幕末その13 1866年

1月8日 桂小五郎京都へ
1月20日 龍馬「おんしら、アホか?」
1月22日 薩長同盟成立
1月24日 龍馬 寺田屋で裸のお龍のおかげで助かる
幕府 長州に詰め寄る
3月 龍馬結婚 日本初の新婚旅行
6月7日 第二次長州征伐スタート!
7月20日 将軍家茂死去
怪しすぎる将軍の死
8月16日 慶喜 長州征圧を休戦する
慶喜 変なこと言い出す
慶喜はなんで将軍にならないの?
慶喜を取り巻く政局は?
8月 倒幕チーム焦る
9月28日 新撰組 武田観柳斎 暗殺!
岩倉具視 動く
孝明天皇 怒る
12月5日 最後の将軍 15代慶喜
慶喜が目指した幕府
慶喜 「ど・こ・に・し・よ・う・か・な」
フランスの事情
薩摩・長州 焦りまくる!
慶喜 外国公使謁見の儀を計画
兵庫開港問題とは?
12月25日 孝明天皇39歳で突然死!
孝明天皇は殺された!?
慶喜 謁見の儀を延期!




末の嵐その13 1866年
1866年 慶応2年
1月8日 桂小五郎京都へ
去年西郷隆盛に約束をすっぽかされた桂小五郎でしたが、龍馬の亀山社中が薩摩藩名義で武器を購入してくれたので薩摩と和解することに

そしてこの日、桂小五郎は京都へ入り、薩摩藩邸へ行ったのです

もちろん薩摩と仲直りするためだったのです

が・・・・
1月20日 龍馬「おんしら、アホか?」
この日龍馬は京都の薩摩藩邸に入りました

「いやー、桂さんと西郷さんは何日も前から京都で会談してるから、仲直りしたんだろうな」とウキウキ

すでに薩摩と長州は仲直りしていると思っていたのです

ところが桂小五郎に会った龍馬はビックリ!まだ同盟を組んでいなかったのです

桂小五郎は「坂本君、考えてみてくれよ。薩摩はサ、まだ中立の立場なんだよ。今からでも幕府の味方をすることができる立場なんだよね。長州とはワケが違うんだよ。長州はさ、幕府や朝廷を敵にして孤立してるんだよ。なのに西郷隆盛はさ、毎晩宴をしてていつまでたっても同盟のことを言い出さない。今、こっちから同盟のことを言い出せばまるで憐れみを他人に乞うようなものだろ?たとえ長州がヤバクなったとしても、俺らはプライドだけはあるんだよ。だから薩摩との同盟はもう諦めた。一応いろいろとやってもらった坂本君に挨拶しようと思ってとりあえず待っていたんだ」というものだったのです

龍馬愕然

確かに桂小五郎の言い分もわかるけど、今はメンツにこだわっている場合じゃない。

メンツにこだわって日本の未来を誤るわけにはいかないのです

龍馬は「ちょっと待っててくれ」と、慌てて薩摩藩邸へ

そして西郷隆盛に会い、今の桂小五郎の苦しい立場を話し、西郷隆盛の態度の冷たさを責めまくりました

さすがに西郷隆盛も反省し、「こちらから改めて桂さんにお話しします」と言ったのです
1月22日 薩長同盟成立
龍馬の働きもあって、薩摩が長州に同盟を申し込むという形で、両者の和解が成立しました

