幕末その15 慶応4年4月江戸開城まで

1月2日 幕府軍 大阪を出る
1月3日 鳥羽伏見戦争(戊辰戦争)開始
鳥羽伏見の戦い 激しい抗争!
このとき、新撰組は!?
激戦の結果
1月4日 幕府軍総崩れ
秘密兵器登場!!
さらにショック!!!淀城の裏切り
1月5日 慶喜 出馬準備にとりかかる
容保ビックリ!!「な・・・なに言ってるんですか??」
1月6日 慶喜 なんと大阪城を脱出する!!!
慶喜 開陽丸へ乗り込む
愛妾・およしと船中の様子
慶喜の影の軍団・新門辰五郎
将軍がいない!!大阪城騒然
榎本武揚ムカムカ
1月7日 慶喜追討令が出る
オロオロの山内容堂
1月11日 勝海舟 ポカーーン・・・
幕臣・小栗忠順を中心とした主戦派
1月15日 慶喜決断!小栗をリストラする
勝海舟 表舞台へ 松平ブラザーズもクビ!
この時 大奥は!?
慶喜 和宮へお願いする
西郷隆盛 嘆願書を鼻で笑う
西郷&大久保の考え
赤報隊結成
赤報隊 大喜び
赤報隊一番隊 どんどん進軍
2月12日 慶喜 寛永寺に謹慎する
助っ人 山岡鉄舟
2月23日 彰義隊結成!
勝海舟 きりきり舞い
彰義隊 江戸っ子に大人気
赤報隊 ニセ官軍となる
3月1日 近藤勇 甲陽鎮撫隊を率いて江戸を出発
3月3日 相楽総三ら偽官軍の罪で処刑
3月5日 甲州勝沼の戦い
3月9日 駿府で西郷隆盛と山岡鉄舟が会見
事実上幕府トップの勝海舟
海舟の仕掛けた罠
フランス・イギリス 幕府の為に動く
3月14日 世紀の会談!!勝海舟・西郷隆盛の会見
江戸城総攻撃中止
五ヶ条の誓文(せいぶん)と高札
3月15日 川路聖謨自殺する
幕末をみた外国人 パークス
幕末をみた外国人 ロッシュ
幕末をみた外国人 アーネスト・サトウ
幕末をみた外国人 グラバー
彰義隊の状況
4月6日 小栗忠順斬首!
4月11日 明け方 慶喜水戸へ向かう
江戸無血開城
ドキドキの勝海舟



幕末の嵐その15 慶応4年江戸開城まで
1月2日 幕府軍 大阪を出る
江戸で燃え上がった火の粉は京都・大阪へ飛び火しました

幕府はついに討薩表を掲げ、行動を起こすこととなったのです

この日、老中である大河内正質(おおこうちまさただ)が総督・そして若年寄である塚原昌義が副総督となり、大阪を出発しました

そして夕方、淀に到着した幕府軍は、老中稲葉正邦の居城である淀城を本拠地とし、ここから全軍を二つに分けることに

先鋒は会津藩ということになり、会津藩は伏見街道を

そして桑名藩を先鋒としたもうひとつのチームが鳥羽街道を進軍することに

この両方面から進軍し、3日には京都へ入るという作戦になったのです

この情報を聞いた京都にいる討幕派は動揺しました

薩摩・長州藩あわせて3000人ほどしかいなかったからです

対する幕府軍は16000人

とにかく鳥羽・伏見口に土佐藩を合わせた兵が幕府軍を待ち構えることとなったのです

1月3日 鳥羽伏見戦争(戊辰戦争)開始
五時ごろ、鳥羽街道を進んできた幕府軍が現れました

幕府軍は「勅令で入京いたす」というと、薩長軍は「いや、待て」と押し問答

すると突然、薩摩藩兵が発砲したのです

その音は伏見口まで聞こえました

こうして伏見口で待ち構えていた薩摩藩兵も発砲

とうとう鳥羽伏見の戦いの火蓋が切られたのです

鳥羽伏見の戦い 激しい抗争!
薩長は鉄砲を数多く使用していました

至近距離からの発砲により、幕府軍はものすごい被害がでてしまいました

それでも京都見廻組は刀を手に何度も突撃

夜になってからも両軍の間で激しい戦闘が繰り広げられました

会津藩の大砲奉行・林権助(はやしごんすけ)もただちに大砲で応戦!

が、砲撃なんぞめんどくさい!とばかり、刀で突撃する人が多数出てしまい、バンバンと銃で撃たれてしまっていました

このとき、新撰組は!?

新撰組は怪我をした近藤勇に代わって、土方歳三が兵を率いていました

伏見奉行所に駐屯していた新撰組は150人ほどでした

そこへ新政府軍がやってきたのです

永倉新八らは、敵陣深くへ斬りこみましたが失敗

もはや刀や槍で立ち向かう新撰組は、新政府軍の敵ではなかったのです

新政府軍は銃でガンガン戦ってきました

とうとう新撰組は退却することとなったのです

この戦いで、新撰組の井上源三郎が死んでしまいました

こうして新撰組は江戸へ戻っていきました

このとき、隊士は40名に減ってしまいました

新撰組は脱退は死刑に値しますが、さすがの土方もこの状況で脱走者を死刑にしていくわけにはいかなかったのです


激戦の結果

薩摩兵は洋服を着用し、新しい銃を持っていた

会津藩の兵や新撰組は、身動きできないほどの思い鎧に、陣羽織といった昔ながらの軍装
しかも武器は槍や刀

勝敗は目に見えていました

会津藩の林権助は炎で顔を焼かれ、全身大やけどをおおいながらも、それでも退かずに指揮をしていました
それを見かねた家臣たちが強引に背負って退却
ちなみに林権助の息子は、新撰組とともに戦い、もはやこれまでと悟ると自分の喉に刀を突き刺して死んでしまいました

この戦いで、新撰組の土方歳三は「もはや戦は剣や槍ではない・・・」と痛感したのでした

こうして夜半すぎには新政府軍が優勢となり、幕府軍は淀城に向けて敗走していったのでした

1月4日 幕府軍総崩れ

翌朝、幕府軍は再び鳥羽伏見に進軍しました

が、新政府軍に撃破されたちまち敗走

鳥羽方面にいた会津藩は優勢を保っていったものの、伏見での幕府軍敗走ののちに駆けつけてきた援軍により後退することとなってしまったのです


秘密兵器登場!!

その時でした!!

なんと、薩長軍が「錦の御旗」をかかげてきたのです

錦の御旗とは天皇家の旗のこと

つまりは、幕府軍は朝廷の敵となってしまったのです

そして薩長ら新政府軍は「官軍(天皇の軍)」に!

これには幕府軍大ショック!!!

