江戸時代その3 目次 年表 1615年〜1629
1615年7月7日 幕府 武家諸法度を制定する
武士は現代のサラリーマン
7月19日 幕府 禁中並公家諸法度を制定する
2代目将軍 秀忠の正妻 お江
家光の乳母 春日局
実母 お江VS乳母 春日局
1616年4月 鯛の天ぷら食べ過ぎた!?家康死去
7月 家康六男 松平忠輝改易される
1617年 日本橋に吉原遊郭が出来る
戦国の盗賊団 江戸では何してる?
1618年 大奥法度ができる 将軍のハーレム 大奥
1619年6月 福島正則 減封となる
幕府 お家つぶししまくり!
徳川御三家ができる
1620年6月 秀忠の娘 和子(まさこ)が天皇家へ
1622年10月 本多正純 宇都宮釣天井事件
1623年7月 三代将軍 徳川家光 生まれながらの将軍じゃー
幕府の体制
1624年9月 大政所ねね死去
1629年11月 紫衣事件
家光 弟 忠長 ワガママ放題


江戸時代 その3 1615年〜1629年
1615年7月7日 幕府 武家諸法度を制定する
大阪の陣が終わり、戦国時代も幕を閉じました。

天下を取った家康は大名を統制する手始めに、一国一城令を出しました。

これは大名が住んでるお城以外は全てを壊すというもので、この時壊された城は全部で400城くらい。

よく自分の家の近くに「○○城跡」とかがあると思いますが、それはこの時に壊されたお城の跡地です。

さらに「武家諸法度」という大名を取り締まるための法律を作成。

これは秀忠の名前で出して、完璧に完成したのは家光の時。

内容は・・・

・ 大名同士が幕府に内緒で勝手に結婚しちゃダメ(勢力増大を防ぐため)
・ 幕府の許可なしに城を新築・改築しちゃダメ(幕府への謀反防止のため)
・ 幕府にたてつく奴をかくまっちゃダメ

などなどでした。
武士は現代のサラリーマン
この頃の武士は「藩」に仕えていました。

大会社が「幕府」そして「藩」というのは子会社みたいなもんです。
「藩」の大名が「社長」家老が「副社長」みたいな感じかな。

そして武士は藩に仕えてお給料を貰うのです。

藩がおとりつぶしになってしまうというのは、自分の会社が倒産してしまうようなもの。
再就職先の藩がなければ浪人(失業者)となってしまうのです。

そして浪人(失業者)となってしまった「妻」はお給料がないためパートに出なければならなくなっちゃいます。

といってもこの頃女性が稼げるお仕事なんてあんまりなかったので、手っ取り早く短時間で稼げる「夜鷹」になるしかありませんでした。夜鷹というのは夜だけに出没する娼婦のこと。

以後武家諸法度によっておとり潰しの家が増えるようになってきてしまい、失業者となってしまったダンナを助けるために体を使って稼ぐ夜鷹も増えるのでした。

ちなみに「旗本」は高給サラリーマンです。米一石は金一両くらいだと言われているので、現在一両は5万円以上。とすると二百俵の武士は年収は七十石くらい。一両5万であれば年収は350万くらいとなるのです。

旗本の家臣には「留守居役」がいました。留守居役とは各屋敷において藩主が留守の場合、お家を守る役職であり、家老クラスのトップが留守居役となりました。大名家を代表する外交官であります。

そして江戸の屋敷の留守居役になっちゃったらある意味ラッキー?情報収集といい人々が多く集まる「社交場」に堂々といけるんだもんね。

1615年7月19日 幕府 禁中並公家諸法度を制定する
そして幕府は、朝廷にうるさいことを言わせないために「禁中並公家諸法度」も作成したのです。

内容は天皇は勉強だけやってりゃいいというようなもので、二条城にお偉いさんの公家を呼んで、全文を大声で読んだのです。

みんなムッとしたけど、いまや徳川幕府に真っ向から文句を言える者など誰もおらず、幕府の「政治はこっちがやるから、余計な事口出すなよ。和歌でも何でもやらせてやるから黙ってろよ」みたいな内容に従うしかなかったのです。