しかも単なる仲直りではなく、これから幕府と戦争が起きるかもしれないというその時の軍事的な同盟も結ばれたのです

これが薩長同盟です

内容は

・長州と幕府が戦争になった時は、薩摩はすぐさま2000人の兵を出す。大坂にも1000人の兵を出す

・もし長州が勝利した場合、薩摩は朝廷に長州を正統化させるよう話すこと

・万一負けそうになった時は薩摩は力になること

・幕府が帰った時、薩摩は朝廷に行き、すぐさま長州を助けること

・もし会津や一橋などが朝廷を守り、ワシラの正義を拒む時は決戦におよぶこと

・両藩は力をあわせ日本のために尽力すること。いかなる場合であっても今日から両藩は日本のため天皇の威光が増し、復権することを目標に誠心を尽くすこと

というような六か条ができあがったのです

そしてこの同盟締結をきっかけに、二つの藩は倒幕へ向けて動き出すのでした
1月24日 龍馬 寺田屋で裸のお龍のおかげで助かる
薩長同盟を締結させ龍馬は一安心

寺田屋でくつろぎまくっていたところに、なんと京都守護職・松平容保の命令により伏見奉行所の役人100人が龍馬を捕らえるべく寺田屋を包囲したのです

この時、龍馬の彼女・お龍はお風呂に入ってました

すると風呂の窓から槍が見えたのです

お龍はその槍を掴み「なに!?女がお風呂に入ってるのよ!痴漢!」と叫びました

怪しい雰囲気を感じたお龍は、浴衣一枚を引っ掛けて庭に出ましたが、槍を持った男に捕まってしまったのです

「二階にいるのは誰だ!?」という男の質問に、お龍は「薩摩の西郷小次郎さんでしょ?もう1人は知らない人よ」と答え、解放されるとすぐさま二階に駆け上がり龍馬のもとへ

突然セミヌードで現れたお龍に、龍馬と長府藩士の三吉慎蔵は目が点

「おまえ、隠せよ!」と龍馬が言ったとたん、お龍が「大変よ!捕方が寺田屋を囲んでるわよ!」と説明したのです

慎蔵は慌てて袴をはき、槍を持ちました

龍馬はピストルを手に持つと、やってきた幕府の人間を迎え撃ったのです

龍馬はピストルで応戦できないとわかると、裏にある隠し階段から逃げました

そして2人は材木小屋に隠れましたが、慎蔵が「もうダメじゃ。敵に捕らわれるくらいならここで切腹いたそう」と言いました

すると龍馬が「いや、死ぬ気があるんなら薩摩藩邸へ行ってくれ!もし敵に見つかればワシもこの場で死ぬ」といい、慎蔵を励ましたのです

が、慎蔵が行く前に、お龍がいち早く薩摩藩邸へ走り、龍馬の危険を伝えていました

薩摩藩は龍馬の救出に向かい、助け出されたのです

裸のお龍の活躍がなければ、ここで殺されていたのでした

ちなみに、のちほどこの話を聞いた桂小五郎は、龍馬の肩をポンと叩き「美しい裸の女性の注進とはうらやましいのー」とからかったそうです
幕府 長州に詰め寄る
幕府は去年「長州やっつけにいくぞ!」と発表したものの、諸藩から協力的な感じがしないため、長州に対して「もし10万石削減・藩主父子引退という条件を飲めば攻めないよ」と連絡しました

ところが、長州は薩長同盟を結んだため「はぁ?何言ってんだ?」と強気に出てきたのです

さすがに幕府は長州を許すことができなくなってしまいました

武力衝突は避けられないものとなり、長州攻めを決定したのです
3月 龍馬結婚 日本初の新婚旅行
なんとか命拾いした龍馬は傷が治らず3日くらい寝込みました

そして治ったらお龍と結婚することにしたのです

2人は祝言が終わったあと、新婚旅行と龍馬の湯治もかねて薩摩の温泉地巡りへ

この旅行での龍馬のお気に入りスポットは鹿児島の塩浸温泉の犬飼の滝

「この世のものとは思えない」と大感動し、10日間もいたそうです

こうして龍馬とお龍は新婚旅行を満喫しまくったのでした
6月7日 第二次長州征伐スタート!
いよいよ幕府が長州征伐に乗り出しました

やるきマンマンの幕府とは裏腹に、「来いよ!」と命令された諸藩はかなりシラケ気味

もはや幕府の権威は落ちまくっていたのです

それどころが、軍備も最悪

長州藩は薩摩藩の名義を借りてまで最新兵器を買っていたのに、幕府軍は前に使った時と同じ武器だったのです

幕府軍は火縄銃だというのに、長州藩はゲベル銃(連発できる)