天皇の敵になるなんて思っても見なかった

こうして幕府軍は精神的にも大きなダメージを受け、敗走することとなったのです

ちなみにこの錦の御旗作戦を考えたのは岩倉具視&その腹心の玉松操

玉松操がデザインして、あらかじめ薩摩藩邸に隠していたのでした

さらに官軍の進軍マーチとなったのが「トコトンヤレ節」

♪宮さん 宮さん お前の前に ひらひらするのはなんじゃいな

トコトンヤレ トンヤレナ ♪

あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ 知らないか トコトンヤレ トンヤレナ♪

この歌は品川弥二郎が作詞し、大村益次郎が作曲したといわれています(勤王芸者・中西君尾説もあり)



さらにショック!!!淀城の裏切り

敗走してきた幕府軍は、淀城へ逃げてきました

すると!!!なんと老中・稲葉正邦の淀藩が入城を拒否したのです

現在の幕府老中の入城拒否・・・これは痛かった

淀藩ってのは、春日局以来の徳川方。これには皆大ショック!!

もはや幕府軍はボロボロに

それでも、入城を拒否された幕府軍は起死回生の決戦を挑もうとしました

そこへ砲撃してきたのは、味方だったはずの津藩藤堂藩兵・・・・

淀藩に続き、津藩の裏切り・・・・

戦意喪失した幕府軍は、大阪城へ逃げてきたのでした


1月5日 慶喜 出馬準備にとりかかる

さて、将軍慶喜はというと、このときは一度も戦線に出ず大阪城にいました

幕府軍大敗!のニュースが伝わり、会津藩兵が将軍の攻撃出動を要請してきました

慶喜は「よしわかた!皆のもの、一騎になっても戦え!大阪城が破れたとしても江戸城がある!江戸城が敗れたとしても水戸城がある!」と皆を励ましました

そして「これよりただちに皆々出陣の用意をするべし!!!」と号令

将軍出馬!!!のニュースに大阪城の幕府兵は狂喜しました

そして早速戦闘準備にとりかかったのです

ここ大阪城には、会津藩の本隊も残っていたし、幕府の歩兵も無傷で2万人以上が残っている
鳥羽伏見で戦っていたのは、新撰組や京都見廻り組・会津藩の一部の先方部隊だけ

この大部隊が戦闘準備をし、反撃すれば、薩長土の三藩なんぞに負けるはずもない
まして将軍自らが出馬し、陣頭にたって采配を振るうのです

幕府兵は感激に震えました

勝機はまだ幕府にあり!!


容保ビックリ!!「な・・・なに言ってるんですか??」

夜十時ごろ、松平容保が慶喜に呼ばれました

何事かと思い、慶喜の所に向かった容保

そこで信じられない言葉を聞いたのです

「江戸城へ帰るぞ」

容保は耳を疑いました

大阪城にいる2万人以上もの兵士を見捨てて、江戸へ戻る・・・・そんなことありえないからです

しかも手付かずの兵ばかりで、勝てる戦でもあります
それらを捨てて、将軍が江戸へ戻るなんて、考えられない発言

が、慶喜は本気でした

容保は、無理やり一緒についていかされてしまったのです

1月6日 慶喜 なんと大阪城を脱出する!!!

夜半、大阪城の裏門から暗闇に紛れて城外へ出ようとする人影が

不審に思った門番が「何者か!!」と聞くと、「御小姓の交代である」という返事が返ってきました

そして十名ほどの小姓たちが外へ出て行くのを「ご苦労さん」と、見送ったのです

そしてこの十名ほどが、大阪城を脱出し、江戸へ逃げ帰ろうとする将軍一行なのでした

このときのメンバーは

将軍・慶喜・松平容保・容保の弟松平定敬・老中板倉勝静などなどの、幕府のお偉いさんたちであります

開陽丸へ乗り込む

慶喜たちは、小船にのって淀川を下り、榎本武揚を船将とした開陽丸へ乗り込みました

慶喜はただちに出向するようにいいましたが、副船長の沢太郎左衛門が「船将の許可がなければ出せません」と拒否

すると慶喜が「将軍であるワシが命令しておるのだ!」とブチキレ!

これには沢太郎左衛門もビックリ!

榎本武揚を大阪におきざりにして、江戸へ出向したのでした


愛妾・およしと船中の様子

幕末その10でもちょこっと紹介しましたが、この時、慶喜は船に女性を同伴させました

それが江戸町火消しの親分・新門辰五郎の娘およし

慶喜は重要書類や十八万両もの大金、さらには将軍のシンボルである大金扇の馬印を置いてきちゃったのに、およしだけは連れてきちゃいました

これは波紋を呼びまくり

武士として大事なものを置き去りにして、女を連れてくるとは・・・と、ブーイング

およしを乗せた小船が近づいた時、開陽丸の兵が「われわれは主君を守る為に船に乗っているのだ!お手つき女中だといえ許せん!」激怒

それでも何とか乗らせてもらいましたが、船旅の途中に慶喜に怒りの忠告をして自刃した人まで出てしまいました

また、この船旅はあまりにも急だったためてんやわんや

まず食料をあまり積んでおらず、皆おなかが減りまくり

また、ちり紙なんかもなかったんで、みんな大変

さらにおなかが空いてるってのに、大シケにあいボロボロ

こうして江戸に着く頃は心身ともに疲れきっていたのでした

慶喜の影の軍団・新門辰五郎

さて、大事な馬印まで置いてきてしまった慶喜

さすがに「将軍のシンボル」を忘れ、薩長軍に取られちゃったら慶喜の面目は丸つぶれ

馬印を忘れたことに気がついた辰五郎は、すぐさま馬印を取りに行き、仲間二十人と一気に東海道を走りぬけ、無事に江戸まで届けたのであります

辰五郎には粋でイナセな江戸っ子の匂いがプンプンします

以後もちょこちょこと粋な活躍しております


将軍がいない!!大阪城騒然

大阪城では、なにやらおかしな雰囲気に包まれておりました

何人かの家臣たちが松平容保や将軍に面会の取次ぎをしても、お坊主はお取次ぎできないの一点張り

仕方なく数名が御用部屋にたむろしていました

御用部屋というのは、幕府のお偉いさんが仕事をする場所で、普通なら入れない場所

そこに本日は身分の差関係なく殺気立った空気でたむろしているのです

どのように出陣するかなどの対策が練られていたのでした

その中に神保修理(じんぼしゅり)という、松平容保の側近中の側近もおりました

そんな修理のもとに、「将軍が逃げた」という情報が

修理の顔に驚愕の色が走りました

その瞬間、将軍慶喜が大阪城脱出が判明し、騒然となったのであります

榎本武揚ムカムカ

将軍が逃げたことを知らない人たちの中に、開陽丸の船将・榎本武揚もいました

武揚は生粋の江戸っ子であります
優秀だったため、幕府派遣の留学生としてオランダへ行き、船や砲術のことなどを学びました
そして、当時における世界的な最新艦「開陽丸」をオランダで作り、それに乗って帰国してきた人であります

武揚は鳥羽伏見の戦いがヤバイことを知ると、ただちにやってきて海軍での作戦を幕府に伝えるべく大阪にやってきたのでした

ところが、なんと肝心の将軍が大阪城から逃げたということを聞いてビックリ!!

