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日本の女性史



         


乃木静子

乃木静子は、軍神といわれた乃木希典の妻であります

静子は、1859年鹿児島で医師をしていた湯地家の七番目の子として生まれました

長男の定基は優秀で、東京で働き政府に出仕してからエリートコースを歩んでいたため、赤坂に2000坪の屋敷を構えるように
そして、鹿児島にいた一家を呼び寄せたのです

静子は、東京の麹町女学校に通うこととなり、当時の先端教育を受けることとなりました

20歳の時、大久保利通が暗殺され、国葬が行われました
ここで静子は乃木希典を見かけたのです

その後、静子のもとに乃木希典との縁談が持ち込まれました
静子は希典に興味を抱いていたため二つ返事でOK
が、肝心の希典は結婚に興味がまるでなかったのです
それでもとりあえずOKでした

明治11年8月27日が結婚式の日でした

が、新郎である希典がこないのであります
皆、慌てふためいていました
すると5時間後、やっとこさやってきた希典
ですが、結婚式だというのに、髪の毛はメチャクチャでヒゲはボーボー
そして、いきなりずかずかと席に着くと、三々九度の杯を交わしたかと思うと、浴びるように酒をのみ、酔いつぶれてしまったのです
散々な結婚式でした

それでも静子は、翌朝これから同居する希典の弟や使用人たちの前で「今日から私がこの家の主婦です。そのように心得て、みんな私の指図に従ってください」と宣言しました

余談ですが、静子の本名は「七」(七番目の子だったので)という名前でしたが、八百屋お七を連想させて、軍人の妻にふさわしくない名前だってことで、結婚する際、静子という名前に改名させられました

2人の男児を出産するが、静子にはすっごい悩みがあった
義母の寿子であります
この2人、どーやっても気が合わず、とうとう寿子は息子の希典に「あんな生意気な嫁、離婚しなさい!それが出来ないならあたしが出て行く!」と言ったのです

おかーさんに頭の上がらなかった希典は、離婚までは行かなかったけど、静子を家から追い出したのです

静子は5歳と2歳の子供を連れて、湯島天神そばの借家に住むことになりました
ですがだんだんと静子が気の毒になってきた希典
とうとう別居生活一年後にして、離婚しろと騒ぐ寿子に向かって「静子とは離婚しません。するときは、静子が死ぬ時です」と言ったのです
こうして静子は再び乃木家へ戻ってきました

この頃から、夫婦の間にやっと情が芽生えたのか、お互い仲良くなってきました
そして寿子もそんな2人の様子をみて、だんだん静子を認めるようになってきたのです

が、時代は日露戦争へ
希典は、指揮していた二百三高地で莫大な戦死傷者を出し、国中から批判を浴びることとなりました
さらにこの戦争で2人の息子を亡くしたのです

明治45年7月30日 明治天皇が死去しました
9月13日 大喪の霊柩が宮城を出発する頃、2人は自害したのです
希典は割腹自殺
静子はその直前に4回の刺し傷を残して自害
最後の刺し傷は、希典による介錯ではなかったかとされています

静子の残した言葉に、「御家が大事の時は、いさぎよく殿御に従い、ともに御自害あそばされるべし」というのがあります

明治天皇に殉じて自害した夫婦の死でありました・・・









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