日本の女性史


こんな女性がいた!

         


平安時代
菅原道真を支えた妻・宣来子(のぶきこ)

菅原道真といえば、頭が良すぎたばっかりに藤原氏から疎まれ、無実の罪で大宰府に左遷されてしまったというお気の毒なお人

左遷されてからの道真の生活は惨めで、早く都へ帰りたい・・・と願い続ける日々

そんな道真を慰めたのが、奥さんの宣来子

宣来子は、道真より5歳年下で、どうやら幼馴染だったらしい
夫の帰りを都でじーっと待ち続け、「あなたがいないと寂しいわ。早く帰ってきて。それに貧乏で大変なの。家の庭木も売り払ったわ」などなど、お手紙を書き続けた

他にも健康のために色んな物を送り続けたらしい
そんな宣来子の願いもむなしく、道真は左遷先の大宰府で死んでしまいました

その後、怨霊となり都を騒がせた「道真の怨霊」

宣来子はどのような思いで、その祟り(?)を見ていたのでしょうか???

他の妻に嫌がらせ!村上天皇の皇后・安子

安子は、藤原一族の女性であります

藤原一族の女性として、村上天皇の皇后となりました
が、肝心の村上天皇は美貌の芳子を寵愛

悔しくなった安子は、なんと芳子の部屋に土器を投げこんだりと嫌がらせをしたのであります

これに怒ったのは村上天皇
「大事な芳子が怪我したらどーするんじゃ!」と、安子と、安子の兄妹を謹慎処分にしようとした

安子は慌てて村上天皇の袖に必死にすがり、許してくれるようお願い
でも村上天皇は「ダメ!許さない!」と、安子の腕を放そうとするも、安子は「許してくれるまでこの手を離さない!!!」と、必死

とうとう村上天皇は、安子のしつこさにあきれ、しぶしぶ許してあげました

ちなみに村上天皇は、他にも女性に手をつけ入内させようとしたけど、安子は一人も許さなかった

平安時代のプレイガール 和泉式部

平安時代のプレイガールといえばこのお方 和泉式部であります

※歴史人物インタビューもあるので、こちらも参考にしてみてね

そんな和泉式部の晩年は??というと、実は謎なのであります

ただ、可哀相なのは最愛の娘・小式部が自分より先に死んでしまったこと

以後ぷっつりと姿を見せなくなってしまったのであります

とういことで、和泉式部の最後はどうなったのかは謎となってしまいました

平安のトップレディ 源倫子(みなもとのりんし)

この世はオレ様のためにあるぜ!という歌まで作っちゃった平安時代のビッグ男・藤原道長の正妻がこの人

倫子のお父さんは関白(お偉いさん)だったので、若かりし頃の道長は倫子を奥さんに選んだのであります
結婚した時24才で道長より2こ年上という、この時代には遅い結婚でした

倫子は「内助の功」タイプで、表にでしゃばらずダンナ・道長のために尽くしまくっていたお人

んでもって、この人の生んだ娘たちは道長の最高の政治の駒となっていくのであります

そんな倫子は後に天皇のおばあちゃんとなるので、従一位という最高にいい位をもらいます

で、90歳まで生きたという この時代では珍しく穏やかな日々を送れたお人


皇后としてのプライドずたずた・・・藤原安子

安子は藤原家の娘であります

14歳の時に、15歳の親王と結婚

で、21才に親王は「村上天皇」となり、安子は皇后として後宮NO1の地位をゲットします

が、天皇には何人もの女性をお手つきにしてもOK

安子のほかにも色んな女性に手をつけていました

とくに村上天皇が可愛がったのは美貌で有名だった「芳子(ほうし)」
安子は不安で不安で、とうとう芳子の部屋に土器を投げつけたのであります

これに怒った村上天皇は安子の兄弟に謹慎を命じることに
安子は哀しくて、村上天皇の袖にすがって許しを請いましたが、天皇は許しませんでした

すると安子は、村上天皇の袖をさらにつかみ「許してくれるまで離さない!」と必死の顔でしがみつきました

村上天皇はこれに怖くなって、とうとう謹慎処分にしなかったのです

以後も村上天皇は安子の妹である登子にヒトメボレしてエッチしちゃったりと、安子を悲しませることばかり

で、とうとう38歳で死んでしまうのであります

ちなみに安子の息子は、次の天皇である「冷泉天皇」になりますが、冷泉天皇は精神を病んでいる天皇だったので周りからバカにされる一生を過ごします
さらに言うと、安子の死後、登子は村上天皇の寵愛をうけまくりました