散らかされた部屋の様子をみると
「このまま将軍の身の回りの品を置いておいたら徳川家に仕えるものの恥となる!!めぼしいほのだけでも軍艦に積んで江戸へ運ぼう!」と言ったのでした

が、自分の愛する開陽丸を将軍が乗っていったと聞いてさらにビックリ!

仕方なく十八万両のお金を停泊中の富士山艦に載せて江戸へ持ち帰ったのでありました


1月7日 慶喜追討令が出る

慶喜が大阪を出た次の日、すでに朝廷から慶喜追討令が発せられ、慶喜は「朝敵」と呼ばれる身になってしまいました

そして関東征伐の軍制も明らかに

親征大総督は有栖川熾仁(ありすがわたるひと)
元、和宮の婚約者であります

東海・東山・北陸から進軍し、二月中に地方を征圧し、一気に江戸城を攻撃するという作戦でした

参加する藩は、紀州・加賀を筆頭とした55藩でした

オロオロの山内容堂

土佐の山内容堂はというと、いつのまにか岩倉具視らに「朝敵」に仕立て上げられていく慶喜が気の毒になってきました

そして岩倉具視に文句を言ったのです

すると返事は「ふぅん。では、慶喜を助けたいならすぐさま大阪をたって幕府軍に参加すればいいんじゃないの?」と、アッサリ

容堂は、逆らえば土佐藩もヤバイと感じました

以後容堂は、土佐藩の実権を東海道の先鋒役になった板垣退助にお任せすることとなったのでした


1月11日 勝海舟 ポカーーン・・・

江戸城はこの日、騒然となりました

そりゃもちろん、大阪城にいるはずの慶喜が落ち武者のように帰ってきたからです

江戸城にいた人たちはビックリ!!

慶喜一行は出迎えにきた勝海舟に鳥羽伏見での戦いのことや、大阪城を逃げてきたコトを話しました

勝海舟は多くの兵を置き去りに逃げてきた慶喜に情けなくなっちゃいました
で、「だからいわんこっちゃねぇだろ!!!」と、思わず怒鳴っちゃいました

どっちかというと穏健派な勝海舟がココまでブチきれるくらいだから、血気盛んな家臣たちはもっと激怒!!

江戸城は大阪城と違って、将軍のお膝元だけあって主戦派だらけだったのです

その中心となったのが小栗忠順でした

幕臣・小栗忠順を中心とした主戦派

小栗忠順は幕府の中では勝海舟と並ぶくらいの切れ者でした

もともと徳川家と祖先が同じという小栗家は、プライドもめちゃくちゃ高かった
14歳でタバコを吸い、大人に混じって堂々と話しをできるくらい頭脳明晰でした

フランスのロッシュからは「大蔵大臣」と呼ばれていたほど経済にも強かった

そんな小栗らは、慶喜が突然帰ってきて、鳥羽伏見でのボロ負けを知り、たちまち抗戦か和戦かの議論で騒然となりました

小栗忠順をはじめ、榎本武揚・大鳥圭介らは絶対に戦う!!!という意見でした

小栗は「フランスから軍費と軍艦を借りて、薩長勢力をめちゃめちゃにしよう!」とまで言うほど

さらに「陸軍・海軍ともに、幕府は薩長よりも大きな戦力を持ってます!決して負けることはありません!!」と、慶喜や他の重要家臣らに抗戦するよう言ったのでした

この小栗は、無教養な頑固者ではありません

ワシントンに使節として行っていた時に桜田門外の変などのニュースを聞くと、「なんて馬鹿げたことを!!今日本人同士が戦ってどうするんだ!今は一時も早く外国の文化に追いつく為に皆で助け合っていかなければならないのに」と言っていたほど

そんな小栗がなんで主戦派の中心に?というと・・・

小栗は、将軍が大政奉還したからには、薩長らも慶喜に協力してくれると思っていた
ところが、薩長は徳川が嫌いで、あくまでも徳川を潰したかった
朝廷とつるみ、将軍家を潰したいというその考えにガマンの限界がきたのであります

というわけで、この小栗の強固な主戦論に賛成する人が続々現れました

松平容保・定敬兄弟や、老中の小笠原名行(ながみち)・大鳥圭介・榎本武揚も賛成しはじめたので、一般の旗本や御家人なんかも刀の手入れを始める人が現れ、抗戦へと突き進んでいく・・・・・かと思われたのです


ちなみに慶喜は??というと、だんまりを決め込んでました
そんな慶喜に小栗はつかつかと歩み寄り、なぜ正義の一戦をしないのか!!!と叫ぶほどでした


1月15日 慶喜決断!小栗をリストラする

小栗はいつまでも「ウン」といわない慶喜にイライラ
今日こそ「ウン」と言わせ、決戦に持ち込んでやる!と登城してきました

が、慶喜は小栗に「クビ」を言い渡したのです

この小栗のクビに裏で活躍したのは勝海舟でした

実は慶喜は勝海舟に腹の中を話してました
「自分の本心は、朝廷に対して逆らいたくない。朝敵になりたくない」と

これに勝海舟も納得したのであります

が、慶喜の腹のうちを公表したら主戦派が大変なことになる

ということで、主戦派の中心人物である小栗をクビにしたのであります

小栗をはじめとし、江戸城からは主戦派の人間がどんどん追放されていきました


クビになった小栗は、江戸を去るとき、のちの彰義隊の頭取となる渋沢成一郎にこういいました
「今、主君は恭順しようとしている。江戸はよそ者になろうとしている。もう仕方がない。こんな状態じゃ戦ってもまず無理だろう。が、勝者側は勲功を争って内輪もめするであろう。その時、また天下に激をとばせば、また違う方向になるかもしれない」と


余談ですが、この頃に小栗が言っていた作戦は実行されませんでしたが、後にこの作戦を聞いた大村益次郎が「小栗の案が採用されていたら、私たちの首はなくなっていたかもしれません」と語ったといいます

勝海舟 表舞台へ 松平ブラザーズもクビ!

