安土桃山時代 その19 1600年 関ヶ原の合戦 |
ここで西軍武将を紹介! |
西軍 友情をとった男 大谷吉継 |
大谷家はもともと大友宗麟の家臣でした。 その後豊臣秀吉に仕え吉継は敦賀万5万石の領主になったのです。 吉継が領主になれたのは、全て三成のおかげでした。 先に小姓となっていた三成が吉継を紹介してくれたおかげで、三成とともに小姓となり、一緒に検地をしたりした仲でした。 秀吉に「100万の軍を持たせ戦わせてみたい」と言わせるほど指揮能力に優れた武将でした。 が、ハンセン病が悪化しており、戦いでは輿に乗って采配していました。 ある時お茶会で吉継がお茶を飲んだところ、鼻水がポタリとお茶の中に落ちてしまいました。 次の小西行長に回さなければならないのに、鼻水が落ちてしまいその場にいた皆の動きがぴたりと止まった。 ハンセン病で体の一部が崩れ落ちていた吉継の器を取りたくない。 そんな空気の中、三成が「わしはのどが渇いた。悪いがその器をわしにくれんか?」と吉継の器を何事もなかったように取り上げ、うまそうにごくごくと飲み干した。 その時吉継は「この男のためなら死んでもいい」と思ったのです。 そして三成から相談を受ける。 最初はとめたが、三成の決心が固いとわかると「どうせオレは病気で死ぬ。だったらこの命三成に預けよう」と保身より友情を選んだのです。 |
西軍 総大将!毛利輝元 |
安国寺恵瓊に「西軍の総大将になれば、天下は思いのまま」と相談されると、速攻で総大将になってしまいました。 これには一族をはじめ広家も「家康に知れたらどうなるか!」と大ブーイングでした。 そして輝元は西軍総大将として大阪城へ入城するのでした・・・。 |
西軍 毛利家のために!吉川広家 |
小早川隆景の死後は、吉川元春の嫡子 広家が毛利輝元の補佐役として権力を握っていました。 が、広家は小早川隆景が重宝していた安国寺恵瓊とはいまいちうまくいかないのでした。 広家は悩んでいました。 主家である輝元が徳川に反旗を翻し西軍総大将になってしまったことは、非常にヤバイ。このままでは主家は滅亡の一途をたどる・・・と。 広家はもともと恵瓊とあまり仲が良くなかったので、それもまた気にいらなかった。 そこで広家は、かねてから仲良くしていた黒田長政(如水の息子)に連絡を取るのです。 黒田長政は「東軍の味方になったほうがいい。決戦の前に家康と講和を結べば主家を救える」と言いました。 そして広家は毛利輝元に内緒で着々と講和の準備をするのでした。 |
西軍 義に厚い男 宇喜田秀家 |
宇喜田家のお家騒動により、優秀な家臣をこぞって持っていかれた秀家。 家康に対してムッとしてました。 そんな中、三成が「家康をやっつけよう!ぜひ副将になって頂きたい」と言い出したのです。 秀家は秀吉死後えばりはじめた家康も嫌いでしたが、何より小さい頃から可愛がってくれた秀吉のために家康へ反旗を翻すことを決意したのです! ちなみに、この時17歳だった宮本武蔵は宇喜田秀家軍に参加してます。 |
西軍 怪僧 安国寺恵瓊 |
出生は不明。 一説には安芸井の守護武田信重の遺児とも言われています。 そのため安国寺は預けられ剃髪して僧になったらしい。 恵瓊は東福寺の恵心とめぐり会います。 そして恵心の弟子となり、その影響を受けながら修行を重ねます。 恵心は毛利隆元と仲が良かったので、自然と恵瓊も毛利と親密に。 博学で口がうまかったため毛利氏の使僧・外交官として働くことに。 怪僧と呼ばれるのは、信長の死を予言したり、秀吉の台頭を予言したからです。 まだ木下藤吉郎だった秀吉を「藤吉郎 さりとてはの者にて候」と、秀吉が力をつけるだろうと予言したのでした。 毛利が大友宗麟と和議を結ぶ時なんかも活躍。 本能寺の変の後の高松城攻めの時も、毛利と秀吉の和議をまとめ恵瓊は秀吉にも認められることに。 四国討伐・九州討伐・朝鮮へと全て参加。 そして同じく「武」より「智」で勝負する三成とともに秀吉に使えるのでした。 三成に打倒家康を相談され、毛利輝元を総大将にという話を進めたのが恵瓊なのでした。 |
