日本の女性史



         


シーボルト(伊篤)いね

1823年 日本にフランツ・フォン・シーボルトという27歳のドイツ人が長崎・出島のオランダ商館つきの医官としてやってきました

そこでシーボルトは丸山の遊女である16歳の其扇(そのぎ・本名は楠本滝)にヒトメボレ

かなり真剣にスキだったらしく「オタクサ」(お滝さん)と呼び、めっちゃ惚れまくりました

そして1827年5月6日に女児が生まれたのです
この女児が「いね」であります

さてさて、そんなシーボルトですが、どでかい事件を起こしてしまいます
シーボルトは長崎で「鳴滝塾」を開いており、高野長英などの優秀な弟子を持っておりました

弟子の一人である江戸の高橋作左衛門が日本地図や江戸城の見取り図をシーボルトにプレゼント
シーボルトはその見取り図を国外に送ろうとし、幕府にバレてしまったのです

当時日本はそーいったスパイ行為にめっちゃうるさかたので、シーボルトは日本を追放されてしまったのです
これが有名なシーボルト事件であります
この時、イネは2歳8ヶ月でした

さてさて、残された母親の滝とイネですが、イネはハーフだったのでとっても美形
が、当時の日本はそーいった「あいのこ」を差別する国でした
ぱっちりとした二重まぶたに色白で彫が深いイネ
父親は「ガイジン」で母親は「遊女」

こうしてイネは周囲の人々にさげすまれながら生きてきたのです


が、「私の父親はすごい医者なんだから!」と、誇りだけは忘れずにおりました

イネは12歳頃から学問を志し、19歳になると宇和島にいた父親の弟子である二宮敬作に師事することに

が、二宮はイネが女性なので産科を勉強したらいいんじゃないか??と考え、岡山にいる石井宗謙を紹介しました

イネは石井のもとへ行き、西洋医学を一生懸命学びました
そしてとっても美しく賢い女性医師へと成長していったのです

石井のもとへ行ってから6年目に事件はおきました

母の滝が岡山にいるイネに会いにやってきました
帰る日、イネは師である石井とともに母をハシケ(大きな船へ貨物や人間を運ぶ小さな船のこと)で大型船まで送りました

母を見送り、ハシケで陸に戻る時、なんとイネは石井に無理やり犯されてしまったのです

そしてさらに・・・イネはたった一度の性交渉で妊娠してしまったのです

女医なので人工流産のやり方を知っていたイネでしたが、イネは産むことを選びました

その後、イネは一度も石井を受け付けず、長崎へ戻り産科を開業しました
日本で初めての女性開業医となったのです

ここで村田蔵六(大村益次郎)と出会い、愛し合うようになります

が、大村益次郎は戊辰戦争で活躍した後、暗殺されてしまいます
最後を看取ったのはイネであります

さてさて、1859年に父親のシーボルトは再び幕府の外来顧問として日本へやってきました
30年ぶりの再開でしたが、滝とイネの中でシーボルトへの愛情は消え去っており、ドラマチックな再開はまるでなかったようです

が、有名な医師である父親の存在は、医師としてやっていくイネには大きなプラスとなりました

松本良順などの師であるポンペ・メーデルフォールトというオランダ人医師が、全国から集まった秀才医師とともに解剖実権をすることに
ここでイネは「女でありながら」選ばれたのです
当時、女性がこーいった場に出られることは、すごいコトだったのであります

明治3年になると、イネは上京し築地で産科を開きました

そこで宮内省御用掛を任じられ、皇族の出産を取り扱うまでになったのです

明治36年8月26日 76歳でイネは死去しました

女性が「学問」を学ぶということがほとんどなかった時代に、イネは逆境に負けず新しい道を自ら切り拓いたのでした








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