小栗をクビにしたと同時に、慶喜は自分の意思は「朝廷へ反抗したくない」と発表しました

で、抗戦論を退け、この事態の収拾を勝海舟におまかせすることになったのです

そして松平容保ブラザーズも追放されちゃいました

ここでざっと、容保の状況について説明しましょう

容保は、なりたくないのに京都守護職に任命されました
側近の西郷頼母が絶対やめたほうがいい!!という忠告を退け、藩の財政を犠牲にしてまで将軍のために京都へ
新撰組などを雇い、ひたすら幕府の最前線を守り、鳥羽伏見の戦いでも会津藩は先鋒とした戦い続けました
そして、大阪城で戦うぞ!!って時に、慶喜に無理やり江戸に連れてこられ、でもって今度は慶喜は朝廷と戦いたくないから容保がいるとめんどくさいってんで、追放
まさに使い捨て状態
悲惨としかいいようがありません

このおかげで、容保のいる会津藩は、ほんっとに大変なことになってしまいます

こうして容保兄弟は、戦いで傷ついた兵たちをまとめ帰っていったのです
お供は十六名・・・・寂しい帰路となりました


この時 大奥は!?

さて、戻ってきた慶喜を見る大奥の目はめちゃくちゃ冷たかった

大奥での慶喜の評判は最悪だったし、武士の棟梁ともあろうものがおめおめと敵前逃亡してきたってことだけでもブーイング

さらに大奥にいた十四代将軍の正室・和宮は、慶喜のことが大嫌いだった

和宮のダンナ・家茂は京都で死んでしまい、代わって慶喜が将軍になったわけですが、このとき慶喜は先代将軍の未亡人である和宮をはじめ、大奥にはなーんの挨拶も相談もしなかった

和宮にしてみれば、夫亡き後、幕府を勝手にいじくりまわしている男としか思えない

さらに慶喜は、大奥の予算を思いっきり減らし、さにらさらに和宮は何度も慶喜に攘夷はどうなってるの?て手紙を書いてたんだけど、一切返事を書かなかった

そしてトドメは大奥に相談もなく、勝手に大政奉還

ということで、大奥は慶喜がだーーーいきらいだったのです

慶喜が大阪から江戸へ戻ってきた時も、誰一人慶喜の布団をひいてあげませんでした

慶喜は一人寂しく布団にくるまっていたそうです

いつの時代も女を味方につけていないと、大変なんですねぇ


慶喜 和宮へお願いする

慶喜は、今回は大奥を無視することはできませんでした

なぜなら、和宮は孝明天皇の妹だからです

慶喜は状況が状況なだけに、なんとかして和宮に味方になってもらい、幕府と朝廷のパイプ役になってほしかった

ということで、慶喜は和宮へ面会を申し込みました

が、和宮の返事は「会いたくない。なぜって?あんたが帰ってきた時に着用してたフランスの軍服姿が気に入らないからよ」という、わけわからん理由

が、慶喜はイジメに耐えた!!

将軍でありながらひたすらひたすら平身低頭し、なんとか面会にこぎつけたのであります

慶喜は必死で和宮に弁解&説得をしました

話しを聞いているうちに和宮はだんだん慶喜に協力してあげてもいいと思うように

よくよく考えると、今は慶喜をイジメている場合じゃない

新政府軍(薩長)が江戸を攻撃してくれば自分たちの命も危ない

ということで、大奥は慶喜に協力してあげることにしたのでした

西郷隆盛 嘆願書を鼻で笑う

和宮は朝廷に「慶喜が引退します。だけど徳川家は存続させてほしい。江戸城攻撃を中止するなら一命をなげうっても構いません」という手紙を書きました

が、この嘆願書はほとんど効果がなかったのです

それもそのはず

いまや朝廷を仕切ってるのは皇族ではなく、薩長の人たち

主に西郷隆盛でありました

西郷隆盛はこの嘆願書を鼻で笑っただけだったのでした

この時の西郷隆盛は、何が何でも慶喜を殺して幕府を潰してやる!!としか考えていなかったのであります

さてさて、全く効果のなかった和宮の嘆願書でしたが、慶喜はこのことでかなり感謝したようでした

後の話になりますが、和宮が死んだ後も、慶喜は命日には必ず和宮の墓参りをしたとのことです

ちなみに、和宮の嘆願書をみた岩倉具視は、さすがにワーワー騒ぎ立てたようですよ



西郷&大久保の考え

慶喜の処遇を軽くするように和宮をはじめいろーーーーんな人が朝廷へお願いしました

尾張の徳川慶勝や、越前の松平春獄らも徳川家の存続と、慶喜の穏便な処罰をお願いしまくり

肝心の西郷隆盛はというと

「何を馬鹿いっとんじゃ?慶喜は切腹にきまっとろうが!!和宮まで賊の一味になってしまったんか!」

大久保利通はというと

「まったくあほらしい。朝敵となった慶喜を謝罪だけですませるわけなかろうが。バカの極みである!!」

まぁ要するに、二人とも慶喜を生かしておくなんてとんでもない!!というものでした

二人の場合は、苦労して倒幕のきっかけを作り、ようやく江戸を攻めるというとこまでこぎつけたってのに、いまさら慶喜を生かすなんてできるか!!とうもの

反対に、徳川チームの小栗忠順や榎本武揚からすれば、「ふざけるな!卑怯な手を使って将軍を朝敵にしたてあげ、幕府をこんなめちゃくちゃにするとは!」というものなんですけどね


赤報隊結成

さて、以前西郷隆盛に頼まれて江戸をめちゃくちゃにした相楽総三

西郷隆盛は、相楽に「相楽君!君らが江戸で体を張って活躍してくれたおかげで、いまや勝利はわがほうにある!幕府が終わる日も近い」と、労をねぎらいました

そして「実はご苦労ついでにもう一仕事していただきたい。実は綾小路俊見・滋野井公寿が京都を脱走し、幕府攻めの先鋒隊を結成することになっている。君たち浪士隊もそれに加わってもらえないか」

もちろん相楽は喜んで!と答え、江戸以来の浪士隊を率いて江州坂本へ向かいました

そして隊は三つに分けられ、一番隊長に相楽総三 二番隊長に鈴木三樹三郎 三番隊長に油川錬三郎とし、隊の名前を「赤報隊(せきほうたい)」と命名したのでした

相楽率いる一番隊は、江戸以来の浪士であり、二番・三番隊は京都派の志士を中心とした隊でした

相楽らは「二番・三番隊に負けぬ動きをしよう!」と意気揚々でした

ということで、相楽らは京都新政府に対し、関東への出兵をしたい。新政府として税金を減らすことを約束することによって人の心をこちら側に向けたい。この許可と、赤報隊を官軍と認める許可と東制先鋒の許可を願いたい

といった内容を、京都新政府に提出したのであります

それに対して新政府は「赤報隊が官軍というのを許可する。年貢半減を人々に伝えることも許可する。関東へ進軍する時は先鋒になっていい。それまで兵力や米を蓄えなさい。そして東海道鎮撫使の指揮下に置きます」というものでした