が、幕府軍は10万の大軍(そのうちの殆どがやる気なし)対する長州は4000人ほど

余裕で攻め入りました

ですが、長州藩はココで負けたら藩が滅亡という悲壮な危機感があるため士気がめちゃくちゃ高かった

長州の入り口となる石宗口・小倉口などで戦闘が始まりましたが幕府軍は圧倒的な人数の多さだというのに長州に押されまくり

幕府軍は敗退しまくりました

一番大きな戦いの場は高杉晋作が指揮する小倉口でした

が!!!ここに大変なニュースが飛び込んできたのです
7月20日 将軍家茂死去
大阪城は幕府の本営となっていました。

ここに飛び込んでくるのは思ってもみなかった長州藩の奮闘ぶり

だからといって幕府は勢い込んで一方的に攻め込んだこの戦いをやめるワケにはいきませんでした

そんな時、大阪城にいて幕府軍の指揮をとっていた将軍・家茂が死んでしまったのです!!
怪しすぎる将軍の死
家茂の死は本当に突然でした

あまりの突然さに勝海舟までもが「怪しすぎる」と日記にかくほど

家茂はまだ21歳だし、ついこないだまではとっても元気だった

5月に大坂にやってきた時は元気に陣頭にたっていたのです

が、幕府の戦況がヤバくなってくるにつれ、なぜか顔色が悪くなりとうとう死んでしまったのです

さらに大坂から江戸に戻った家茂の遺体を、妻である和宮が見たいと言ったのですが、老中達はかたくなにこれを拒否

遺体に毒物反応が出ていたのではないか?とされているのです

ちなみに和宮は家茂の死をとっても悲しみました

政略結婚でしたが、2人の間には愛が芽生えていたのです

この時、家茂の遺体とともに送られてきた遺品は一反の西陣織の織物

これは家茂が大坂へ行く時、和宮が「おみやげは西陣織がいいナ♪」とおねだりしたもの

和宮はこれを見て嘆き悲しみ、この反物で袈裟を作りお寺に寄進しました。この袈裟が「空蝉のお袈裟」と呼ばれています
8月16日 慶喜 長州征圧を休戦する
とにもかくにもこーんな大事な時に将軍が死んでしまいました

このニュースを聞いた諸藩は「総大将がいないのなら長州と戦ってもしょーがないよね」というムードに

さっさかと自分の国に帰ってしまったのです

こうして幕府は長州藩主の謹慎という軽い処分でこの戦いを終わらせたのです

ちなみに後見人の慶喜は「弔い合戦をするか」と総大将になろうとしましたが、小倉城が落ちたというニュースを聞いてやる気がなくなったそうです
慶喜 変なこと言い出す
家茂が死んだとなった今、残ってるのはモチロンあの人!

後見人であり、英明で有名な幕府期待のヒーロー徳川慶喜であります

が、ここで慶喜ヘンテコリンなことを言い出しました

「徳川家を継ぐのはいいけど、将軍職は受けない。それでいいなら徳川家を継ぐよ。絶対に将軍職を受けろというなら、俺はやめる」

幕府のお偉いさんたちはビックリ!

が、今、将軍になれるような人材は慶喜しかいないのです

幕閣(幕府のお偉いさんたち)は、「後はどーにかなるだろう」ということで、とりあえず慶喜の言うことを聞くことになりました
慶喜はなんで将軍にならないの?
ズバリ!「損」だからです

幕府は長州討伐に苦戦しまくり、人々の心ももはや幕府から離れまくっていた

そんな情勢の中、将軍になったら自分が損しちゃうから

安政の大獄の前は、有力な大名達が「なんとしても英明高い一橋慶喜様を将軍に!」と張り切ってくれてたけど、今や情勢は変わりまくっていた

大名達は「幕府はダメかもしれないよな」と考えるようになっていたからです
慶喜を取り巻く政局は?
さてさて、幕府の権威は落ちまくり、外国も絡み、さらには長州や薩摩といった倒幕に向けて動き出す藩も出来ていた頃、他の藩は一体どうしていたのか?

