言われてます

また藤原京という、中国のマネをした立派な都を造りました
藤原京には数千の人々が住み壮大な都となります

持統天皇は一応「太政大臣」に高市皇子を置きました
まだ軽皇子が小さかったし、高市皇子は壬申の乱の時大活躍したので人気があり、しかたなく置いたという感じです

その高市皇子が、なんと43歳の時に急死しちゃいました

もー持統天皇超ラッキー♪
この時軽皇子はすでに14歳

「皇太子」にしちゃおう!と、一応重臣を集めて会議を開きました
皇位継承者には軽皇子の他に、天武天皇の皇子がまだまだいました
この合議にはのちに大物政治家となる藤原不比等も参加してました。

そして合議では天武天皇の他の皇子を押す声が多く、意見が分かれまくった

その時、大友皇子の遺児である葛野王が

「兄弟間の相続は争いの元になる。持統天皇直系の血のほうがいいんでは?」とゴマすり意見を出したのです

これに藤原不比等も大賛成したそうです

なぜ大友皇子の遺児がこんな意見を出したかというと、天武・持統時代、大友皇子の子として不幸な時代を送っていた葛野王に藤原不比等が「こう言ったらきっとあなたの立場は良くなりますヨ・・・」と入れ知恵したのでした

そして持統天皇の思惑通り軽皇子は「皇太子」となったのです

14歳になった軽皇子は、反対勢力もたいしたことなかったため、すんなりと持統天皇から位を譲り受けました

が、今まで20歳以下の未成年が天皇になったコトがないので、持統天皇はまだ政治の表舞台に出続けることとなります

持統天皇は53歳で天皇を譲り、「上皇」となりました
持統天皇は「天皇」をやめてからも「天皇」と同等(以上)の位置にい続けることになります

そして、天武天皇の子である刑部親王(おさかべしんのう)と、藤原鎌足の次男である藤原不比等に命じて法律の編集を進めました
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これでできあがったのが「大宝律令」
大宝律令は刑法にあたる「律」が6巻
行政法・民法・商法にあたる「令」が11巻という法典

初めて「律」が日本にできました

大宝律令の完成間近に行われてたパーティは超盛大に行われました

ちびっこ文武天皇は持統天皇のバックアップの中、頑張ってました

が、とうとう702年に持統天皇が死去

文武天皇即位して5年後でした

持統天皇は日本初の火葬をしました
骨はダンナ(天武)と一緒になりました

持統天皇の政策は、先例を巧みに利用しながら、自分の皇統を守る為に「母」としての立場で精一杯努力した女帝でありました

男性天皇の「中継ぎ」という感じで天皇となりましたが、それでも中継者としての役目はかなり大きかったと思われます








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