赤報隊 大喜び

相楽らは大喜びでした

江戸にいた時は薩摩御用党とか、薩摩強盗など、悪口ばかり言われていた
それが今度は官軍先鋒として再び江戸へ行くことが出来るのであります

が、いつまでたっても「先鋒として出発していいよ」という許可がおりてこない

相楽はいてもたってもいられなかった

東山道はいまだに新政府に反発する動きがあり、激しい抵抗が予想されていました

赤報隊が活躍するには、すぐさま出発するしかない!と、相楽らは命令を待たずに東山道を出発していったのであります

ところが進軍しているうちに、「命令を無視して出発した」ということで、引き返してきなさいという命令が

綾小路らは「戻ろう」ということになりましたが、相楽は命令をはねのけました

「われわれ一番隊だけでも進軍する!これで江戸以来の同志だけとなったわい!そのほうがせいせいする」と笑いました

こうして赤報隊一番隊は、隊長の判断により、東山道を進軍していったのです

赤報隊一番隊 どんどん進軍

相楽らは、進軍途中にあいまいな態度の藩に対して「徳川の世は終わった。これからは天朝の世である!早く藩論を決定しろ!そして天朝の世になれば年貢半減になるんだぞ」と言い、進んでいきました

高札で年貢半分というのを知った農民たちは半信半疑

が、「われわれは官軍であるぞ!官軍が嘘をつくわけないだろう!」と、自信満々

そして信州に入りました

信州は徳川に世話になった藩ばかりでしたが、赤報隊の掲げる「官軍先鋒」の旗印に恐れをなし、みんな無抵抗で勤王を誓ったのです

赤報隊はどんどん進んでいきました

が、相楽らが意気揚々と進軍している間に、政局も急変していたのでありました


2月12日 慶喜 寛永寺に謹慎する

そんなこんなで、西郷隆盛らは「慶喜の首を討つ!」という気持ちに変わりはありませんでした

慶喜は、江戸城にいるかぎり、籠城をしているんじゃないか?という誤解を招く・・・ということで、とりあえず「朝廷と戦う気持ちはありません」ということを示すために、江戸城を出て上野寛永寺へ謹慎することにしました

この慶喜を警護していたのが、影の功労者となる山岡鉄舟であります

さてさて、そうこうしている間に、官軍は進軍マーチ「トコトンヤレ節」を歌いつつ、どんどん江戸へ近づいてきておりました

助っ人 山岡鉄舟

山岡鉄舟は、江戸生まれで、幼い頃から武術に異常なほどの才能を持っていた男でした

清河八郎が結成した浪士隊にいたんだけど、ほぼ脇役

ほとんど今まで表舞台には出てませんでした

そんな鉄舟は思い込んだら命がけの剛直の武士でありました

慶喜が寛永寺に謹慎している時、ずっと護衛をしていましたが、なぜ慶喜の気持ちが新政府に伝わらないのか不思議でしょうがなかった

ということで鉄舟は、謹慎している慶喜に代わって新政府側に慶喜の気持ちを伝えよう!と考えたのでした

方法は、薩長側の捕虜である益満休之助(ますみつきゅうのすけ)を送り込み、西郷と会見しようというもの

この益満という男は西郷の腹心で、薩摩藩邸焼き討ち事件の時に逃げ遅れて捕虜になってた人であります

ということで、無謀だー!という周りの意見を押さえ込み、鉄舟は動き出したのでした

2月23日 彰義隊結成!

慶喜が謹慎・・・・

それを不満に思っている幕臣達が沢山いました

不満を持った幕臣達が上野に集まりだしたのです

名目は「主君である慶喜の生命を全うさせ、名誉を挽回させる。そして幕府の権威を取り戻すこと」でした

中心人物となったのが渋沢成一郎(渋沢栄一のイトコ)・天野八郎らです

徳川家の恩顧に報いようと密かに会合を持っていた彼らでしたが、会を重ねるたびに人数が増えてきました

そして隊の名前を「彰義隊」ときめ、頭取が渋沢成一郎 副頭取が天野八郎と決定したのです

ちなみに渋沢は幕臣の中でも一ツ橋家にゆかりのある家で、慶喜の為に!!と思っていました

が、会合を重ねていく内に「薩摩のイモ侍に江戸を好き勝手させてたまるか!」という好戦的な人たちも増えてきたのでした

勝海舟 きりきり舞い

この頃の江戸では、徒党を組む集団は彰義隊だけではありませんでした

幕臣たちや火消しなど、色んな人たちがグループを作っておりました

勝海舟は何とか穏便に済ませようと思ってるのに、このような不穏な武装集団にウロウロされては困る!と頭を抱えていました

恭順の意を示さなくちゃいけないってのに、いつ暴発するかわかんない集団がいるのは困ってしまうのです

しかも彼らは徳川の為を思ってるだけに始末が悪かった

単なる悪集団として処罰するわけにはいかないのであります

そんな中でも彰義隊はうまかった

自分たちが名門一ツ橋家の者であるということをアピールし、幕府内のおエライさんに取り入って見事徳川家公認になることに成功したのであります


彰義隊 江戸っ子に大人気

幕府公認となった彰義隊は、慶喜の警護を名目に上野に拠点を置いて市中取締りをすることになりました

彰義隊は夜になると「彰」と書いてる赤い提灯をぶら下げて歩き、新政府軍の兵をみればケンカをふっかけた

江戸市民は、新政府軍を「イモサムライ」と馬鹿にしており、こんなヤツラが将軍のお膝元である江戸で偉そうにしているのにむかついてたので、彰義隊は大人気となっていきました

そして人気が出るにしたがって、彰義隊に入ってくる人数も増えてきたのであります

赤報隊 ニセ官軍となる

年貢を半分にする!!と、勢いよく進軍していた赤報隊

が、この10日間で政局は大きく変化していました

・多くの藩があいついで朝廷側についてきたので、これらの武力を官軍として使えるようになったこと

・軍資金は三井などの豪商に頼っていましたが、彼らは見返りに年貢米の請け負いを要求してきた
そのために、年貢半減しちゃうと儲けが少なくなるから、年貢半減の命令を取り消してほしいと訴えてきた