ちなみにこの法律は江戸時代を通して全く変えられることはなかった。
2代目将軍 秀忠の正妻 お江
秀忠の正妻 お江は波乱万丈の一生を送りました。

父親は浅井長政、母親は信長の妹 お市の方。

そして叔父である織田信長によって父 浅井長政は殺され、長女の茶々・次女のお初とともに3姉妹は信長のもとで暮らすのです。

戻ってきたお市は3姉妹を連れ柴田勝家と結婚します。

そんな時、本能寺の変が起こり信長が討死。義父である勝家と豊臣秀吉の権力争いが。勝家は負け、お市とともに炎の中へ・・・。

この時3姉妹は城から逃げ出しており、秀吉に引き取られるのでした。

お市の方が好きだった秀吉は、お市に一番似て綺麗な長女茶々に狙いを定めます。
ちなみに後の淀君だよ。

まず最初にお江をお市の姉の子供である佐治与九郎という小大名へ嫁がせました。

お次は次女のお初。こちらは京極高次の元へ。そして秀吉は邪魔(?)なのを嫁がせてから、茶々を自分の側室にしたのです。

が、小牧・長久手の戦いの時ダンナである与九郎は家康に協力してしまい秀吉は激怒。

お江は離縁させられてしまいます。今度は秀吉の姉の次男である羽柴秀勝のとこに嫁がせられる。

三流の小大名夫人から一気に天下人秀吉の甥のところなので一応玉の輿。

娘も2人生まれ(一人は公家である九条家へ)仲良しでしたが、秀勝が朝鮮出兵の時に死んでしまったのです。

秀勝が死んでしまい、悲観にくれてる間に秀吉はお江の利用方法を考えます。

そして政略に使う相手に選んだのが、家康三男の秀忠でした。

この時秀忠17歳(初婚)そしてお江は23歳(バツ2・子持ち)

秀忠は女のプロ(?)お江に頭が上がるはずもなく、側室も持てない状況でした。まぁ秀忠の性格もマジメだったけどね。

が、秀忠1度だけ浮気をしちゃいます。この時生まれちゃったのが保科正之。このお話は後ほど・・・

秀忠とお江の間には子供が生まれ、長女の千姫は豊臣秀頼のもとへ。末娘の和子は天皇家へ。

そして長男家光 次男忠長が生まれるのです。

家光の乳母 春日局
春日局(お福)は明智光秀の重臣・斉藤利三の末娘です。

父である利三が、本能寺の変で明智光秀とともに信長を討ち、その後捕まり六条河原で晒し首に。

利三の家族は土佐の長宗我部元親を頼り、7年間過ごします。

そして17歳の時に斉藤家の美濃三人衆の一人「稲葉一鉄」の長男の娘のお婿さん(稲葉正成)の後妻になるのです。

稲葉正成は一鉄の家臣で、一鉄が斉藤龍興に嫌気が差し、織田信長に寝返った時に付いてきました。そして秀吉に仕えるのです。

その後秀吉から小早川秀秋に仕えるよう命令され、秀秋の家老となりますが、関ヶ原で秀秋が豊臣を裏切ったのには、正成の陰謀だという説もあり。

その後秀秋がノイローゼで死んだため、正成は浪人に。

そんな時、徳川家で家光の乳母を募集していました。それにお福(春日局)が応募したのです。

ちなみに家康がお福を前々から知っていてスカウトした説もあります。

見事乳母の座をゲットしたお福。家光が病弱だったため、大切に育てるのです
実母 お江VS乳母 春日局
家光は「長男」ということで、産まれてすぐに春日局のもとへ。

その後お江は次男忠長を産みました。お江と秀忠は、自分の手元にいない長男の家光よりも、手元で育てている次男忠長の方を可愛がるように。

また家光は病弱で無口だったので、利口な忠長の方を溺愛するように。

そんな時、家光が父と母は弟ばかり可愛がるので「ボクなんかいらないんだー」と自殺を図ったのです。

春日局はこれは大変だと、駿府にいる家康のもとへ行き、家康に「長男である家光に家督を譲るべきであるということを公にしていただきたい」と直訴するのです。

早速家康は江戸城へ。その時家康が、お菓子を家光に渡そうとしました。
忠長も家光と一緒にお菓子をもらおうと家康のところへ。すると家康「そなたは下がっておれ」と家光だけを呼び、お菓子を手渡し。そして忠長へは床へお菓子を置いたのです。

