晩年の徳川家康がめっちゃ可愛がったのがこの女性
家康にはたっくさんの側室がいましたが、特に寵愛を集めました
お勝は1578年に生まれました
江戸城を作ったといわれている太田道灌の流れをくむ家に生まれ、「お八」という名前でした
幼い頃から賢く、美少女だったそうです
が、お父さんが早く死んでしまい、貧乏生活を送ることになってしまいました
どこで家康と知り合ったのかはわかりませんが、13歳の時に家康の側室となっています
ですがまだ幼かったため、家康もさすがに自分のようなじーさんの相手は気の毒に思ったのか、家臣の松平正綱と結婚させました
ケド、なぜかお八は家康のもとへ戻ってきたのです
これには色んな諸説があり、お八が正綱を嫌がったのか?それとも、お八があまりにも美しく成長したため家康が惜しくなったのか?などなど
とにかく、家康のところに再度召しだされ名前を「お梶」と改めました
でもって、お梶が22歳の時、天下分け目の関ヶ原の合戦が始まります
この時お梶は大阪城に捕らえられていたのですが、うまく城を抜け出し、家康のいる関ヶ原へやってきたのです
で、関ヶ原の合戦は家康の勝利
家康はたいそう喜んで、「お前がきたから勝ったんじゃ!!これからは名をお勝としよう!」と、またもネーミング変更
家康は縁起をかつぎ、大阪の陣にもお勝を連れて行きました
数多い側室の中で、合戦にまでついていったのはお勝だけであります
そんなお勝にはこのような逸話が
ある日家康が家臣たちと「食べ物の中で何が一番おいしいか?」という話をしていました
みんながわいのわいの話していると、お勝が「塩でございましょう」と答えました
なぜか?と理由を尋ねると「どんな料理でも、塩が入っていなければおいしくないでしょう?」と答えました
家康は「では、次に一番まずいものはなんであろう?」とたずねました
するとお勝
「それも塩でございましょう。塩は入れすぎるとものすごく辛いですからね」
家康は「う〜ん。そなたは賢いな」と、とても感心したそうです
そんなお勝は、家康との間に市姫という娘を産みました
ちなみにこの市姫は、家康にとって最後の子供となります
が、市姫が4歳の時に死んでしまいました
お勝はものすごーーーーーく悲しみました
かわいそうになった家康は、ほかの側室が生んだ息子をお勝の養子にしてあげます
この子がのちに御三家の一人となる徳川頼房であります
こうしてお勝は晩年の家康の寵愛を一身に受けました
家康が亡くなると、お勝は髪を下ろし英勝院と称しました
そして幸せな老後を過ごしたといわれています
お勝は63歳の時に病気になり死去します
そして養子の頼房の計らいで、鎌倉の英勝寺に手厚く葬られたのでした
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