安土桃山時代その15 1595年〜1598年7月

1595年2月 エリート武将 蒲生氏郷死去
7月 殺生関白秀次自害
伊達政宗 大ピンチ
1596年 秀吉「ふざけんな!再度朝鮮行くぞ!」
7月 伏見大地震 地震加藤
1597年2月 再び朝鮮へ!慶長の役
6月12日 小早川隆景死去
7月24日 ルソンから象が来た!
首の代わりに鼻を送る武将達
1598年3月 大イベント 醍醐の花見 秀吉を巡る女のバトル
この頃の家康と秀吉
7月 秀吉 秀頼への忠誠を誓わす 
五大老・五奉行
五大老 徳川家康
五大老 前田利家
五大老 宇喜田秀家
五大老 毛利輝元
五大老 上杉景勝
五奉行 石田三成
五奉行 前田玄以
五奉行 浅野長政
五奉行 名束正家
五奉行 増田長盛


安土桃山時代その16 1595年〜1599年
1595年2月 エリート武将 蒲生氏郷死去
氏郷の父は六角家の重臣でした。

1568年に六角家が織田家に城を攻め落とされた時に、13歳の氏郷は人質として信長のもとに送り込まれたのでした。

そして信長の小姓となったのです。

信長は近習を集め毎晩武道の話などをしましたが、それを誰よりも熱心に聴いてたのが氏郷でした。

そして信長に「あいつは眼精が普通ではない。ただ者ではない」とまで言わせるほどのおりこうさんでした。

本能寺の変の後は秀吉に仕える事に。

そして会津を任されるのでした。

秀吉が氏郷を会津に行かせたのは近くに置いておくと危険だからというのと、氏郷を会津に行かせれば関東の家康・奥州の政宗を牽制できるというのもありました。

氏郷は会津行きを聞かされたとき悔し涙を流しました。

都の近くにいれば天下への望みもあったのに・・・という涙です。

また氏郷は高山右近の勧めでキリシタンに。

秀吉ははっきりいって氏郷が嫌いでした。

信長から目をかけられており、また才能もあったのを秀吉は見抜いていたからです。

そのため何か落ち度がないか常にチェックしていましたが、全く落ち度が見つからなかったのです。

そして秀吉のもとでも数々の武功を挙げまくっていました。

そんな氏郷ですが文禄の役に出陣している時に突然発病。40歳で死にました。

最後は高山右近が付き添ったそうです。

この氏郷の死には毒殺説があります。

氏郷の能力は測り知れないと読んだ石田三成が秀吉に忠告し、三成に命じて毒を盛ったといわれています。

秀吉や千利休も大絶賛していた武将・蒲生氏郷。

氏郷死後の蒲生家は秀吉や徳川によって減封されまくり、ひ孫の代になると世継ぎがいないことを理由にお家断絶となりました。

かつては前田利家の加賀100万石に継ぐ92万石の大大名だった蒲生家は不遇な大名家として終わってしまったのです。
1595年7月 殺生関白秀次自害
秀吉は秀次の噂を見てみぬフリをしていました。

が、とうとう秀吉を怒らせてしまう。

秀次が「殺生禁止」である比叡山で狩をしたのです。

さらに激怒させることが!

なんと秀次が朝廷へ多額の献金をしたのでした。

これを謀反ととった秀吉は、石田三成・長束正家に素行調査をさせました。

が、「殺生関白」の非道はもはや隠しようがなかった。

秀次は剃髪して謹慎したがすでに遅かった。

秀吉は秀次に切腹の命令を出したのでした。

秀次は高野山に逃げ込みました。

高野山は「誰であろうと、わが寺に来た者は匿う」という寺法がありましたが、秀吉には逆らえず、秀次を差し出したのです。

7月15日 28歳にて秀次無念の切腹となりました。

ちなみに切腹の命令を伝えたのは福島正則です。

秀次の首は三条河原に晒されました。

重罪を犯した者の一族は全て皆殺しという戦国時代のルールによって、秀次の妻妾・子ら一族全てが洛中引き回しの上、斬首となったのです。

ちなみに秀次と仲良しだった伊達政宗は、この時かなり秀吉から責められましたが、なんとかセーフでした。

伊達政宗 大ピンチ
伊達政宗は「次期ボス」を秀次と予想していたので、秀次ととても仲良しになっていました。

一緒に鷹狩に行ったりと、ともに行動しているのが多かったのです。

それを秀吉に睨まれた政宗。

またも開き直りにでました。

「いかにも!オレは秀次殿と仲良かったぜ!秀吉殿から関白を譲られた秀次殿と親しくして何が悪い?秀吉殿だって秀次殿を見誤ったんでしょ?オレの片目が見損じるのも当然じゃないか!疑いが解けぬなら首を刎ねればよい!」と言いました。