これにて家光が家督を継ぐ者であり、忠長とは身分が違うんだぞということを暗に示したのでした。

が、両親に溺愛されて育った忠長は納得できず家光との溝はますます深まっていくのです。
1616年4月 鯛の天ぷら食べ過ぎた!?家康死去
2つの諸法度で徳川政権の基礎を固めまくった家康。

気がゆるんでしまったのか、1616年の正月に病気となってしまいました。

ちょうどその頃、おいしいと町で大流行だった「鯛の天ぷら」をむしゃむしゃ食べて、それがあたったと言われています。

一時はおさまったんだけど、3月になると再び病状が悪化。4月には自分の死期を悟った家康。

慌てて駆けつけた外様大名らに「天下は徳川だけの物ではないぞよ。天下のための天下である。もし秀忠が天下人としての器量がなければ、遠慮なく天下を取れ。そうなったとしても、ワシは恨みはせぬ」と言いました。

もはや誰も徳川に反抗しないだろうという自信の表れでした。秀吉とは大違い・・。

そして秀忠には「ワシの死後、外様大名は江戸に留まらせろ。国には絶対に帰すな」と遺言したのです。

国に帰したら謀反を起こす奴が出ると、家康は思ったのでした。

が、秀忠は「例え国へ返して謀反を起こした奴がいたとしても、私が一撃で倒してしんぜましょう」と言いました。

今までの秀忠からは考えられない言葉でした。

そして秀忠は家康に逆らうことのできなかった将軍見習いから、人が変わったような将軍になるのです。

家康最後の言葉は
「人の一生は重き荷を負いて遠き道を行くが如し。急ぐべからず」
この言葉は、後の人々が作ったとも言われていますがいかにも家康が言いそうな言葉です。
1616年7月 家康六男 松平忠輝改易される
忠輝は家康の六男です。

生まれた時から恐ろしい顔をしていたため家康に「捨てろ」と言われ、家臣である皆川広照に育てられました。

8歳の時にようやく1万石を与えられて大名に。

やはり家康の息子ということで出世していきます。

そして妻に伊達政宗の娘 五郎八姫(いろはひめ)を貰いました。

忠輝は顔も恐ろしいですが、性格も乱暴でした。

大阪の陣では自分の目の前を横切った2人の旗本を無礼だ!と言って殺してしまったのです。

家康はこれを聞き激怒。忠輝は慌てて謝り、許しを待ちましたが肝心の家康が死んでしまいました。

そして後を継いだ秀忠。温厚な秀忠なら許してくれるだろと呑気に構えていた忠輝。

が、秀忠が下した判断は「改易・紀州朝熊に配流」という厳しい処分でした。

秀忠はいくら弟でも、ここで許してしまえば他の大名から「将軍は我々には厳しいくせに、弟なら許すのか」と言われてしまうので、示しがつかないと思ったのでした。「武家諸法度」を作り、諸大名を厳しく取り締まっている以上弟であろうとも厳しくしなければ・・・と思ったのです。

そしてこの処分が、この後続く大名取り潰しの第一歩となるのです。

ちなみに忠輝は朝熊から飛騨へ行き、最後は信濃諏訪へ。

そこで住民と仲良くなり、湖で泳いだりして静かに過ごしました。

死んだのは驚きの92歳!当時ではすごいことでした。

また忠輝の罪が許されたのがなんと昭和62年。今更許されてどうするんだろうね。

1617年 日本橋に吉原遊郭が出来る
家康が幕府を開く際に各所にちらばっていた遊女を庄司甚内(じんない)が一つにまとめて幕府に遊女街を作らせてくれといったのが始まりらしい。