そーなんです

赤報隊が「官軍」として、年貢を半分にする!!と言ってしまえば、新政府は豪商にお金が借りれなくなってしまうのです

が、10日ほど前に交付したばかりの「年貢半減」という政府の方針を取り消すのは、新政府の威信に関わる

ということで、てっとり早いのが「赤報隊はニセ官軍」として、抹消してしまうことだったのです

この日、相楽は自分たちが「ニセ官軍」となっていることを知り、あまりのことに言葉もでませんでした

なぜ我らがニセ官軍なんだ?と、問い合わせても、無視され続けたのです

3月1日 近藤勇 甲陽鎮撫隊を率いて江戸を出発

新撰組は1月に江戸に到着していました。このときの人数はわずか44名

脱走者もかなりいました

江戸へ帰ってきてから傷が治ってきた近藤勇は、甲府へ行き城をのっとってたてこもる計画をたてました

幕府はその計画を聞くと、軍資金として五千両、そして大砲を二門と銃を500くれました

が、銃を500も貰っても隊士が44人しかいないため、臨時の兵を集めることに

こうしてなんとか寄せ集めの新しい隊が出来たのです

ここで、「新撰組」が「甲陽鎮撫隊」と名前を変えます

新撰組は京都で負けて、江戸に帰ってきたため不名誉だ!という理由からでした

近藤勇も名前を「大久保大和」に改め、土方歳三も「内藤隼人」と名前を変えました

さらに幕府は近藤勇や土方歳三を幕府の重要な役職にしてあげました

こうして新しくなった新撰組は薩長と戦うため甲府へ向かうこととなったのです

ちなみに勝海舟の思惑は、浪士をかき集めた厄介者を江戸から追い出すというものでした・・・・

近藤たちは、甲府へ行くまでの道のりで遊女屋を貸しきったり、自分の出身地へ立ち寄り熱い歓迎を受けつつ進軍していきました

3月3日 相楽総三ら偽官軍の罪で処刑

相楽の下に、「軍議を開く。即刻出頭せよ」という命令がきました

相楽は、何がなんだかわからないまま、隊士の大木四郎を連れて出頭

そこで相楽を待ち受けていたのは、武装した兵たち

大木は、襲い掛かってこようとする武装兵に刃向かおうとしましたが、「大木。控えろ。総督府を騒がせてはならぬ」と、言いました

そして相楽は静かにゆっくり座ったのです

こうして、相楽らは雨の中縛られたまま放置され、

この日、相楽他、八名が何の取り調べもないまま斬首されてしまったのです

新政府のために働き、そして邪魔になった途端に抹殺されてしまうという、時代に翻弄された悲劇の赤報隊でした


余談ですが、相楽の妻は一人息子を残して自殺してしまいました

残された一人息子の子である木村亀太郎が、祖父の悲劇を知り、汚名を晴らすために努力します

赤報隊の処刑命令を出したのは岩倉具視で、ほかにも知っているはずの板垣退助や大山巌は口を閉ざしたままでした

そして亀太郎は冤罪を訴え続け、ようやく昭和三年に相楽総三ら十名は無実となり、維新の殉教者として靖国神社へ祀られたのでした


3月5日 甲州勝沼の戦い

近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は、3月1日に江戸を出て、甲府へ向かいました

4日に甲府近くの峠をさしかかると、そこへ「薩長軍が甲府へきた」というニュースが

「えっ!?もう来たのか!」状態で、ここで予定が狂ってしまったのです

恐れをなした臨時の兵たちには逃げるものも続出

そして5日に甲州勝沼での戦いが始まったのです

が、銃と兵の数に歴然とした差がありました

甲陽鎮撫隊はあっけなく負け、江戸へ逃げていったのです

そしてさらに悲劇が

この時、近藤勇と永倉新八が意見の食い違いからケンカに

そして永倉新八は新撰組を去っていってしまうのです

昔からの仲間と決裂し、新撰組はめちゃくちゃになってしまっていたのでした

ボロボロになった近藤は、完治していない銃の傷もあり体調はめちゃくちゃ

土方歳三は近藤を励ましつつ、再起をはかるべく流山(千葉県)へ向かっていったのです

3月9日 駿府で西郷隆盛と山岡鉄舟が会見

さて、山岡鉄舟は益満休之助の案内で、官軍が陣を構えていた駿府までやってきました

やってくる途中、新政府軍の兵たちがあちこちにいましたが、鉄舟は堂々と「朝敵徳川慶喜の家臣・山岡鉄舟!!大総督府へまかりとおる!!」と、怒鳴りながら通り抜けてきたのでした

そして西郷隆盛と会見することに

この会見で鉄舟は、「ひたすら朝廷に恭順している慶喜をなぜ討とうとするのか!?」と、直球で詰め寄りました

さすがの西郷隆盛もこの直球にタジタジ

押し問答の末、西郷隆盛は条件を出しました

・江戸城を明け渡す
・城内の全ての兵を向島へ移す
・兵器を全て差し出す
・軍艦をすべて引き渡す
・将軍慶喜は備前藩に預ける

以上の5つです

鉄舟は慶喜を備前に預けるという条件を拒みました
もちろん、預け先で殺される可能性があるからです

が、これだけは西郷も譲らなかった
「これは朝廷の命令だ!!」と凄みました

すると鉄舟が「もし島津の殿様が慶喜殿と同じ立場だったら、あなたはこの条件を受け入れるか!!??」と反論

西郷は「それはもっともだ・・・」と考え直し、鉄舟は泣いて西郷に感謝したのであります

まさに熱意の男・山岡鉄舟

これにより、なんとか慶喜の命だけは助かるめどがったのであります

西郷隆盛は、鉄舟と会うまでは何が何でも慶喜を殺そうと思ってました
が、この会見で、慶喜にここまで忠実で命を惜しまない幕臣がいることを知りました
こんな人間がまだいるとなると、慶喜の取り扱いには注意しなければいけないな・・・と、考えたのでした

そして、この山岡鉄舟の行動は、歴史的一日となる「西郷と勝海舟の会見」に大きな影響を及ぼすのであります

余談ですが・・・・

新政府側はこの鉄舟という人物をすごく気に入ったようで、新政府になった時に鉄舟を明治天皇のお付として雇います
明治天皇もものすごく鉄舟を信頼しまくったようです

事実上幕府トップの勝海舟

将軍慶喜に代わって江戸城で動いていたのは勝海舟でした

事実上、江戸幕府のトップとなっておりました

正直、慶喜と勝海舟はあんまり相性よくなさそうな感じなんですが、今はそんなこと言ってられなかった

新政府軍を相手にして、堂々と交渉ができるのは勝海舟以外いないし、西郷隆盛とも多少の親交があったため、慶喜は全てを勝海舟に任せることにしたのでした

勝海舟がやるべきことは、なんとか主君・慶喜の命を救い、江戸を戦火から守ること

それには、江戸へ着々と進んできている官軍を阻止しなければならない

勝海舟は、先に山岡鉄舟を西郷隆盛と会見させ、ある程度の手ごたえを得た

後は自分がやるしかない

勝海舟は西郷隆盛を説得させる罠をしかけたのであります

海舟の仕掛けた罠

海舟は、西郷に「江戸を攻めない」といわせる為にある作戦をたてました

それはフランスとイギリスの力を利用するというもの

勝海舟は、フランス公使のロッシュと、イギリス公使のパークスに西郷隆盛らが攻めてきたら、日本はどうなるかというコトを説明

「官軍がやってきたら、幕府軍は必死に抵抗するであろう。さすれば江戸や横浜は火の海となる。焼け野原となった江戸や横浜では商売ができない。そしたらあんたたちも困るでしょ?日本と貿易したいんだったら、江戸は無事にしておかなくちゃいけないんだよ。それにさ、幕府は抵抗しないって言ってるのに、官軍はそれでも江戸を攻撃するって言ってるんだよね。あんたたちでどうにかしてくんない?」

