安土桃山時代その9 1583年

1583年1月 織田家臣 滝川一益動く!
3月3日 勝家動く!
3月17日 秀吉・勝家 賎ヶ岳へ
4月 織田信孝「秀吉ムカツク!!」
秀吉「総攻撃は4月19日じゃぁ!」
4月20日 佐久間盛政出陣!
4月20日 秀吉「しまった!」賤ヶ岳の一騎駆け
4月21日 AM2:00 賤ヶ岳の戦い
風見鶏になった前田利家
4月22日 柴田勝家 利家に湯漬けを乞う
4月23日 勝家 哀しい酒宴を開く
4月24日 柴田勝家 お市とともに自刃
賤ヶ岳の七本槍
秀吉子飼いの将 加藤清正
秀吉子飼いの将 福島正則
賤ヶ岳の結末 織田信孝
賤ヶ岳の結末 滝川一益
賤ヶ岳の結末
前田利家・佐々成政のライバル関係
9月 秀吉大阪城を作る
この頃家康は?
主君をコロコロ 弱小真田家




安土桃山時代 その9 
1583年1月 織田家臣 滝川一益動く!
1月になると毛利家に不審な動きが見え始めました。

秀吉はその動きを察知し、牽制しまくっていました。

さらに秀吉にとって嫌なニュースが。

滝川一益が動き出したのです。

一益はお坊ちゃんの信孝や、柴田勝豊とは違いました。

名将として名を馳せている一益は、一筋縄ではいかない相手だったのです。

せっかく秀吉が押さえた亀山城と、岡本良勝のいる峯城を一益は奪ったのです。

そして一益は峯城に立て籠もり、なんとか秀吉軍を撃退してました。

かなり奮闘しましたが、独力では秀吉軍を撃退するくらいしかできなかったのです。

また、一益は勝家のために少しでも秀吉を伊勢に釘付けにしておきたかった。

自分がここで意地を見せなければ、秀吉は次々と我らの兵を味方につけていく!ワシが少しでも秀吉をとどめなければ!と、必死に頑張ったのです。

そして勝家が早くやってくるのを、今か今かと待っていたのでした。

1583年3月3日 勝家動く!
冬の間動けず、イライラしっぱなしだった勝家。

信孝が降伏し、滝川一益も苦戦している。

自分が動かなければ、秀吉の天下となってしまう!と、もうじりじりしっぱなし。

3月 勝家にとって待ちに待った雪解けがやってきました。

早速、3月3日に先鋒として佐久間盛政を出陣させたのです。

そして自分は3月9日 北ノ庄城を出発。

対する秀吉は「うぬっ!勝家めが動きよったか!」と滋賀県の佐和山城で作戦会議を開きました。
1583年3月17日 秀吉・勝家 賎ヶ岳へ

勝家挙兵!を聞いた秀吉

すぐさま25000人の兵を従え、近江へ向かいました。

秀吉が陣を置いたのは賎ヶ岳

秀吉の味方となったのは、羽柴秀長(弟)・蜂須賀小六(正勝)・池田恒興・加藤清正・丹羽長秀・福島正則・森長可・織田信雄(信長の次男)・中川清秀・稲葉一鉄・筒井順慶ら25000人。

対する勝家側は、佐久間盛政(勝家の甥)・佐々成政・滝川一益・織田信孝・前田利家・不破勝光ら20000人。

勝家側に「北国軍」がすべてつきました。

勝家らも賎ヶ岳近くに陣を置きました。

両軍とも、同じほどの兵力。

うかつに動けば負ける。

両軍は膠着状態となりました。

お互い持久戦を覚悟した戦いを予想しました。

織田の主導権を争う、織田家内の有力家臣ら全てが、ここに集結したのです。

1583年4月 織田信孝「秀吉ムカツク!!」

信孝は、自分が織田家の後継ぎに選ばれなかったのがめちゃくちゃムカついていました。

以前から次男信雄とは仲が悪く、「アイツがなるくらいなら、絶対オレだろ?だってオレは、父の弔い合戦に参加したんだぜ?」と思っていました。

が、結果は信忠の嫡男であるチビッコの三法師。

さらに、居城である岐阜城を攻撃され信孝の怒りはヒートアップ。

勝家は応援にこれないし、母親は人質に取られちゃうしと、もうふんだりけったり状態だったのです。

そんな頃、勝家挙兵のニュースが!

両軍続々と賎ヶ岳へ集結。

信孝我慢できなくなり、とうとう岐阜で挙兵したのです。
秀吉「総攻撃は4月19日じゃぁ!」

めげずに信孝が岐阜で挙兵したというのを聞いた秀吉

「あのやろうめ」と、秀吉は岐阜に向かうことに。

誰もが持久戦になるであろうと予想していた戦端を、信孝が切って落としたのです。

秀吉は「4月19日を信孝総攻撃の日とする!」と決めました。

そして本隊を率いり岐阜へ!

