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日本の女性史



         


高杉晋作を支えた女性たち

高杉晋作は、長州で生まれ吉田松陰に師事し、早死にしてしまった人であります

晋作にはタケ・ハエ・ミツという3人の妹がいました

晋作は倒幕を目的とし動いていたため、幕府の追及から逃れるべく名前を「谷潜蔵(たにせんぞう)」と名前を変え、谷家の当主になりました

高杉家では嫡男がいなくなってしまったため、お家断絶の危機に
ということで、父親はすでに大西機一郎という藩士に嫁いでいた三女のミツを離縁させ、高杉家に連れ戻しました

そして別の人と結婚させ、高杉家を継がせたのです
妻を奪われた大西はというと、世捨て人のような生活をするようになり、行方不明になってしまいました

ミツは維新の英傑としてもてはやされていく兄・晋作をどのような思いでみていたのでしょう??

お次は晋作が上海留学に行った後に出会った小三

上海で世界を見た晋作はショックを受けました
アヘン戦争で敗れ、ヨーロッパに支配されている上海をみたからです
このままじゃ日本はヤバイ・・・そう思い、日本に帰りただちに独断でオランダ商館との間に蒸気船を買うという約束をしました

が、長州藩は「そんな金ねぇよ!勝手なことするな!」と却下

晋作は藩の方針にことごとく嫌気が差し、すさんでいきます

ここで出会ったのが江戸の芸者・小三でした

小三とは桂小五郎や井上聞多らと遊んでいた頃に出会いました
とても美人だったようです

ですが晋作らが英国館焼き討ちをしちゃったんで、江戸を離れることとなり、小三とは以後会うことはなかったようです
小三はとっても別れを悲しみ、病気になってしまったほどでした


さてさて、実は晋作には妻がおりました
長州藩250石取りの井上平右衛門の次女で「防長二カ国一の美女」と噂されたほどの美人
縁談ひっきりなしだったんですが、晋作を選んだのであります

が、晋作が妻・政子と新婚生活を送ったのはたった3ヶ月
とゆーのも、晋作は藩命により政子を置いてけぼりにして江戸へ
ちょくちょく帰ってはくるものの、すぐさま上海だのなんだの飛び回り
政子の生活はほとんどが「高杉家」を守ることに費やされてました
晋作も手紙で武士の妻としての心得を書いたりしてます
ちなみに手紙の内容は「サムライの妻なれば操を立てるのが役目」などなど

奥さんはちょっとお気の毒ですね

そして晋作といえば忘れちゃいけないのが「おうの」
おうのは11歳の時に下関の堺屋に売られました
15歳で「この糸」という名前でデビュー

そしておうの20歳 晋作が24歳の時に二人は出会ったのであります

おうのはとっても大人しい性格で、伊藤博文らは「晋作ほどの人物がなんであんなボケっとした女と??」と
とーっても不思議がっていました

晋作はおうのの膝枕で寝るのがスキだったらしく、おうのといると安心できたそうです

が、晋作の体を病魔が蝕んでおりました

おうのはかいがいしく晋作を看病しますが、とうとう晋作は29歳で息をひきとったのです
その時、伊藤博文らは「おうののような女が晋作の愛人だというのは恥だ!」として、おうのの髪を無理やり
切り、尼にしてしまいました

以後、おうのは死ぬまで晋作を弔いながら生き続けます


さて、最後に野村望東尼
女流歌人でもあり、勤皇家でもある女性で、晋作の臨終に立会った人です

晋作最後の辞世の句である
「おもしろき こともなき世をおもしろく」

この後の下の句を野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」と詠み
晋作は「おもしろいのぅ」と言い、息を引き取りました









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