他藩の心は、勝海舟曰く「何とかなるでござろう」でした

徳川家康から始まった江戸幕府の「藩」は、徳川家康の味方をした大名たちが貰ったもの

毛利(長州)や島津(薩摩)は関ヶ原で家康に逆らったものの、何とか家を存続させてもらったギリギリチーム

が、他の藩は恩恵を受けたところも多いのに、倒幕運動がスタートしても「何とかなるでござろう」だったのです

そんな中でも頑張って幕府の味方について目だった活躍をしていたのは、松平容保の会津藩・松平春嶽の越前藩くらいでした

水戸藩は内部抗争が激しく、いつの間にか消えかかっていたし、紀伊や尾張などの御三家は、本来であれば本家である徳川家を守らなければならないのに、なぜか動かない

春日局以来、徳川家から恩恵を貰いまくっていた淀藩でさえ動かない

他の藩は「あんまり変なことに巻き込まれたくない」という他人事だったのです

この時からすでに幕府は幕府でなくなくなっていました

幕府自体がもはや「倒れている幕府」だったのです
8月 倒幕チーム焦る
とりあえず徳川家を継いだ慶喜は、さっそく幕政の改革をスタート

特に軍事方面に力をいれ、剣や槍中心の部隊を廃止し、銃を中心とした部隊に編成しなおしました

さらに歩兵を庶民から募集し、フランスから軍事専門家を呼び、訓練しだしたのです

そして幕政改革のために人材を大幅に変えました

小栗忠順・板倉勝静・栗本鋤雲(くりもとじょうん)がブレインに抜擢

古い体制を全て削除し、手際よく推し進めて行った手腕は見事でした

これに倒幕派は大きな脅威を抱くことに

桂小五郎は「やばいよ。幕府が変わりつつある・・・。今までとはちょっと違うかも・・・。家康の再来のようだよ」と焦り出し、岩倉具視は「慶喜の行動は果断・勇決でその志は大きい。軽視できない強敵である」と言い、坂本龍馬は「将軍慶喜は今までの将軍とは違う。油断できない」といい、反幕の人々は慶喜の登場に恐怖するのでした
9月28日 新撰組 武田観柳斎 暗殺!
武田観柳斎は母里藩出身で軍学者として新撰組内で近藤勇のお気に入りでした

知識人だったので、隊士に軍学を教えていました

五番隊組長にもなり、大イバリの観柳斎

が、性格にちょっと問題があり、世渡り上手で近藤などからは気に入られてましたが、下の人にはやたらエバってました

さらにホモです

ですが時代は変わり、昔の軍学はもう古い!これからフランス式の西洋軍学だよなという流れが新撰組にもやってきました

見栄っ張りの観柳斎は活躍の場がなくなっていました

保身をはかるべく、伊東甲子太郎に近づくも嫌われ、新撰組内で立場が悪くなってきた観柳斎は、なんと薩摩藩士と交流を深めるようになったのです

これを知った近藤たちは観柳斎を呼び出しました

斎藤一に連れられて料亭に行った観柳斎はビックリ!

なんとそこには近藤たちが顔を並べており「君は隊を離れ薩摩屋敷へ入ってるそうだが?今宵は別れの酒でも飲もうか?」と言って来たのです

観柳斎は脂汗タラタラ

それでも何とか切り抜け、斎藤一と篠原泰之進が観柳斎を送ることに

もう観柳斎はいつ斬られるのかドッキドキ

チラチラと斎藤一を盗み見ましたが、斬ろうというそぶりは見当たらない

少しホッとして夜道を歩いていると、橋を渡ったとたん、斎藤一が斬りつけたのです

こうして観柳斎は死んでしまいました

ちなみに斎藤一は「いっつもエラソーに言ってる割には簡単だったな」と呟いたそうです

岩倉具視 動く
慶喜が将軍職を正式に受ける前に復活しだしたのが公家の岩倉具視でした

岩倉具視は和宮降嫁を考えたことから、尊攘派から命を狙われていたので京都郊外の岩倉村に隠れていました

が、ただ隠れていただけじゃなく密かに薩摩・土佐の志士達と連絡を取り合い、政界復帰を目指していたのです

そんな時に将軍家茂が死亡というニュースが!

すると岩倉具視が動き出したのです

第二次長州征伐だーなんだーかんだーで騒がしくなっているドサクサに紛れ、倒幕派の公家らとともに天皇のもとへ!

そして薩摩藩の大久保利通と考えた策を天皇に伝えたのです

内容は朝廷内から佐幕派(幕府の味方っぽい人)を追放し、倒幕ムードを一気に高めましょう!というものでした
孝明天皇 怒る
岩倉具視の案を見た孝明天皇は激怒しました!