西軍 大ボスにたてついた寡黙の武将 上杉景勝 |
天下分け目の戦いである関ヶ原の合戦の火蓋を切るきっかけになった景勝。 謙信死後、御館の乱で家督を勝ち取った景勝は、直江兼続など有能な家臣にささえられ五大老の一人になりました。 景勝は眼光が鋭く、笑ったことがないそうです。 お供も一切口を開かず、静粛の中にいつもいました。 お供が多すぎて一緒に乗ってた船が沈みそうになった時、景勝が杖を振り上げただけで、泳げない者までがわれ先に水の中へ飛び込んだそうです。 そんな厳粛な景勝ですが、一度だけ笑ったことがあるらしい。 サルを飼ってたんですが、そのサルが景勝が家臣に対する時の真似をした。すると景勝がクスっと笑った。 後にも先にも笑ったのはこの1回だけだったそうです。 |
西軍 景勝軍師 直江兼続 |
御館の乱以後は景勝に信頼を寄せられ「直江執政」といわれるほど頼りにされた兼続。 家臣でありながら30万石をもらうほの破格の扱いでした。 石田三成とは非常に気があったらしいです。 そのため「三成・兼続密約説」とか「東西呼応説」がありますが、定かではありません。 そして今回の直江状は有名で、実に理路整然とした内容で、家康を激怒させるとともに、感心させました。 |
西軍 武士の中の武士 立花宗茂 |
大友家一族である猛将 高橋紹運の子で、養父は立花道雪という武将としては超サラブレッド。 19歳の時、秀吉に「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と言われるほどの猛将。 勇猛果敢な戦いぶりもさることながら、筋目をはっきり通す性格で律儀で誠実。 日頃から家臣にエコヒイキなく扱い、領内の民を慈しみ、誰からも好かれる武将でした。 秀吉九州制圧の時は、先鋒として活躍。 とある城を攻めたところ、「降伏するなら城内の助命をしよう」と約束。 それを秀吉が怒り、皆殺しを命じました。 が、天下の秀吉に対し宗茂は「私は一度約束したことを破ることはできない。助命しないなら私を先に殺していただこう」と言い、秀吉はついに根負けしたのです。 「武士に二言はない」を命を賭けて表したのです。 文禄の役では、3000人の兵で明軍30万を切り崩し、宗茂の名を知らないものはいないほどに。 秀吉の恩を忘れずにいた宗茂は、西軍に参加するのでした。 |
西軍 行きがかりで西軍へ 島津義弘 |
当主である島津義久の弟 52回に及ぶ合戦をことごとく勝利しまくるほどの勇猛な武将でした。 軍略型の兄をしっかりサポートして、実戦は全て義弘。 義弘の名は全国に知れ渡っていました。 島津家は九州で実力NO1になったものの、義弘が52歳の時に秀吉の九州討伐。 これにはさすがの島津も降伏せざるを得なかったのです。 朝鮮では、他人の戦に関わることを嫌い、何かと理由をつけて出兵を断ったんだけど、最後には仕方なく出兵。 秀吉死後、家康に会津出兵を命令され66歳の高齢ながら東へ向かったのです。 その時家康に「多分三成が挙兵すると思うから、伏見城に残ってる鳥居元忠を頼む」と言われ、はじめは東軍につく予定でした。 そして三成挙兵。 鳥居元忠のいる伏見城を三成らが攻めました。 義弘は手勢300で伏見城へ行き、鳥居元忠を助けに行くも入城を拒否され、さらに鉄砲で攻撃されてしまう。 これに怒った義弘は三成のいる西軍に入ってしまうのです。 三成ら西軍は大フィーバー。 勇猛で名高い義弘の西軍参加をめちゃくちゃ喜び、少しの兵しかいないっつーのに軍議に招き、軍略指導をしてもらうのです。 |
西軍 仕方なく西軍へ 長宗我部盛親 |
