幕末その8 1861年 

1861年3月4日 土佐 上士VS郷士 井口村事件
5月28日 第一次東禅寺事件 
8月 武市半平太「土佐勤王党」を結成
「郷士なんぞ人間じゃない」by吉田東洋
10月20日 皇女和宮 江戸へ向かう



幕末その8
1861年 
3月4日 土佐 上士VS郷士 井口村事件
この夜、上士の山田広衛はめちゃくちゃ酔っ払っていて、帰り道に前から歩いてきた下士の中平忠次郎と宇賀喜久馬にぶつかってしまいました。

山田が酒の勢いも手伝ってブースカ文句を言うと、さすがに中平が「あんたが酔っ払ってぶつかってきたんじゃないか!」と応えました。

「なにぃ!上士に向かって口答えするとは何事かぁーーー!」と。突然中平を斬ったのです。

一緒にいた宇賀喜久馬はまだ少年で、急いで逃げて中平の兄である池田虎之進に報告しました。

池田は大激怒!すぐさま飛んで行き、「弟の仇じゃ!」と酔っ払った池田に斬りかかり、さらにたまたまそこにいた仲間の益永をも斬り捨てたのです。

これを知った上士連中も大激怒!さらに郷士連中も池田が危ない!と続々池田の家へ向かいました。

「これを機会に積年の恨みを晴らそう!」と熱くなる郷士達。

が、ここに坂本龍馬がこれはまずい・・・と、なんと池田虎之進と宇賀喜久馬に切腹するよう言ったのです。

2人が切腹したことによって、上士VS郷士の戦いは免れましたが、これによって郷士連中はますます結束を固めて大きな勢力となっていくのです。

5月28日 第一次東禅寺事件 
イギリス公使オールコックは、長崎から国内各地を旅行して、高輪の東禅寺にあるイギリス仮公使館に戻ってきました。

が、水戸浪士有賀半弥(ありがはんや)らは「神の国である日本が汚された!」と激怒したのです。

有賀ら14名は東禅寺を襲撃。

館員2名が怪我をし、幕府側の警備員が20名ほど死傷するという事件となりました。
1861年8月 武市半平太「土佐勤王党」を結成
江戸の桃井春蔵の門に入り、塾頭っとなっていた半平太。

江戸にいる間に他藩の人間と接触を持ちました。桂小五郎・久坂玄瑞・高杉晋作らです。

特に水戸藩の住谷寅之助と仲良くなり、水戸藩の影響を多く受けました。

土佐藩の藩論を「尊皇攘夷」に固めよう!として、この年に「土佐勤王党」を結成したのです。

メンバーは坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎・望月亀弥太・大石弥太郎ら200人ほど集まりましたが、全員郷士でした。

盟約を考えたのは大石弥太郎。弥太郎は勝海舟の門に入り洋学などを学んでいた人です。

「神聖であるわが国は、異国の侮辱を受けており、大和魂も消えてなくなってきたと天皇は悲しんでいる。・・・中略・・・ここで我々が一致団結して大和魂を奮い立たせ国家の復興に尽くそう!」といった内容。

郷士の集まりだったため、藩論を左右できるような身分の者は誰一人いません。

土佐藩のトップは山内容堂でしたが、藩政を動かせるような立場の人たちは佐幕主義者(幕府の味方)ばかりだったのです。

その容堂が「先生」と尊敬しまくっていたのが、吉田東洋だったのです。
「郷士なんぞ人間じゃない」by吉田東洋
吉田東洋は土佐で生まれました。

父は200石の土佐藩の馬廻格でした。

東洋は江戸に出て、藤田東湖らと仲良くなりましたが、父が死に、兄も死んだため家督を継ぎ、東洋は26歳で船奉行に抜擢されたのです。

1848年には土佐では山内容堂が藩主となりました。

そのときに破格の抜擢によって大目付→仕置家老と出世しまくるのです。

東洋はめちゃくちゃ頭が良く、また態度も横柄でした。感情がすぐ出るタイプで、人と争うのが大好き。そして派手好みという、剛毅なタイプでした。

そんな東洋が、容堂の親戚である旗本と酒の席で大喧嘩!容堂の前だというのに、その旗本をメッタメタに殴ったため、容堂は激怒し、東洋を謹慎処分にしたのです。

1855年に東洋は私塾を開きました。

3年間しか開きませんでしたが、甥である後藤象二郎・岩崎弥太郎・板垣退助・谷干城(たにたてき)らが東洋に教わりました。

そして安政の大獄・・・。

容堂もこの大獄にひっかかりました。そのときに、東洋がかなり容堂の力となったため、一気に藩内にて東洋人気が高まったのです。

そして東洋にチャンスが廻ってきました。頭のいい東洋は次々と藩政改革を行い、容堂は東洋を信頼しまくり。

剣の腕も神影流の達人。学問でも藩内で右に出る者はおらず、容堂は「先生」と呼び、家来扱いしないほどの信頼関係を築きました。

そんな土佐藩内において出てきたのが「郷士」である武市半平太を中心とするグループ。

東洋はそんな郷士グループが大嫌いでした。

「郷士が何をバカなコトを言っておるんじゃ」と郷士のことなどバカにしくさっていたのでした。

10月20日 皇女和宮 江戸へ向かう
この日の朝早く、皇女和宮の行列は京都から江戸へと進みました。

行列の中に御輿が4つあり、3人の娘が影武者となったのです。というのも、公武合体反対派の襲撃に備えてでした。

準備に関わった人間や道路整備、幕府の人間も合わせると、総勢20万人が和宮降嫁に関わりました。

行列の長さは50キロにも及び、一つの宿を通過するのに4日もかかることに。総費用は150億円にもなりました。

島崎藤村の「夜明け前」にも、この時のことが書かれています。