というのも、孝明天皇は攘夷主義(外人嫌い)ではあるけど、反幕ではないのです

ある意味、孝明天皇は一番幕府のことがスキ(?)というか、政治は幕府がやるものと思っていました

親幕派だったのです

結果、岩倉具視と仲間の公卿は孝明天皇により「徒党を組んで悪い計画を企んだ」という罪により、謹慎処分となってしまいました

岩倉具視の案は裏目に出てしまったのです

が!!!その親幕派の孝明天皇がとんでもないことになってしまうのです
12月5日 最後の将軍 15代慶喜
将軍にはならないとはいっても、なれる人が慶喜しかいないのでならざるを得ない慶喜

黙っていても将軍になれるのは自分しかいないんだから、自らせがんで将軍職を貰う必要がない。それより一度辞退して、周りから「頼むから将軍になってください」と熱望されるまで待っていました

このあたりの慶喜の性格をよーーーく知っている松平春嶽は「ことわざにいう(ねじあげの酒飲み)ってヤツだよ」と苦笑い

意味は自分からは積極的に飲まないが、人から勧められて本当は嬉しいクセにしかたなーく飲むというものです

こうして、慶喜は充分ねじあげられてから15代将軍になったのです

ちなみに慶喜は、後年この時のことを回想記でこのように語ってます

「自分は徳川家しか相続しないというのに、無理やり将軍職を相続させられた。この時オレは、家康殿は日本のために幕府を開いたけど、このオレは日本のために幕府を葬ろうと思ったんだ」と言ってます

かなりのキレイ事ですね

まず、徳川本家を継ぎながら将軍にはならないというのはあり得ないし、本当に幕府を葬る気があったというのならば、この後の激しい闘争はおかしくなっちゃいます


慶喜が目指した幕府
15代将軍となった慶喜は、「実力のある将軍」になろうとしていました

はっきりいって今までの将軍は形だけで実力がなかった

ここらで権威を高めないと、幕府に立ち向かってくる国内勢力や外国勢力には勝てない

が、現実はそんなに甘くなかった

「実力のある将軍」になりたくっても、それを支えてくれる勢力がない

ではどうする?

ここで慶喜は「日本の中に幕府を応援してくれる強い勢力がないんだったら、外国だろう」と考えたのです
慶喜 「ど・こ・に・し・よ・う・か・な」
外国に頼ることに決めた慶喜は、どこに話しを持っていくか考えました

まず、このドタバタはアメリカのペリーが来たことによってだし、最初に正式な交渉を持ったのはアメリカなので「アメリカか?」と思いきや、この頃のアメリカは南北戦争が始まってしまい、日本と交渉している余裕がなくなっていました

さらにロシアも、トルコ・イギリス・フランス・サルジニアという連合軍を相手にクリミア戦争を始めちゃってたので、アメリカ同様日本とノンキに交渉している場合ではなかった

残るはオランダ・フランス・イギリス

が、オランダはこの頃になるとたいした勢力じゃなくなっていました

さらにイギリスは薩英戦争によって、幕府にとって敵勢力である薩摩藩となにやら仲良くやっちゃってる

となると、残るはフランスとなっていたのです
フランスの事情
実はフランスも日本と交渉したいと思っていました

というのも、フランスでは産業革命がものすごい勢いで進んでいて、資源が欲しかった

さらにフランスでは蚕の病気が大流行し、蚕市場は大打撃を受けてました

とにかくどっかの国から生糸を輸入したかったのです

そこでフランスは、アジア市場に目をつけてたんだけど、アジア市場で未来のある日本と仲良くなりたかったのです

が、先に日本に目をつけたのはイギリスだったので、(イギリスと薩摩藩はかなり貿易しまくっていました)フランスはイギリスに出遅れた形となっていたのです

そんなフランスに、なんと日本の政治の中心である幕府から「仲良くなりませんか?」という話しがやってきたので、もー大喜びだったのでした
薩摩・長州 焦りまくる!
幕府とフランスがお互いの利益のために急接近しはじめました