が、雨がめちゃくちゃ降り、秀吉はこの日に総攻撃できなくなってしまったのです。
1583年4月20日 佐久間盛政出陣!
秀吉は岐阜で挙兵した信孝を攻撃しに岐阜へ。

そこへ秀吉軍の家臣が寝返り、秀吉不在を勝家に知らせたのです。

これはチャンスと佐久間盛政が出陣をお願いしてきました。

この攻撃は敵の奥深くまで突き進んでいくため、勝てれば打撃を与えられるが、負けたら非常に危険でした。

勝家は「危険だから辞めたほうがいい」と、却下。

ですが、佐久間盛政は「なぜこんなチャンスを逃すんですか!?秀吉がいないんですよ!」と強く言ったのです。

仕方なく勝家はこれを許可しました。

そして「もし勝ったらすぐに戻って来い」という条件を出し出陣させたのです。

佐久間らは早速中川清秀を攻撃。

猛将の佐久間盛政は4時間の戦闘の末、中川清秀を討ち取ったのです。

が、佐久間は勝家に言われたことを守らなかった。

「もしこの知らせを秀吉が聞いたとしてもすぐ戻って来れないだろう?」と、勝利を祝って酒宴を開いてしまったのです。。


4月20日 秀吉「しまった!」賤ヶ岳の一騎駆け
自分がいない間に、大岩山で中川清秀が討たれたという情報を聞いた秀吉。

「クソー。しまった。」と、賤ヶ岳へ戻ることに。

秀吉は先導隊を出し、街道沿いにかがり火を焚くよう指示。

そして握り飯も用意させました。

これを全て手配したのが石田三成。

こうして時間のロスを極力少なくしたのです。

その勢いはすさまじく賤ヶ岳の一騎駆けと言われるように。

50キロの道を、不眠不休でわずか5時間で戻ってきたのです。

そして、その頃佐久間盛政は「秀吉は岐阜だぜ?」と、勝利の余韻に浸っていたのです・・・・。
1583年4月21日 AM2:00 賤ヶ岳の戦い
夜中の2時・・・。

不眠不休で走ってきた秀吉軍が到着しました。

そしてすぐさま、待機していた兵を集め全軍で佐久間めがけて反撃に向かったのです!!

佐久間盛政はノンキに酒宴中。

そこへは突撃してくる大軍をみてビックリ!

戦闘態勢が整っておらず、慌てて逃げ出したのです。

が、部隊の最後尾にいた柴田勝政隊が追いつかれてしまいました。

そしてみるみるうちに盛政軍が総崩れとなったのです。

さらに、勝家軍であった前田利家が、佐久間盛政を見捨てて退却していったのです。

柴田勝家のもとに「佐久間盛政軍壊滅!」の情報が入ってきました。

勝家本陣は大パニックに!