その裏で、政宗は家康に「頼むー!秀吉殿に取り繕ってー!」とお願いしました。

家康は秀吉に「朝鮮とガタガタやってるこの時期に政宗を殺したたら内乱が起きかねません。」と、政宗を許してやってくれるようお願いしたのです。

結果、政宗は許してもらえることに。

政宗は、家康に感謝し、家康派となっていくのです。
1596年 秀吉「ふざけんな!再度朝鮮行くぞ!」
朝鮮との和平交渉は小西行長ペースで進んでいました。

そんな頃、明の王からの手紙がきたのです。

そこには「秀吉を日本国王に命じる」などという高飛車な内容が書いてあったのでした。

秀吉は超激怒!またも朝鮮へ出兵を決めることとなるのでした・・・。

1596年7月 伏見大地震 地震加藤
京都の伏見で大地震が起きました!

伏見城にいた秀吉は真っ青。

天守閣はつぶれ、500人の圧死者が出ました。

そこへ誰よりも早く飛んできたのが謹慎中の加藤清正だったのです。

すぐさま救援活動をはじめ、いかに自分が秀吉のことを思ってるかを大アピール★

秀吉は感動し、謹慎を解いて清正を再び朝鮮へ行かせるのでした。

ちなみに飛んでった清正は、ただちに伏見城を守備しました。

そこへやってきた石田三成。

すると清正は家臣に命じて三成を城内へ入れないよう指示したのです。

やがて秀吉の命令で中へ入れた三成。

清正は三成が城内へ入る時、守衛に向かって「仕方ないからあの背の小さい男を通してやれ」と大声で言いました。
1597年2月 再び朝鮮へ!慶長の役
文禄の役は自然休戦となりました。

小西行長はなんとしても講和を結ぼうと思い、明の使者と策謀したんだけど明の王にうまく伝えられず、秀吉は1596年9月にまたも朝鮮出兵命令をくだしました。

そして再度今度は14万の大軍で朝鮮へ攻め込みました。

が、今回は朝鮮側も防備ばっちり。

以前のようには行かず膠着状態に。

今回の朝鮮水軍は元均が李舜臣の功をねたんでチクリを入れたため李舜臣は投獄されていました。

すると前回ボロ負けの日本水軍は李舜臣がいないため快勝!

朝鮮はこれじゃやばいと再び李舜臣を起用すると今度は日本水軍の敗北が続きまくった。

一進一退の戦いが続くのであります。

1597年6月12日 小早川隆景死去
隆景は毛利元就の三男として生まれ、小早川家に養子に行き、兄・吉川元春とともに大大名にしてはちょっと頼りない甥の輝元を支え、「毛利の両川」と言われていました。

隆景は文武に優れ思慮深く、人望もありました。

秀吉も隆景を大事にしており、毛利家は小早川隆景のお陰で何とか友好関係を築いていたのです。

毛利輝元に子供がいないことから、秀吉の養子・秀秋を輝元の後継ぎに・・・という話しが出たときも、隆景は「これでは毛利家が乗っ取られてしまう。だったら我が小早川家を犠牲にしよう」ということで、小早川秀秋を養子にし、隠居した隆景。

毛利本家を守るために52万石の小早川家を犠牲にし、毛利本家の安泰を願ったのです。

そんな隆景でしたが、家臣たちと話しをしている時、急に嘔吐しました。

そしてそのまま死んでしまったのです。

数時間前まで元気だった隆景。

どうやら脳卒中だったそうです。65歳でした。

隆景は甥の輝元に死ぬ間際こう言いました。

「天下が乱れても、輝元は戦に深入りしてはダメだ。自分の国の経営に専念しろ。輝元にはまだ天下を治める器はない。思慮深くいるんだぞ」

そして小早川隆景の死後は、吉川元春の嫡子 広家が隆景的な立場を取るようになります。

が、広家は小早川隆景が重宝していた安国寺恵瓊とはいまいちうまくいかないのでした。

こうして隆景の死は、毛利家に暗い影を落とすこととなるのです。
1597年7月24日 ルソンから象が来た!
ルソン使節が秀吉に謁見。

そして象をプレゼントしました。

これには秀吉をはじめみんなビックリ。

秀吉は当時の天皇後陽成天皇に見せるため京都へ象を連れて行きました。
首の代わりに鼻を送る武将達
文禄の役の際、島津忠豊の軍が「首」の代わりに「鼻」を秀吉に送っていました。

