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日本の女性史


こんな女性がいた!

         


幕 末
女実業家・志士たちのパトロン 大浦慶

大浦慶は、坂本龍馬ら維新の志士達のパトロンとしても有名であります

慶は長崎の油商の家で生まれました

商売能力があり、日本のお茶を国際貿易の商品にしようとしたのです

この時代にとって、このような発想をする人はいなかった
お茶の輸出は大当たりし、慶は超大金持ちになったのです

が、熊本藩士の遠山という男の保証人になってしまい、その遠山が逃げてしまったことから大変なことに

慶の信用はがた落ちとなり、家財も差し押さえられてしまったのです

ちなみに、明治新政府のおえらいさん達の中には、かつて慶に世話してもらった人が沢山いました
でもみーんな知らんぷりだったそうです

ちなみに明治12年、元アメリカ大統領のグランド将軍が長崎に立ち寄り、パーティをしました

この時、長崎知事など多くの名士が呼ばれましたが、女性で唯一、大浦慶が招待されたのです

志士達は慶をしらんぷりしていましたが、輸出先のアメリカだけは、慶を忘れていなかったのでした

龍馬を忘れらなかった女性 千葉佐那

佐那(さな)は、江戸の名門道場・北辰一刀流の道場主・千葉定吉の娘でした

17歳の頃、道場へ修行にきた坂本龍馬と恋に落ちたのです

二人は結婚の約束をするほどの仲でしたが、その後龍馬は討幕運動へと奔走することになる

そして龍馬は、「お龍」という女性と恋におち、結婚してしまったのであります

佐那は一生独身で通しました
会う人に「わたくしは、坂本龍馬の許婚でした」と語る人生を過ごしていくこととなるのです

ちなみに、佐那はお灸治療で生計を立てていましたが、60歳ごろ死去

お墓には「坂本龍馬室」と刻んであると言われています
なんだか、かわいそうですね・・・
志士たちのおっかさん 寺田屋お登勢

寺田屋お登勢は、18歳の時に寺田屋六代目の伊助と結婚しました

姑は気難しく、伊助は遊び人でしたが、お登勢は夫に代わり経営手腕を発揮していました

賢かったのか、あれよあれよと寺田屋は繁盛するようになり、35歳の時に夫の伊助が死ぬと、以後は女手一つで寺田屋を切り盛りしていました

気風がよく、豪快だったお登勢の評判はよく、尊皇攘夷の志士たちの隠れ家となっていき、あの坂本龍馬もよく利用しました

有名な寺田屋騒動が起きたのは1862年、有馬新七ら30人以上が寺田屋に集まっていたところに島津久光が派遣した者たちが寺田屋を訪れ斬り合いになりました

後に龍馬の妻となる「お龍」は、お登勢の養女となっております

お登勢は、幕府側から何度も責められましたが、男勝りの豪快さですべて切り抜けました

そして48歳の時に、激動の人生を終えたのです
会津のナイチンゲール 瓜生岩

瓜生岩は9歳の時に父と死別し、会津藩の医者を務める叔父のもとへいきました

そこで医学を学ぶこととなったのです

結婚もしましたが、夫が死んでしまい、以後「困った人を助けたい」という気持ちを持つように

その頃、幕末の動乱が始まり、会津は戦乱へと突入しました

このとき、敵・味方関係なく怪我した人たちを助けたのが、瓜生岩だったのです

以後、上京し、渋沢栄一の手助けをしました。

生涯にわたり、救済活動を続けた女性でありました

会津の決死隊 中野竹子

竹子は会津藩に生まれました

妹の優子と共に、父親のいる江戸の藩邸ですくすくと育っていました

が、時代は幕末。会津藩の藩主・松平容保が京都守護職となり、薩摩や長州の仇とされたのです

そして、戊辰戦争で会津藩は最大の逆賊とされました

竹子と優子の姉妹は、江戸から会津へ帰る松平容保らと共に、会津城へと向かったのです

そして会津は薩摩・長州をはじめとした新政府軍に攻められることに

中野家は急いで籠城するため会津城へ向かった。が、竹子と優子は遅れてしまったため、城門は閉ざされてしまったのです

竹子と優子は、男装し、「娘子軍」へ加わることになりました

そして20人の娘子軍は、新政府軍と戦ったのです

が、竹子の胸を銃弾が貫きました。すると竹子はもはやこれまでと、妹の優子に自分の首を切落とさせたのです

竹子23歳でした

新島襄の妻・八重子

八重子も会津藩出身の女性です

上に書いた中野竹子と優子姉妹のように、新政府軍に攻められた会津で、八重子はスペンサー銃を持ち、薩長と戦いました

当時、女性の武器は薙刀でしたが、父や兄から銃の扱い方を教えてもらった八重子

男装し、勇敢に戦いましたが、とうとう会津城は降伏しました

八重子は男装したまま捕虜になりましたが、女性であることがわかると追放処分となったのです

こうして八重子は兄をたより京都へ行きました

ここで女性のために勉強を教えることになったのです

そして聖書の勉強をしているときに、新島襄と出会ったのです

八重子は新島襄と結婚し、洗礼を受けました

当時にしては珍しい洋服に帽子・ハイヒール姿で自転車にのっていたそうです







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