元親亡き後、長宗我部家を継いだ盛親。 この時26歳。。前年偉大な父・元親が死んでしまったばかりの、長宗我部家。 盛親のもとには家康・三成の両方から協力依頼が来ましたが、盛親は家康につくことを決めました。 「亡き父は秀吉殿のおかげで土佐一国を安堵されたが、家康殿とも仲が良かった。それに家康殿の方が実力があると思う」という理由でした。 が、家康のモトへ向かう盛親の使者が、長束正家の設けた関所にひっかかり、家康のとこへ行けなかったのです。 すると盛親は「天運に従うしかないな」と、仕方なく西軍へ。 長宗我部軍は6600ほどの兵を率いて、7月に大坂城に入城しました。 |
西軍 親子が東西まっぷたつ 真田昌幸 |
武田信玄の家臣であった真田幸隆の3男である昌幸。 川中島の合戦にも参加し、上杉軍相手に奮闘しました。 以後、順調に出世したものの武田家が長篠の戦において敗北。 兄の信綱、信輝が戦死してしまったため家督を相続しました。 そして武田家が滅亡。 真田家は織田氏に臣従するのでした。 そして織田信長が死んだので、北条に属すものの領土問題が起こり徳川家に仕えることに。 が、家康に領地を北条に渡せ言われ家康と大喧嘩。 不仲なり上杉景勝と手を組み、秀吉に仕えることに。 秀吉には「表裏比興の者(煮ても焼いても食えない男)」と言われました。 そして秀吉死去。 家康に会津出陣の命を受けるんだけど、そこへ三成からの密書が届いたのです。 |
西軍 五奉行 前田玄以 |
五奉行の1人です。 前田利家が死ぬと、それまでの豊臣政権のバランスが崩れ五大老筆頭家康と五奉行の実力者三成の対立が始まりました。 玄以は表向きはともに仕事をしてきた三成に加わるんだけど、家康に三成の行動を報告するなど保身をはかるのです。 |
西軍 五奉行 名束正家 |
正家もめちゃくちゃ悩んでいました。 西軍に入るか?東軍に入るか? どっちにつこうか決められず、三成の味方をしているフリをしながら、家康にも情報を流していました。 が、とうとうまわりは西軍だらけになり「ここで今更東軍に入ったらヤバイな」と心を決めました。 それからは超素早い行動で、兵糧調達などをしだしたのです。 |
西軍 ライバル清正へ挑戦!小西行長 |
朝鮮では加藤清正と先陣を争い、攻撃系の清正と平和系の行長は気が合わずにいました。 秀吉はどっちがきちんと国を管理できるか張り合わせる意味で、2人の領地を隣同士に。 このため2人はますます張り合うのでした。 三成が武功派に嫌われるようになると、行長は迷わず三成の味方をしました。 そして三成が挙兵。 行長は大嫌いなライバル・加藤清正をぶっ潰そうと決めたのでした。 |
西軍 三成に過ぎたもの 島左近 |
三成に過ぎたものと言われるほどの軍略家である島左近。 三成は破格の石高で左近を家臣にし、信頼しまくってました。 が、三成は重大な時に左近の意見をことごとく却下してしまうのです。 三成襲撃事件の時「家康を討とう!」と左近は計画をするんだけど、三成によって却下。 また家康が上杉討伐に行く際に、水口に泊まるというニュースを聞き夜襲をしようと進言するも、却下。 極めつけは関ヶ原前日に軍師としての意見を三成に言うんだけど、これも却下されてしまうのです。 |
西軍 親子で東西へ 最強の水軍 九鬼嘉隆 |
伊勢志摩を拠点としていた九鬼水軍のボス九鬼嘉隆。 信長に属して巨大戦艦を作り、最強と言われていた毛利の村上水軍らを破りました。 その功績によって伊勢志摩に3万5千石を与えれ、鳥羽城を築き海賊大名となりました。 朝鮮出兵の時、水軍大将に命じられ「軍議は多数決による」「戦功の横取り禁止」「危機となった船は必ず救援する」というルールを定めました。 が、朝鮮水軍に惨敗し、嘉隆は息子の守隆に家督を譲ったのです。 秀吉が死に家康の時代となった時、嘉隆は稲葉道通と諍いを起こしました。 この時の家康の裁決が嘉隆にとって理不尽なものだったため、嘉隆は以後家康を嫌うように。 そして関ヶ原となるのです。 三成は嘉隆が家康を嫌いなのを知っているので西軍に誘いました。 