一番の強力部隊である盛政が総崩れとなってしまったのです。

秀吉は今がチャンスとガンガン攻め込みました。

勝家の本陣を側面から攻撃し、大打撃を与えたのです。

さらに勝家大ショックな出来事が。

あの前田利家が退却していたのです。

勝家本陣は、退却していく前田利家軍を盛政軍が退却したのかと思っていました。

それが前田利家軍だと知った勝家。

あの利家が退却・・・と大ショックを受けたのです。

精神的にショックを受けた勝家は立ち直ることはできませんでした。

頼りにしていた盛政軍が崩れ、信頼していた利家の裏切り。

勝家軍は敗走せざるを得なくなりました。

秀吉軍は敗走する勝家軍を容赦なく追撃し、大打撃を与えたのです。

勝家は北ノ庄城に向かって逃げていったのです。

そしてこの時に大活躍をしたのが「賤ヶ岳の七本槍」であります。

風見鶏になった前田利家
前田利家は非常に悩んでいた。

戦っているのは親友の秀吉。

そして「オヤジ」と呼び心から尊敬している勝家。

もともとは勝家についていたけど、親友の秀吉に万一の時は中立を約束してくれと言われていました。

自分の軍が総崩れになっていくのを、なんとか立て直そうとしている盛政の後ろにいた前田利家は、その時「裏切り」を決意。

自分の軍を退却させたのでした。

1583年4月22日 柴田勝家 利家に湯漬けを乞う
北ノ庄へ向かって敗走していた勝家は、途中利家の城に寄って湯漬けを乞いました。

利家は自分を裏切った男。

ですが勝家は、裏切った利家に文句をひとつも言わず「あの頃は楽しかったな」と、懐かしい昔話をして北ノ庄へ戻っていったのです。

そのあと、勝家を討ち取るため秀吉がやってきました。

そして秀吉も湯漬けを乞いました。

「なぜ最初から俺の味方をしなかったんだ?」となじるべきトコでしたが、何も言わずに湯漬けを食べ行ってしまったのです。

そして利家は、勝家のたてこもっている北ノ庄城攻撃の先鋒を命じられるのです。

1583年4月23日 勝家 哀しい酒宴を開く
4月23日の夜。

秀吉は北ノ庄城を包囲しました。

勝家は家臣80名を天守閣に集め酒宴をはじめました。

勝家は皆の前で「わしの命運も明日までじゃ。今宵はみなで夜が明けるまで酒を飲み名残を惜しもうぞ」と言ったのです。

そのうち女房らも酒宴に加わりはじめ、唄が出たり舞を踊ったり身分関係なく飲み騒ぎました。

でもみんな胸の内は悲観にくれていました。

哀しい最後の宴となったのです。

勝家は隣にいる妻・お市に「城を脱出しろ」と言いました。

ですがお市はそれを拒み、勝家とともに果てることを望んだのです。

お市は秀吉のことがあまり好きじゃなかった。

モトだんなの浅井長政を攻めた時も秀吉が先鋒だったし、自分の息子を殺したのも秀吉。

ですが、勝家とお市は、娘3人だけでも・・・と、娘だけを城外へ逃がしたのです。

浅井長政に続き、2度の落城に遭遇した娘3人。

その後戦国の世になくてはならない存在となるのでした。
1583年4月24日 柴田勝家 お市とともに自刃
24日。

秀吉軍の総攻撃が始まりました。

北ノ庄城は果敢に抵抗しましたが、人数が少なすぎた。

もはやこれまでと最勝家は自ら城に火を放ち、お市とともに果てたのです。

勝家62歳 お市37歳でした。

賤ヶ岳の七本槍
賤ヶ岳の戦いにおいて一番の功労者は「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる七人。

加藤嘉明(よしあき)・片桐且元(かつもと)・福島正則・加藤清正・糟屋武則(かすやたけのり)・平野長康・脇坂安春の七人。

華麗なデビューをしたこの七人ですが、みんな最後はあまり幸せとはいえない人生を送ります。

本当は9人なんだけど、いつの間にか石河・桜井の2人は死んじゃって名前は消えちゃったらしい。

秀吉子飼いの将 加藤清正
子飼いの将として教育された清正。

15歳で元服しました。

そして山崎の合戦などで戦功をあげ、今回の賤ヶ岳で完璧にその名を広めることに。

戦いだけが己の生きる道。

武断派の清正は、文治派でクソ真面目な石田三成らと次第に険悪になっていくわけです。

しまいには「三成を八つ裂きにしても腹が収まらん!」というくらい憎むようになり、そこを狸ジジィ家康に利用されてしまうのでした。

秀吉子飼いの将 福島正則
秀吉の期待通り勇敢な武将として成長してた正則。

秀吉とともに別所長治を攻撃した時に、真っ先に敵中に入り初めて首をとりました。

が、その首を味方の兵に奪い取られてしまい、また首を取りに敵陣へ。

疲れて休んでいるとまたもや首を盗まれてしまった。

正則は泣いて悔しがり、他の先輩武将に「そんなことで悔しがるとは器の小さいやつだ」とたしなめられたのです。

正則は悔しくて仕方なくって、また敵陣に突っ込み首を取って来ました。

それを聞いた秀吉はたいそう褒めたらしい。

賤ヶ岳でも一番の活躍。

一人だけご褒美が五千石だった。

加藤清正はそれに不満で「おれのどこが正則に劣ってるのか?」とブーブー文句。

秀吉は「愚か者め!」といいつつも、清正にも同じ五千石をあげたといいます。

正則も清正と同じく戦うことでアピールする武断派。

なので戦場で必死に戦ってるのに、その後方支援ばっかで秀吉に気に入られている石田三成を憎むようになるのです。

賤ヶ岳の結末 織田信孝
岐阜で挙兵した信孝でしたが、勝家自刃を聞くとあっさり降伏。

ちなみに、攻めたのは次男の信雄です。

そして知多半島の端っこに追いやられてしまったのです。

信孝は、頼みの綱であった勝家が死んでしまい、もはや再起する力はありませんでした。

そこを秀吉・信雄が「潔く自刃すれば?」と攻めたてました。

こうして5月2日 信孝は無念の中、自刃したのです。
賤ヶ岳の結末 滝川一益
滝川一益は、賤ヶ岳の戦いで秀吉が大軍を率いてやってくると、後方の柴田勝家と挟み撃ちをしようと思っていました。