庄司は家康らが関ヶ原に向かう途中の道々で若い女性をサービスとしてあてがっていたので遊女街を作りたいと幕府に申し出た時にすんなりOKとなりました。

こうして吉原遊郭1617年にOPENしました。

女性の数が少ない江戸にとって以後吉原は江戸唯一の公認の「遊女の城」としてきらびやかになっていくのです。

はじめは昼のみ営業という条件でした。

お客さん大名や豪商が多かったため遊女にも教養が求められるように。

吉原の遊女の最高ランクが「太夫」で、容姿・教養・諸芸に優れた女性だけがなることができました。

3000人の中で数名しかなれないという江戸男性の憧れの的となっていくのです。

※吉原については「江戸時代その3」で詳しく書いてます。

ちなみに庄司甚内は当時向崎陣内という泥棒で有名な男がいたため紛らわしいので名前をを変えました。

この向崎甚内は番町更屋敷で有名なお菊さんのお父さんのモデル。

庄司甚内は結構やり手ジーサンで「オヤジ」と慕われた。

吉原はその後昭和33年まで続き、売春防止法により廃業となるのです。

戦国の盗賊団 江戸では何してる?
北条家5代に仕えていた忍びの集団「風魔一族」。首領は代々「風魔小太郎」と称しました。

北条家が滅亡した後、旧主の所領だった江戸へ入りもとの盗賊団に戻りました。そして数々の掠奪をはじめたのです。

↑で出てきた向崎甚内は北条のライバルだった武田家甲州乱波(らっぱ)の出て、こちらも江戸で盗賊団となったのです。

そして甲州乱波と風魔一族とはケンカばかり。

盗賊団の横行にまいっていた家康は高額の懸賞金をつけ討伐に乗り出しました。で、向崎甚内は対立する風魔一族の隠れ家をチクリ、1603年に風魔一族は処刑されました。ちなみに向崎陣内も10年後に処刑されちゃいました。

向崎甚内とともに「三人甚内」と言われていたのが↑に出てくる庄司甚内と鳶沢甚内。

庄司は風魔一族の生き残りで、吉原遊郭を設立し大成功。また遊郭に遊びに来た不審者を密告する情報屋もやってました。

鳶沢も風魔一族の生き残りで、盗品売買をしていて大もうけ。のちに古着売買に目をつけ大成功したのです。
1618年 大奥法度ができる 将軍のハーレム 大奥
大奥は秀忠の代である1607年にできたと言われています。

1618年正室お江が本丸から中の丸に移った時に大奥法度を作ったのです。

大奥をシステム化したのは春日の局。

普通乳母というのは乳離れするとお役ご免となるんだけど、春日の局はそのまま江戸に残ったのです。

将軍の女性関係はというと、まず正室である御台所(みだいどころ)がいて他に側室や娘や女中が住んでいました。

女中の中で将軍のお手つきとなり息子なんか生んじゃった日には、もう大出世!