殺した人の「首」では重いので、代わりに「鼻」を送って「俺はこれだけやっつけました」というのをアピールしたのです。

みんなも今回の慶長の役の時は、「鼻」や「耳」を送ることにしたのです。

削ぎ取られた鼻は「塩漬け」「酢漬け」にし、秀吉のもとへ送られました。

中には非戦闘員である子供の鼻もありました。

みんなわれ先に鼻や耳を送って、秀吉に褒められることを競ったのです。

そしてこの鼻や耳を埋めたのが、京都の豊国寺神社の前にある「耳塚」です。

ちなみに、その数10万人分です。
1598年3月 大イベント 醍醐の花見 秀吉を巡る女のバトル
朝鮮侵略がいまいちうまくいかず、イライラしてた秀吉は、家臣はもとより秀吉の正室・側室がこぞって参加するという大イベント「醍醐の花見」を行いました。

その時の輿の順番はというと

@ねねA淀君B松の丸(京極家)C三の丸(信長の娘)D加賀殿(前田利家の娘)Eまつ(前田利家の奥さん)F三条殿・・・と続いています。

ちなみに前田利家の妻「まつ」は6番目。

家臣の妻でありながら別格扱いでした。

この時秀吉が盃をねねにまわし、次は淀君のはずなんだけど、Bの松の丸がAの淀君より先に盃のお流れを所望したのです。

松の丸殿は京極高吉の娘です。

淀君と松の丸の間に張り詰めた空気が立ち込めました。

仲裁に入るべき秀吉は怖くって知らん顔・・・

そこへ入ったのが「まつ」

「私は家臣筋ですが歳の順からいえば私でしょう」とこの場をうまく治めたのです。

淀君もねねに対し「私は主家(信長)の血統よ!」と折にふれてねねに表しまくってましたが、松の丸も血統はお墨付きで、むしろ淀君より格上。

浅井家はもともと京極氏の家臣だったしね。
 
松の丸は「正室は仕方ないとしても、同じ側室であれば私の方が淀君より上なのよ。なんであたしが格下の淀君の下じゃなきゃなんないの?」といった態度がアリアリだったのでした。
 
