安土桃山時代その21 関ヶ原の合戦

9月15日午前1時 西軍主力 関が原へ到着
午前2時 家康計画通りでニヤリ
午前3時 家康 出陣じゃーーー
午前4時 西軍 関ヶ原に布陣完了!
午前6時 東軍先鋒が関ヶ原に到着
午前7時 両軍 嵐の前の静けさ
午前8時 天下分け目の戦い戦闘開始!
最初のバトル!宇喜多秀家隊VS福島正則隊
三成隊 島左近撃たれる!
午前9時 石田三成隊崩れる
東軍VS西軍 必死の戦い
家康 イライラしまくる
午前11時 三成 総攻撃の狼煙を上げるが・・・
狼煙を見た毛利秀元
毛利家安泰のために! 吉川広家
焦る三成 使者を出しまくる!
悩める小早川秀秋
午後12時 秀秋寝返り  大谷吉継隊を攻撃!
大谷隊壊滅!
知将・大谷吉継自刃
午後1時 西軍の敗走が始まる
午後2時 島津隊 敵のど真ん中へ!
午後3時 西軍大名落ちまくり
午後5時 家康 首実検を行う



安土桃山時代 その22 1600年 関ヶ原の合戦
9月15日 午前1時 西軍主力 関が原へ到着
西軍は関が原に進んでいました。

三成は途中で長束正家・安国寺恵瓊に会いにいき、最終的な打ち合わせをしました。

その後、松尾山に登り小早川秀秋の老臣 平岡頼勝に会いに行きました。

三成の心の中には「秀秋はもしかしたら寝返るかもしれない・・・」という不安があったのです。

そして平岡頼勝に作戦内容を打ち明け、狼煙を合図に東軍側背を突くことを約束させるのでした。

その後三成は山中村に布陣している大谷吉継に会いに行き打ち合わせ。

自信は笹尾山に本陣を置きました。
午前2時 家康計画通りでニヤリ
午前2時 福島正則の使者が「西軍 関ヶ原に向けて移動中!」という情報を連絡してきました。

家康はその時寝ていましたが、それを聞くとガバっと起きて、すぐさま出陣命令を出しました。

全て家康の計画通りにコトが運んでいたのです。
午前3時 家康 出陣じゃーーー
家康の出陣命令を受けた諸将は続々と出発していきました。

先頭は福島正則隊と黒田長政隊。

これに続いて加藤嘉明隊・藤堂高虎隊・松平忠吉が向かいました。

ちなみに松平忠吉は家康の4男で、秀忠のすぐ下の弟。

秀忠が真田の上田城に手間取り、間に合わなかったため忠吉が先頭にいる隊の監督をするという役目になったのでした。

忠吉のサポート役は井伊直政です。

家康は最後尾にいました。
午前4時 西軍 関ヶ原に布陣完了!
三成の本陣の200メートル隣に、島津義弘・豊久ら1500人の兵が到着しました。

続いて小西行長が島津隊に並び到着。

その横に西軍殿軍として宇喜多秀家が陣を置きました。

ちなみに秀家が陣を置いたのが一番遅くって、午前5時くらいです。

また秀家が布陣した頃、東軍先鋒の福島正則隊がちょうど関ヶ原に軍を進めていて、宇喜多隊最後尾と福島隊前衛が小競り合いをしました。

これはすぐに家康に報告され、すぐさま福島隊の進軍をストップさせました。

秀家の横に大谷吉継。そして脇坂安治。

脇坂の横の松尾山には昨日から布陣している小早川秀秋がいました。

南宮山には毛利秀元も布陣完了し、秀元の前には吉川広家が布陣しました。

その東側には安国寺恵瓊・長宗我部盛親・長束正家が到着。

南宮山だけで笹尾山本陣の三成よりはるかに兵は多かった。

三成は着陣してすぐに島左近・蒲生郷舎を前衛とし、臨時の砦を作るべく土木工事をしました。

三成の手元の兵力は6000。

三成の近くには、織田信高や秀頼の黄母衣(きほろ)衆ら2000人がいました。

東軍が佐和山城を抜き、大阪城へ行くのを食い止めるための陣形であります。

午前6時 東軍先鋒が関ヶ原に到着
宇喜多秀家が到着し、西軍の布陣は完了しました。

対する東軍は先鋒が福島正則。

福島正則は宇喜多秀家隊と対陣する形となりました。

福島隊のすぐ後ろには筒井定次・田中吉政・藤堂高虎・京極高知らが控えいていました。

三成のいる笹尾山に対する形となって布陣したのは細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・竹中重門ら。