だけど女同士のイジメもあってコワーイとこでした。

幕府が平和になってくると、老中なんかも口出せないくらいオッソロシイところに。

なんといっても将軍の生母がいるとこですからね。

そして大奥にいる間は絶対に他の男と付き合っちゃダメ。いつ将軍お手つきになるかわかんないので心身ともにクリーンでなければいけないのです。

だから一度もお手つきにならず年だけとっちゃったら最悪。

また江戸のそこそこいいお嬢様は女中として奉公。

これは両親がいい縁談をさせたいから、悪い虫がつかないようにと行かせたのです。

だから「大奥勤め帰り」というのはスティタスだったので江戸娘の憧れの職場でした。

「将軍に仕えることのできるくらい小金持ち・将軍お手つきになって子供産めばラッキー・他の男と付き合っちゃダメだから遊んでない女」というスティタスなのです。

大奥勤めが決まったら契約書に血判を押し、親兄弟にでも大奥の様子を話すことは禁止

大奥のランクは御目見以上と御目見以下は雲泥の差でした。

将軍や御台所に会えるか会えないかの差なんだけど、御目見以上になって初めて一人前に。

一番えらいのは上臈(じょうろう)といい、御台所の相談役として一生不犯で終わる公家出身の人のこと。

ですが実権はなく名前だけ。本当に実権を持っていたのは「御年寄(おとしより)」で、老中に匹敵するほどの権力を持つ裏の老中でした。

そして御年寄の補佐をする中年寄が次にきて「御客会釈」という御三家・御三卿の接待役。

そして御中臈で、将軍付きか御台所付きに分かれる世話係り。高級旗本の娘が多かった。

そして将軍付きの御中臈でお手つきになったらさぁ大変!たちまち「お手付き」となるのです。

で、将軍の愛妾・側室はこの御中臈から選ばれることが原則でした。

昼のうちに将軍が御年寄に気に入った御中臈をご指名。そしてお褥(しとね)御用の命令が下るのです。

そしてご寵愛を受けお手付きとなると「よごれたお方」と呼ばれました。ちなみにまだご指名がない御中臈は「お清の御中臈」と呼ばれました。

そして将軍とお手付きとなった御中臈が床入りするのを聞き耳を立てて寝ずの番をしなきゃいけないのがお清の御中臈。

しかも寝ずの番をする人は処女じゃなきゃダメという決まりもあってお気の毒。

で、この時寝ずの番をして聞こえてきた話を翌朝自分の派閥のボスである御年寄に報告するのでした。

御年寄は自分の権力確保のため将軍好みの女の子をスカウトしまくり。

自分の下にいる御中臈が男児を産んだら一生自分は安泰でした。

そして残酷なことに御年寄はお手付きとなっても子供が生まれなかった人たちであることが多かったのです。

大奥は例え将軍お気に入りでも30歳になったら「お褥御免」といって夜のお相手を辞退しなければダメでした。

もし辞退しないで御用を務めた日には「好女(すけべい)」や「湿深(しつぶか)」と呼ばれ陰険なイジメに。

大奥は将軍一人のために存在する世界一のハーレムだったのです。

そして昨日まではその辺の女の子だったのが、たった一晩で葵の御紋の打掛を着れる様なれるかもしれないという所だったのです。

1619年6月 福島正則 減封となる
福島正則は豊臣秀吉子飼いの将として残っている大名の中では最も豊臣家とゆかりのある外様大名でした。

関ヶ原では大活躍し家康から広島50万石を与えられていました。

1617年に広島で大洪水が起こり、城は三の丸まで浸水し石垣や城壁が壊れまくりました。

江戸にいた正則はこの知らせを受け、城の修復願いを幕府の本多正純に提出しました。

武家諸法度によって、城の修復には必ず許可がいるからです。

本多正純はその願い書を預りましたが幕府からの許可がなかなか下りない。

福島正則は何度も催促するが、のらりくらりとかわされまくり。

しびれを切らした正則はとうとう広島城の修復をやることに。

ですが、これが幕府の仕掛けた罠だったのです。

「正則が幕府の許可なしに城の修復を始めたのは幕府に対して謀反の心があるからだ」ということになり正則は江戸に呼び出された。

驚いた正則は修復した所をまた壊して江戸に行き釈明するが幕府は知らん顔。願い書を預った本多正純も知らんぷり。

そして広島50万石は没収となり、川中島4万5千石となるのです。

正則は「家康公さえご存命なら一言申し上げたいこともあるのだが・・・」とつぶやいて1624年64歳で死去しました。

かつての七本槍の一人も、太平の世となれば幕府にとっては邪魔以外の何者でもなかったのです。

そしてその後も幕府により露骨な外様大名つぶしが始まります。
幕府 お家つぶししまくり!
福島正則を筆頭に、幕府はガンガンと外様大名を潰しまくりました。

家康時代は92家(外様91家)これは関ヶ原の合戦の時
秀忠時代は60家(外様39家)
家光時代は67家(外様40家)

家康は関ヶ原西軍を処分したので仕方ないとしてもその後 秀忠・家光で邪魔な外様は全て処分されまくった。

外様大名が後継ぎの子供を産まないまま死んだ場合、容赦なくお家断絶にしたので、そのため大名は正室のほかに側室を何人も作り子作りに励みまくった。

些細な事で幕府の取り潰しの口実ができてしまうので戦々恐々とした日々を過ごすハメに。

そして大名は幕府に恐怖を感じるようになるのです。

温厚と言われていた秀忠は、実際は大名の生殺与奪権を握りまくり、その取り潰しマニュアルは家光も受け継ぐのでした。

ちなみに典型的な出世タイプの藤堂高虎は、諸大名の改易などの噂を聞くたびドッキドキ。

こうなったらこっちから先に!と家康のいる駿府へ行き「ワシの嫡男である高次はあまり賢くないので、できれば自分の死後国替えしてもらえるか?」とお願い。

反対に家康に「なになに、おぬしの家臣団がいれば大丈夫じゃろ」と言わせ、永世安堵を取り付けました。うまいネー
1619年 徳川御三家ができる
幕府は親藩の最高位である徳川御三家を作りました。

尾張家・・・家康9男 義直(よしなお)
紀伊家・・・家康10男 頼宣(よりのぶ)
水戸家・・・家康11男 頼房(よりふさ)

