日本の女性史


日本の女性天皇を紹介

         


明正天皇
明正天皇は江戸時代に登場した日本史上、七人目の女性天皇であります

859年ぶりの女帝であり、さらに徳川家の血を引く「葵の帝」であります

さてさて、徳川家康といえば、江戸幕府を作ったお人

その家康は子供をたっくさん作り、色んな大名と婚姻関係を結び「血」の絆を大事にしていきました

そんな幕府にとって少々厄介だったのが朝廷との関係

一応天皇家というのが日本の主権者で、鎌倉幕府以降の武家政治は政権を天皇から預っているというものでした

だから征夷大将軍という役職も朝廷(天皇)から宣旨を受けて承認してもらうという形式がとりあえずあったのです

家康は「禁中並公家諸法度」を作り、朝廷に政治のことを口出しするなよ!ということになってはいたものの、天皇の立場は将軍よりは上なのです

しかも朝廷は特に反抗するわけじゃないので、余計始末が悪かった(反抗してきたら豊臣家のように戦いを挑めるからね)

そこで家康は、死ぬ前に天皇家に自分の一族の娘を送り込もうと画策していました
で、選ばれたのが秀忠の娘 和子
秀忠とお江の娘で8人の子供の末っ子です

後水尾天皇が即位すると、家康は後水尾天皇に和子の入内をプッシュ
後水尾天皇が21歳、和子が10歳の時に入内することが決まりました

が、翌年、大阪の陣が始まってしまい、さらに家康が死んでしまうのです

そのために入内は1619年の秋にしましょうと、延期になりました

が、この年、後水尾天皇が公家の娘であるお与津という女性に惚れまくり2人の子供を産ませていたことが発覚したのです

父である秀忠とその妻お江は激怒し、「和子の入内を延期する!」と言ってきました

秀忠からすれば「うちの大事な娘と結婚するって時に、愛人に2人も子供を産ませとるとは何事じゃあ!!」というものです

後水尾天皇も負けずに「なんで?天皇は何人も妃を貰っていいんだぜ?そんなことで偉そうに天皇に指図しやがって!!じゃあオレ天皇辞めるから」と言ったもんだから幕府はパニック

天皇辞めちゃったら、和子を嫁がせる意味がなくなっちゃうからです

他の公家や幕府側からは藤堂高虎なんかが後水尾天皇をなだめまくり、なんとか譲位を思い留まらせました

そして1620年6月20日に、和子は入内するのです

武家の娘が入内するのは、平清盛の娘・徳子が高倉天皇のもとに入内して以来のことで、秀忠は大張り切りでお金をかけまくった

和子が二条城からやってくるのに70万石分のお金をかけたのです

これは天皇家が生活できる70年分くらいのお金。すごいです

さらに幕府は、和子の花嫁道具の製作を、江戸ではなく京都の職人に頼んだため、京都はかなり景気がよくなり、「和子万歳!」ムードに

が、後水尾天皇はそれが気に入らない

幕府が新しく作った和子の家は後水尾天皇の家よりでかいし、さらに和子とともに行った武士や女官は、スパイ集団として朝廷の様子を逐一幕府に報告しちゃっていたからです

だけど幕府を敵に回しては皇室はおろか、公家さえもビンボーのどん底になってしまう

後水尾天皇は仕方なく、和子の所に遊びに行くようになるのです

が、和子はあっけらかんとした明るい女性だったため、後水尾天皇はしだいに和子に心を開き、三人の子供を産みます

ここでまた事件が!

幕府は朝廷の力を抑えるために「住職の印である紫衣をつける場合は、幕府の許可を取るように」と大徳寺や妙心寺の住職に命じたのです

だけど住職らはこれに反発
「幕府が寺社に口出しするなや!」と大徳寺の元住職沢庵らが抗議したのです

幕府も「今ここでヤツラの勝手にさせちゃったら権力がゆらぐ!」と断固拒否
沢庵は流罪となったのです。

これに朝廷はプライド傷つきまくり。朝廷が幕府の命令に屈したことになったのです

さらにこの後 家光の乳母のお福が天皇の妹である和子に会いにきたのです

無位無冠の乳母であるお福が天皇に謁見するなんてもってのほか

だけど強引に謁見し後水尾天皇はショックをうけ自信をなくしちゃったのです

怒った後水尾は、密かに7歳の娘(和子との間の最初の子)に天皇を譲ってしまったのです

7歳で明正天皇となった和子の娘

徳川の血が入った天皇の誕生です

が、女性天皇は「子供を産んではいけない」とされていました。ということは、徳川の血の入った天皇は明正天皇一代限り

これが後水尾天皇のささやかな抵抗だったのです

さて明正天皇ですが、7歳から21歳まで14年間天皇として在位していました

この間、主な政務を取り仕切っていたのは後水尾なので、儀礼的なもの以外はほとんど「天皇」としての活躍はしていません

この間、幕府(この頃になると、将軍は家光)と朝廷の間では火花バチバチ

家光は和子に大量のお金や品物をプレゼントし、幕府の実力を見せつけていました

それに対抗して後水尾は、続々と他の女性に子供を産ませ続けました
ちなみに幕府は「他の女性との懐妊は許さんぞ!」という命令を出していた

和子はというと、27歳の時に7人目の子供を産んだ後疱瘡になってしまい、以後、後水尾との性関係はおしまい

で、21歳で天皇を異母弟に譲った明正天皇は上皇となり、74歳で死去しました

まさに幕府と天皇家との間で翻弄された女性でありました









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