幕末その2 1826年〜1841年 幕末序曲

1827年11月 エロじーさん小林一茶死去
1828年 シーボルト事件
日本発の探検家 間宮林蔵
1829年 徳川斉昭 9代水戸藩主となる
1831年8月 十返舎一九 花火ぶちかまして死去
1832年 鼠小僧捕まる!
1833年 天保の大飢饉
1834年 水野忠邦老中となる
1837年2月19日 大塩平八郎の乱
2月 アメリカ モリソン号事件
家斉「大御所」となる
8月 12代将軍徳川家慶
9月29日 徳川慶喜 誕生
1838年4月 中山みき 天理教を開く
1839年5月 蛮社の獄
アヘン戦争が起きる
1840年3月2日 遠山の金さん 江戸北町奉行に
1841年1月30日 大御所家斉死去
お美代の方 遺命偽造事件
5月 老中水野忠邦 天保の改革スタート
水野忠邦側近 妖怪 鳥居耀蔵(とりいようぞう)






幕末その2 1826年〜1841年
1827年11月 エロじーさん小林一茶死去
一茶は農家の長男として生まれました。3歳で母が死んでしまい継母が来るのですが、ここで継母にイジメられ15歳で家を飛び出しました。

一茶が39歳の時に父親が死亡。そのため遺産相続問題が起きてしまい、13年間親兄弟とバトル!やっとこさ遺産をもらえたのが52歳の時でした。

52歳の一茶、ここで28歳のお菊さんと初結婚となるのです。こっからがスゴイ!

一茶は筆まめでエッチした日と回数を日記に書いちゃってました。「○月○日 晴 夕方 雨 菊女帰 夜五交合」などなど、毎日きちんとメモってます。一日に5回とか・・・。

で、お菊さんとは三男一女をもうけますが、子供は全て死んでしまい、お菊さんも結婚9年後の37歳で死んでしまったのです。多分子供産みすぎて疲れちゃったんでしょう・・・。