ですが、肝心の勝家が負けてしまい孤立無援となってしまったのです。

岐阜城にいた信孝もあっさり敗北したため、残された道は死か降伏しかなかった。

一益は降伏を選んだ。

そして剃髪して越前に行った。

かつて秀吉や光秀と出世争いをした男は、信長死後の急変についていけず62歳で死にました。

賤ヶ岳の結末
柴田勝家の遺領は丹羽長秀に。

佐久間盛政の遺領は前田利家に。

信孝と滝川一益の遺領は、織田信雄に分け与えられました。

また、佐々成政も越中を与えられました。

佐久間盛政は捕らえられ、首を京都六条河原に晒されることとなったのです。
前田利家・佐々成政のライバル関係
柴田勝家の「北国軍」は終焉を遂げました。

が、まだ前田利家と佐々成政のライバル関係は続いていたのです。

この2人の険悪な関係は、まだ利家が信長の小姓をやっている時代からでした。

利家が、信長の小姓であった拾阿見とケンカをして殺してしまった時、成政は拾阿見をかばったことから始まっていたのです。

お互いライバル関係むきだしで、利家は「オレは長年成政と合戦の場で競ってたけど、一度も奴に先を越されたことは無いぜ!」と常日頃言っていました。

そんな仲の悪い2人が、柴田勝家の「部下」となったのです。

が、勝家は前田利家をとても気に入っており、甥である佐久間盛政よりも可愛がる勢い。

成政は、そんな勝家にもムカムカしていたのです。

ですが、勝家が生きている間は正面きった衝突はありませんでした。

が、勝家が死んでしまい、お互いさらに衝突しあっていくこととなるのです。
1583年9月 秀吉大阪城を作る
柴田勝家がいなくなり、もはや秀吉の天下取りは急速にスピードアップしていきました。

天下取りの第一歩が大阪城築城であります。

石山本願寺の跡地に城を作り、天下へ号令するべく動き出したのです。

池田恒興親子を織田信孝がいた美濃へ強引に引越しさせ、自ら工事の陣頭指揮を行いました。

大阪城はものすごい巨大なお城で、豪華絢爛ダーイスキな秀吉はどんな城よりも立派な城を建てました。

黄金の茶室も作り大満足。

他の武将達に対して、「ワシはおぬしらとは格が違うのだぞ」という意味も込め、ものすごく豪華な城を作ったのです。

1583年 この頃家康は?
秀吉が勝家を破り、めざましい躍進を遂げている中、家康はというと・・・。

この頃は激動の中央には目もくれず、ひたすら自分の国の地固めをやっていたのです。

とはいっても、それなりの野望はありました。

まず、信長が死んだことにより、「こんなチャンスを逃すか!」と、北条が甲斐を狙い始めたのです。

甲斐には織田家の河尻秀隆がいました。

が、河尻は武田時代の国法ややり方をまったく無視したやり方で、国経営を推し進めていたため、領民らに人気がなかったのです。

そこを狙ったのが北条氏政でした。

正直、家康は河尻秀隆のことなんてどーでもよかったんだけど、「甲斐」は自分と信長がめちゃくちゃ苦労したやっと奪った領地。

黙ってるわけにはいかなかったのです。

こうして北条VS徳川が始まりました。

が、北条氏政は甲斐の山々の寒さをナメていた。

あまりの寒さに、士気が下がりまくり、とうとう「甲斐と信濃を徳川のものにする」という徳川にとってはすごくいい条件で和議したのです。

さらに北条氏政の嫡男・氏直と、家康の次女督姫(とくひめ)が結婚することに。

こうして、とりあえず北条とのバトルは終わり、同盟を組むこととなりました。

秀吉が中央で頑張ってる中、家康は甲斐と信濃の領地経営に専念していたのでした。
主君をコロコロ 弱小真田家
この頃真田昌幸は、困りまくっていました。

というのも、武田家が滅びた後信長に属しましたが、信長が本能寺で死去。

その後、北条が活発になり、仕方なく北条へ。

そのうち北条と徳川が怪しい雰囲気に。

徳川はどうにかして真田の領地を手に入れたかった。

使者をバンバンよこし、弱小である真田家は仕方なく徳川へ。

が、北条と徳川が和解することに。

この時、「真田の所領を北条のものにする」と家康が約束しちゃったもんだから、真田家は超激怒!

「この所領は先祖代々続く真田の土地じゃ!勝手に決めるなや!しかも出てけと言って、代わりの土地も与えないとは!」と、怒りまくったのです。

家康としては、北条と戦いたくなかった。

秀吉ともイマイチうまくいかないってのに、北条といつまでも戦っているのは正直危なかったからです。

こうして家康は真田を捨石にしようとしたのでした。

ですが昌幸も納得できない。

「真田をコケにしおって!」と、激怒したのでした。