1846年 仁考天皇と橋本経子との間に生まれた和宮
が、父は和宮がおなかの中にいる時に死んでおりました
そのため、父代わりとして和宮を可愛がってくれたのが、異母兄であり、父の跡をついだ孝明天皇であります
和宮が6歳になった時に、17歳の有栖川宮熾仁と婚約
和宮は熾仁のお父さんにずっと手習いや和歌を習っていたので、熾仁の顔は見た事ありませんがずーっと淡い恋ゴゴロを抱いておりました
熾仁との結婚を夢みていた和宮は15歳になり、婚儀もそろそろ・・・という矢先、とんでもない話が舞い込んできたのです
当時、日本は大変なことになっていました
オランダ・アメリカ・ロシア・イギリスなどの諸外国が、日本に「開国しろ!!」と迫ってきて、日本国内は騒然
徳川幕府の弱腰にむかついていた人々が、「尊皇攘夷」と叫びだしたのです
困った幕府は朝廷と幕府を仲良くさせて、うるさいヤツラを何とかしよう!という公武合体作戦にでました
こうして将軍と、朝廷の皇女を結婚させるということになったのです
孝明天皇は誰を嫁がせるか悩みまくり
和宮に話がきましたが、「絶対イヤ!!」と断りました
京都にいる皇族にとって、東国(江戸)は野蛮人だらけの最悪の場所というイメージがあり、そんな恐ろしいトコに行くなんて考えられない!といった感じなのであります
悩んだ孝明天皇は、自分の一人娘である1歳になったばかりの娘を江戸へやろうと考えました
和宮は1歳の妹を行かせるくらいなら・・・と、自分が江戸へ行くことを決意したのです
ちなみにほんっっっっとにイヤだったみたいです
ということで、1861年10月20日に、和宮は一万人の行列をつくって京都を出発
中仙道をいく和宮は、道中ずーっと泣いていました
そして11月15日に江戸へ到着し、翌年2月に婚礼の儀をあげたのであります
さてさて、和宮が入るところは魔の巣窟(笑)大奥
この頃の大奥最高権力者は13代将軍家定の正室・天璋院(2008年大河ドラマ主役の篤姫であります)
天院璋は薩摩の分家の姫で、政略結婚によって家定の正室になった人であります
この二人がめっちゃ険悪ムードだった
といっても、勝海舟によると、「どっちかというと、お二人はそんなに仲悪くないけど、その取り巻きたちがすごかった。江戸VS京都みたいな感じ」と言ってましたけどね
まぁこのサイトはミーハーサイトなんで、おもしろい方がいいので(笑)、二人の仲の悪さをちょこっと紹介しちゃいます
まず、和宮にとって「自分は天皇の妹」というプライドがものすごーーーーーくありました
というか、世間って何??みたいな生活なんで、価値観が違いすぎるんですよね
最初のご対面の時に、天璋院は上座にて座布団の上に座っていました
和宮はその下座に座布団ナシだたのです
和宮は大ショック!今まで最高の立場にいた自分が、下座に座るなんて!と屈辱を感じまくり
そして和宮は京都から持ってきたお土産の目録に「天璋院へ」と呼び捨てにして書いたのです
これには天璋院も腹を立てました
和宮からしてみれば、自分は「天皇の妹」であり、実際は天璋院より自分の方が身分は全然格上でしょ?という思いがあったのです
当時江戸と京都では文化・風習・話し方などなど全く違うものでした
江戸に入ったばかりの和宮は、慣れ親しんだ京都を懐かしみまくったのです
「御台所」と呼ばれるのをかたくなに拒み、大奥においては禁裏(きんり)そのままの慣例に従った生活を崩そうとしませんでした
大奥の花園という老女が「以後江戸風にして生活していただきたい」と言うと、和宮お付の女官が「もともとはそちらがお願いしてきたから降嫁したのであります。日常生活も京風にという約束もしたはずであろう!」と突っぱねました
和宮をはじめ、お付の一派はあくまでも京都風を貫こうとしたのです
もちろん大奥勢力はおもしろくありません
和宮一派に対し、すべて江戸風にするよう厳しく取り締まったのです
それから大奥では激しいバトルが始まりました
そんな和宮でしたが、ダンナさんになった17歳の将軍家茂は物静かで清純な若者で、和宮の心境をとてもよく理解してくれました
家茂もまだ若いというのに、無理やり井伊直弼によって将軍にされてしまい、力量不足と言われながらも、一生懸命政務に取り組んでいたのです
和宮も自分と同様に大人の政治に利用され、嫁ぎたくもない自分の元へやってきたというのが痛いほどわかっていたのでした
家茂はゆっくりと誠意を持って和宮の心を開いていくのです
最初は「将軍とはいえども、武士であろう?武士とは野蛮な生き物で、江戸は未開の野蛮な者どもが住んでいる地であろう」と思っていた和宮
ですが家茂は優しく、深い愛情を持って和宮に接したのです
しだいに和宮は本当に家茂に愛情を抱いていくのでした
策士である岩倉具視は「もし和宮が泣き言いっても見て見ぬフリを決め込もう」と言っていました。ですが、そのような悲劇は起こらず、2人は仲むつまじい若夫婦として生活を送ることになるのです
とまぁ、いつしかこの2人には深い絆が出てきたのです
和宮は大奥での女の戦いにムカつき、「騙された!」と嘆きましたが、朝廷にいた女官である中川績子が「嫁となったからには、ある程度は徳川家の和を崩さぬよういたしませ」と手紙に書いたことにより、和宮も次第に「確かに意地になりすぎたかも・・・」と思うように
ある日、天璋院と和宮が江戸城の庭園で一緒に風景を楽しむというイベントがありました
2人は庭にある靴を脱ぐための石に降りようとして、ふと見ると和宮の履物だけが石の上に乗っていて、天璋院の履物が地面に置いてありました
それに気がついた和宮が、裸足のまま地面に降りて自分の履物を下に置き、天璋院の履物を石の上において一礼したのです
その様子を見た和宮一派の女官は「なんてお痛わしい!皇女という尊い身分でありながら、下々の者(天璋院のこと)にあのようなコトをするとは!」と嘆きまくり
が、これは天璋院の心をほぐすのに充分でした
「和宮はようやく徳川の嫁としての立場がわかってきたのですね」ということとなり、両派のバトルは和みムードが漂うようになるのでした
こうして大奥バトルは落ち着いてきましたが、今度は別問題が
公武合体の象徴である「お世継ぎ」が生まれないことには!!というムードが漂ってきたのです
家茂は側室を作るよう周りに勧められましたが家茂は全て断りました
ちなみに和宮の身長は140センチ・体重は30キロほどだったそうですよ
そんな中、倒幕を叫ぶ長州藩を制圧しに家茂が遠征することになりました
そして家茂は、そのまま京都に滞在したのち、急死してしまったのです
これにはかーーーなーーーーり暗殺説がささやかれております・・・・
和宮は家茂の死をものすごく悲しみました
遺体が江戸に運ばれてきましたが、その遺体をみせてもらうこともできず、和宮に残されたのは西陣織のみ
これは家茂が遠征に行く時、和宮が西陣織が好きというのを聞いて、オミヤゲに買ったものなのでした
こうして和宮は悲しみにくれ、そのまま大奥にいることになったのです
幕府はというと、もはや倒幕に逆らえず、とうとう江戸城総攻撃ということに
この時、和宮と天璋院のとりなしで、江戸総攻撃は中止されることになりました
「江戸を火の海にしたくない」
最後は身も心も徳川の人間となった、皇女和宮
その後病気となり、32歳で箱根の静養先で短い一生を終えたのでした
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