日本の女性史



         


金子文子

金子文子を思うと、「何の為に生まれてきたのか・・・」という哀しい思いに駆られます
人として幸せに生きるための基盤がなかった女性
あの時代にはこのように虐げられていた名のない女性が数多くいるのかと思うと、今を生きていることに感謝したい気持ちになります


金子文子は明治38年に横浜で生まれました
父は佐伯文一・母はきくの

が、出生届けが出されたのが大正元年

そう、両親からみれば、文子はどうでもいい子だったのです
生まれてから八年間、無籍者だったのです

そのため、小学校に行く年齢になっても学校に行けませんでした
学校へ行く子をうらやましそうに眺めながら、ずっと家の前にしゃがみこんでいる子供だったのです

両親も最悪でした
父は美男子だったため、女性関係が派手
母のきくのはそれに対して何もいえない女性
しかもこの2人は「同居生活」で、籍を入れていませんでした

父の文一は最初からきくのと一生連れ添う気はなく、他にいい条件の女がいればきくのを捨てるつもりだったからです

文子が六歳の頃、きくのの妹が行くあてがなくなり文子の家に同居することに
文一はその妹にまで手を出したのです
文一とその妹は、文子のいる前で堂々とSEXをし、愛欲に溺れる日々
そしてそれを知りながらも何もいわない母・きくの
文子の幼い心は、この三人を憎んでいくこととなったのです

そんな奇妙な同居生活はやがて終わることとなりました
文一と叔母が家を出て行ったのです

困ったのは残されたきくのたち
お金が無いので、文一のところに少しお金を貰いに行こうと、文子の手をとり一緒に行きました
が、文一はきくのが金の無心に来たとわかると、きくのの胸ぐらをつかみ殴りまくったのです
父が母に暴力を振るう・・・幼い文子はそれをどんな思いで見ていたのでしょうか・・・

さて、母のきくのですが、こちらもまた弱々しい女性だったため、男性に依存していないと生きていけないタイプだった
そのためどこからか見つけてきた大工をしている男性と一緒に住むようになったのです
母とその男は、SEXをするために文子や弟達をわざわざ遠い町までおつかいに行かせる毎日でした

そんな文子でしたが、無籍者でも入学できる学校に入ることに
ですが無籍者の文子は学校でイジメにあいまくりました
先生までもが文子を差別し、現代では考えられないようなイジメをしていたのです

文子が9歳の時、朝鮮に住んでいた父方の祖母が文子を哀れに思い「私が文ちゃんを育てます」と言ってきました
この祖母は朝鮮で高利貸しをやっており、かなり裕福でした
金持ちの家に貰われるなんてこんなチャンスはめったにないと、母のきくのは文子を養女に出したのです
文子も祖母に「小学校だけじゃなく、女学校にも女子大にも入れてあげるからね」と言われ、とても喜びました

が、祖母は朝鮮に行くとガラリと人が変わったのです
「あんたは貧乏人の子なんだよ!それをあたしが籍まで入れてやったんだから、恩を忘れるんじゃないよ」と、文子を虐待するようになったのです
とりあえず学校には行かせてもらえましたが、勉強に必要な道具を一つも与えてくれなかった
先生が鉛筆などを貸してくれたが、町の金持ちである祖母には何一つ注意してくれなかったのであります

文子は毎日殴る蹴るの虐待にあいました
次第に頭の中に「私は死んだ方が楽になれるのではないか・・・」と考え始めたのです

死ねば楽になれる・・・生まれてから虐げられ続けた日々。これ以上生きていて何になるというのか・・・

文子は川のほとりに立ち、石を袂に入れ入水自殺しようとしました
川は雄大に流れており、月が闇を照らしていました

文子は川へ入る足を止めた

「死ねば楽になれる。だけど私はこの川のような美しいものを見ていない。世界は広いのに、私はまだ何も見ていない。私は逃げるのではなく苦しめられている人と一緒に、苦しめる人に復讐するのだ。今私は死んではならない」

そして文子は16歳まで、祖母の虐待に耐え抜き、日本へ戻っていったのです

さて、文子の母・きくのは相変わらず結婚・離婚を繰り返し、男に依存する生活を送っていました
文子が戻ってきたときは山梨県にいる男性に嫁いでおり、文子はとりあえず居候に

そして一年後、東京に出る決心をしたのです

東京に出た文子は新聞の売り子をしながら昼間は学校へ通いました
朝六時に起き、新聞屋さんの人たちの朝食を作り、八時から三時まで学校へ
四時から十二時まで夕刊の売り子をし、帰ってきてから台所の片付けをし、寝るのは夜中の二時
こんな生活では勉強ができないと、新聞店の店主に訴えたところ、ケンカになり、とうとう文子は新聞店を出たのです

