日本の女性史


こんな女性がいた!

         


江戸時代
未亡人のスゴイ色欲!?本寿院

本寿院は、尾張藩四代藩主・徳川吉通の生母であります

三代藩主である綱誠の側室であり、綱誠の死後落飾しましたが、藩主の生母なので権力はすごいものでした

この本寿院、ダンナが死んだ後、ものすごい遊びまくるのです

本寿院は江戸の藩邸に住んでいましたが、国元から新しい藩士がくると、お風呂に連れ込んで裸にし、アレが大きければエッチしたそうです

さらにエスカレートし、お相手は役者・相撲取り・町人・僧侶とバラエティ豊か

本寿院つきのお医者さんは「なんども中絶ばかりさせられて、もう嫌だ」と泣きが入ったとか

ちなみにそのお医者さんをも誘ったらしい(が、振られた)

遊びまくりの本寿院の破廉恥噂はいつしか尾張藩の知るところとなりました

が、何しろ御三家筆頭の尾張藩の生母

尾張藩ではヘタなことを言えず頭を悩ませまくり

とうとう業を煮やした幕府が、本寿院を尾張藩の屋敷に幽閉したのです

このとき41歳でした

幽閉された本寿院は禁欲を命じられましたが、かなり苦痛だったらしく、庭の木によじ登って逃げようとした姿も見られたらしいです

男性はいっくらこういうコトをしてもOKだったけど、女性でこういうスキャンダラスなタイプは珍しいですねー
ケド、女性だからってことで幽閉されちゃうってものお気の毒なことです・・・

超マイペースすぎ!?葛飾北斎の娘・お栄

お栄は葛飾北斎の三女として生まれました。葛飾北斎は生涯に93回も引越ししたり、自らを「画狂人」と名乗るだけあって、かなりの変人でした

その変人DNAを一番濃く受け継いだのがお栄だったのです

さてさて、お栄は南沢等明という絵描きと結婚してましたが、ある日「ただいまぁ〜」とごくフツーに帰ってきました

父親ならここで「なんだ!?どうした!?」と聞くトコですが、「ああ」と言ったきり

お栄はごく当たり前のように、家に戻ってごろごろ生活をし始めたのです

ちなみに戻ってきた理由は、ダンナの絵があまりにも下手だったから、大笑いしちゃったそうです。
そしたら出て行け!離婚だー!といわれたらしい

北斎が53歳の時に奥さんが死に、とうとうお栄と2人っきりの生活に

が、お栄はまーーったく生活態度を改めず、2人して書いた絵の紙くずの中に埋もれて暮らしていました

もちろんご飯なんて一切作らない
毎日、家の近くの煮売り屋で買ってきてました

そんなおかしな親子関係だったが、北斎はお栄の絵の才能だけは認めていて「あいつの書く美人絵はおれよりうまい」と言っていました

ちなみにお栄の画号は「応為(おうい)」

理由は「お父さんがさ、いっつもあたいのことをオーイ、オーイって呼ぶからさ」だそうです

将軍に衣装比べを挑んだ豪商の妻

五代将軍綱吉の頃、日本橋に「石六」という豪商がいました

この妻は実家もお金持ちで、周りからいっつもちやほやされた贅沢な女性でした

京都の難波屋の女房が衣装持ちだという噂を聞くと、「あたしゃ江戸一だよ!京の女になんて負けてたまるかい」と、わざわざ京まで勝負しにいくほど(ちなみに、江戸女の勝ちだったらしい)