ところが61歳の一茶!今度は38歳のユキさんと結婚。が、ユキさん・・・あまりの一茶の性欲のすごさ(?)に実家に帰ってしまいました。

64歳の一茶、今度はやをさん32歳と結婚。年齢差は32歳!すごいデス・・・・でもやをさんとの間には子供もできました。

代表的な俳句に

・痩せ蛙 負けるな一茶 ここにあり  って、なんだか頑張っちゃってる一茶が彷彿してきます。

・めでたさも ちう位也 おらが春   よかったネ。
1828年 シーボルト事件
シーボルトは名門貴族の出であるドイツ人医師です。

軍医としたジャワ島(ジャカルタ)にいたシーボルトは日本に興味がありオランダ人として日本のオランダ商館へやってきました。

オランダは焦っていました。今は日本との貿易を独占していますが「列強」であるイギリス・フランス・ロシア・アメリカも日本を狙っていたからです。

そのためオランダとしては日本に歓迎される腕のいい医師を派遣してシーボルトにスパイをさせようとしたのでした。

この時シーボルトは27歳。

最初は出島で医師として働いていましたが、患者が増えてきたため出島の外の道路で治療を始めました。当時、外国人は日本の家の中には入っちゃダメでした。

ですが患者らが「道路で治療ではなくちゃんとした家でやってほしい」と言ったので、長崎の鳴滝という所に診療所を建て、そこで患者を治療することとなったのです。

シーボルトは「鳴滝塾」を開設し、西洋医療・西洋文化などを教えました。

蛮者の獄で捕まる高野長英も熱心な門弟でした。

さらにシーボルトはタキと結婚。長女「イネ」をもうけました。

ちなみに「イネ」は初の日本人女性医師となります。

この年の9月シーボルトが帰国する予定だった船が座礁してしまう。

この時に幕府の役人である高橋景保(かげやす)からもらった日本の地図を、オランダに持ち帰ろうとしたことが発見されてしまったのです。

国の地図は大変な国家機密でした。そしてシーボルトは国外追放となり、高橋景保は投獄。投獄中に病死しました。

高橋景保の子供達は遠島に。門弟達は50人近くが厳しく罰せられたのです。

ちなみに高野長英は要領よく逃亡しました。

この事件の原因を作ったのは間宮林蔵でした。

長崎のシーボルトから江戸にいる高橋景保あての荷物が届いた時、中に間宮林蔵宛の手紙と更紗が入っていたので景保はこれを林蔵に渡しました。

林蔵はわざわざこれを上司である勘定奉行に届けたのです。

この一件で幕府は高橋景保とシーボルトが仲がいいことを知り、2人をマークしたのです。

そして船が座礁したのを機会に無断で積荷を調べたのでした。

ちなみにシーボルトは外人だったので日本の法律は適用されませんでした。

滞在6年で日本を追放されたシーボルトはドイツ貴族の娘と結婚して三男二女をもうけました。

この時シーボルト49歳。新妻は25歳。

自分も貴族となり仕事も順調。新しい家庭を築いて幸せだというのに、再び日本に行く夢を抱き続けました。ペリーに日本の情報を教えたりしています。

追放から30年たった1858年にシーボルト追放令が解かれ、12歳の息子アレクサンダーと再び日本へ!この時、元妻だった「タキ」に冷たくされてしまいショックを受ける。

シーボルトは諸外国と幕府の交渉役を務めますが、あまりにも日本びいきだったため諸外国から非難され、通訳となった長男アレクサンダーを残してオランダに帰りました。

帰る時は将軍家茂らから記念品を沢山貰いました♪その後70歳で死去。

シーボルトが日本から持ち帰ったアジサイは大人気だったそうです。
日本発の探検家 間宮林蔵
林蔵は幼い頃から「神童」と言われるほど利発な子供でした。

ある日、川をせき止める工事をしている役人達が四苦八苦しているのを見た林蔵は、「こうしたほうがいいんじゃないの?」とアドバイスをしたところ、工事が大成功。その才能を認められ測量の勉強にハマるようになるのです。

19歳の時、蝦夷地に測量に行きました。そこで伊能忠敬と出会い本格的な測量技術を学んだのです。

28歳の時に蝦夷地の探検を認められ、幕府より樺太探検を命じられました。

この探検で林蔵は「樺太」と「サハリン」が同じ島であることを知り、シベリア大陸との間に「間宮海峡」を発見したのです。

「間宮海峡」はシーボルトによって世界に紹介されました。そして「間宮海峡」と名づけられ、世界地図の中で一つしかない日本人の名がついた地名となったのです。

そんな林蔵をシーボルトは同じ志を持った仲間だと思っていましたが、間宮はあくまでも「幕府の人間」だったため、シーボルト事件のきっかけとなる密告をしてしまうのです。

その後の林蔵は隠密(密告者のようなもの)となったり水戸藩に仕えたり。

川路聖謨にも近づいたりしました。

1844年65歳で死去。

日本発の冒険家であった林蔵も晩年はあまりにも幕府に忠実な犬として動き回ったため変人扱いされ、みんなに嫌われて過ごしたそうです。
1829年 徳川斉昭 9代水戸藩主となる
水戸藩では水戸光圀以来の家名の名をかけた伝統がありました。