御三家と呼ばれ、将軍家につぐ地位でした。
親藩の中でも別格とされ、将軍に後継ぎがいない時には御三家から後継ぎを出すことに。

特に水戸家は江戸常勤だったので「副将軍」と呼ばれるように。

1620年6月 秀忠の娘 和子(まさこ)が天皇家へ
幕府にとって厄介だったのは朝廷との関係でした。

一応天皇家というのが日本の主権者で、鎌倉幕府以降の武家政治は政権を天皇から預っているというものでした。だから征夷大将軍という役職も朝廷(天皇)から宣旨を受けて承認してもらうという形式がとりあえずあったのです。

「禁中並公家諸法度」を作り、朝廷に政治のことを口出しするなよ!ということになってはいたものの、天皇の立場は将軍より上なのです。

しかも豊臣家のように反抗するわけじゃないので、余計始末が悪かった。

そこで家康は死ぬ前に天皇家に自分の一族の娘を送り込もうと画策していました。

選ばれたのが秀忠の娘 和子。秀忠とお江の娘で8人の子供の末っ子でした。

後水尾天皇が即位すると、家康は後水尾天皇に和子の入内をプッシュ。
天皇家も承諾しました。

そうこうしてる間に、大阪の陣が始まってしまいさらに肝心の家康が死んでしまうのです。

そしてさらに!後水尾天皇がある公家の娘に惚れまくり2人の子供まで産んでしまいました。

父である秀忠とその妻お江は激怒し、「和子の入内を延期する!」と言ったのです。

後水尾天皇も負けずに「じゃあオレ天皇辞めるから」と言ったもんだから幕府はパニック。

天皇辞めちゃったら、和子を嫁がせる意味がなくなっちゃう。

他の公家や幕府側からは藤堂高虎なんかが後水尾天皇をなだめまくり、なんとか譲位を思い留まらせました。

そして1620年6月20日に、和子は入内するのです。

武家の娘が入内するのは、平清盛の娘 徳子が高倉天皇のもとに入内して以来のことで、秀忠は大張り切りでお金をかけまくった。

そして和子とともに行った武士や女官は、スパイ集団として朝廷の様子を逐一幕府に報告できるようになったのです。

ちなみに後水尾天皇と和子は周りの予想に反して、とっても仲が良かったらしく2人の皇子と3人の皇女を産みました。
1622年10月 本多正純 宇都宮釣天井事件
家康の有力なブレーンとして本多正信がいましたが、その息子正純も駿府の家康のもとに仕えており親こ揃って幕府中枢で権勢をふるっていました。

家康の死後二元政治も幕を閉じ、秀忠の政治が始まると正純は当然のごとく駿府から江戸へ。

江戸は秀忠から信任厚い酒井忠世・土井利勝・井上正就らががっちりと幕府中枢を固めていたのに、そこへ正純が横から入ってきた形となっていました。

勿論酒井らはおもしろくないが、気性の豪気な正純は平然としていました。

秀忠は正純に宇都宮15万石をあげ暗に隠居を勧めましたが正純はそ知らぬ顔。

他の閣僚を威嚇し続けていたのです。

そんな正純が大嫌いだったある老女がいました。その老女とは加納殿。

将軍秀忠の姉であります。

加納殿の四女は正純によって改易となった大久保忠隣の子 忠常夫人で自分の娘を不幸にした男として正純のことが大嫌いでした。

さらに今回宇都宮15万石ということで正純が入った宇都宮城はそれまで加納殿の孫である奥平忠昌がいたところ。孫が追い出され新城主に正純が入ったのです。「またしてもあいつか!」と加納殿は怨みをもつことに。

そして秀忠が家康の七回忌として日光東照宮へ参詣に行くときに、宿泊先となったのが正純のいる宇都宮城でした。正純は将軍が泊まるということで城内を改築したのです。

すると加納殿が秀忠に「宇都宮城内に疑惑の点が見られる。正純に不審の廉がある。

湯殿に釣り天井を作り、釣り天井を切り落として秀忠を殺害しようとしている」と言ったのです。

秀忠は急遽予定を変えて宇都宮城に立ち寄らず江戸へ帰りました。

そして4ヶ月後。正純出張中のときに正純嫌いの井上正就によって宇都宮城検分となり、正純は改易され失脚となったのです。正純が大久保忠隣が出張中に改易にしたのと同じ方法でした・・・。