家康の四男忠吉は、井伊直政・本多忠勝に守られながら福島隊・黒田隊の間にいました。

以上のあたりが主戦部隊になります。

主戦部隊の後ろに、遊軍として織田有楽・金森長近らが控えその後ろの桃配山(ももくばり)に家康が本陣を構えたのです。

そして家康は、吉川広家と密約したものの用心のために毛利秀元の近くに山内一豊・池田輝政・浅野幸長。有馬豊らを配置しました。

東西布陣が終了した頃、黒田長政家臣の毛屋主人(けやもんど)は家康に向かって「敵は二万に過ぎず」と言ったのです。
午前7時 東西両軍 嵐の前の静けさ
夜中ずっと降り続いていた雨が夜明けとともに上がってきました。

そして霧が出てきたのであります。

東軍の先鋒は福島正則と軍議で決まっていました。

憎き三成への思いが家康に買われ、東軍先鋒隊の中心として働いていました。

が、この正則の働きに家康譜代の家臣らは不満が溜まっていたのです。

特に徳川四天王の本多忠勝・井伊直政は家康に向かって「この戦いで福島ら豊臣恩顧の大名にばかり活躍させたら、戦い終わった後ヤツラがのさばりまくる!」と文句を言いました。

家康は直臣の意見を汲み取って、本多忠勝・井伊直政を先鋒隊に入れ、最前線へ送り込んだのです。

それでも井伊直政は不満タラタラ。

「この戦いは、なんとしても家康の直臣である自分達が先に出て勝負しなければならない!」と感じていたのでした。
午前8時 天下分け目の戦い戦闘開始!
霧も晴れはじめ、しだいに視界が広がってきました。

井伊直政は、家康四男松平忠吉と選りすぐりの部下10名をつれて先鋒福島正則隊を通り抜けようとしました。

すると正則隊の可児才蔵(かにさいぞう)がそれに気がつき「先鋒は我らと家康殿に言われている!抜け駆けは許さん!」と注意しました。

すると井伊直政は
「何を言う!家康殿の四男忠吉殿は初陣なので、先陣の戦いの激しさを勉強させるために偵察に行くのだ!」と言いました。

可児才蔵も忠吉の名前を出され、ちょっと気後れしてしまい、それ以上阻止することができずに、井伊直政は忠吉をつれて一番前にやってきました。

井伊直政は徳川直臣のプライドに賭けて、後で軍律違反と言われようともこの戦いの口火は我ら徳川が切りたかった。

直政は福島隊の前をすり抜け一番前にやってきて、そのまま宇喜多秀家隊に向かって鉄砲を撃ったのであります。

この様子を見ていた福島正則は、仕方なく「戦いの始まり」と判断して宇喜多隊に一斉射撃を命じたのであります。

これを合図に、黒田長政隊・石田三成隊・小西幸長隊から一斉に狼煙が上がりました。

最初のバトル!宇喜田秀家隊VS福島正則隊
この戦いの一番最初の衝突が宇喜多秀家隊VS福島正則隊でした。

そして一番の激戦だったのであります。

宇喜多隊先陣は明石全登(あかしてるずみ)