「大日本史」の編纂事業であります。編集は「彰考館(しょうこうかん)」で行っていました。ここの総裁はめちゃくちゃ権威がありました。

以前総裁であった立原翠軒(たちはらすいけん)が、門人筆頭である藤田幽谷(ゆうこく)と大喧嘩をしたことから水戸藩の悲劇がスタートするのです。

幽谷の子である藤田東湖の代になってから彰考館の中で権利を巡る抗争に発展したのです。

そして二つの派閥ができ、藤田東湖は徳川斉昭を。そして将軍家斉の子である清水恒之丞をプッシュする重臣派が対立することとなりました。

斉昭は水戸8代藩主だから、斉昭の方が血統的には候補NO1なんだけど、恒之丞は将軍の息子!家斉が子供作りまくって大名に押し付けまくってたうちの1人です。

そしてこの二つの派閥が騒動を起こしまくって、すったもんだした挙句やっとこさ斉昭が9代藩主となったのです。この時30歳でした。

で、斉昭は恒之丞側についた重臣らをガンガンと追い出しにかかり、藤田東湖や戸田銀次郎らを登用して、藩の建て直しに力を注いでいくことに。

が、藩内で寺社改革を行ったところ、僧侶らの反発を呼ぶことに。

また異常な女好きのため、息子の徳川慶喜は後々迷惑をこうむることになっちゃいます・・・。

「天下の副将軍」(という呼び名はないが・・・)と言われる水戸藩ははっきりいってめちゃくちゃ貧乏でした。

御三家の一つだというのに石高も少なく、また太平洋の北風をまともに受けるため冷害が多く農民は貧乏。そしてもちろん武士も貧乏でした。

名前だけは徳川で、学問の権威もあるが実際は貧乏で明日の食べ物にも困るほど。

藤田東湖の妾の子である小四郎でさえ「子供の頃は大根をもらうのさえ大変で辛かった」と言うほどでした。

そんな水戸藩なので、斉昭に追い出されてしまった重臣ら一派は過酷な生活をしなければならなくなり、長い間沈黙を続けることとなりますが、ある事件をきっかけに幕末の表舞台に出てくることとなるのです。

1831年8月 十返舎一九 花火ぶちかまして死去
一九は下級武士として暮らしていました。

16歳で江戸に出て23歳で大阪へ移り大阪町奉行に仕えました。

で、材木商の家へ婿に入ったんだけどここで一九は遊んでばかり。遊郭に通いまくってしまい離縁されてしまいます。

がっかりした一九は出版社に住みこんで働きました。このあたりから浄瑠璃や黄表紙本を書きはじめました。

それからまた江戸へ。また婿入り結婚しましたがまたも離縁されてしまう。コレに懲りた一九はお次はお嫁さんを貰いました。

今まで黄表紙本を書いていた一句ですが、結婚を機に「滑稽本」を書くことに。江戸と大阪を行ったりきたりしていた経験をもとに「東海道中膝栗毛」というヤジさんキタさんを主人公とした本を書きました。

これが大人気となり、当初はヤジさんキタさんは箱根あたりで終わりにしようとしていたのに、続編を書いてくれ!とお願いされ、とうとう京都まで行っちゃいました。

さらに四国や宮島まで行き20年以上にわたるロングセラーとなったのです。

主人公の弥次郎兵衛(やじろべえ)と喜多八(きたはち)はお人よしでカラ威張り、そして冗談が大好きな典型的な江戸っ子でした。

一九も愉快な人だったのか??というと、実は結構ロクデナシ。

お酒大スキで、お金があったらすぐに遊郭に行っちゃう。原稿料を貰ったらすぐ豪遊。家は何にもなくなり、仕方なくタンスとかの絵を描いて飾ってたらしい。

そんな変人一九もとうとう死去。「オレが死んだらこのまま棺桶に入れて焼いてくれ」と遺言していたので、みんなはそのまんま火葬場へ。

すると突然死体から花火がバンバンと上がったのです。一九は自分の体に花火を何十本も巻きつけていたのでした。
1832年 鼠小僧捕まる!
盗んだお金を貧乏人にバラまいて「義賊」と呼ばれた大泥棒の鼠小僧次郎吉。

とうとうこの年に捕まってしまいました。

鼠小僧はもともと中村座という歌舞伎の建具職人でしたが、バクチ大好きだったため借金しまくり。

とうとう借金取りに追われてしまい中村座を飛び出したのです。

それから武家屋敷に泥棒にはいるようになりました。

なぜ武家屋敷か?というと、武家屋敷の「奥」は女性だらけで泥棒に入りやすかったというのと、プライド高い武家屋敷は「盗賊に入られたなど恥ずかしくって届出できん!」といった感じで、なかなかバレずにいたのです。

一度捕まって刺青の刑を受けたんですが、被害届けが出ていなかったため死罪にはなりませんでした。

貧乏人を狙わずお金持ちばかりから盗みを働いてたたため、いつの間にか庶民のヒーローとなっていくのです。

どっかの貧乏子供が「鼠のおじちゃんから貰った」とウソをついたため、ますます鼠小僧の人気はヒートアップ。

盗んだ金を貧乏人にバラまくってのはこのあたりから出始めました。実際は盗んだお金は全て自分の遊ぶお金で使っていました。

が、現行犯で捕まり、2度めだったため許されず、引き回しの上鈴が森刑場で打ち首獄門となったのです。

鼠小僧のお墓の墓石は「ギャンブルが強くなる」という噂が流れ、削り取られまくったそうです。
1833年 天保の大飢饉
この年から5年間、気候が悪く慢性的な凶作が続きました。そのため全国的な大飢饉となったのです。