嘉隆はもう戦える年齢ではないと断るんだけど、三成に何度も誘われついに西軍に参加することを決意したのです。 嘉隆からしてみれば「朝鮮の役での悔しさは忘れられない。まだ九鬼嘉隆は健在だということを最後に世に知らしめよう」と思ったのでした。 またどちらが勝ったとしても「九鬼家」は残るだろうとも考えていました。 息子の守隆は使者を送って父 嘉隆を諌めましたが、嘉隆はこれを聞き入れなかった。 守隆は慌てて家康に使者を送り、自分は異心がないことを報告しました。 そして真田と同じく親子が東西に分かれての戦いとなるのです。 |
西軍 最大のキーマン 小早川秀秋 |
秀吉正妻ねねの兄の息子。 子供がいない秀吉とねねは、秀秋を養子に貰い秀秋は寵愛を一身に受けて育ちました。 秀吉も一度は秀秋に家督を譲ろうと考えたほどの寵愛ぶり。 が、実子秀頼が生まれたことにより、秀吉の態度は豹変。 また、成長するに連れ秀秋は愚鈍さが目立ってきたのでした。 邪魔になった秀秋は、黒田如水の計らいにより小早川隆景の養子に出されるです。 隆景が死ぬと13歳で35万石を相続。 慶長の役(2度目の朝鮮出兵)では総大将に任命されました。 これが秀秋の初陣となります。 秀秋に武名をあげるチャンスが訪れました。 加藤清正のいた蔚山城が、明軍4万に包囲されているというのです。 さっそく秀秋は応援に駆けつけ、総大将でありながら先陣にたち朝鮮兵を槍で殺しまくったのです。 秀秋は明軍を打ち破り、「これで秀吉殿もボクを見直してくれる!」と有頂天。 が、帰国した秀秋を待ち受けていたのは秀吉の怒りだったのです。 秀吉に「総大将のくせに軽率すぎる!勝ったから良かったものの、総大将が討たれたらどうなると思ってるんだ!。」と怒られたのでした。 勇猛と野蛮の区別がつかない秀秋は、秀吉に褒めれると思ってたのに怒られるなんて!と大ショック。 そして謹慎処分となり、所領も52万石から15万石と減らされてしまったのです。 秀秋は「ボクあんなに頑張ったのに!これは絶対三成ら文治派の讒言によるものだ!」と思うように。 そんな落ち込んだ秀秋を助けてくれたのは家康でした。 所領没収されそうなとこを家康がうまく取り計らってくれたのです。 秀秋は家康に感謝し、三成を恨むようになっていたのでした。 が、自分は秀吉の養子だった男。 三成は嫌いだけれど、本家である毛利輝元も西軍。 よって秀秋は西軍として参戦するのです。 |
七本槍 脇坂安治(わきさかやすはる) |
近江出身の安治は、はじめは明智光秀の家臣でした。 次に秀吉の家臣となります。 活躍したのは秀吉VS勝家の賎ヶ岳の戦いの時。 この時加藤清正・福島正則らと活躍し、賎ヶ岳の七本槍の1人となります。 その後は九鬼嘉隆らと水軍衆を率いて戦い、朝鮮出兵などでも活躍。 三万石の大名となりました。 関ヶ原では東軍に行くつもりだったのですが、安治が大坂にいる時に三成が挙兵。 まわりは西軍だらけとなり、しかたなく西軍に加わったのです。 |
織田秀信(ひでのぶ) 幼名は三法師 |
織田秀信・・・・誰??といった感じの信行ですが、あの信長の孫で、織田家の後継者となった三法師です。 3歳の時に秀吉が後見人となり、一瞬だけスポットライトを浴びた信行。 以後は秀吉のもとで育ち、秀吉から一字もらって「秀信」と名乗ります。 一字もらったということ自体(しかも秀吉の秀が上・信長の信が下)、すでに秀信は、秀吉より格下扱い。 ですが3歳の頃から秀吉に懐柔されていた秀信は、なんの抵抗もしませんでした。 朝鮮出兵の時も秀吉の命令により参戦。 こうして秀吉に下剋上された形となった秀信は、秀吉の庇護のもとのんびりと育ちました。 が、石田三成から使者がやってきたのです。 「勝ったら尾張・美濃をもっとあげる。だから秀頼様の味方をしてくれ」と言われました。 秀信は、その誘いに乗って西軍に参加したのです。 |