対する福島隊先陣は可児才蔵。

福島隊が優勢でしたが、宇喜多隊も負けてはおらず、何度も押し返すという激戦が繰り広げられました。

宇喜多隊南の大谷吉継は、藤堂高虎・京極高知とバトルが始まり、宇喜田隊北側の小西行長は、織田有楽らとバトルしました。

井伊直政はというと、そのまま宇喜多秀家隊に攻撃せずに島津義弘らの押さえがないことに気がつき、矛先を島津へ向けました。

石田三成は黒田長政・細川忠興・加藤嘉昭とバトル。

三成隊 島左近撃たれる!
三成先陣は勇猛で有名な島左近でした。

対するは黒田隊で、その後ろには細川忠興らの隊がいました。

が、島左近はこれらの敵を翻弄しまくりました。

黒田隊は、「島左近へ正面攻撃をしてもダメだ!我らの被害が大きすぎる!」と、動揺しまくり。

そこへ黒田隊の菅六之助というものが、鉄砲隊を率いて左近らを捕らえる射程距離に兵を置いたのです。

これがなければ、黒田隊は壊滅していました。

この鉄砲隊はみごと左近の隊を直撃したのです。

島左近は柵を出て戦っていましたが、この鉄砲隊の銃弾が当たり、馬から落ちて負傷してしまいました。

それでも左近は手当てをるすと、「ワシが戦わねば!」と、再度戦場へ向かっていったのです。

西軍にとって、この島左近の負傷は心理的にマイナスになってしまうのです。
午前9時 石田三成隊崩れる
前線は修羅場と化していました。

宇喜多VS福島
大谷VS藤堂
石田VS黒田
小西VS寺田

と、すべて一進一退の戦いでした。

が、三成隊の主力である島左近が負傷し、三成隊のもう一人の主力である蒲生郷舎が、細川・黒田を押さえ踏ん張っていました。

傷の手当てをした島左近が戻ってきて、手勢100にを連れ討って出ました。

そしてそのまま戦乱の中、消えてしまったのです。

この時の島左近の戦いぶりは後々まで語り草となりました。

黒田長政の家臣達は、誰一人左近の着ていた軍装を覚えていないのです。

「あの時の鬼神のような島左近の声が耳にはりついて離れない・・・。今思い出すだけで身の毛がよだつ」と語っているのに、軍装は誰一人覚えてなかったのでした。

あまりの左近の恐ろしさに、「目の魂を失ってしまった」と、語り合ったそうです。

東軍VS西軍 必死の戦い

島左近の死により、三成隊の第一線が崩されてしまいました。

三成は、自ら陣頭に立ち指揮をとったのであります。

三成隊の強さはものすごいものでした。

が、東軍が全力で戦っているのに比べ、西軍は三成・宇喜田秀家・小西行長・大谷吉継の兵のみ。

残りの西軍の兵は、ただ静に見守っていただけなのです・・・・。
家康 イライラしまくる

敵は二万・・・と思っていた家康ですが、西軍の予想外の善戦に苛立ちを隠せませんでした。

いらだった時の癖であるツメをギリギリと噛み、いらいらしながら周囲に当り散らしていました。

そこへ家康に飛び込んできたニュースは、宇喜多隊が福島隊を退却させたが、小西隊と戦っていた寺沢隊が小西隊の前線を打ち破り、福島隊の応援に駆けつけたというニュース。

家康は、毛利・吉川が動かないだろうと読み、毛利牽制のために残しておいた山内一豊と有馬豊に主戦場へ応援に行くよう命じました。
午前11時 三成 総攻撃の狼煙を上げるが・・・

三成隊は黒田隊・細川隊の猛攻撃を受けまくっていた。

三成は隣に布陣している島津へ援助を求めるため、家臣の八十島(やそじま)助左衛門を島津義弘のもとに派遣しました。

が、八十島が馬に乗ったまま三成の指令を伝えたため、島津の武将らは怒ってそのまま追い返してしまったのです。。

焦った三成は、仕方なく自ら島津の陣地へ向かい、島津隊の前衛である義弘の甥 島津豊久に面会を求め参戦をお願いしました。

ですが前日大垣城の軍議で、島津の意見を三成に却下されたため、三成のために全力を挙げて戦おうという気がなくなっていた島津豊久は「自らの敵で手がいっぱいなので、応援に行けない。勝負は天の定めるところじゃ」と断ったのでした。