さらに翌年には出羽で大洪水。関東でも暴風雨となり作物は大凶作。異常気象が重なりまくっておびただしい死者が出たのです。

そのため一揆や打ちこわしがはじまってしまいました。そしてこの飢饉は大塩平八郎の乱を招くのです。

1834年 水野忠邦老中となる
唐津藩主水野忠光の息子で唐津藩主となったんだけど、自ら願い出て25万石の唐津から15万石の浜松に行きました。

なぜか?というと、唐津藩は長崎警備の役目を任務としていたので、老中になれないからです。忠邦は出世したかったため、唐津藩の家来達の反対意見を押し切って浜松藩へ行ったのでした。

その後は順調に出世し、将軍家慶の信任を得て老中首座となったのです。
1837年2月19日 大塩平八郎の乱
天保の大飢饉によって多くの人々が餓死し、各地で騒動が起きたんだけど幕府は何の手も打たず、役人は自分達のコトばかり考えていました。

そんな中、苦しんでいる民衆らを救済しようと立ち上がったのが元大阪東町奉行与力の大塩平八郎でした。

筆頭与力まで務め(今だと大阪府警のトップくらいのレベル)38歳で隠居してしまいました。

隠居した後は陽明学を教える「洗心洞(せんしんどう)」という塾を開いていました。

「良いと思うことは実行してこそ価値がある。それを知行合一(ちこうごういつ)と言う。私は今の世の中の乱れを黙って何もせずに見ているわけにはいかない」と言っていました。

平八郎は幕府に抗議の手紙を出しました。「米が値上がり天下の台所である大阪でも餓死者が出ております。どうか大阪の貧しい人々に米を分け与えてください」と何度も手紙を書いたんだけど全て却下されました。

こうなったら・・・と大塩平八郎は塾の門下生らとともに、私利私欲を貪り続けている役人や金持ちを襲い、奪った米を貧しい人々に配ろう!という計画をたてたのです。

平八郎は自分の蔵書5万巻を売却し、反乱のための費用にしました。今のお金にするとおよそ5000万円。

そして「施行札」を一万枚刷らせました。その札を門下生を使って村人に配り「札を持ってきた者に金一朱を与える」それと同時に「天満に火事があれば必ず大塩先生のもとに駆けつけるように」と言わせたのです。

が、準備を始めている時に裏切り者が出てしまいました。そして町奉行にチクリを入れていたのです。

「大塩平八郎を捕らえろ!」ということとなり、平八郎は仕方なく予定を早めて反乱を決行したのです。

2月19日。朝8時に平八郎は自宅に火をつけました。天満から火が上がったらただちに駆けつけろ!ってことで、近隣の農民が100人ほど集まりだしました。

「救民」の旗を掲げ、大砲を撃ったりと天満一帯は火の海に。さらに民らが300人ほど加わり豪商らを襲撃。

が、ここで平八郎の誤算が出てしまったのです。

平八郎は「きっかけさえ与えてやれば、民らは蜂起するであろう」と思っていました。

が、民らの蜂起はここで終わってしまい、民らが集まってこなかったのです。

そして事前から情報を得ていた奉行らがやってきて、夕方には平八郎の乱は鎮圧されてしまったのです。同志らは次々と捕まったり自害したりしました。

平八郎は息子と一緒にその後40日間隠れていましたが、とうとう隠れ家が見つかってしまい家は包囲されてしまいました。

平八郎は用意していた爆薬に火をつけ息子とともに自害したのです。

平八郎の乱は天下の台所である大阪で、モトお役人が世直しのために立ち上がろうとした!とたちまち全国に伝わりました。

幕府にとっても幕臣であった者が公然と幕政を批判したということは大きなショックでした。

その後、各地で百姓一揆が起きました。

その時の一揆軍ののぼりには「大塩平八郎門弟」と書いてあったのです。

平八郎の死は無駄ではなかったのです。そしてこの乱も「開国」に向けての大きな一歩となったのです。

1837年2月 アメリカ モリソン号事件
この年、アメリカのモリソン号が日本人の漂流民7名を送り届けるため、浦賀にやってきました。

が、幕府は異国船打払令によってモリソン号を追い返してしまったのです。

「通商を求め、日本の漂流民を送ってきてくれたモリソン号を、打払いによって送り返してしまうとは・・・幕府はいったい何を考えとんじゃ?このままでは日本は外国に取り残されてしまうぞ!」と、これをきっかけに鎖国に反対する人々が出始めてたのです。