正直、脅迫みたいなもんです

でも、イギリスもフランスもこの脅迫にすぐさま反応したのでありました

フランス・イギリス 幕府の為に動く

確かに、イギリスもフランスも江戸がめちゃくちゃになったら貿易が出来なくなって困っちゃう

ということで、フランス&イギリスは官軍に圧力をかけ始めたのであります

西郷はイギリスに「江戸攻めで負傷者が出たら場所を提供してくれ」とお願いしたんだけど、イギリスは「いいや断る。その前にイギリスは江戸攻めは反対である!それでも江戸を攻めるっていうなら、今度はイギリスからも兵を出すぞ」と脅し

官軍はイギリスに武器調達のほとんどをお願いしてるので、イギリスの後ろ盾を失うのは痛い

困った・・・・と、思っている西郷隆盛のもとへ、勝海舟がヒョコヒョコとやってきたのであります

3月14日 世紀の会談!!勝海舟・西郷隆盛の会見

3月13日と14日

二日にわけて、日本の歴史に残る会見が行われました

13日の会見は薩摩藩邸にて行われ、久しぶりにあった挨拶程度で終了

勝海舟は従者一人だけを連れて古い服に下駄をつっかけひょこっとやってきたそうです

14日は本格的な話し合いとなりました

前に山岡鉄舟が話したことと大差ない条件を勝海舟が提示

西郷は「いろいろ難しい問題もありますが、自分が全て引き受けます」と同意しました

そして西郷は「江戸総攻撃中止」という使者を出すと、何事もなかったように会話がはずみました

この話し合いでは、西郷隆盛は勝海舟に対してとても礼儀正しくしたそうです

ちなみに隣の部屋では、血気盛んな若手がこの話し合いに聞き耳をたてていました

何かあったらすぐさま勝海舟に斬りかかろうとしていたのであります

この会談で決まったのは・・・


・慶喜は隠居の上、水戸で謹慎する

・江戸城を明け渡し、尾張徳川家の預かりとすること

・軍艦や武器は全て新政府に引渡し、後日徳川家の処分が決まり次第、相当分だけ返すこと

・江戸城内に住む幕臣たちは、場外にでて謹慎する

・これまで新政府軍に抵抗した者たちについては、寛大な処置を行うこと

・今後、新政府軍に抵抗するものがあれば、徳川家が鎮圧し、手に負えなければ新政府軍が討伐する


何はともあれ、この日、薩摩の西郷隆盛と幕府の勝海舟が東京・品川で会見し、江戸無血開城が決まったのであります

この二人の会談によって、江戸の町は戦場とならずにすみ、それとともに徳川幕府の時代が終わったのであります

とはいっても、上に書いたとおり、イギリスとフランスを勝海舟が脅迫(?)したことにより、すでに勝負はついていたんですけどネ

はっきりいうと、西郷隆盛は勝海舟がしかけた罠にまんまとハマり、江戸を攻めないといわざるを得なかったのであります

そしてこの会見で決まったことは、慶喜は死刑を免れ水戸へ退隠

そして、15日に予定していた江戸総攻撃を中止するというものでした

とにかく、江戸は戦場にならずにすんだのです

この会見を勝海舟は「西郷はオレの言うことを信用してくれたよ」と上機嫌で話していました

江戸城総攻撃中止

こうして、この会見により15日に行われるはずの江戸総攻撃は中止となりました

ほんとに慌しい数日間でした

新撰組と戦った板垣退助らの隊はすでに府中まで来ていたし、東海道の先鋒隊は品川で戦闘準備完了

まさに江戸攻撃態勢は整っていた中でのギリギリの攻撃中止だったのでした

勝海舟はこの時のことをこう語っております

「会談が終わった後、歩いて帰ったんだけど、官軍がみるみるうちに引き返していた。歩いて帰る間の時間にすでに命令が伝わり、行動にうつされているなんて、改めて西郷隆盛ってのは凡な男じゃないと思ったね」