三成は、毛利・吉川・長宗我部・小早川が動かないことにも疑念を抱き始め、島津に断られた後すぐに狼煙を上げました。

この狼煙で、小早川・毛利秀元らが動く手はずになっていたのです。

今の状況は、やや東軍が押して入るものの毛利・吉川・長宗我部・小早川が一気に東軍に攻め込めば東軍は崩れることは明白でした。

松尾山・南宮山の隊が動くことによって、関ヶ原の勝敗を左右するのでした。
狼煙を見た毛利秀元

秀元は毛利輝元の養子です。

小早川秀秋が養子に来るトコを小早川隆景によって「毛利の血」を組む秀元が毛利家に入ったのでした。

義父の輝元は大阪城に留まっていたので、毛利家の総帥として関ヶ原に出陣したのでした。

笹尾山からの狼煙を見て、毛利秀元のもとに長束正家の使者が援助してくれとやってきました。

秀元は「よし!そろそろオレらの出番だぜ!」と、それに応じようと兵を動かそうとしました。

が、秀元の前にいる吉川隊が動こうとせず、兵を進められなかったのです!

毛利家安泰のために! 吉川広家

狼煙があがり、いきり立つ22歳の毛利秀元の前を押さえつけたのが吉川隊でした。

安国寺恵瓊がやってきて、出陣を要請しましたが
「我は大垣城近くで東軍と戦う約束だった。関ヶ原で戦いをするという話は聞いておらん!関ヶ原で戦うと決定した軍議の場に、毛利一族は誰も出席しておらん!」と反論したのです。

安国寺恵瓊は何度もおねがいしました。

広家は黒田長政を通して、井伊直政・本多忠勝との間に今回参戦しない代わりに、輝元を助け毛利の所領を安泰してくれという誓約書を取り交わしたのでした。

輝元・秀元の2人は、この裏取引を知らされていませんでした。

総攻撃の狼煙が上がったので、秀元は前に進もうとしましたが、広家が前で毛利の兵を出させぬようふんばっており、とうとう兵を進めることができかったのです。

そしてこの様子を見て、長束隊・安国寺隊・長宗我部隊も兵を挟まれ、安易に兵を動かすことができなくなってしまったのです。
焦る三成 使者を出しまくる!

西軍の三分の二が静観している中、三成は焦っていました。

集中攻撃を受けている三成隊を見かねて島津へ援軍を要請したものの断られ、毛利・吉川らは動かない。

三成は南宮山にいる兵をあきらめ、松尾山の小早川秀秋に向かって再び狼煙を上げたのです。
悩める小早川秀秋

戦いの始まる前、秀秋家老のもとに三成がやってきて、狼煙を合図に総攻撃の約束をした小早川秀秋。

三成からの条件は秀頼が15歳になるまで秀秋を関白に任ずるというものでした。

が、その一方で家康からの手も延びていたのです。工作に当たったのは黒田長政で、秀秋に「もし寝返ったら2カ国をあげる」と言いました。

秀秋にとってこちらも魅力でした。

この誓約書は両方とも9月14日で、秀秋は最後の最後までどっちにつくか悩みまくっていたのです。

松尾山から戦況を見ていた秀秋。

宇喜多隊が福島隊を後退させており、秀秋の心は揺れまくっていた。

3倍近い敵を相手に善戦している西軍。

ここに自分の隊が入れば、西軍は勝利するかもしれない・・・。

次々とやってくる三成や大谷吉継の使者。

いつまでもぐずぐずしている訳にはいかない。

だが、どちらにつけばいいのか???