1623年7月 三代将軍 徳川家光 生まれながらの将軍じゃー
秀忠は家康と同じように「大御所」として君臨することにし家光に三代将軍を譲りました。

この時家光19歳。伏見城でそれを受け、江戸城へ戻ると全大名を呼びつけた。

そして
「じーちゃんである家康はそなた達に助けてもらい天下を取った。父 秀忠はそなた達と同輩だったので、そなたらを客として扱ったがオレ様は違う。オレ様は生まれついての将軍なのでそなた達を家臣として扱う。不服があれば国に帰って合戦の用意をするがいい。オレ様は若いが大軍を率いて討伐に向かう!」と発言したのです。

すると伊達政宗が
「さすがは家康殿の孫である。三代将軍にふさわしい!」と忠誠を誓うと、藤堂高虎らもすぐさま忠誠を誓いまくった。

生まれながらの将軍ってのは、家康が征夷大将軍になってから江戸城にて生まれたから。

でも、生まれながらの将軍にしては、弟 忠長という最大のライバルがいて大変だったんだけどね。

そして家光は三代将軍となり「将軍」の独裁政治が始まるのです。
幕府の体制
まず家光は幕府の体制を整えました。

要職はというと

大老・・・臨時の時だけに置く最高職。将軍でさえも意見を覆すことが
     できないといわれる

老中・・・政務を見る。井伊・堀田・酒井・土井の四家しかなれない

寺社奉行・・・寺社の取り締まり。老中への登竜門

若年寄・目付け・・・老中のアシスタント

大目付・・・大名の監視役

町奉行・・・江戸の警察・裁判官

勘定奉行・・・江戸の政務

郡代・・・大きな領地の取り締まりをする

代官・・・小さな領地の取り締まりをする

そして幕府のいい役職につけるのは譜代大名と旗本
旗本とは直接将軍に仕えている家臣で一万石未満の石高の人。外様大名はダメなのでした。


1624年9月 大政所ねね死去
豊臣家が滅亡し、ライバル淀君が死んだ後、ねねは家康から河内1万6千石を化粧料として貰い京都に建ててもらった高台寺(こうだいじ)で秀吉の菩提を弔う生活をしていました。

可愛がっていた清正や正則ももうおらず寂しい晩年をすごしました。
1629年11月 紫衣事件
幕府は朝廷の力を抑えるために住職の印である紫衣をつける場合は、幕府の許可を取るようにと大徳寺や妙心寺の住職に命じました。

だけど住職らはこれに反発「幕府が寺社に口出しするなや!」と大徳寺の元住職沢庵らが抗議したのです。幕府も「今ここでヤツラの勝手にさせちゃったら権力がゆらぐ!」と断固拒否。沢庵は流罪となったのです。

これに朝廷はプライド傷つきまくり。朝廷が幕府の命令に屈したことになったのです。

さらにこの後 家光の乳母のお福が天皇の妹である和子皇女に会いにきたのです。

本来なら身分も低いお福が天皇に謁見するなんてもってのほか。

だけど強引に謁見し後水尾天皇はショックをうけ自信をなくしちゃったのです。

家光 弟 忠長 ワガママ放題
秀忠とお江は生まれてすぐに春日の局に預けられた家光よりも次男忠長を可愛がっていました。

そして忠長は1618年13歳で甲斐の国を与えられ、1624年には駿河・近江ももらい50万石をゲット。

将軍の弟とはいえ破格の優遇。ですが忠長は自分が将軍になりたかったので、50万石でも不満でした。

「外様の加賀前田は100万石だし、島津は70万石伊達は60万石じゃん!おれももうちょっともらってもいいじゃん!」とワガママ言いたい放題。

ですが最大の理解者であったお江の方はもう死んでしまったいるし、秀忠はというと家康が家光を将軍にと言ったんだからもう逆らえないと家光を立ててるし。

忠長はおもしろくなく、素行が悪くなっていくのです。

怒りに任せて家臣を殺したり、山の神様といわれている浅間神社境内の猿を大量に捕獲したり。
乱交を重ねまくっていきました。

そして家光が一番気に入らなかったのは、東海道を行ったりきたりする諸大名がいちいち駿府城の忠長の所に立ち寄りご挨拶をしにいくということ。その様子は大御所家康のような態度だったと言われ、将軍家光は腹ただしい思いに。

それを見かねた秀忠は忠長に甲斐でおとなしくしてろと蟄居を命じた。

忠長はビックリして天海や崇伝にとりなしをしてもらったんだけど、そんな時に秀忠が病気となってしまうのです。