五ヶ条の誓文(せいぶん)と高札

同じく3月14日新政府は「五ヶ条の誓分」を発布しました

この原案を作ったのは、新政府の財務担当となった越前藩の由利公正(ゆりきみまさ)が、鳥羽伏見の戦いの前に一日でしあげたといわれております

それを桂小五郎(木戸孝允)が修正しました

簡単に書きますと

「広く会議を興し、万機公論に決すべし」
「上下心を一にするべし」
「智識を世界にもとめるべし」

ちなみに坂本龍馬による船中八策の精神を基本としております

さらに江戸では、高札がたてられました

キリシタン禁止・主教道徳のススメ・徒党を組んだり民衆の反乱は禁止などなど

内容的に幕府時代と大して代わりはありませんでした

ちなみに、キリシタン禁止!のトコは外国から反発をうけまくりました

川路聖謨(かわじとしあきら) 自殺する

川路聖謨は、浪人の子でした

めちゃくちゃ努力家で、一生懸命勉強をし幕府で働くように

ロシアとの交渉でも大活躍をしておりましたが、井伊直弼が大老になると、左遷されてしまいました

努力をして浪人の子でありながら信じられないほどの出世した男の、急激な人生の転落でした

失意の中、具合を悪くし、体の自由を失ってしまいました

それでも息子たちに「お前たちはいかようにも生きながらえて、徳川のために力を尽くせ」と常日頃言い続けました

そんな川路聖謨が、「江戸開城」のニュースを聞いてしったのです

この日、妻を病室から下がらせ、部屋に一人となりました

そして腹を真一文字に斬り、ピストルで喉を撃ち自殺したのです

幕府に殉じた68歳の死でした・・・・

葬式に来た人は、わずか3人ほしかいなかったそうです


幕末をみた外国人・パークス

イギリス駐在大使として来日したハリー・スミス・パークス

日本にくるまでは、清国で勤務し、上海領事をしておりました

日本に着てからはまず長崎におり、早くから長州藩の味方をしていました

そして幕府の味方をしているフランス公使のロッシュと、外交合戦を繰り広げておりました

が、さすがに幕府が潰れるのはマズイ・・・と、ロッシュと協力して勝海舟の言うとおり、西郷隆盛にアドバイス

江戸無血開城には、この人がかなり裏で動いておりました

当時、日本に来ていた外交官の中では一番辣腕だったといわれております

そんなパークスは、明治16年まで日本におり、のちに北京公使となりました

幕末をみた外国人・ロッシュ

フランスのレオン・ロッシュは、日本にくるまではアフリカのフランス植民地で外交官をしておりました

かなり大物外交官であります

そして日本にやってくると、薩長を支援しているイギリスに対抗するため幕府に近づきました

幕府からはかなり信頼されていました

鳥羽伏見の戦い後、江戸に戻ってきた慶喜に「勝てるんだから戦え!」とアドバイスするも、慶喜に無視されちゃいました

そして江戸開城の頃、日本を離れフランスに戻ってしまいました

幕末をみた外国人・アーネスト・サトウ

アーネスト・サトウは、サトウという名前ですが、日本人ではありません

サトウはロンドン大学卒業後、日本で働きたくてイギリスの通訳としてやってきました

この人、日本で色んなことを見て学び、サトウが書き残した資料は、かなりすごいものとなっております

明治16年まで日本で勤務し、その後シャムに行きましたが、明治28年にまたも日本に戻ってきました

サトウが日本にいた期間は25年にもなり、日本人より日本を研究した人と言われております

ちなみにサトウが残した多くの文書は、歯に衣をきせないものが多く、ある意味素晴らしいです

というのも、日本は「天皇」や「お偉いさん」のことなんかをオブラートに包むような感じがありますが、サトウは思ったことを率直にずばずば書いてるんで、ある意味すごい資料となっております


幕末をみた外国人・グラバー

幕末その12でも紹介した「死の商人・グラバー」

亀山社中とも取引をし、長州藩にも武器を調達し、資金面でもかなりのお助けマンでした

一貫して薩長側につき、「徳川政府からみた反逆人の中では、自分がもっとも大きな反逆人だ」というほど、武器調達なんかをしておりました

伊藤博文や井上馨などと仲良しで、彼らのヨーロッパ留学のお手伝いをしたりもしました

維新後、グラバー商会は倒産しましたが、三菱の顧問をやったりと大忙し

日本人妻をもらい、ずっと日本で暮らしました

ちなみに晩年は財産がほとんどすっからかん

でも、伊藤博文から麻布に家をプレゼントされたそうです

彰義隊の状況


江戸はというと、もうメチャクチャの無法地帯で、ゆすりやたかりが横行

さらに江戸っ子からしてみれば、イモ侍たちが我が物顔で町を闊歩することが憎たらしかった

彰義隊は白い義経袴に水色のぶっさき羽織というシャレた格好だったので、女の人にモテモテ

芸者や遊女は「情夫(イロ)を持つなら彰義隊」とまで言うほど

そんな熱い彰義隊は、慶喜が水戸退隠となり、江戸城が明け渡されるということになっても、最後の最後まで戦う!!というムードが漂っていました

勝海舟は何とか彰義隊を抑えようとしていましたが、ここまで熱くなってきた彰義隊を止めることはできなくなってきていました
ムリに止めると、勝海舟までもが殺されちゃいそうな勢い

そんな彰義隊の熱気をニヤリとほくそ笑んでいたのが西郷隆盛

西郷にしてみれば待ち望んでいた江戸での戦争ができるからであります

小さい戦争であれ、江戸で幕府軍を叩き潰し、新政府の威力をみせてやりたかったのであります

そして新政府は、こんな危なっかしいヤツラを野放しにしている慶喜は、ほんとに恭順の気があるのかどうか疑いまくりでした

4月6日 小栗忠順斬首!

さて、小栗忠順は江戸を去り知行地の上州へ移り住みました

そこで幕府の行く末をかげながら見ていこうと思っていました

ところが、官軍に捕らえられ打ち首になってしまったのです

これには、官軍にいた板垣退助らがいいがかりをつけて小栗を斬首したという説があります

どうやらこんな忠義のあるキレ者をそのままにしておけば、いつ徳川のために立ち上がるかわからないというもの

小栗は自分の身が危ないということを知ると、妻や母を越後へ逃がしました

そしてその翌日、小栗は捕らえられ取調べもまったくないまま斬首されたのです

新政府は、幕府の勘定奉行を務めたほどの人物を逮捕理由も明らかにしないまま、処刑したうえ、首を河原にさらすという非情なことをしました

小栗の首は、両目をカッと見開いたままだったそうです

ちなみに小栗の息子たちも家臣らとともにこの後斬首されました

が、妻のお道は、妊娠したまま逃げきったため、小栗忠順の血は絶える事はありませんでした

享年四十二歳

4月11日明け方 慶喜水戸へ向かう

いよいよ江戸城明け渡しの日を迎えることとなりました

彰義隊らの暴動を恐れた慶喜は、明け方に水戸へと向かっていきました

この水戸行きに意外な一行がお供しました

それが新門辰五郎らでした

実は辰五郎は勝海舟から「もし西郷隆盛との会談が決裂したら、江戸の町を焼き尽くしてくれ。新政府に渡すものは何もかもなくしてしまえ」と言われておりました

幸いこの計画は実行に移されることはありませんでしたが、彰義隊が幕府の為に最後まで戦った時も、辰五郎一派は影で彰義隊を助けまくることとなります

辰五郎は江戸の町、そして慶喜が大好きだった

多くの幕臣が見捨てた慶喜を、辰五郎は目を真っ赤にしながら水戸まで送り届けたのであります

余談ですが、この「最後の将軍」と「火消しの親分」の話しは伝説化し、慶喜が死んだ時に東京の火消したちが皆ハンテン姿にまといを掲げ勢ぞろいし、最後の将軍の死を惜しんだといいます


4月11日 江戸無血開城

この日、江戸城受け渡しが行われました

受け取りの官軍代表は勅使の柳原前光(やなぎはらさきみつ)や西郷隆盛ら六名

徳川側は大久保一翁ら六名

勝海舟は?というと、この日は城の明け渡しが無事に行われるよう、城外にて見回りをしていたのであります

西郷隆盛はというと、城明け渡しの儀式がやったら時間がかかるので、思わず居眠りをしちゃっていました

そのうちいびきをかきはじめたので、大久保一翁が「ちょっと西郷さん、もう終わっちゃいましたよ」と呼び起こしたら、「ん?」とぼんやり顔で起き上がり、ノロノロと帰っていきました

大物ですね(笑)

ということで、何とか明け渡しは無事終了しました

ちなみに明け渡しの際、最後までブチブチと文句を言っていたのは大奥の女性たちだそうです

さらに江戸っ子たちは、少しでも官軍にけちをつけてやろうと必死でした

で、プチ事件が発生

というのも、受け取り側の役人が、慌てちゃって草履を片方はいたまま江戸城の玄関にあがっちゃったのです

それを聞いた旗本たちは「田舎モンめが!ざまぁみやがれ!」と吹聴しまくったのでした

ドキドキの勝海舟

この明け渡しは勝海舟にとってドッキドキの一日でした

海舟が恐れていたのは上野の山に集まっている彰義隊の動き

そして、開陽丸艦長榎本武揚率いる江戸湾の幕府艦隊

どうか大人しくしててくれ〜と、心から願っていました

が、無事に明け渡しが済んだので、勝海舟はめちゃくちゃ安心したのであります