そして我慢できない男がもう一人いました。徳川家康であります。

一度目の狼煙で秀秋が兵を動かさなかったことで安心していたのもつかの間、今度は秀秋がいつまでたっても兵を動かさない。

西軍の予想外の善戦。

もし秀秋が西軍についてしまったら、東軍は負けてしまうかもしれない。

あんなバカにこのオレの首がかかってるかと思うと、我慢できなかった。

家康は家臣を呼びつけ、黒田長政のもとに行かせた。

そして「お前は本当に秀秋の裏切りを確約したのか!?」と確かめたのであります。

ですが、黒田隊も三成隊と必死に戦っており「戦の前の事前工作を今更攻められても困る!今は目の前にいる敵を倒すことに精一杯なんじゃ!」と怒鳴り返される始末。

なんとしてもあのバカ青二才を動かさねばならぬ!!!

家康は一か八かの賭けに出ることにしたのです。
午後12時 秀秋寝返り  大谷吉継隊を攻撃!

家康は秀秋のいる松尾山の陣に向け、一斉射撃をしたのでした。

弱気な秀秋はこれにおびえて約束どおり裏切るか、それとも恐怖心にかられ東軍に襲い掛かってくるか・・・家康にとっても賭けでした。

一斉射撃後、しばしの沈黙があった。

秀秋は、この一斉射撃におびえ「大谷吉継を討てぇーーー!」と叫んでしまったのです。

この時、大谷吉継は輿に乗って、藤堂隊・京極隊と死闘を繰り広げていました。

秀吉からもその戦の才能を認められていた吉継の采配は素晴らしく、兵力は圧倒的に少ないのに、藤堂隊・京極隊を押していました。

吉継は「さぁ!皆の者!あと一息だぞ!」と、掛け声をかけていたその瞬間!

秀秋隊15000人が突如として大谷吉継隊へ突撃してきたのです。

家康の賭けは見事的中したのでした。
大谷隊壊滅!

吉継は、秀秋の裏切りを予想していました。

秀秋隊が襲いかかってくることを読んでおり、自分の兵である脇坂・朽木・小川・赤座の四隊を秀秋の攻撃に対し温存していました。

素晴らしい采配で、なんと小早川勢を跳ね返したのです。

その隙を突いて、藤堂・京極隊もやってきました。

さすがの吉継隊も、20倍以上の敵を相手にしているので、疲労の色が見えてき始めました。

が!ここでなんと温存していた脇坂・朽木・小川・赤座の四隊が東軍に寝返ったのです!

この四隊が大谷隊を裏切り、攻撃してきたのでした。

吉継は「なぜヤツラが・・・」と絶望を隠せませんでした。

そして脇坂隊が吉継隊を攻撃し、とうとう吉継隊は壊滅となったのです・・・。

知将・大谷吉継自刃

壊滅となった吉継隊。

家臣の湯浅五郎が「相次ぐ裏切りにより、わが隊は壊滅状態でございます!半分以上の兵が死に絶えました!もはや戦いの続行は不可能でございます!」

吉継は「そうか・・・。もはやこれまでか・・・」と、無念極まりない表情で声を出しました。

そして湯浅五郎に「皆に逃げろと伝えろ。そしてお前にお願いがある。ワシは生きていても仕方がない。ここで自刃して果てる。だが、ワシのこの醜い顔を晒されるのは絶えられぬ恥辱じゃ。ワシの首を人目につかぬよう埋めてくれ」と言いました。