これに気をよくした妻は、今度は綱吉が寛永寺に参詣にやってくる将軍の行列と衣装比べをすることに

こうして綱吉が寛永寺に行く道に、金の屏風を立て、毛氈を敷き、伽羅の香りをたちこめ、豪華絢爛な衣装をまとったのです。

さらにお付の家来にも派手な衣装を着せ、金の扇で風を送っていました

これを見た綱吉

「あれは何者だ!?」と調べさせました

そして調べたところ「将軍に挑戦した」という話が入ってきたのです

これに怒った綱吉

「町人のくせに将軍様に挑戦するなど言語道断じゃぁ!!!」と、なんと石六を家財没収・江戸十里追放にしたのです
一番気の毒なのは、だんなさんですね〜

お江戸の売名行為!?妙梅尼

忠臣の討ち入りとして有名な事件・赤穂浪士の忠臣蔵

さて、1752年に江戸の泉岳寺で赤穂浪士の五十回忌が行われていました

ここに突然、妙梅尼という老女が現れ、「わたしは赤穂浪士の一人・堀部安兵衛の妻です」と名乗りあげたのです
堀部安兵衛とえば、四十七人いる赤穂浪士の中でも高田馬場の仇討で知られる人気者

そんな人気者の妻が突然出てきたもんだから、妙梅尼は一躍「時の人」に!

赤穂浪士の討ち入りは「忠臣蔵」で芝居になり大人気だったので、諸大名からも「あの堀部の妻?じゃあうちに呼んでくれ!」と、招待しまくり

妙梅尼は生き証人として、赤穂浪士の武勇伝を話しまくりました

そのうち妙梅尼の手ぬぐいだとか、短冊まで販売されるほど

が・・・・・

妙梅尼の話す武勇伝は、ちょっとつじつまが合わないことが多かった
どうやらこの女性、安兵衛が道場を開いてた時の下女だったらしい

で、この下女が五十年経って安兵衛の妻として現れたといわれています

うーん。本当のトコはどうなのでしょうねぇ。
だけど老婆になってからちょびっと贅沢が出来てよかったですねぇ(笑)


自ら美しい顔を焼いた了然尼

了然尼(りょうねんに)は、武田信玄の曾孫の・葛山為久の長女として生まれました

すごい美貌の持ち主で、さらに頭も良かったため、後水尾天皇の孫に仕えたりと活躍していました

が、了然尼の心には「信仰に生きたい」という気持ちがいつもあった

そして27歳の時、とうとう結婚していた旦那と離婚し、剃髪したのです

了然尼が向かったのは江戸に行き、黄壁宗の禅僧として名高い鉄牛道機(てつぎゅうどうき)の門を叩きました

が、ここで入門を断られたのです

その他にも色んなトコへ行きましたが、全て断れました

理由は「美人すぎるので、尼には向いていない」というものでした

自分の信仰心を信じてもらうには・・・と、了然尼は自分の美しい顔を火で焼いたのです

そして再度、門を叩きました

焼けただれた顔を見た僧たちは、了然尼の決意が固いことを知り、入門を許可したのです

以後、了然尼は和歌などにも優れた才能をみせ、俗世間から解き放たれ66歳まで生きました


父の屈辱を晴らすべく・・・・野中婉

野中婉は土佐藩の家老・野中兼山の娘として生まれました

父は家老トップとして藩政の実権を握っており、大規模な土木工事や新田開発なので多大な功績をあげました

が、領民にとっては過酷以外のなんでもなく、反発を招きました

とうとう失脚し、父親は失意の中で死んでしまったのです

土佐藩は、残された野中家の人々に残酷な刑を下しました

父・兼山は謀反人とされ、野中家は改易。そして流罪となったのです

流罪となった時、野中婉はまだ5歳でした

そして以後、ずーっと藩の監視のもと、幽閉生活を送ることとなるのです

そのうち、長女が死に、長男も死に、次男は発狂死、三男・四男も死んでしまい、野中家の男系は絶えました

男系が絶えたということで、野中家はやっと許されたのです

そのとき野中婉は45歳でした

一家は昔の家臣を頼り、高知城下の朝倉村に住みました

ここで婉は、長い幽閉生活の間に覚えた本草学を生かし、漢方医となったのです

婉の医学の腕はかなり良く、この時代の代表的な女医となりました

忘れられていた野中家は、やっと日の光を見ることができたのです








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