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日本の女性史



         


山内千代
見性院〜けんしょういん


2006年大河ドラマで一気に有名となった千代
当サイトでは山内千代へインタビューも行っております

さて、実際の千代には数多くのエピソードがありますが、多くのエピソードがある割りには、あまり実際の千代は不明な部分が多くあります

また、近代になって有名になった女性であります

教科書に女子教育に大事な「内助の功」が取り上げられるようになり、千代は良妻賢母の鏡として有名になったのです

生まれにも色々な説があり、父は明智光秀の家臣だったとか、不破家の出身だとか、細川氏の出身だとか、はっきりしたことがわかっていないのです

山内一豊と結婚したのもいつなのか、不明なのです
それに千代に関してのエピソードは江戸時代にかかれたことが多いのであります

ともあれ、山内一豊と結婚したのは事実ですので、ここでは大河ドラマと同じく不破家出身の説をとって行くことにします

不破家の父は、一豊と千代が結婚する際に、鏡箱にいれた小判を花嫁道具として渡しました
「これは生活のために使ってはならぬぞ。夫の一大事の時に使うんだぞ」

千代はその言いつけを守り、貧乏でも食べ物の為にそのお金を使ったりしませんでした

ある日、一豊がとぼとぼと家に帰ってきました
どうしたのか?と千代が尋ねると「今日、東国一の駿馬を売りに商人が城下町にやってきたんだ。見に行ったら、素晴らしい馬だった・・・。が、あまりも高すぎて誰も買えなかったんだ。はぁ・・・貧しいほど悔しいことはないな。あの馬を見事に乗っておやかた様の前に出たかった・・・」とぼやいたのです

「その馬はおいくらですか?」

「黄金十両だそうだ」

すると千代は「それほど欲しいのならお買い下さいな」と、鏡箱の底から十両を出したのです

一豊は驚きました「何年もの間、貧しく苦しかったのに、こんなお金があったのか!?これで本当に買っていいのか!?」

千代は「ワタクシは、生活の為にこのお金を使ってはいけないと言われておりました。家の貧しさは世の常なので耐え忍んで過ごせます。が、今度京都で馬揃えがあるとお聞きしております。これは天下の見物でございます。その場に一豊様に最高の馬に乗っていただきとうございます」

一豊はすごく喜んでその馬を買った

馬揃の日、その見事な馬は信長の目に留まった
そして「東国一の馬を商人は我が織田の城下なら買ってくれるだろうとわざわざやってきた。それをむざむざ返すような恥ずかしい目に会わなかったのはそなたのおかげである。織田の家中の恥を晴らした天晴れなヤツよ」
と、一豊のことを多いに褒めたのであります

さて、千代は手先の器用な女性でありました

一豊が近江の長浜城にいた頃、千代は巻物のはぎれを集め、それらを縫い合わせて小袖を仕立て上げました
その手際のよさに人々は驚き、友人が秀吉に見せるよう勧めました

秀吉はその小袖を見ると、かなり感心し、聚楽第までやってきた大名達にもその小袖を自慢したのです
さらにその小袖は朝廷へ献上されるのです

さてさて、その豊臣秀吉が死に、戦国の世を東西に分けた関ヶ原の戦いが勃発しました

山内一豊は徳川方についたのです

徳川家康は上杉景勝を倒すために進軍しておりました。一豊は先陣でした

進軍中に、西軍の石田三成が兵を挙げたのです
進軍している大名の妻子の多くは大阪にいたため、みんなの慌てふためきようは普通ではなかった
この時、千代はすぐさま使者を出し、一豊にコトの詳細を教えたのです

人々が慌てふためく中で、千代だけがすぐさま状況を知らせる使者を出したということで、千代の賢明がますます強調されました

そして関ヶ原の合戦後、山内家は土佐24万石の大名となりました

が、千代と一豊の間には女の子しか生まれなかった
その女の子も6歳の時に地震で死なせてしまったのです

そのため跡継ぎに、一豊の弟である康豊の息子で、忠義といいます
この忠義が一豊と養子関係を結び、山内家の跡取りとなります
忠義は、家康の養女と結婚し、山内家と徳川家は婚姻関係ができておりました

その一豊がとうとう死去。その時、千代は49歳でした

千代は一豊が死ぬとあまになり「見性院」となりました
そして一豊死去の翌年、土佐をはなれ京都へ移り住んだのです
この時、一豊の弟は大反対したそうです

こうして京都で晩年を過ごしたのでした








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