その後は職を転々としながら、悶々とした日々を送りました
なぜ貧乏な家に生まれただけで、私はこんなに虐げられなければならないのか?
なぜ貧しいがために自由を奪われるのか?
なぜ富める者はたっぷりと睡眠をとることができるのか?
なぜ貧乏人だけがこんな苦労をしなければならないのか・・・・

そんなある日、文子は「犬コロ」という題名の詩を読みました
短い詩でしたが、そこには文子が考え、思い続けていたことが全て書かれていたのです
作者は朴烈という朝鮮の男性でした

朴烈は朝鮮で社会主義運動をしていましたが、20歳になって日本へやってきました
そして文子と同じように極貧生活をしており、次第に大杉栄の思想に影響を受け、アナーキストとなっていたのです

ちなみにアナキズムとは全ての政治的、社会的権力を否定して、個人の完全な自由と独立を望む考えのことです。こういった考えを持ったひとをアナーキストといいます

文子は何とかして朴烈と会ってみたかった
それほどまでに朴烈の詩は文子の魂を揺さぶったのです
その文子の願いはかないました
朴烈と出会うチャンスが出来たのです
2人は神田にある中華店で食事をすることに
そこで文子は「あなたは恋人がいますか?妻がいますか?もしいなければ、私はあなたと交際したいのですが、どうでしょう?」と単刀直入に聞いたのです
朴烈は「僕は独り者です」とポツリといい、ここから2人の交際が始まったのです

同じような境遇で育った二人は、瞬く間に信頼関係を築いていった
今まで虐げられ続けてきた文子にとって、朴烈の存在は初めて信頼のできる人間だったのです

文子と朴烈は、朝鮮独立をアピールする小冊子を発行した
そして大正十二年には「不逞社」を作り、十人ほどのアナーキストや社会主義者たちと不当な差別のために立ち上がったのです
だが、お金が無かった。同じような思想を持った人達からお金を工面してもらい、その中には神近市子もいました

そして2人が最終的に出した「悪」は天皇だということになったのです

「人間は平等であるはずなのに、天皇を神として民衆の上に立たせたことから階級差別が始まった
そして戦争による他国への侵略が始まった
討つべき者は天皇であり、倒すべきものは天皇制である
神の意思を行う天皇がいるのに、天皇の子供達(民衆のこと)は飢えに泣き死んでいく
それはなぜか?
それは天皇が神でもなんでもないからであります
天皇に民衆を守る力などないからです」
今、こんなこと大きな声で言ったら大変なことになっちゃいますね〜
だけどこの2人は、このような結論に達したのです

2人は不逞社のメンバー達とともに天皇を殺すべく爆弾を手に入れようとしました
が、それがバレてしまったのであります
実際は爆弾を手に入れることは出来なかったんですが、爆発物取締規則違反で起訴されたのです

証拠がないのに起訴された二人
なぜかというと、警察当局はこの2人を他のアナーキストや社会主義者に対しての見せしめにするためです

捕らえれた文子は自分達の理想を話しまくった
皇太子を「坊ちゃん」と言い、役人を「ブルドック」とバカにし、「さぁ、私は言うことは言った!早く死刑にしてちょうだい!」といわんばかりの勢いだった

こうして2人はとうとう裁判長から死刑宣告を受けたのです
その宣告を受けた時、文子は「万歳」と叫びました
朴烈は「ご苦労様、裁判長」と言い、法廷で2人は微笑みあったのです

死刑宣告によって、2人はともに死ねる喜びで一杯だった
やっと愛する人と永遠に眠ることができる・・・・その喜びで一杯だったのです

ところが、宣告から10日後、2人は呼び出され「天皇陛下の御慈悲により、貴方達は無期懲役となりました。天皇のお慈悲に感謝するように」といわれたのです

2人は激怒した
文子は「人の命を勝手に生かしたり殺したりもてあそびやがって!」と、怒鳴り、朴烈も「畜生!バカにしやがって!」と怒鳴ったのです

文子は、これで2人で永遠の眠りにつけると思っていたのに、一生四角い壁に囲まれて過ごすことに絶望した

そして文子は絶望の中、刑務所の独房で首吊り自殺したのであります
22歳でした

余談ですが、朴烈はその後22年間刑務所で暮らしておりました
出所した時は戦後で、2人が命をかけて殺そうとした天皇も、マッカーサーにより神格を否定されておりました

朴烈は、あの時代に一度死んだのだ・・・・そう言いました

のちに結婚し、子供も生まれましたが、7月23日の文子の命日は、毎年家を閉めて彼女の為に一日中祈り続けたと言われています












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