この頃の家康と秀吉
秀吉はいよいよヤキがまわってきました。

朝鮮出兵は手を広げるだけ広げて、収拾がつかない。

戦いは一進一退。

いつまでたってもグットニュースは入ってこない。

お金はかかりまくるし、大名連中は疲れまくっているし、日本中疲労しきってました。

ある日、秀頼が「ボクの周りにいる侍女でムカつく奴がいるんだよね」と言ったところ、「そんなら死ぬほどぶん殴れ!そうすればお前の気が済むだろぉ??」と言いました。

今までにない秀吉発言にまわりはビックリ。

秀頼を目に入れても痛くないほど可愛がり、そしてボケつつあったのです・・・・。

家康はというと、必死で領内経営。

さらに朝鮮での秀吉家臣内(石田三成ら文治派VS加藤清正ら武功派)の分裂を聞いて内心ニヤリ。

それを敏感に感じ取り、加藤清正・小早川秀秋・黒田長政ら武功派に近づいていたのです。

さらにさらに!「家康は朝鮮出兵に反対気味」という雰囲気を漂わせまくりました。

戦いに疲れきっている諸大名らは「早くこの戦いを止めて欲しい」と思っていたので、密かに家康に期待を寄せ始めるのです。

家康は慌てず騒がず、じっとこの状況を見つめていたのでした。
1598年7月 秀吉 秀頼への忠誠を誓わす 
5月に具合が悪くなり始めた秀吉。

激しい下痢と腹痛はだんだんひどくなっていき、7月にはとうとう寝たきりとなってしまいました。

この時まだ朝鮮では14万人の兵が戦っています。

7月13日

自分の死期を悟った秀吉。

前田玄以・石田三成・増田長盛・浅野長政・長束正家の5人を五奉行に任命しました。

秀頼を守る腹心たちの体制を固めたのです。

そして五大老に徳川家康・前田利家・毛利輝元・小早川隆景(死後は上杉景勝)・宇喜田秀家

この五大老に見苦しいほど秀頼のことをお願いした手紙を託しました。

そして7月15日に秀吉は五大老に対してこのような約束をさせたのです。

@秀頼に対して、秀吉と同じように誠心誠意奉公すること

A徒党を組んで争わないこと

B勝手に婚姻関係を結ぶなど、権力増大をしないこと

などなどです。

五大老・五奉行
秀吉は自分の死後、秀頼を支えてくれるようにと五大老・五奉行を任命しました。

1597年ごろ成立されたと言われてますが、実際に機能を始めたのはこの頃らしいです。

五大老には豊臣家の武家法を守ることや秀頼に対して謀反心を抱くなといった内容を誓わせました。

そして5大老といっても実際は「東は家康・西は毛利と小早川」といった内容で任命しました。

が、小早川隆景が死去。

秀吉は隆景の能力は買っていましたが、毛利輝元はいまいち信用しておらず、以後は毛利を軽く扱うようになります。

そこに飛び出てきたのが前田利家。

昔からの親友なので、大抜擢され家康と並ぶようになります。

ちなみにこの頃の権力ランキングは

@徳川家康A前田利家B徳川秀忠C前田利長D宇喜田秀家E上杉景勝 E毛利輝元  といった感じです。

五奉行の担当はというと
前田玄以・・・寺院・公家
浅野長政・・・司法
石田三成・・・行政
長束正家・・・財政
増田長盛・・・土木・検地

といった感じです。
五大老 徳川家康
秀吉主君・信長の同盟者だった家康。

信長死後、秀吉に一歩リードされ、何かと秀吉に対抗していました。

が、小牧・長久手の後、とうとう和解。

それからはただひたすら秀吉に従うのです。

そして江戸に行かされ、領内経営に専念しまくり。

着々と地盤固めをしました。

朝鮮出兵の際も、懐を殆ど痛めず、豊臣家がバカにならないくらい戦費を使っている間、お金をコツコツと貯めていたのです。

着々と実力をつけつつある家康に期待する諸大名は多く、「秀吉が死んだら家康の時代かも・・・」と思う人たちも出始めたのでした。
五大老 前田利家
信長時代は秀吉のお隣さんとして夫婦揃って超仲良し。

利家の人生においての最大のピンチは賎ヶ岳の戦い。

おやじと慕っている「上司」勝家と、親友秀吉の戦いでどっちの味方をしようか悩みまくり。

とうとう秀吉を選んだのです。

それから秀吉は利家を重宝しまくり。

秀吉自ら諸将に「利家はワシの親友じゃ!」と言いまくり、豊臣政権において利家はかなりの権力をゲットするのです。

こうして秀吉のもとで大大名となった利家。

そんな利家に対抗するのが家康だったのです。。
五大老 宇喜田秀家
26歳の若さで五大老に任命された秀家。

父は宇喜田直家です。

直家は怪物のような頭脳と人望を持ち合わせていましたが、信長の威力には勝てず、息子秀家のために信長と和解。

病気でもう長くないと悟った直家は秀吉に接触し、8歳の息子秀家の後見人になってもらいました

この時交渉役をしたのは小西行長。

ちなみにこの時秀吉は、美人で有名だった直家の妻もちゃっかり貰ってます。

秀吉は自分の名前を一文字あげて「秀家」と名乗らせました。

秀家は13歳の時に養子となり四国征伐を初陣とし、九州でも活躍。

また前田利家の大事な娘豪姫と結婚。

宇喜田・豊臣・前田は超仲良しになっていました。

秀吉は秀家をとても可愛がり、秀家も秀吉が大好きでした。
五大老 毛利輝元
吉川元春・小早川隆景の「毛利の両川」に守られ、なんとか毛利本家を守ってきた輝元。

輝元は毛利元就嫡男である隆元の子供です。

隆元が毛利家を継ぎ、元春・隆景が養子に行かされたとき、下の2人は「兄貴だからって毛利家を継ぐなんてズルイよなぁー」みたいな雰囲気が漂っていました。

が、隆元が死に、11歳の輝元が本家を継いだことによって「俺ら2人がチビッコ輝元を守ってやんなきゃな!」という団結ムードが出てきたのです。

前将軍義昭が信長に追放され、毛利家を頼ってきたり、本願寺から援助を要請されたりとなにかしら中央の政権に絡んでいた毛利家。

ピンチは何度も訪れましたが、隆景らのおかげで大大名に成長していきました。

高松城の水攻めの時に秀吉と講和を結び、秀吉に感謝され、豊臣配下ではNO1となるのです。

ですが秀吉は小早川隆景に大きな信頼を寄せていたので、隆景死後、輝元を軽く見るようになってくるのでした。
五大老 上杉景勝
上杉謙信の死後、御館の乱にて家督を勝ち取った景勝。