イギリス側は公使としてレオン・ロッシュを派遣し「フランスは幕府の味方をしましょう。慶喜から申し出があれば軍事レクチャーでも何でもやってあげちゃいますよ」

ということで、慶喜はフランスと仲良くすることによって幕府の権威回復を目指しました

これに焦ったのは薩摩と長州

幕府の権威が回復しちゃったら倒幕できなくなってしまう

そこで、何とか幕府を失敗させなければ!と考え出すのでした

慶喜 外国公使謁見の儀を計画
慶喜は幕府権威回復の手始めとして「外国公使謁見の儀」を計画

これはフランスが「外国人の公使と正式に会見することで、諸外国に日本の代表は慶喜、つまりは幕府ですよというのを示したらどうですか?」とアドバイスしたから

慶喜は「それはグッドアイディア!」と、さっそく執り行うことに

これを聞いて焦ったのが薩摩と長州

「そんなことさせたらヤバイじゃねーか!なんとかなんないだろうか・・・」と考え出したのが、薩摩と仲良しのイギリス公使パークスに「兵庫開港問題」を言わせて謁見の儀を中止させようというものだったのです
兵庫開港問題とは?
幕府はペリーがやってきた時に、鎖国をやめて開港をする約束をしました

開港を約束した港は5つで、横浜・函館(箱館)・長崎・新潟・神戸です

が、実は神戸は京都に近いということもあり、いつまでたっても朝廷から「OK」を貰えていなかったのです

困った幕府は、諸外国に「神戸の開港はもうちょっと待ってて」と延期をお願いしていました

その期限が来年(1867年)の12月となっていたのです

薩長側は、そこをパークスにお願い

神戸の開港を約束しなければ「謁見の儀」に出席しないと言わさせたのです

これには慶喜も困ってしまいました

とてもじゃないけど、朝廷からOKなんてもらえない

かといって大国のイギリス公使が出席してくれなければ「謁見の儀」の意味がなくなってしまう

慶喜はどーしようかな・・・と悩むのでした
12月25日 孝明天皇39歳で突然死!
この日、一番の幕府の理解者(?)の孝明天皇が死んでしまいました

死因は天然痘

わずか半年の間に幕府と朝廷のボスが立て続けに病死してしまったのです

ところで、この孝明天皇の死はめちゃくちゃ不自然なものでした

天皇側近の中山忠能の日記によると

12月11日 天皇はちょっと風邪気味でしたが神楽に出席した お風呂にも入って元気な様子

12日 お風呂がいけなかったのかちょっと発熱

14日 手と顔に発疹が出始めた。軽いけど疱瘡かも。

15日 吹き出物が現れ、あせものように全身に広がり始めた。高熱となり疱瘡じゃないかと大騒ぎ

19日 治りかけてきた。食欲も出てきた

24日 食欲が出てくる。便も3回。だけど夜になってちょっと熱が出てきた。食事を吐くように

25日 吐き気がすごい!お医者さんは大慌てで手当てをしたけど、脈がどんどん弱まっていった。とうとう午後11時に永眠

この日記を見ると、回復に向かっていたというのに24日に突然悪化。しかも吐き気つき。治り始めている疱瘡の病状ではないのです
孝明天皇は殺された!?
孝明天皇の不自然な死は誰かが毒を盛ったと言われています

その噂は当時からあったそうで、アーネストサトウは「噂では天然痘で死んだということになってるけど、数年後とある日本人がワタシに毒殺だと教えてくれた。外国人嫌いの孝明天皇がいることによって、日本の行く先は危ないと思ったのであろうというのだ。しかも前将軍・家茂も毒殺だという噂も流れた」

また、一番怪しいのは「岩倉具視」とも言われています

これは後ほどわかりますが、孝明天皇の後を継いだのは15歳の明治天皇

子供なので、岩倉具視がいいように操れる天皇だったのです・・・。
慶喜 謁見の儀を延期!
慶喜は悩んでいた「謁見の儀」を孝明天皇の死によって延期することにしました

そして「すぐ朝廷に神戸を開港するよう許可もらうから」と連絡

が、当然朝廷は「そんなもんこのクソ忙しい時に出せるか!」と却下

すると慶喜は「はいはい。わかりましたよ。じゃあパークスさん、朝廷からOKもらえなかったけど、この際神戸は開港しますよ。約束します」とパークスに連絡

困ったのは薩長&パークス

「おいおい、ほんとかよ!?じゃあ出席せざるを得ないじゃねーか!」と、またまた困ってしまったのでした