日本の女性史



         


江戸時代の女性の生活

江戸時代において「女性」に代表されるのは「大奥」と「遊女」

詳しくは当サイトの「大奥特集」と「吉原細見」をご覧になってください

徳川三代の間に、徳川にとって邪魔な家のお家取り潰しが進みました

そこで出てきたのが「男児が生まれなければ、その家は跡継ぎがいないということで、お家取り潰しとなる」という法律

そのため、各家の主君は正妻の他に、側室を置くこととなったのです
もちろん、正妻から男児が生まれなければ困るので、側室をおいて子供を産ませるためです

ここで「側室」を持つ男性がかなり増えたのです
なんせ「お家存続」に関わることですから・・・
でも、このようなこだわりを持つのはいわゆる上流階級の人々だけ
江戸の長屋に住むビンボー人にはそのようなことはまったく関係なく、下町では「おっかちゃんパワー」が炸裂しておりました

和俗童子訓

さてさて、では1710年に貝原益軒(かいばらえきけん)という儒学者が書いた本を紹介しましょう

益軒が書いた「和俗童子訓(わぞくどうじくん)」という教育書は「女とは男より数段劣るものである」というような内容のものでした

今そんなこと言ったら大変なコトになっちゃいますネェ
だけどこの頃は男尊女卑バリバリの時代でしたから
なんてったって女性は昼間ほとんど町を歩けなかったらしいし

さらにこの本、男にとっていい妻・悪い妻を書いてあり、めちゃくちゃ男にとって都合がいいことばかり

男にとっていい妻はというと・・・
・子供を産む女
・姑に優しい女
・義理の子供を可愛がる女
・掃除をきちんとする女
・稼業を手助けする女
・礼儀正しい女
・主人に逆らわない女
・自分のお小遣いも節約する女
そして極めつけは「何でも主人の言うことを聞く女」だそうです・・・

さらに悪い妻はというと
・子供を産めない女
・亭主を尻にひく女
・針仕事ができない女
・流行者が大好きな女
・ご飯の後片付けをすぐしない女
・他の亭主をほめる女
・ぺちゃくちゃとよく喋る女

とまぁ、うるさいうるさい

今なら「お前は何様だ?」と言いたくなるような内容です
いい妻&悪い妻を100項目くらい書いちゃってるんだからすごいもんです

他に貝原益軒は「養生訓」というのも書いており、年齢によって射精の回数はこんくらいがいいと教えちゃってます

で、年取ってあまりにもやりすぎると死ぬとまで
戦国時代の松永久秀のようなお人ですね〜

ちなみに自分は39才の時に17歳の奥さんを貰いました。他に3人妾がいましたが、子供は生まれなかったそうです
じゃあ益軒の奥さんはみんな「悪い妻」じゃん!というか、益軒がダメで産めなかったんじゃないの?って感じですヨ!!それでも昔は女のせいー。失礼だよねー
そして「養生訓」のおかげで益軒は85歳と大往生したのでした

この人のお話はコレくらいにしといて・・・

三行半

今度は江戸時代の最悪の風潮「三行半(みくだりはん)」

何かわかりますか?

三行半で書かれた離縁状のことです

コレ、女性に落ち度がなくっても、男性側が離婚したいと思ったらいつでも書けた
が、反対はNG
女性から三行半は出せないのです

つまり、女性側から離婚してくれというのはダメということ
でもでも、どーーーしても離婚したい!という女性だっているはず

そんな時の手段は次に書く駆込寺でございます!

駆込寺(かけこみでら)

幕府公認のお寺(鎌倉にある東慶寺とか)に駆込んで、三年間そこで過ごすと正式に離婚ができるのであります
まったく何たることでしょうねぇ〜
とにかく、全ての権利は男性側にあったわけですよ

三従の教え

この時代には三従の教えが蔓延しておりました

女性は「父に従い、結婚してからは夫に従い、老いては子に従え」というもの

江戸時代は「家」が大事だったので、女性は「家」を支える男性に従わなければならないというモノ
では子供が生まれない女性は??
こりゃもう大変なことになります。もちろん離婚されちゃう十分な理由だし、文句も言えない
そのため、夫が他の女性(お妾さん)とかに産ませた子供を引き取ったりして何とか妻の座にいたわけです


一人前の女とは

ずばり!子供を生み母となる女性のことです
この時代、子供ができないのは女性のせいだった
男性の方に何かしらの原因があっても、子供が産めないのは女性のせいだったのです
そのため、各地に不妊女性を救済する神社が各地にのこっているのです

流産しちゃった場合は?

めでたく妊娠!となっても、流産しちゃったら大変なことに!
当時は「子供を流産した女は血の池地獄に堕ちる」と言われていました


出産後は?

めでたく子供を出産!が、当時の赤ちゃんの死亡率はめちゃくちゃ高く、5歳までに50%の子供が死んでいました。特に疱瘡とはしかが恐れられており、無事その病気を乗り越えた場合は、盛大なパーティが開かれたのです

ちなみに、女の子しか産んでいない・双子を産んだといったような場合は嫌悪の対象とされました

中絶ってあったの?

ありました。中条流(ちゅうじょうりゅう)と呼ばれる水銀が入った劇薬を膣に入れたり、ほおずきを膣に入れるといった中絶方法が行われていました
さらに貧乏な家で生まれた子供は、面倒見切れないため生まれた赤ちゃんを殺すというようなことも
そのため、寺社に水子供養の塚などが建てられ、心身ともに疲れきった女性を癒す場となったのです


結婚は超早婚

跡継ぎがいなければお家断絶となってしまう江戸時代
ということで、男女とも13歳から結婚OKだった
江戸時代中期にもなると「戦」で死ぬということもなくなってきたので、男性はだいたい20歳前後
女性は16歳前後で結婚していました


武家の結婚は厳しい!

江戸時代に作られた「武家諸法度」に「密かに結婚しちゃいけません」という条約があったため、武家の結婚はとても厳格でした
縁組によって家同士が仲良くなるのを恐れた幕府が「許可制」にしたのです
○万石以上の大名の結婚は将軍が許可しないと結婚できなかった


女性の夢は「旅」

女性にとって一番大事なことは「家を守ること」でありました
女性達は書物をめくっては、旅への夢を見続けていたのです
特に人気だったのは伊勢参り
が、ほとんどの女性は夢かなわず「いつか男性のように旅に出たい・・」と思いつつ一生を終えたのであります


最後に!

さてさて、コレだけを読むと「江戸時代の女性って虐げられてたのね・・・」と悲しくなってしまいますが、全部が全部虐げられていたワケではないですからネ。いつの時代も・・・(笑)
ちなみに江戸は女性の数が圧倒的に少なかった
そのため男性は結婚相手を探すのに一苦労
せっかくゲットした奥さんを手放しちゃったら、お次はなかなか見つからないので、庶民は意外とカカァ天下だったのかもしれないですね〜


 








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