本能寺の変の時、景勝は柴田勝家・秀吉の両方から「味方になってくれ」とお願いされました。

景勝が選んだのは秀吉でした。

この時、秀吉の使者として景勝に会いに行ったのが石田三成です。

以後、秀吉の配下に入ることとなります。

小田原攻めにも参戦。

家康が北条の領地に入り、没収された伊達政宗の領地に蒲生氏郷が入り、景勝を合わせたこの3人で東国を支配していました。

直江兼続ら優秀な家臣に囲まれ、領内経営に専念していました。

そんな中、蒲生氏郷が死んでしまいました。

後継ぎの蒲生秀行がまだ若かったため、大国を治める器量はないと秀吉に判断されてしまい、氏郷の領地を景勝に与えたのです。

こうして景勝は120万石の大大名となりました。

秀吉は権力を増大しつつある徳川家康を牽制するために、景勝を対抗馬とさせたのです。
五奉行 石田三成
お茶が縁で秀吉の小姓となった15歳の三成。

有能だったため、秀吉にすごく重宝されました。

戦いの分野ではなく事務的な分野で大活躍。

暴雨風で城の石垣が壊れた時、翌朝秀吉は「誰か石垣を直せ」と命令しました。

すると三成がすでに直し終わっていたのです。

昔の自分と似て機転のきく三成を秀吉は可愛がり、「機転の利く男」として秀吉家臣の中で出世していくのです。

が、「合戦で戦功をあげてこそが出世の道である!」と思っていた武功派(加藤清正・福島正則・加藤嘉明・黒田長政たち)らは、三成のように頭の良さで出世していくタイプが嫌いでした。

それどころか自分達を追い抜く勢いで、秀吉から格別の寵愛を受けているのが許しがたかったのです。
五奉行 前田玄以
美濃に生まれた玄以は、はじめ住職でした。

その後比叡山延暦寺に入り、還俗。

信長嫡男である信忠に仕えました。

本能寺の変の時、信忠に命令され3歳の嫡男 三法師を連れ岐阜へ逃れました。

その後は秀吉に仕え、政治部門で大活躍します。

秀吉によるキリスト禁止令の時は、元僧侶なのでキリシタンに反感を示しまくり。

けど、後に好意的になって長男・次男の洗礼を許しました。

そして豊臣五奉行に任命されることとなったのです。
五奉行 浅野長政
秀吉と義兄弟の長政。

豊臣政権下では縁者の少ない秀吉にとって、重宝されていました。

が、朝鮮出兵の際、秀吉を「狐憑き!」と言った頃から、だんだんと秀吉から気持ちが離れていくことに。

代わりに家康と仲良くなり始めるのでした。

さらに淀君が秀頼を生み、秀吉の気持ちはそちらにばかり心を奪われるように。

だんだん長政は一生懸命やってるのがイヤになってきちゃいます。

また五奉行筆頭でありながら、石田三成の発言力にタジタジに。

「おれ、このままでいいのか?」と考え始めるようになってくるのです。
五奉行 名束正家
尾張で生まれた正家は、若い頃から計算能力がズバ抜けており、丹羽長秀に仕えることになりました。

その能力を聞いた秀吉が「正家をワシにくれ」と丹羽長秀にお願い。

以後、秀吉のもとで重宝されるように。

兵糧の調達などの仕事をし、財政面で大活躍していくのです。
五奉行 増田長盛
尾張出身の長盛。

秀吉に仕え、主に「土木」の面で活躍していました。

朝鮮出兵の時は在陣奉行となり、石田三成・大谷吉継とともに後方で物資を運んだりしました。

が、次第に前線で戦っている加藤清正ら武断派が「安全なとこにいるくせに、偉そうに指示しやがって!」と言ってきます。

ですが3人の在陣奉行の中でめちゃくちゃ嫌われたのは石田三成だけだったのです。