そして潔く自刃を遂げたのです。

吉継42歳でした。
午後1時 西軍の敗走が始まる

昼頃までは五分五分で戦っていた西軍。

ですが小早川秀秋の裏切りにより、大谷隊が壊滅したころから西軍の敗色が濃厚になってきました。

そして西軍にいた兵が、東軍に属している一族や縁者を頼りに、東軍へどんどん寝返っていったのです。

西軍は秀秋の裏切りと大谷隊の壊滅により、士気が下がりまくりました。

そしてそれまで互角に戦っていた小西隊が信じられないくらいあっけなく壊滅したのです。

小西行長は裏にある伊吹山へ逃走していきました。

そして福島隊と激戦を繰り広げていた宇喜田隊も崩れました。

秀秋の裏切りを知った宇喜多秀家は烈火のごとく怒り「秀秋を殺してオレも死ぬ!!」と単独で敵中へ突っ込もうとしました。

それを家臣の明石全澄がなんとか押しとどめ、逃走させました。

そして最後の最後まで戦っていた石田三成隊。

黒田・田中・細川の攻撃を一身に受けていましたが、続々と新手が加わり、さらに小西・宇喜田の敗走を見て、兵らは逃走し始めました。

家臣の蒲生郷舎が「殿!お逃げ下さい!殿さえ生きていれば再興の道もありましょう!私が敵を引きつけている隙にどうか!」と叫びました。

三成は涙を流しながら、伊吹山へ脱出したのです。

蒲生郷舎は壮絶な死を遂げました・・・・。
午後2時 島津隊 敵のど真ん中へ!

三成隊が敗走してしまい、戦場真っ只中に残されてしまった島津隊。

最初から最後まで傍観していましたが、勝敗が決定した時点で何事もなしで済まされるわけにはいかなかった。

そして東軍の矛先は、残された島津隊に向けられたのです。

背後は伊吹山、左右と前方に東軍8万の兵。

真正面には家康の陣と八方ふさがりに。

もう島津隊は大慌て。

東軍に降伏するなど、薩摩武士のプライドが許さなかった。

薩摩では大将が討ちとられるということは「最大の恥」とされていたのです。

義弘は潔く戦って死ぬことを考えましたが、甥の豊久が大反対。

だったら最初から戦ってれば・・・・と、管理人は悔やまれてなりません(西軍派なので)

そして1500人の兵で敵中突破という、意表をついた作戦を考えたのです。

真正面には井伊直政・本多忠勝ら家康の本隊が立ちはだかっていました。

島津軍は隊列を組み、「エイトウ、エイトウ」と家康本陣に向かって突き進んできたのです。

これには東軍ビックリ!

普通「戦線離脱」といえば後ろに退却ですが、まさか真正面を退却ルートに選ぶとは、さすがの家康も思っていなかったのです。

島津軍は一丸となり、真正面にいる福島正則の軍へ!

これに対して正則はあえて反撃しませんでした。

「もはや東軍の勝利は間違いないし、わしの武功も十分だ。これ以上兵を消耗させたくない」というものでした。

次に待ち構えていたのは、井伊・本多隊。

この二つの隊は「ここで義弘をしとめなければ、徳川の名がすたる!」と執拗に追撃してたのです。

島津軍は必死で駆け抜けました。

なんとか切り抜けた時は、200人を残すのみ。

この時の殿軍(しんがり)は豊久。

井伊・本多は執拗に殿軍の豊久を追撃し、豊久はとうとう討死。

さらに義弘を追撃するも、島津軍は必死。

あちこちで影武者が「我は島津義弘なり!」といいつつ、死にもの狂いで攻撃。

ステガマリ戦法(最後尾の武将が死ぬまで戦い、時間稼ぎする)で井伊直政が負傷。

これでなんとか逃げ切れたのです。
午後3時 西軍大名落ちまくり

そして、西軍敗報は南宮山にも伝わりました。

吉川隊のせいで動けずにいた長束・安国寺・長宗我部屋は、それぞれ伊勢へ落ちていったのです。

午後3時を回った頃には、西軍は関ヶ原から姿を消したのであります。
午後5時 家康 首実検を行う

日本史上、最大の戦いが終わりました。

家康のもとに、続々と東軍の武将が詰め寄りました。

真っ先に家康の前に進み出たのは黒田長政。

三成隊と真正面から戦い、寝返り工作の労を称えたのです。

そして小早川秀秋は、最後までぐずぐずしていたので家康に怒られる・・・といつまでたっても姿を現しませんでした。

家康は使者を使わせ、秀秋を招き入れました。

すると秀秋が「三成の佐和山城攻めの先鋒をやりたい」と言い出しました。

これは秀秋の保身でしたが、それにつられて脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠が我も我もと進み出ました。

西軍大谷隊にいながらも寝返ったため、自ら佐和山城攻めをすることによって、少しでも立場をよくしたいと思ったのでした。