そして渡辺華山が「慎機論(しんきろん)」高野長英が「戊戌(ぼじゅつ)夢物語」という本を書き、鎖国の愚かさを説いてしまったため、幕府に要チェックされちゃうのです。

1837年 家斉「大御所」となる
将軍在位50年という最長記録を作ったオットセイ将軍家斉。

とうとう息子に将軍を譲り、西の丸に入ることにしました。

それからも「大御所」として実権を握りまくるのです。

長年にわたる家斉の女にだらしない贅沢な暮らしは、幕府はもちろん江戸庶民にもにいい影響を与えることはありませんでした。
1837年8月 12代将軍徳川家慶
45歳で新将軍となった家慶。父である家斉が大御所として政務を手放さないため名ばかりの将軍でした。

老中らから相談されても実権がないため「そうせえ」としか言えないため「そうせえ様」というあだ名がついてしまいました。

家斉の周りには養女3人を側室に差し出した中野清茂や水野忠篤・美濃部茂育(もちなる)などの寵臣がガッチリと固めており、家慶の出る幕はなかったのです。
1837年9月29日 徳川慶喜 誕生
この日、江戸小石川の水戸藩邸において水戸藩主である裂公斉昭の7男として七郎麿(慶喜)が誕生しました。

生母は有栖川宮織仁親王の息女吉子。

吉子は12代将軍家慶の正室と姉妹であり、さらに家慶の妹は斉昭の兄である8代水戸藩主斉脩の正室であるといったように、この頃の将軍家と水戸家はバッチリつながっていました。

斉昭は37人の子供をもうけていましたが、賢い慶喜を気に入り国許である水戸で教育しました。

嫡男である鶴千代麿の控えとして手元に置いておいたのです。

そして慶喜は幼い頃から「英明抜群の御仁である」と噂されるようになっていくのでした。
1838年4月 中山みき 天理教を開く
みきは普通の農家で生まれました。

両親とも熱心な浄土宗の信者だったので、その影響で「尼になりたい」と言っていました。

そんなみきも13歳の時に結婚しますが、嫁ぎ先で5年間子供が生まれなかったためツライ思いをします。

それでも一生懸命嫁ぎ先で働き続け、やっと息子が生まれましたが、その息子が足が悪く祈願をすることに。

そこでみきはますます神を信じることに。

そして40歳でみきに神が降りてきたのです。

こっからはみきと家族は苦難の生活へ。

貧しい人たちに施しをはじめ、家財を全て投げ出してしまいました。

みきは神の心を聞いて満足でしたが、家族達は迷惑でした。

「狐つき」と罵られ、貧乏ど真ん中の生活に。ですがみきは貧しい人たちのために施しをすることをやめませんでした。

そしてみきは「親神様」のために布教を始め「天理教」を開くのです。
1839年5月 蛮社の獄
アメリカのモリソン号を追い払ったことにより「鎖国」の危機感を抱いていたのは渡辺華山(かざん)・高野長英・小関三英・川路聖謨ら洋学者。

彼らは江戸で新知識の交換や対外問題を話し合う「尚歯会(しょうしかい)」というサークルのような物を作っていました。

洋学者の集まりってことで蛮社とも呼ばれていました。

サークルメンバーに江川太郎左衛門という幕府に勤務している者がいたんだけど、これが幕府内であの鳥居耀蔵と海防策をめぐって対立しちゃってたもんだから、尚歯会は鳥居耀蔵に反感を買うこととなったのです。

そして鳥居耀蔵は「尚歯会のメンバーが小笠原への密航を企てている!外国人と交流を持とうとしている!」と、老中の水野忠邦に告げたため、5月に華山らは捕らえられてしまったのです。

