日本書紀に出てくる皇后。実在したかどうかも不明であります
戦前は女傑の代表として、教科書に載っており、あがめられておりました
この頃の日本は海外へ進出していたので、大和朝廷軍を率いた女傑の伝説が、海外侵略のモデルとして合っていたからであります
が、戦後は取り上げられなくなり、卑弥呼に人気を奪われてしまった女性であります
さて、神功皇后は、息長(おさなが)一族の出身です
息長一族というのは、朝鮮からやってきた渡来人の一族で、琵琶湖あたりに住んでいました
そして神功皇后は、14代の仲哀(ちゅうあい)天皇と結婚したのであります
当時、日本の中央では九州の熊襲(くまそ)が邪魔でした。熊襲というのは、九州の地方豪族で、かなりの権力を持っていました。
そのため、仲哀天皇は熊襲討伐へ向かうのです
さて、陣中にて仲哀天皇は戦の前の占いをすることに
側近の武内宿禰(たけのうちすくね)が、神を招く為に庭を清め、天皇が琴をひきました
その時、神功皇后に神が乗り移ったのです
「西に国がある。金銀をはじめとする宝が多い。私がその国を従わせてあげるから、すぐさま軍を出しなさい」
それを聞いた天皇は、さっそく高台に乗って西をみました
が、玄界灘の向こうは、水平線が見えるだけ
「大海がみえるだけではないか。嘘を言う神だ」と、琴を弾くのをやめ、黙ってしまったのです
皇后に乗り移っていた神は怒りました
「天の下におぬしの治める国などない!黄泉の国へ行け!」
驚いた武内宿禰は、天皇をなだめ、天皇は仕方なく琴を弾き始めましたが、琴の音がしなくなってしまいました
仲哀天皇は、琴を引いている途中に死んでしまったのです
武内宿禰は、「どうすればいいのでしょうか!?」と、またも神の意見を聞くと、
「すべての国は、この女の腹の中にいる子供が治めるがよい」と言ったのです
こうして、天皇が死んでしまい、天皇の代理として神功皇后が政権を握ることになりました
さて、皇后は海を渡った新羅の国を攻めようしました
が、進軍中に子供が生まれそうになったのです
目的を達する前に生んでしまってはまずいと思った皇后は、神に祈りました
すると「戦が終わるまでは大丈夫にしてやる」と神が答えたのです
そして皇后は石を帯の間に挟み、男装して全軍の指揮をとったのです
こうして神功皇后は、新羅・百済・高句麗の三韓を制覇しました
そして皇后は息子を産み、100歳まで生きたと言われています
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