なんか気の毒な皇后ですね

トラブルメーカー白河上皇のお手つき 待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)

璋子は、幼い頃から皆が目を見張るほどの美少女でした

美少女すぎたために、ロリコン白河上皇に狙われてしまうのであります

白河上皇はこの璋子をとても可愛がり、まだ「少女」でしかない璋子を自分の愛人にするのです

そして白河上皇は自分の孫である鳥羽天皇と17歳になった璋子を結婚させたのであります

鳥羽天皇と結婚してからも璋子と白河上皇は何度も密会していました
鳥羽天皇は悔しかったけど、権力のあるおじいちゃんには何もいえない

こうして、とうとう璋子は赤ちゃんを出産
これがのちの崇徳天皇となります

鳥羽天皇は自分の子でない崇徳天皇をまったく可愛がらず「この子は叔父子(祖父の子)よ」と、抱きしめようともしなかった

そして崇徳天皇は即位しますが、白河上皇が死んでしまいました

うるさいのがやっと死んだ!とばかりに、鳥羽天皇は羽根を伸ばしまくり
さっそく若い藤原得子という女性を寵愛し、あからさまに崇徳天皇を嫌い始めた

そして崇徳天皇は天皇の座を無理やり引きずりおろされ、得子の息子を近衛天皇とさせるのです

璋子はというと、得子に追い出されてしまい、寂しい晩年を過ごし死去
息子の崇徳天皇が、保元の乱で破れ悲しい死を遂げるのを見ずにすんだのが、せめてもの救いかもしれないですね

後宮争いの勝者!美福門院得子

上でも紹介した鳥羽天皇ですが、うるさい白河天皇が死んだ後は18歳の得子を寵愛しました

得子は二人の娘と一人の皇子を出産

鳥羽天皇は、可愛くない崇徳天皇を天皇の座から引き摺り下ろし、まだ3歳になったばかりの得子との間にできた息子を近衛天皇として即位させたのであります

が、近衛天皇は病弱だったため、亡くなってしまいました

すると得子は「璋子が呪詛したからよ!」と騒ぎたて、璋子を出家に追い込んだのであります

で、次の天皇に崇徳天皇の弟を「後白河天皇」にさせるよう鳥羽天皇にお願い

得子ラヴな鳥羽天皇は、そのとーりにしました

後に崇徳天皇VS後白河天皇の兄弟バトルが勃発しますが、勝者は後白河天皇

後白河天皇はライバル璋子の息子でしたが、得子を恩人として一生大事にしました

国母として、そして女としても勝者となった得子でありました

二人の天皇に嫁いだ 藤原多子(ふじわらのたし)

多子は11歳の時に、近衛天皇に嫁ぐことになった女性であります

とても美少女だったんですが、同時に「呈子(ていし)」という女性も入内したため、どっちが「皇后」になるかすったもんだ

で、多子が皇后になることが決まったんだけど、決まった途端、肝心の近衛天皇が死んでしまいました

この後すぐに保元の乱が起こり、多子は忘れられた存在に

が、多子が21歳の時に二条天皇(後白河天皇の息子)が、美人な多子の噂を聞いて「結婚したい」と言ってきた

多子は断ったんだけど、二条天皇は譲らない

こうして多子は二人の天皇と結婚することとなったのです

が、その二条天皇も23歳で死去。多子は30歳にもなってないのにまたも未亡人

その後は忘れられてしまい、ひっそりと暮らしたと言われいます








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