これが蛮社の獄。

華山は永久蟄居となりました。

家は貧乏になってしまいお金を稼ごうと画会を催したんだけど、幕府によって「蟄居だっつーのに不謹慎じゃ!」と言われてしまい、藩主に迷惑がかかってしまうことを恐れて自害したのです。遺書には「世の中が変われば悲しんでくれる人もあろうか」と書いてありました。

高野長英は小伝馬町の牢屋に入れられることとなります。

1839年 アヘン戦争が起きる
ヨーロッパでは紅茶が大ブーム。

イギリスも中国の清からお茶を輸入していました。

が、イギリスからは茶葉を買い取る代わりとなる見返りの輸出品がなかったため、メキシコやスペインから買い入れた銀で茶葉を購入していました。

そのため清では次第に銀がだぶついてきたのです。

やがてとんでもない品が中国市場に現れてきました。麻薬であるアヘンです。

イギリスはインドを植民地にしていたので、インド人にアヘンを作らせてこれを銀の代わりにしたのです。

イギリス国内ではアヘンの輸入を許していないくせに清に売りつけ、さらにインド支配の財政基盤もできるし!ってことで、一挙両得の政策に出ちゃいました。

当時、清のオエライさんも腐敗していたため、得に対抗策が出ずアヘンの価格が高くなり茶葉が足りなくなってきてしまった。

清は茶葉+余ってた銀をイギリスへ。イギリスはアヘンを清へ売りつけたのです。これでは清は超貧乏になってしまいます。

ということで、清はアヘンを禁止し、イギリスから輸入したアヘンを全て捨ててしまいました。

怒ったイギリスは「自由貿易」を口実に清に向かって発砲。これがアヘン戦争となったのです。

戦争は2年続き、圧倒的な強さを持つイギリス海軍が勝ちました。

清は屈辱的な「南京条約」を調印せざるをえなくなりました。そのため香港はイギリスのものとなったのです。

香港を占領したイギリス軍は、中国大陸へ進出する足がかりを得たのです。

そしてこの情報は「オランダ風説書」を通して日本にもたらされ、幕府を驚かせました。
1840年3月2日 遠山の金さん 江戸北町奉行に
吉宗時代の大岡越前と並び称される名奉行・遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)が江戸北町奉行に任命されました。

ちなみに南町奉行は鳥居耀蔵です。

2人はめちゃくちゃ仲が悪く、鳥居が天保の改革によって風俗をビシビシ取り締まったのを、それじゃあ、あまりにもひどいよと、金さんは江戸庶民に多少の娯楽を残すよう頑張ったので、江戸庶民から大人気でした。

この2人は対立しまくっていましたが、鳥居によって金さんは左遷されてしまいます。

ですが、のちに鳥居が南町奉行所を辞めさせられた時に、金さんは鳥居の後任として南町奉行になることができました。

よくテレビで金さんの刺青は「桜吹雪」となっていますが、一説には「女の生首」だったと言われています。

1841年1月30日 大御所家斉死去
人一倍健康に気を使っていた家斉。

お酒は毎日三盃だけだし、バターや牛乳を使った食事を食べたりと健康志向でした。50年にわたって将軍職につき、隠居後も大御所として政治を行っていましたが、とうとう腹痛を訴え危篤状態に。

危篤状態になったまま美濃部一派が病床をがっちり固めたまま死去していきました。69歳でした。
1841年 お美代の方 遺命偽造事件
お美代の方は祈祷僧日哲の娘で、江戸大奥へ奉公に上がった時に家斉に気に入られ寵愛を受けまくりました。

