×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。


 

日本の女性史



         


おね・北政所
高台院〜こうだいいん〜

豊臣秀吉の正室となり、戦国の世を生きた戦国を代表するおね
呼び名は「ね」や「ねい」「ねね」「おね」とありますが、ここでは「おね」で通します

杉原定利の次女として、尾張の国に生まれました
そして、叔母の嫁ぎ先である浅野家の養女となります

そして後の豊臣秀吉と結婚。この時、13歳とも14歳とも言われています
結婚する際、母の朝日が「農民出の男と結婚なんてダメ!」と大反対!それを説得したのが後の前田利家とも言われております

2人の結婚は、土間に藁(わら)を敷き詰め、その上にござを引いたという質素なものでした

お隣には、おなじ信長の家臣である前田利家とまつが住んでおり、家族ぐるみで仲がよかったそうです。
そして「まつ」とは、生涯親友となるのです

さて、おねのダンナ秀吉(この頃は藤吉郎だけど、秀吉で通します)は、織田信長のもと、どんどん出世

そしてとうとう一国一城の城主となります

が、有頂天の秀吉は浮気三昧

おねはプライド高い女性っていうより、あけっぴろげなおっかさんタイプだったので、ぐずぐずとグチを言わず直接秀吉に「あんた!何やってんのよ!」とズケズケと言うタイプでした

プライドの高い妻であったなら、じっと我慢し自分のプライバシーをベラベラ言ったりしない
ヒステリックに怒ってダンナを出世街道から外してしまうような女性でもない

ズケズケものを言うおねに対し、秀吉も秀吉で「うるせいやい!」って感じだったので、おねはとうとう主君である信長に愚痴ったのです

すると信長から手紙がきました

「そなたは以前会った時よりもずっとキレイになったな。そんな美人な妻を持ちながら藤吉郎(ひでよし)は文句を言うのであれば、それは藤吉郎が悪いな。あんなハゲネズミにそなたのようないい妻は二度と見つからないのだから、そなたも気を大きく持って軽はずみな行動をしちゃいけないよ。ヤキモチなど焼かず藤吉郎の面倒をみてやってくれ。わしからも言っておくからな」というものでした。

あのオッソロシイ信長にこのような手紙を書かせたおねは、ほんわかしたいい人柄だったのでしょう

おかげで秀吉は、以後おねに頭が上がらなくなり、他の側室らもおねを一目置くようになったのです

秀吉はというと、本能寺の変の後、めきめきと頭角を現し、とうとう天下を取りました

が、おねと秀吉の間には子供がいなかった

唯一秀吉との間に子供を産んだのが「淀君」だったのです

淀君とおねとの関係は、よくありませんでした
淀君からしてみれば「秀吉はあたしの母(お市の方)の兄、信長の家来でしょ?あたしは信長の姪よ?なんで家臣の妻に頭を下げなくちゃいけないの?」ってなもんです

そのため、淀君はおねに対して反発
さらに、秀頼を出産したことで、かなり権力をゲットしていくのです

城内でも派閥ができました
浅井家に世話になっていた近江出身の人たちは、浅井家の娘・淀君の味方(石田三成など)となるのです

おもしろくないのは、おねに世話になった加藤清正や福島正則ら
こうして豊臣家臣内では、淀君派VSおね派ができあがってくるのです

秀吉は、数多くの側室を持ちましたが、おねだけは大切にしていました
淀君にとって、それもおもしろくないことだったでしょう

そしてとうとう秀吉が死去しました

そして関ヶ原の戦いが始まっていくのです

この時おねは、自分を慕う武将らに「徳川家康の味方をしなさい」と言いました

秀吉が死んでからは、大阪城を出て尼となったおね
いまや豊臣は秀頼と淀君のもの
今の豊臣は、私と秀吉が作り上げた豊臣ではない
ということで、豊臣に対して未練がなかったのかもしれません

こうしておねに世話になった武将らは徳川方へつき、見事勝利を治めました

その後、大阪の陣にて豊臣家は滅亡しました
おねはどのような思いでいたのでしょうか?

以後は、秀吉の菩提を弔うための日々を送り、1624年に死去しました

時代は三代将軍家光の時代となっており、可愛がっていた武将らが改易や転減などの憂き目にあっていたことなども、どのように思っていたのでしょうか・・・

女のバトルには勝ったけれど、寂しい晩年を過ごしたのかもしれません・・・









女性史TOPに戻る?

TOPに戻る?


参考文献はすべてこちら



1