溶姫・仲姫・末姫と三女を出産し、溶姫は加賀前田家へ、末姫を広島浅野家へ嫁がせました。

そして家斉の寵愛を受けまくっていたため大奥でも絶大な権力を持つのです。

父の日哲も怪しげな祈祷僧だったのが寺を建ててもらい「将軍お声ががりのある祈祷寺」として、御三家や御三卿、諸大名までもが参詣するほど。

そしてこの寺では大奥女中と寺僧のラブホがわりとなっていき、お美代の方とその一族は栄華を誇っていくのでした。

家斉が隠居し「大御所」となって権力を握り続けていたものの、将軍家慶は常日頃から大奥の乱れが気に入らなくって老中の水野忠邦に大奥腐敗の原因を調べさせました。

すると日哲の寺が大奥の風紀を乱しているということになったのです。

お美代は焦り、家斉にすがろうとしたんだけど、運悪く家斉が病気になってしまいそのまま死んでしまったのです。

困ったお美代は「わが娘溶姫が前田家に嫁いで産んだ犬千代を、将軍家定の養子とし14代将軍にさせる!」という策に出たのです。

家慶は29人の子供がいたけど残ってるのは男児2人のみ。後継ぎは四男の家定だけど、知的障害者っぽいので将軍職に耐えられるかどうか疑問だった。

そうした状況の中、家斉が犬千代を次期将軍に指名さえすれば、お美代は将軍の母としていつまでも権力を握れる!そう思ったのです。

コトをうまく運ぶには家斉のお墨付きが必要となる。

お美代は家斉の家臣であった美濃部茂家育(みのべしげなる)に命令し遺言状を偽造したのです。

そしてお美代は「恐れながら死んだ大御所様が、いまわの際に私にこれをくださいました」と、その遺言状を提出。

そこには「元将軍家慶の世子家定を13代将軍とする。同時に前田犬千代を家定の養子とし、将来14代将軍とする」と書いてありました。

これを見た広大院(こうだいいん・家斉の正室)は激怒!

ただでさえ家斉は正室であった自分を差し置き、お美代の方ばっか寵愛してたのが気に入らないっつーのに、なんで家斉には他の子供がまだいるのに、その子供を飛び越えて前田犬千代を指名しなきゃなんないの?と将軍家慶に「陰謀の匂いあり!」ってことでこのお墨付きを提出しちゃったのです。

こうしてお美代の方の陰謀は発覚し、一族や陰謀に関わったものは江戸城から姿を消しました。

お美代の方は、娘溶姫の願い出によって前田家へ。その後転々とし、哀れな晩年を過ごしたのです。

1841年5月 老中水野忠邦 天保の改革スタート
1834年に水野忠成の後任として老中となった忠邦。

大御所家斉が元気なうちはコレといった政策を打ち出すことはありませんでした。

ところが、家斉が死去したとたん思い切った改革を始めることとなったのです。

将軍家慶も、家斉の死は待ちに待った瞬間でした。

水野忠邦とともに家斉の愛妾お美代の方チームを一掃し、天保の改革のスタートとなったのです。

水野忠邦は家斉によってだらけきった世の中を猛スピードで改革しだしました。

鳥居耀蔵・渋川六蔵・後藤三右衛門という「水野の三羽鳥」を重く用いて峻烈を極めました。

ぜいたく品は全てNG!女性の髪結いなんかもダメ!歌舞伎役者が編み笠をかぶんないで外にでちゃダメ!などなどうるさいうるさい。

結果、家慶の食卓から芽生姜が姿を消しました。

芽生姜も贅沢品として栽培禁止となったのです。それを知った家慶は「このような物まで禁止したとは・・・」と呟きました。

松平定信の時に男女混浴が禁止されましたが、この時も出されました。

今までのお風呂やさんは番台でお金払った後、着替える部屋は1つだけ。脱衣所も洗い場も1つだけ。いや、ホントすごいよね・・・(^^;)

で、混浴禁止令を出したんだけど、結果真ん中に板を突っ立てただけだったのであんまり意味はなかったそうです。

ちなみにペリーは混浴のお風呂を見て超ビックリ!

「日本人は節度のある頭のいい民族だけど、こればっかりは考えられない。淫蕩な民族である」と言ったそうです。

ハリスも「日本人は賢いけど、どうしてこのような品のないことをするのか理解に苦しむ」と言いました。

水野忠邦側近 妖怪 鳥居耀蔵(とりいようぞう)
蛮者の獄の時に先頭にたって尚歯会を取り締まった耀蔵。「妖蔵」とあだ名され、江戸中にスパイを放ち密告をさせました。

その取り締まりは徹底しており容赦なく投獄される人が相次いだのです。特に厳しく弾圧したのが「風俗」。

鳥居耀蔵は江戸中から恐怖され、そして恨まれていったのです。

耀蔵は完璧なまでの国学者で蘭学・西洋学を毛嫌いしていました。

そのため無実の人々が耀蔵によって牢獄や死刑となっていったのです。